https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12323615604.html
天子神社の御神紋について
前回のブログ
平河氏建立の旧深田村「有智山万福寺」と寺紋について
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12321185882.html
より続けます。
平河氏が所領した「有智山万福寺」のある深田村(現あさぎり町)
深田村には以前、ブログで御紹介した天子神社が御鎮座です。
ブログ 『天子神社にお伺いしました。』
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12283326015.html
ブログ 『天子神社にお伺いしました。』で書いたように
天子の水公園から160メートル程、登った先に
景行天皇が熊襲(隼人)を親征された時、しばらく神輿(みこし)をおとどめになられた
聖地「天子神社」が御鎮座。
私はこの記述を書いた時に『天子神社の御神紋について』
※
九州内の数々の神社様には伺っているのですが・・・
こちらの御神紋は初めて拝見しました。
いったいどのような意味を持った御神紋なのか・・・
某サイトの方の記述では「コンパス」と「定規」ではないか?と書かれていましたが・・
確かに、球磨の各地には「六芒星」をみる事は出来ますが
こちらの御神紋は、何を意味するのかとても不思議です。
と書いていたのです・・・・
所が・・・・
天子神社の御神紋をじっと見つめていてようやく気が付いたのです!
天子神社の御神紋
今から気が付いた事を図で御説明致します。
ここから、私が行う事は不敬に当たる事かもしれません。
神様、そして深田村を所領した平河の御先祖様
申し訳ありません。
球磨の古代を解く為にお許し下さい。
天子神社の御神紋の二重の円の内側を自分で描いてみました。
※ワードで描いてペイントで加工しただけなのですが、何せへたくそです(..)
こちらに、新たに線を追加しました。
コンパスのように見える両側の線を直線で結び、内側中心の角から伸びる線を延長し
その線を直線で繋げると・・・
こうなります。(追加の線は赤色にしました)
出来たのは『六芒星』でした!
天子神社の御神紋に線を加えた所『六芒星』へと変化?しました!!
絵がへたくそなので、正三角形ではありませんが、御了承下さい(..)
しかし、何故?
『六芒星』から線を取った?形が『天子神社の御神紋』なのか?
正確に言うと
『六芒星』の中心部のみが何故『天子神社の御神紋』なのか?
そこで、調べると
『六芒星』(籠目)について
『元伊勢籠神社の絵馬には籠目の中、中央に「太陽」と「月」が描かれている』と言う記述を多数目にしました。
と言う事は・・・
天子神社の御神紋は、太陽と月の部分を表している・・・
と言う事になります。
前回、御紹介した平河氏建立の有智山万福寺の寺紋は「十六弁菊の御紋」であり
さらに、同じく平安時代末期より平河氏が所領した
深田村の天子神社の御神紋は『六芒星』(籠目)の中央のみ、外側は二重の円。
もしかしたら・・・・
私は球磨の古代、いえ、日本の古代の謎を解く鍵に少しだけ近づいているのかもしれません
実は・・・
『六芒星』(籠目)は球磨の色々な場所に古(いにしえ)の方々がその「形」を残していらっしゃるのです・・・・
書けないのですが・・私は自分の目で確認しています。
(書いていいのか・・・判断しかねています)
少しだけ・・・『全て、観光地として有名な場所』です。
「十六弁菊の御紋」・・・菊の御紋
ずっと気になっていたのですが、
ブログ 『京ガ峰横穴群に伺いました』で写した写真
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12272067315.html
③車輪のように見える彫刻 で御紹介した装飾です。
ずっと・・気になっていたのですが
車輪というより・・・本当は、私には「菊の花びら」にも見えていたのですが・・・
この時は、思い違いかもしれないと・・・心に留めるだけにしたのですが
実際に、平河氏建立の有智山万福寺の寺紋「十六弁菊の御紋」を目にしてから
『京ガ峰横穴群』の装飾が頭から離れなくなってしまいました・・・
天子神社
実は
天子の地名は球磨には23か所もあるのです。
球磨郡中にあります。
私の家の近くにも 字「天子」と字「鶴」があります。
字「天子」と字「鶴」を結ぶ橋が「天子鶴橋」です。
