2024年10月26日土曜日

柿本人麻呂 - Wikipedia 660~724

柿本人麻呂 - Wikipedia
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ) 
1二九─三一・三六─七・三八─九・四〇─二・四五─九  
2一三一─三・一三四(或本)・一三五──七・一三八─九(或本)・
一六七─九・一七〇(或本)・一九四─五・一九六─八・一九九─二〇一・二〇二(或書)・二〇七─九・二一〇─一二・二一三─六(或本)・二一七─九・二二〇─二・二二三 3二三五・〔二三六〕(或本)・二三九─四〇・二四一(或本)・二四九─五六・〔二五八〕(一本)・二六一─二・二六四・二六六・三〇三─四・四二三(或云)・四二六・四二八・四二九─三〇 4四九六─四九九・五〇一─三 9一七一〇─一(或云)・(一七二五)・一七六一─二(或云) 15三六〇六─一〇・三六一一 

柿本人麻呂歌集(かきのもとのひとまろがかしふ) 2一四六 3二四四 7一〇六八・一〇八七─八・一〇九二─四・一一〇〇─一・一一一八─九・一一八七・一二四七─五〇・一二六八─九・一二七一・一二七二─九四・一二九六─八・一二九九─三〇三・一三〇四─五・一三〇六・一三〇七・一三〇八─一〇 9一六六七─七九・一六八〇─一・一六八二・一六八三─四・一六八五─六・一六八七・一六八八─九・一六九〇─一・一六九二─三・一六九四・一六九五・一六九六─八・一六九九─一七〇〇・一七〇一─三・一七〇四─五・一七〇六・一七〇七・一七〇八・一七〇九・一七一二・一七一三─四・一七一五・一七一六・一七一七・一七一八・一七一九・一七二〇─二・一七二三・一七二四・一七二五・一七七三・一七七四─五・一七八二─三・一七九五・一七九六─九 10一八一二─八・一八九〇─六・一九九六─二〇三三・二〇九四─五・二一七八─九・二二三四・二二三九─四三・二三一二─五・二三三三─四 11二三五一─六二・二三六八─四一四・二四一五─八六・〔二四九一〕(或本)・二四八七─五〇七・二五〇八─九・二五一〇─二・二五一三─四・二五一五─六・二八〇八 12二八四一─五〇・二八五一─六一・〔二八七三〕(或本)・二八六二─三・三一二七─三〇 13三二五三─四・三三〇九 14三四一七・三四七〇・三四八一・三四九〇 



角川万葉集

 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 
二九 
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ或いは「宮ゆ」といふ生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを或いは「めしける」といふ そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え 或いは「そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて」といふ いかさまに 思ほしめせか或いは「思ほしけめか」といふ 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる 或いは「霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる」といふ ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも或いは「見れば寂しも」といふ    

反歌 
三〇 
楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ 三一 楽浪の志賀の一には「比良の」といふ大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも一には「逢はむと思へや」といふ

三一 
楽浪の志賀の一には「比良の」といふ大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも一には「逢はむと思へや」といふ


二九 
神々しい畝傍の山、その山のふもとの橿原の日の御子の御代以来〈日の御子の宮以来〉、神としてこの世に姿を現わされた日の御子の悉くが、つがの木のようにつぎつぎに相継いで、大和にて天の下を治められたのに〈治められて来た〉、その充ち充ちた大和を打ち捨てて、青土香る奈良の山を越え〈その充ち充ちた大和を捨て置き、青土香る奈良の山を越えて〉、いったいどう思し召されてか〈どうお思いになったのか〉、畿内を遠く離れた田舎ではあるけれど、そんな田舎の石走る近江の国の楽浪の大津の宮で、天の下をお治めになったのであろう、治められたその天皇の神の命の大宮はここであったと聞くけれど、大殿はここであったというけれど、春草の茂々と生いはびこっている、霞立つ春の日のかすんでいる〈霞立つ春の日がほの曇っているのか、夏の草が生い茂っているのか、何もかも霞んで見える〉、ももしきの大宮のこのあとどころを見ると、悲しい〈見ると、寂しい〉。   

