子負ヶ原八幡宮とも称される鎮懐石八幡宮は、神功皇后に纏わる鎮懐石を祀る神社です。『萬葉集』で山上憶良が鎮懐石を詠じた舞台としても知られ、御祭神は応神天皇、神功皇后、武内宿禰の三神で、鎮懐石を御神体として祀っています。
臨月を向かえつつも三韓征伐に向かった神功皇后は、御腹を鎮めるために鎮懐石を御裳の腰に縛り付けて御産を遅らせ、三韓征伐の後に宇美で応神天皇を御安産されました。その御腹を鎮めた石が鎮懐石であると『古事記』・『日本書記』に記されています。『日本書記』では、三韓征伐を為した後、当地で産むことができるよう祈念したとも伝えています。
『古事記』 中巻 神功皇后
故其政未竟之間 其懷妊臨產。卽爲鎭御腹取石以纒御裳之腰而。渡筑紫國其御子者阿禮坐。故 號其御子生地謂宇美也。亦所纒其御裳之石者在筑紫國之伊斗村也。
故、其の政未だ竟へざりし間に、其の懐妊みたまふが産れまさむとしき。即ち御腹を鎮めたまはむと為て、石を取り御裳の腰に纒かして、筑紫国に渡りまして、其の御子は阿礼坐しつ。故、其の御子の生れましし地を号けて宇美と謂ふ。亦其の御裳に纒きたまひし石は、筑紫国の伊斗村に在り。
『日本書紀』 巻第九 神功皇后
于時也、適當皇后之開胎。皇后則取石插腰、而祈之曰、事竟還日、産於茲土。其石今在于伊都縣道邊。
時に、適皇后の開胎に当れり。皇后、則ち石を取りて腰に挿みて、祈りたまひて曰したまはく、「事竟へて還らむ日に、茲土に産れたまへ」とまうしたまふ。其の石は、今伊都県の道の辺に在り。
また、『釈日本記』に残された『風土記』の逸文では、神功皇后が三韓征伐に向かう際、当地に至り手に取った2つの白い石を腰に挟んで身に付けたのが鎮懐石とされています。
- 長さ:1尺2寸(36.3cm)、大きさ:1尺(30.3cm)、重さ41斤(24.6kg)
- 長さ:1尺1寸(33.3cm)、大きさ:1尺(30.3cm)、重さ49斤(29.4kg)
神功皇后は、凱旋の後に皇子を産むことができるよう祈りを捧げ、無事に帰還してから応神天皇を産んだことから、その石を号けて皇子産の石と称され、後に訛って児饗の石となったと伝えています。
『風土記 逸文』 筑前國 (『釈日本記』巻十一)
筑前國風土記曰、怡土郡。兒饗野。此野之西、有白石二顆。曩者、氣長足姬尊、欲征伐新羅、到於此村、御身有妊、忽當誕生。登時、取此二顆石、插於御腰、祈曰。朕欲定西堺、來著此野。所妊皇子、若此神者、凱旋之後、誕生其可。遂定西堺、還來即產也。所謂譽田天皇應神是也。時人號其石曰皇子產石。今訛謂兒饗石。
筑前の国の風土記に曰はく、怡土の郡。児饗野。此の野の西に白き石二顆あり。曩者、気長足姫尊、新羅を征伐たむと欲して此の村に到りますに、御身妊ませるが、忽に誕生れまさむとしき。登時、此の二顆の石を取らして、御腰に挿み、祈ひたまひしく、「朕、西の堺を定げむと欲ひて此の野に来著きぬ。妊める皇子、若し此れ神にまさば、凱旋りなむ後に誕生れまさむぞ可からむ」とのりたまひて、遂に西の堺を定げて、還り来て即て産みましき。謂はゆる誉田の天皇、是なり。時の人、其の石を号けて皇子産の石と曰ひき。今、訛りて児饗の石と謂ふ。
その神功皇后の鎮懐石の伝承を背景に、山上憶良が『萬葉集』で鎮懐石を詠じた歌ではその詳細が語られています。
筑前国怡土郡深江村子負の海に面した丘の上に、実に麗しい鶏の卵のような楕円状の2つの石が有り、その前では必ず下馬して跪拝するよう篤い崇敬を受けている。その石は元は肥前国彼杵郡平敷にあった石で、占いに用いられ、古老によると神功皇后が御裳の中にさし挟んだ鎮懐石だと伝えている、と。
- 長さ:1尺2寸6分(38.2cm)、周り:1尺8寸6分(56.3cm)、重さ18斤5両(11.1kg)
- 長さ:1尺1寸(33.3cm)、周り:1尺8寸(54.5cm)、重さ16斤10両(9.66kg)
『萬葉集』 第五巻
