徐福船団
日本各地に徐福伝説が残っています。黒潮が流れる場所に限られる事も特徴のひとつですね。秦の始皇帝が求めた
不老不死の薬を求め、遥か東方の海の彼方の蓬莱山を目指して徐福船団は船出をしました。
(茂在寅男 もざいとらお 先生の説)
『古代史を語る』 朝日新聞社編 朝日選書450 1992年5月 第1刷発行
"徐福は日本にきたか" の題で茂在先生(東京商船大学 教授、東海大学教授)が船と航海の専門家として、語られております。
・エジプトで長さ45メートルもある4500年前の実物の船が発掘された。(1954年 発掘)
・日本の記紀の記録では長さ10丈(30メートル)の船があったと記述
『常陸風土記』では15丈(45メートル)の船について記述されている
・1986年 橿原考古学研究所が天理市の清水風遺跡で発掘した、弥生時代の土器片に船の線刻画発見。
弥生中期~後期の時代の土器片である。茂在先生が復元すると、36本の櫂と1本のマストを持つ25メートルの
37人乗りのゴンドラ型外洋船であった。
・中国の文献においては、春秋戦国時代に既に巨大な船の存在記述が沢山ある。
"秦の西に大船あり粟を積んで楚に到る三千里、船に50人と3カ月の食料を積み・・・"
・中国より黒潮のハイウエイに乗れば日本に到着する
・日本においては水中考古学が未開拓である。海が高速道路であった訳であるから、何故に古代の港の海中を発掘しないのか? どんどん埋め立てて破壊している。
(感想)
先生は、船と航海の専門家です。ハード面では状況証拠として可能であったと結論されています。巨大な船団で日本に到着したとなると、いろんな場所に辿り着いたと考えておかしくないですね。先生は、吉野ケ里遺跡は徐福船団の一部が到着して土着化したのではないか?と仮説をたてておられます。
古代といえば、筏とか丸木舟しか想像しなかった、今迄の常識は捨てねばなりませんね。私は、縄文人は弥生の人々以上に海のハイウエイを往来していたと考えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