反歌 
三〇 
楽浪の志賀の唐崎よ、お前は昔のままにたゆとうているけれども、ここで遊んだ大宮人たちの船、その船はいくら待っても待ちうけることができない。 三一 楽浪の志賀の〈比良の〉大わだよ、お前がどんなに淀んだとしても、ここで昔の人に、再びめぐり逢うことができようか、できはしない。

三一 
楽浪の志賀の〈比良の〉大わだよ、お前がどんなに淀んだとしても、ここで昔の人に、再びめぐり逢うことができようか、できはしない。


日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷せて短歌 

一六七 
天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女の命一には「さしのぼる日女の命」といふ 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別けて一には「天雲の八重雲別けて」といふ 神下しいませまつりし 高照らす 日の御子は 明日香の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ一には「神登りいましにしかば」といふ 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめす世は 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 一には「食す国」といふ 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさず 日月の 数多くなりぬる そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも一には「さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす」といふ    

 反歌二首 
一六八 
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも

 一六九 
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも或本には、件の歌をもちて、後皇子尊の殯宮の時の歌の反とす    

或本の歌一首 
一七〇 
島の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず

一六七
天と地とが初めて開けた時のこと、ひさかたの天の河原にたくさんの神々がお集まりになってそれぞれ統治の領分をお分けになった時に、天照らす日女の神は〈さしのぼる日女の神は〉天上を治められることになり、一方、葦原の瑞穂の国を天と地の寄り合う果てまでもお治めになる貴い神として幾重にも重なる天雲をかき分けて〈天雲の八重に重なるその雲を押し分けて〉神々がお下し申した日の神の御子(天武天皇)は、明日香の清御原の宮に神のままにご統治になり、そして、この瑞穂の国は代々の天皇が治められるべき国であるとして、天の原の岩戸を開いて神のままに天上に上って行ってしまわれた。〈神のままに天上に登って行かれてしまったので〉、われらが大君、皇子の命(日並皇子尊)が天の下をお治めになる世は、さぞかし、春の花のようにめでたいことであろう、満つる月のように欠けることがないであろうと、天の下の〈国じゅうの〉人びとみんなが大船に乗ったように安らかに思い、天の恵みの雨を仰いで待つように待ち望んでいたのに、何と思し召されてか、ゆかりもない真弓の岡に宮柱を太々と立てられ、御殿を高々と営まれて、朝のお言葉もおかけになることがなく、そんな日月が積もりに積もってしまった。それがために皇子の宮の宮人たちは、ただただ途方に暮れている。〈さす竹の皇子の宮人たちはただ途方に暮れている〉   

 反歌 
一六八 
ひさかたの天、その天空を望み見るように仰ぎ見た皇子の宮殿の、やがて人気なくなってゆくであろうことの悲しさよ。

 一六九 
あかねさす天つ日は照り輝いているけれども、ぬばたまの夜空を渡る月の隠れて見えぬことの悲しさよ。   

或本の歌 
一七〇  
島の宮のまがりの池の放ち鳥、この鳥もまた、人目を恋い慕うと池にもぐろうともせずぼんやりしている。    



高市皇子尊の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷せて短歌 

一九九 
かけまくも ゆゆしきかも一には「ゆゆしけれども」といふ 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ一には「掃ひたまひて」といふ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御軍士を 召したまひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと一には「掃へと」といふ 皇子ながら 任したまへば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も一には「笛の音は」といふ 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに一には「聞き惑ふまで」といふ ささげたる 旗の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の一には「冬こもり 春野焼く火の」といふ 風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に一には「木綿の林」といふ つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く一には「諸人の見惑ふまでに」といふ 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ一には「霰なす そち寄り来れば」といふ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに一には「朝霜の消なば消と言ふに うつせみと 争ふはしに」といふ 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下 奏したまへば 万代に しかしもあらむと一には「かくしもあらむと」といふ 木綿花の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を一には「刺す竹の 皇子の御門を」といふ 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいませて あさもよし 城上の宮を 常宮と 高くし奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏くあれども    

短歌二首 
二〇〇 
ひさかたの天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひわたるかも 
二〇一 
埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ    
或書の反歌一首 
二〇二 哭沢の神社に御瓶据ゑ祈れども我が大君は高日知らしぬ  
   右の一首は、類聚歌林には「檜隈女王、哭沢の神社を怨むる歌なり」といふ。日本紀を案ふるに、曰はく、「十年丙申の秋の七月辛丑の朔の庚戌に、後皇子尊薨ず」といふ。 