筑前國怡土郡深江村子負の原 臨海丘上有二石 大者長一尺二寸六分 圍一尺八寸六分 重十八斤五兩 小者長一尺一寸 圍一尺八寸 重十六斤十兩 並皆堕圓状如鷄子 其美好者不可勝論 所謂徑尺璧是也 [或云 此二石者肥前國彼杵郡平敷之石 當占而取之] 去深江驛家二十許里近在路頭 公私徃来 莫不下馬跪拜 古老相傳曰 徃者息長足日女命征討新羅國之時 用茲兩石挿著御袖之中以為鎮懐 [實是御裳中矣] 所以行人敬拜此石 乃作歌曰
筑前国怡土郡深江村子負の原の海を臨める丘の上に二石あり。大きなるは長さ一尺二寸六分、圍り一尺八寸六分、重さ十八斤五両。小さきなるは長さ一尺一寸、圍り一尺八寸、重さ十六斤十両。並に皆楕円にして状鶏の子の如し。其の美好しきこと、論ふに勝ふべからず。所謂径尺の璧是なり 或は云く、此の二の石は肥前国彼杵郡平敷の石にして、占に当りて取ると。深江の駅家を去ること二十許里、近く路頭にあり。公私の往来に馬より下りて跪拝まずということ莫し。古老相伝へて曰く、往者に息長足日女の命、新羅国を征討ましし時、茲の両の石を用ちて御袖の中にさし挿み箸けて以ちて鎮懐と為したまひき。実はこれ御裳の中なり。所以、行人此石を敬拝すといへり。乃ち歌を作りて曰く、
その後に、長歌とその反歌で次のように詠います。
『萬葉集』 第五巻
八一三
可既麻久波 阿夜尓可斯故斯 多良志比咩 可尾能弥許等 可良久尓遠 武氣多比良宜弖 弥許々呂遠 斯豆迷多麻布等 伊刀良斯弖 伊波比多麻比斯 麻多麻奈須 布多都能伊斯乎 世人尓 斯咩斯多麻比弖 余呂豆余尓 伊比都具可祢等 和多能曽許 意枳都布可延乃 宇奈可美乃 故布乃波良尓 美弖豆可良 意可志多麻比弖 可武奈何良 可武佐備伊麻須 久志美多麻 伊麻能遠都豆尓 多布刀伎呂可儛
八一四
阿米都知能 等母爾比佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母
八一三
懸けまくは あやに畏し 足日女 神の命 韓国を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言い継ぐがねと 海の底 沖つ深江の 海上の 子負の原に み手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇魂 今の現に 尊きろかむ
八一四
天地の 共に久しく 言ひ継げと この奇魂 敷かしけらしも
八一三
口に出して言うのも畏れ多い神功皇后が、新羅の国を平定される時、御心を鎮めるために手に取られて大切に祈りを込められた美しい玉のような二つの石を、世の人々に示されて万代に言い継ぐようにと、海の底 深江の海上にある子負の原にご自身の手で置かれて、神として神々しい霊妙な神石は今現在も尊いことである。
八一四
天地が永久であるように共に永遠に語り継ぐように、この不思議な力を持つ霊石がここにお祀りされたのだろう。そして、この地は神霊が宿り守られていくのだろう。
寛永(1624-1644)の末までには、鎮懐石は当地にあったとされますが、その後いつの間にか、盗難に遭い失われます。天和3年(1683)の夏、深江村の六郎という里人が、横:7寸(21.2cm)、高:5寸(15.1cm)、5寸(15.1cm)の卵形の珍しい1個の石を拾って家に持ち帰ります。すると、八幡神の神使とされる1羽の山鳩が飛び込んできたことから、近隣の人々はこれを御神体と崇敬し、子負ヶ原の丘上に小祠を建ててお祀りします。これが鎮懐石八幡宮としての創建と考えられています。貞享2年(1684)には唐津城主が空閑六郎俊法に命じて社殿を建て、城壁のような22メートルの高石垣を築かせました。その社殿が創建されるまでの経緯は、宝永6年(1709)に完成された貝原益軒による『筑前國続風土記』 に詳しく記されています。
『筑前國続風土記』巻之二十二 怡土郡
