29では山常ではなく倭を使用
角川万葉集
近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌
二九
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ或いは「宮ゆ」といふ生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを或いは「めしける」といふ そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え 或いは「そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて」といふ いかさまに 思ほしめせか或いは「思ほしけめか」といふ 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる 或いは「霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる」といふ ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも或いは「見れば寂しも」といふ
反歌
三〇 楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ 三一 楽浪の志賀の一には「比良の」といふ大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも一には「逢はむと思へや」といふ
【注】 一 天智天皇近江大津の宮の廃墟。 二 立ち寄って通り過ぎる時に宮跡を見て、の意。 三 持統・文武朝の宮廷歌人。 四 「畝傍」の枕詞。襷をうないで神祭りをする意。 五 支配者。ここは初代神武天皇。 六 「いや継ぎ継ぎに」の枕詞。 七 「大和」の枕詞。「空に満つ山」の意か。 八 以下二句、痛恨の気持から出た表現。挽歌の常套句。 九 「鄙」の枕詞。空遠く離れる意。 一〇 「近江」の枕詞。溢れる水の意。以下六句、山の地大和に対し水の地近江を選んだのか、の意がこもる。 一一 琵琶湖西南岸地方一帯の古名。 一二 上の「思ほしめせか」に応じながら、下へ連体修飾として続く。 一三 以下二句、天智天皇への神名的呼称。 一四 「春日」の枕詞。 一五 おぼろに霞んでいる。 一六 「大宮ところ」の枕詞。多くの石で築いた城の、の意か。 一七 大津市下坂本・唐崎のあたり。提示句。 一八 待ちかねるのは人麻呂であると同時に唐崎。次歌の結句も同様。 一九 湾入して水の淀んでいる所。 二〇 どんなに淀んだとしても。トモはここは事実を仮定的に言ったもの。 二一 「昔」は、現在からは遮断された向う側の時期として対象化された過去をいう。一三注四参照。
二九
神々しい畝傍の山、その山のふもとの橿原の日の御子の御代以来〈日の御子の宮以来〉、神としてこの世に姿を現わされた日の御子の悉くが、つがの木のようにつぎつぎに相継いで、大和にて天の下を治められたのに〈治められて来た〉、その充ち充ちた大和を打ち捨てて、青土香る奈良の山を越え〈その充ち充ちた大和を捨て置き、青土香る奈良の山を越えて〉、いったいどう思し召されてか〈どうお思いになったのか〉、畿内を遠く離れた田舎ではあるけれど、そんな田舎の石走る近江の国の楽浪の大津の宮で、天の下をお治めになったのであろう、治められたその天皇の神の命の大宮はここであったと聞くけれど、大殿はここであったというけれど、春草の茂々と生いはびこっている、霞立つ春の日のかすんでいる〈霞立つ春の日がほの曇っているのか、夏の草が生い茂っているのか、何もかも霞んで見える〉、ももしきの大宮のこのあとどころを見ると、悲しい〈見ると、寂しい〉。
反歌 三〇 楽浪の志賀の唐崎よ、お前は昔のままにたゆとうているけれども、ここで遊んだ大宮人たちの船、その船はいくら待っても待ちうけることができない。 三一 楽浪の志賀の〈比良の〉大わだよ、お前がどんなに淀んだとしても、ここで昔の人に、再びめぐり逢うことができようか、できはしない。
…
日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷せて短歌
一六七
天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女の命一には「さしのぼる日女の命」といふ 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別けて一には「天雲の八重雲別けて」といふ 神下しいませまつりし 高照らす 日の御子は 明日香の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ一には「神登りいましにしかば」といふ 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめす世は 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 一には「食す国」といふ 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさず 日月の 数多くなりぬる そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも一には「さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす」といふ
反歌二首
一六八
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも 一六九 あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも或本には、件の歌をもちて、後皇子尊の殯宮の時の歌の反とす
或本の歌一首
一七〇
島の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず
【注】 一 皇太子草壁。天武と持統の子。持統三年(六八九)四月十三日没。年二八。 二 殯宮を営んで葬るまでの期間。 三 統治する領分を分けた時に。 四 天照大御神。「日女」は日の女神 五 高天原から呼ぶ日本国の異称。 六 日の御子を八百万神より高く見た表現。 七 以下二句、天孫降臨神話を裏打ちした表現。天武天皇に邇邇芸命を重ね、天武を神と見ている。 八 天武天皇が、この大和の国は代々の天皇が治めるべき国であるとされて。 九 天武天皇が本来の高天原へ帰ったことをいう。ここまで前段。
一〇 以下、草壁皇子への哀傷を述べる後段。人皇初代としての扱い。 一一 「貴くあらむ」の枕詞。
一二 「満しけむ」の枕詞。 一三 「思ひ頼みて」の枕詞。
一四 「仰ぎて待つ」の枕詞。 一五 縁もゆかりもない。以下「数多くなりぬる」まで、草壁が真弓の殯宮に籠って月日の重なったことをいう。 一六 近鉄飛鳥駅の西、佐田の地。 一七 「さす竹の」は「宮」の枕詞。繁栄するの意。 一八 「日」の枕詞。上二句は実景。 一九 以下、草壁の死を寓しての悲しみ。
二〇 「件の歌」は一六八以下二首をさす。「後皇子尊」は日並皇子尊(草壁皇子)に対しての称で高市皇子をいう。 二一 草壁逝いて間もない頃の人麻呂の詠らしい。
二二 草壁生前の宮殿。橘寺の東、飛鳥川西岸の傾斜地あたりか。 二三 島の宮の池の名。
一六七
天と地とが初めて開けた時のこと、ひさかたの天の河原にたくさんの神々がお集まりになってそれぞれ統治の領分をお分けになった時に、天照らす日女の神は〈さしのぼる日女の神は〉天上を治められることになり、一方、葦原の瑞穂の国を天と地の寄り合う果てまでもお治めになる貴い神として幾重にも重なる天雲をかき分けて〈天雲の八重に重なるその雲を押し分けて〉神々がお下し申した日の神の御子(天武天皇)は、明日香の清御原の宮に神のままにご統治になり、そして、この瑞穂の国は代々の天皇が治められるべき国であるとして、天の原の岩戸を開いて神のままに天上に上って行ってしまわれた。〈神のままに天上に登って行かれてしまったので〉、われらが大君、皇子の命(日並皇子尊)が天の下をお治めになる世は、さぞかし、春の花のようにめでたいことであろう、満つる月のように欠けることがないであろうと、天の下の〈国じゅうの〉人びとみんなが大船に乗ったように安らかに思い、天の恵みの雨を仰いで待つように待ち望んでいたのに、何と思し召されてか、ゆかりもない真弓の岡に宮柱を太々と立てられ、御殿を高々と営まれて、朝のお言葉もおかけになることがなく、そんな日月が積もりに積もってしまった。それがために皇子の宮の宮人たちは、ただただ途方に暮れている。〈さす竹の皇子の宮人たちはただ途方に暮れている〉
反歌
一六八
ひさかたの天、その天空を望み見るように仰ぎ見た皇子の宮殿の、やがて人気なくなってゆくであろうことの悲しさよ。 一六九 あかねさす天つ日は照り輝いているけれども、ぬばたまの夜空を渡る月の隠れて見えぬことの悲しさよ。
或本の歌
一七〇
島の宮のまがりの池の放ち鳥、この鳥もまた、人目を恋い慕うと池にもぐろうともせずぼんやりしている。
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