【注】 一 天武天皇の皇子中、最年長。壬申の乱(六七二)の時、指揮を任されて勝利を導いた。時に一九歳。草壁亡きあと持統四年(六九〇)太政大臣。持統十年七月十日没。「尊」の称号を贈られる。 二 以下二句、結び五句と響き合う。 三 飛鳥大仏のある一帯。 四 清御原宮に対する神話的表現。 五 今は神として天上におられる。 六 以下二句天武天皇をさす。 七 北の国、近江のかなた美濃の国。 八 不破関址の西伊増峠あたりか。 九 「和射見」(関ヶ原)の枕詞。高麗剣の柄頭には環がある。 一〇 和射見近くの野上にあった。 一一 アマオリの約。天武の行幸を神話的に言ったもの。 一二 「東」の枕詞。 一三 以下、乱の叙述は次第に個人から集団へと転ずる。「大御」は普通神や天皇に用いる尊称。ここは、天皇に成り代る皇子なので冠したもの。 一四 軍隊用の角笛の一種。 一五 「春」の枕詞。 一六 「弭」は三参照。 一七 神祭りの白木綿を並べ立てたような林。 一八 「乱れて来れ」の枕詞。 一九 「そち」は未詳。「さち」(矢)か。 二〇 「消」の枕詞。 二一 「争ふ」の枕詞。 二二 「消なば消と言ふに」は、消え果てるなら消え果ててしまえとばかりに、の意。「うつせみと」は、命の限りの意。 二三 伊勢神宮から吹き起った神風。 二四 下の「覆ひたまひて」と共に主語は天武に代る高市皇子。 二五 このようにして平定の成った。 二六 高天原から呼ぶ日本国の称。 二七 以下二句、天武の治世を言いつつ、持統の治世をも含む。 二八 以下後半。高市の死を悼む。 二九 高市皇子が天下の事を奏上なさったので。 三〇 「栄ゆ」の枕詞。 三一 生前の宮を仮に殯宮に仕立てたことをいう。 三二 香具山の西の池。その側に高市皇子の宮殿があった。 三三 下の「鶉なす」「春鳥の」と共に、譬喩の枕詞。 三四 「百済」の枕詞。一三五。 三五 香具山と明日香の間にあった原の名か。 三六 ここは「城上」の枕詞。五五。 三七 一九六注三五。 三八 「懸く」の枕詞。 三九 深く心にかけて偲んでゆこう。 四〇 死後やや時を経ているので、以下の表現がある。 四一 流れ口のない沼。上三句は嘱目の序。「ゆくへを知らに」を起す。 四二 どうしてよいかあてどもなくて。ニは打消のヌの連用形。 四三 長歌の異文系統の反歌だったか。 四四 香具山西麓の神社。 四五 「高日知らす」は「天知らす」(二〇〇)と同様、貴人の死をいう。 四六 憶良が編んだ歌集。六左注。 四七 高市皇子の娘か。 四八 この伝えは、檜隈女王の歌を人麻呂が利用したことによるか。 四九 高市皇子。草壁皇子尊に対して「後皇子尊」という。

