刀剣女子も感激(笑)…Oh!鍛冶神社(@粟田神社)が整備され、素晴らしくなりました!
少し前に粟田神社を訪れた時、鳥居をくぐったら直ぐ左の駐車場にある鍛冶神社周辺で「何か工事をしてるなぁ」と思っていたのですが、8月5日に鍛冶神社例祭が行われるということだったので、「白川粟田夏祭り」を途中で抜けてGO!…と、あたりの光景が妙にすっきりとして、何やら鳥居とも違うモダンな立石が。粟田神社のある場所は粟田口と呼ばれますが、平安時代後期から室町時代にかけて刀鍛冶が多く住み、数多くの名工(三條派・粟田口派)を輩出しています。以前は、こんな感じでした。三条通を挟んで向かいには、合槌稲荷神社もあります。で、例祭は11時開始。次はその直前、準備中の画像ですが、右のお2人が宮司さんとその奥様(だと思います)。上の画像右奥のテントの奥には歌碑があり、次に掲げる明治天皇の御製"太刀"が刻まれていました。「真心を こめて錬ひし たちこそは 乱れぬくにの まもりなりけれ」。次は再び正面からの画像ですが、刀や剣のようにも見える形もある立石は、庭石として有名な"阿波の青石"。緑泥片岩(りょくでいへんがん)という変成岩です。緑泥片岩は中央構造線に沿って産出しますので、愛媛県でも馴染みの岩で、阿波同様に"伊予の青石"も有名。中学生時代に"地学少年"だった行者橋には懐かしい色合いの岩です。上の画像は神饌(しんせん)。神事が始まっていないので、お神酒(みき)の入った瓶子(へいし)の蓋は開いてはいません。で、その神饌の下から続く石畳にも工夫が。真ん中あたりに、何やら意味ありげな球体(だと思います)の石が。今回の境内整備を担当された「植治」の職人さんに確認し忘れたのですが、何なのでしょう。鍛冶神社の祭神は作金者(かなだくみ)の祖"天目一箇神:あめのまひとつのかみ"と刀工の"三條小鍛冶宗近命"・"粟田口藤四郎吉光命"の3柱です。で、神事開始。注連縄(しめなわ)の架かった注連柱の右には"蒼龍猶未昇雲霄"(徳川光圀・作 「詠日本刀」の文字が、左には"佩服可以禳妖凶"(欧陽脩・作 「日本刀歌」)の文字が刻まれています。上の画像の参列者の中、前列4人は左から氏子総代さん(推測)、「植治」代表、神事の途中で謡曲「小鍛冶」(*注参照)を奉納された能楽師の方、「植治」の職人さん。こちらは宮司さんと巫女さん。巫女さんは宮司さんのお嬢さんとお見受けしましたが、粛々と神事が進行します。ギャラリーは"刀剣女子"と思しき方々を含め、20人強。木陰で見守ります。神事の後、「植治」のお2人には感謝状が贈られたりして、その後、撤饌(てっせん)ががやりーにも配られました。上の画像では巫女さんのお顔がはっきりしませんので、最後はこちらを。いや、駐車場という興醒な舞台ではありますが、この新しい鍛冶神社の刀や剣を思い起こさせる風情には、"刀剣女子"ならずともチョッと感動すると思いますよ。素晴らしい境内になりました。
*注:謡曲「小鍛冶」は、夢のお告げを受けた一条天皇から、刀を打つよう命じられた三條小鍛冶宗近は相鎚を打つ力量のある者がいないために辞退しますが、聞き入れられず、宗近は氏神の稲荷明神に参詣して助けを求めます。
すると、宗近は不思議な少年に声をかけられ、励まされると共に相鎚を勤めることを約束して稲荷山に消えていきます。で、家で準備をしている宗近の前に稲荷明神のご神体が狐の精霊の姿で現れ、「相鎚を勤める」と告げます。先程の少年は稲荷明神の化身だったのです。
宗近は明神の相鎚を得て無事に剣を鍛え上げました。「小鍛冶宗近」と「小狐」の銘が表裏に刻まれたその刀が、名剣「小狐丸」です。その後、明神は雲に乗って稲荷の峰に帰っていく、という展開です。これにちなむ神社が向かいの相槌稲荷神社です。
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