今深江の町より五町許西、大道の南の高き所に、里民子負の原と云傳ふる所有。又萩の原共云。いまりよ百年以前迄は、此兩石猶此地に在しを見たる由云有て、寛永の末迄存せしと云。其後盗人取て、今は無し。貞享二年其所に八幡の社を創立す。是は昔皇后の御腰にはさみ給ふ石、此邊に在しを盗人取て失ぬ。近年深江村民六郎と云者、其邊に捨て有しを見出せしとて、一の石を持來れり。民家に納置しに、山鳩一基家に飛入し故、諸人彌此石を尊敬す。依之深江の民此社を建て、其石を納む。横七寸、高六寸、径五寸、色は少靑赤也。石は唯一也。今案ずるに、此石萬葉集、風土記の説に比するに、唯ちひさし。久しきを経ても耗べき物ならねば、ちひさくなるべき理なし。いぶかしく覺侍る。萬葉集に、子負の原は深江を去事廿里許と云。あり。今子負の原と称する所は深江駅より五町許西にありて道の傍海に臨める丘なれば万葉集に載せる所是なるべし。是より西に子負の原と云ふべき地なし。只路程の遠近同じからざる事可疑といへり。今按に石の小なる事は実に解すべからざれども神物常理を以て論じがたし。路程の遠近は一説あり。今の方峰を古へ上深江と云。今里民の子負の原と稱する所は、深江の驛より五町許西に在。道の側海に臨める丘なれば、萬葉集に載たる所是なるべし。是より西に子負の原と云べき所なし。唯路程の遠近同じからざるこ事いぶかし。
往昔には、石垣で築かれた現在の展望台の場所に御社殿があり、数百年の年輪を刻んだ大きな松の木々が欝蒼と生い茂っていました。場所が狭く祭典にも不便を来すことから、昭和11年(1936)に南側奥に遷座し、幣殿、拝殿などが新築されました。大正12年(1923)8月2日には神饌幣帛料供進社に指定されました。
尚、川付に鎮座する宇美八幡宮は、仲哀天皇の御陵とされる上宮と、仁徳天皇10年(322)に気比大神(天日鉾尊)を祀らせ神護景雲元年(767)に八幡宮、聖母宮、宝満宮を合祀した中宮からなります。奈良、平安の頃は大社であり、2月初卯の日には、7日間の大祭が行われ神輿3基、供奉行列とともに鎮懐石八幡宮の鎮座する深江子負ヶ原海岸に至り、筑前、筑後国の大競技会が行われていたと伝えられています。
【境内社など】
「金刀比羅宮」
社殿前の石橋の右手奥に鎮座。金毘羅大権現・志賀大神・住吉大神の三柱の御祭神を祀っています。金毘羅大権現は、讃岐国・金刀比羅宮の御祭神で、海上安全、商売繁盛、金運の御利益があります。志賀海神社(福岡市・志賀島)の御祭神である志賀大神、住吉神社(福岡市博多区)の御祭神である住吉大神は、共に海の表・中・底を守る海の神で、航海安全と船舶守護の御利益があります。
「賽三柱神」
展望所に立つ社に鎮座しています。地域の守護神、災厄除けの御利益があります。
「猿田彦神」
参道の上り坂の右手に鎮座。導きの神様、道開きの神様として猿田彦神を祀っています。
「山上憶良の万葉歌碑」
安政6年(1859)に二之鳥居前の右手に建つ万葉歌碑は、『古事記』・『日本書記』の鎮懐石の伝承に感銘を受けた山上憶良が、『万葉集』第五巻で詠んだ歌の縁起を刻んだものです。神亀3年(726)筑前国守に任ぜられた山上憶良が、簑島(福岡市博多区美野島)の住人である建部牛麻呂から鎮懐石伝説を聞いて詠んだ長歌と反歌の台詞、鎮懐石の形状、所在地、ならびにその縁起を述べています。九州最古の万葉歌碑で、書は、豊前中津藩の儒学者で深江に在住し、書役に任じられた日巡武澄。流麗な書体は美術的にも価値が高いものとされ、糸島市指定有形文化財です。
「願い石」
社殿前向かって右手前に祀られる石です。神殿の天井で御神威を受けながら、嵐や台風などの災害から神殿を鎮め守ってきた石で、厄や災難を除け、心を鎮め、道が開け、子授け・安産の子宝の御利益があるとされています。
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