 一九九 
心にかけて思うのも憚り多いことだ。〈憚り多いことであるけれども、〉ましてや口にかけて申すのも恐れ多い。明日香の真神の原に神聖な御殿を畏くもお定めになって天の下を統治され、今は神として天の岩戸にお隠れ遊ばしておられるわれらが天皇(天武)が、お治めになる北の国の真木生い茂る美濃不破山を越えて、高麗剣和射見が原の行宮に神々しくもお出ましになって、天の下を治められ〈掃い浄められて〉国中をお鎮めになろうとして、鶏が鳴く東の国々の軍勢を召し集められて、荒れ狂う者どもを鎮めよ、従わぬ国を治めよと〈掃い浄めよと〉、皇子であられるがゆえにお任せになったので、わが皇子は成り代わられた尊い御身に太刀を佩かれ、尊い御手に弓をかざして軍勢を統率されたが、その軍勢を叱咤する鼓の音は雷の声かと聞きまごうばかり、吹き鳴らす小角笛の音も〈笛の音は〉敵に真向かう虎がほえるかと人びとが怯えるばかりで〈聞きまどうばかり〉、兵士どもが捧げ持つ旗の靡くさまは、春至るや野という野に燃え立つ野火が〈冬明けての春の野を焼く火の〉風にあおられて靡くさまさながらで、取りかざす弓弭のどよめきは、雪降り積もる冬の林〈まっ白な木綿の林〉に旋風が渦巻き渡るかと思うほどに〈誰しもが見まごうほどに〉恐ろしく、引き放つ矢の夥しさといえば大雪の降り乱れるように飛んでくるので〈霰のように矢が集まってくるので〉、ずっと従わず抵抗した者どもも、死ぬなら死ねと命惜しまず先を争って刃向かってきたその折しも〈死ぬなら死ねというばかりに命がけで争うその折しも〉、渡会に斎き奉る伊勢の神宮から吹き起こった神風で敵を迷わせ、その風の呼ぶ天雲で敵を日の目も見せずまっ暗に覆い隠して、このようにして平定成った瑞穂の神の国、この尊き国を、我が天皇(天武・持統)は神のままにご統治遊ばされ、われらが大君(高市)がその天の下のことを奏上なされたので、いついつまでもそのようにあるだろうと〈かくのごとくであるだろうと〉、まさに木綿花のようにめでたく栄えていた折も折、我が大君(高市)その皇子の御殿を〈刺し出る竹のごとき皇の御殿を〉御霊殿としてお飾り申し、召し使われていた宮人たちも真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の広場に、昼は日がな一日、鹿でもないのに腹這い伏し、薄暗い夕方になると、大殿を振り仰ぎながら鶉のように這いまわって、御霊殿にお仕え申しあげるけれども、何のかいもないので、春鳥のむせび鳴くように泣いていると、その吐息もまだ消えやらぬのに、その悲しみもまだ果てやらぬのに、言さえぐ百済の原を通って神として葬り参らせ、城上の殯宮を永遠の御殿として高々と営み申し、ここに我が大君はおんみずから神としてお鎮まりになってしまわれた。しかしながら、我が大君が千代万代にと思し召して造られた香具山の宮、この宮はいついつまでに消えてなくなることなどあるはずがない。天つ空を仰ぎ見るように振り仰ぎながら、深く深く心に懸けてお偲びしてゆこう。恐れ多いことではあるけれども。   

短歌 
二〇〇 
ひさかたの天をお治めになってしまわれたわが君ゆえに、日月の経つのも知らず、われらはただひたすらお慕い申しあげている。 
二〇一 
埴安の池、堤に囲まれた流れ口もないその隠り沼のように、行く先の処し方もわからぬまま、皇子の舎人たちはただ途方に暮れている。   
或書の反歌 
二〇二 
哭沢の神社に御酒の瓶を据え参らせて無事をお祈りしたけれども、我が大君は、空高く昇って天上を治めておられる。  

溺れ死にし出雲娘子を吉野に火葬る時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌二首 

四二九 
四三二 
山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく

 四三〇 
四三三 
八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ 

【注】 一 吉野行幸中の出来事か。実際には入水だったらしい。 二 伝未詳。出雲出身の采女か。 三 「出雲」の枕詞。山の間から湧き出る雲の意。次歌の初句と共に、生前の娘子のはつらつとしたさまを匂わす。 四 作者の目は上を向いている。 五 「出雲」の枕詞。群がる雲がさし出る意。「八雲立つ」とも。 六 波のまにまに揺らめき漂っている。玉藻への連想があろう。前歌とは逆に、作者の目は下を向いている。前歌は結果、この歌は原因の叙述。

 四二九 
山あいからわき出る雲、その雲のようであった出雲娘子は、まあ、あの霧なのか、そんなはずはあるまいに、吉野の山の嶺に霧となってたなびいている。 

四三〇 
盛んにさしのぼる雲、その雲のようであった出雲娘子の美しい黒髪は、まるで玉藻のように吉野の川の沖の波のまにまに揺らめき漂うている。


柿本人麻呂が妻(かきのもとのひとまろがめ) 4五〇四
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82

柿本人麻呂

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。2018年10月

柿本 人麻呂(かきのもと の ひとまろ)、斉明天皇6年(660年)頃 - 神亀元年(724年)3月18日[1])は、飛鳥時代歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ、称えられている。三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

人物

柿本人麻呂歌碑(奈良県天理市、石上神宮
柿本人麻呂像(奈良県宇陀市、阿騎野・人麻呂公園)

出自・系譜

柿本臣は、孝昭天皇後裔を称する春日臣の庶流に当たる。人麻呂の出自については不明である。生前や死没直後の史料には出自・官途についても記載がなく、確実なことは不明である。

経歴

彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも記載がないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ[2]、天武朝から歌人としての活動を始め、持統朝に花開いたとみられる。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌[3]を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある[4][5]

江戸時代賀茂真淵によって草壁皇子舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠はない。複数の皇子・皇女(弓削皇子舎人親王新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないかとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多い[注釈 1]が、宮廷歌人という職掌が持統朝にはなく、結局は不明である。ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。歌道の秘伝化や人麻呂に対する尊崇・神格化が進んだ平安後期から中世、近世にかけては、『人丸秘密抄』のように持統天皇の愛人であったと記す書籍や、山部赤人と同一人物とする論も現れるが、創作や想像による俗説・伝承である。

『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌[6]が載り、また石見国の鴨山における辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌[7]が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多い。この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解[注釈 2]や、後人の仮託であるとの見解も有力である。[注釈 3]また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。

歌風

彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞序詞押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。

人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、記紀の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多い。また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であると言える。

恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていた(斎藤茂吉などによる見解)。近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。ただし、人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ性的な表現が少なくなく、窪田空穂が人麻呂は夫婦生活というものを重視した人であるとの旨を述べている(『万葉集評釈』)のは、歌の内容が事実・虚構であることの有無を別にして、人麻呂の表現のありかたをとらえたものである。

次の歌は枕詞、序詞を巧みに駆使しており、百人一首にも載せられている。ただし、これに類似する歌は『万葉集』巻11・2802の異伝歌であり、人麻呂作との明証はない。『拾遺和歌集』にも採られているので、平安以降の人麻呂の多くの歌がそうであるように、人麻呂に擬せられた歌であろう。

万葉仮名 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿
平仮名 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。

また、『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に248首が入集している[8]

代表歌

  • 天離(あまざか)る 夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ(『万葉集』巻3-255)[9]
  • 東(ひむがし)の 野にかきろひの 立つ見えて かへり見すれば 月西渡(かたぶ)きぬ(『万葉集』巻1-48)[9]
  • ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し(『万葉集』巻1-47)
  • 淡海(あふみ)の海(み) 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ(『万葉集』巻3-266)[9]
  • ささなみの 志賀の辛崎(からさき) 幸(さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ(『万葉集』巻1-30、通称「近江荒都歌」)[9]
  • 石見のや 高角山の 木の間より わが振る袖を 妹見つらむか(『万葉集』巻1-132、通称「石見相聞歌」)[9]
  • 鴨山の 岩根しまける 吾をかも 知らにと妹が まちつつあらむ(『万葉集』巻2-223、石見國に在りて臨死(みまか)らむとせし時、自ら傷みて作れる歌)[9]

また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。

今昔秀歌百撰で柿本人麻呂は6番で、 あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が獄に雲立ち渡る (出典:万葉集巻七、選者:齋藤恭一(元埼玉県高校教諭))

人麻呂の謎

官位について

同時代の各種史書上に人麻呂に関する記載がなく[注釈 4]、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序では五位以上を示す大夫を付して「柿本大夫」と記され、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」[注釈 5]と書かれている。また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

江戸時代、契沖賀茂真淵らが史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱えた。以降、現在に至るまで歴史学上の通説となっている。

  1. 五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載されるはずであるが、人麻呂の名は正史に見られない。
  2. 死去に関して律令には、三位以上は、四位と五位は、六位以下はと表記することとなっていた。『万葉集』の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている[注釈 6]

梅原猛による異説

「人麻呂は下級官吏として生涯を送り、湯抱鴨山で没した」との従来説に対して、梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ、鴨島沖で刑死させられたとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。また、梅原は人麻呂と、伝説的な歌人・猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘した。しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。古代律令の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原が言うように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などに何一つ記されていない点などに問題があるからである。なお、この梅原説を参考にして、井沢元彦が著したデビュー作が『猿丸幻視行』である(ただし作中人物によって、益田勝実による批判が紹介されており、梅原説を肯定はしていない)。

『続日本紀』元明天皇和銅元年(708年4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた[注釈 7]人麻呂ではないかと梅原らは唱えた[12][13]。しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)、高橋虫麻呂をはじめ、名に動物など語を含んだ貴人が幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。柿本猨と人麻呂の関係については、ほぼ同時代を生きた同族という以上のことは明らかでない。益田勝実は、梅原が、人麻呂は処罰として名前を変えられ、位階も下げられたとし、死ぬまでには許されており位階ももとに戻ったため正史に記載されたとしていることから、それなら名前が猨のままなのはおかしいと指摘し、梅原はついに答えることができなかった。

旧跡

終焉の地

その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(旧・石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世地震万寿地震)と津波があり、水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。

その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされる説があり、正確な位置は不明になっている。また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作(前述)で反論の的になっている[14]

神社

柿本神社」も参照

平安時代後期以降、人麻呂は歌人として称えられるだけでなく、和歌の上達などに霊験がある存在として崇拝されるようになった。歌会に、人麻呂の絵姿と歌(人麻呂作と考えられた「ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ」)を掲げて、歌の上達を祈願する人麿影供(えいぐ)が行われるようになった。『十訓抄』などによると、藤原兼房が夢に現れた人麻呂を絵に描かせ、後に藤原顕季がこれを模写して影供を始めたという。

人麻呂を神として祀る神社や祠も各地に建てられた。高津柿本神社柿本神社 (明石市)が著名である。「ひとまる」から「火止まる」「人産まる」と連想されて、庶民に防火・安全の神とされた例もある[15]

脚注

注釈

  1. 伊藤博橋本達雄などによる。
  2. 伊藤博による。
  3. ただし人麻呂が石見国で死んだというのが虚構だとするのならば、なぜ人麻呂が石見国に結び付けられたのか(または人麻呂自身がなぜ石見国について取り上げたのか)、その理由について説得力のある説明は未だない。
  4. 後世の資料であるが、「石州益田家系図」では正八位上・石見掾とする[10]
  5. ただし『古今和歌集』の古い伝本の多くはこの箇所を「おほきみつのくらゐ」としており、「おほきみつのくらゐ」としているのは藤原定家が書写校訂した系統の写本に限られている。しかしでは、「おほきみつのくらゐ」とは何なのかこれもまた不明である[11]
  6. 『万葉集』巻第三には大津皇子の辞世とされる歌があるが(416番)、その詞書には「大津皇子の死(ころ)されし時に(以下略)」とある。死の直前には身分に関わりなく「死」の字を使い、その人物の死亡が間違いない時点で「薨」や「卒」を使ったと見られる。人麻呂の場合もその詞書に「死に臨みし時に」とあり、この「死」の字のことをもって人麻呂が六位以下であったかどうかは判断できない。
  7. 宇佐八幡宮神託事件称徳天皇の怒りを買い、一時「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と改名された。

出典

  1. 日光山常行三昧大過去帳
  2. 『万葉集』巻10・2033左注
  3. 『万葉集』巻2・217-219
  4. 北山茂夫 1972, pp. 1–18.
  5. 北山 2006, §その詩人的前歴を探る.
  6. 『万葉集』巻2・220-222
  7. 『万葉集』巻2・223-227
  8. 『勅撰作者部類』
  9. ^ a b c d e f 佐佐木信綱編『新訂 新訓 万葉集 上巻・下巻』岩波文庫、1927年(1954年 改版)
  10. 鈴木真年蔵書.
  11. 久曽 1989.
  12. 梅原 1983.
  13. 篠原 1990.
  14. 梅原 2001.
  15. 「歌の聖」から「歌の神」へ高岡市万葉歴史館/平成13年度・春の特別企画展「柿本人麻呂とその時代」解説(2018年6月29日閲覧)

参考文献

関連項目

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外部リンク

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