私の住む場所は旧「球磨郡久米郷宮原(ミヤノハル)」です。
球磨郡久米郷と久米氏の関係。
太田亮博士の『姓氏家系大辞典』第2巻がネットに公開されていました。
久米氏について記されています。
国立国会図書館デジタルコレクション より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/172
久米 クメ また来目に作り、九味(クミ)ともあり。
なほクマとも通ずるが如し。
姓氏禄に久米都彦を、一本に久米都彦に作り・・中略
此等によれば、久米は、クマ、クミ、クメと通ずる語にして、貴田博士が、
「久米は玖磨にして、久米郡は玖磨人、即ち肥人ならん」と云われし説に同意せざるを得ず。
即ち久米部は南九州の大種族・肥人にして、魏志東夷傳に狗奴国とあるが、此の久米部の本■ならんと考へられる。
詳細は「日本古代史新研究」を見よ。
さらに、インターネットの世界では、私の住む地域を、古代の歴史をお調べの方々、多数の方々がクローズアップして下さっています。
中でも、特に気になる記述を書かれていた方のサイトを御紹介します。
亀松の森様のサイト クメール族
http://blog.livedoor.jp/kame3328/archives/51617900.html
亀松の森様のサイト クメール族 より 引用させて頂きます。
『日向の方から神武率いる天孫族が出現し、出雲に政権交代
を迫るわけだ。で、この天孫族とは何ものなりや? という話に
なる。司馬は「天孫族が何人種であれ、勇敢なポリネシア人を
多数引き連れていたことは間違いない。隼人(はやと)であり、
中核は久米」と書いている。』
『久米とは隈・球磨・熊・亀・久米・久留米につながり
「クメイorクマイ」とも発音するが、もともとはシュメール系
クメール族(地上のメル族)で、コウメイと転じた。もともとは
インダス文明の中心都市モヘンジョ・ダロを根拠地として交易
を行っていた海人族で、タイ、ビルマ、ラオス、ベトナム方面
にも進出。黒潮に乗って、中国長江から台湾・沖縄・九州へ
も進出し、大量のジャポニカ米をもたらしたものと思われる。
クメール語は現在のカンボジア語であり、コメの語源は
コウメイである。』
※司馬遼太郎氏のエッセイにあったという
『司馬は「天孫族が何人種であれ、勇敢なポリネシア人を多数引き連れていたことは間違いない。隼人(はやと)であり、中核は久米」と書いている。』
※『久米とは隈・球磨・熊・亀・久米・久留米につながり「クメイorクマイ」とも発音するが、もともとはシュメール系クメール族(地上のメル族)で、コウメイと転じた。
★シュメール系クメール族(地上のメル族)・・・久米であり球磨である・・・
そうすると・・・こうなる訳ですね
肥後国球磨郡久米郷(私が住むのは宮原※ミヤノハル)は
※古代元祖的久米氏『シュメール系クメール族』の本拠地であったと言われている・・・
※肥後国球磨郡久米郷宮原(ミヤノハル)の黒原山(クロバル山)は、古代元祖的久米氏
『シュメール系クメール族』の守護山であり権利の象徴
※古代久米氏は神武天皇の東征に従う
※神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞
※久米舞は大嘗祭など宮中の儀式に行われる楽舞であり、現在まで継承され続けている。
さらに・・
※球磨の地は平安末期まで「王家領」。天皇御領であった。
ウィキペディア 球磨荘より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8%E8%8D%98
球磨荘(くまのしょう)は、肥後国球磨郡一郡を領域とした荘園。球磨御領とも称された。
概要
元は平家政権の下で設定された蓮華王院を本所とする王家領であり、平頼盛をはじめとする平家一門もその経営に関わっていた。治承の乱の後、球磨荘は平家没官領として一部が没収の対象(ただし、頼盛の所領は後日返還)となり、建久3年〈1192年)に該当部分を王家領・関東御領・公領などに分割する片寄が実施され、人吉荘・永吉荘などが成立した。王家領とされた人吉荘には後に相良氏が地頭として入り、勢力の基盤としていくことになる。
※球磨郡久米郷は平安末期まで藤原姓久米氏が勢力を持つ。
※球磨郡久米郷は鎌倉時代初頭、
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である
「西園寺公経」の領地であった。
※平頼盛。この方は「西園寺公経」の曾祖父でもある。
※「西園寺公経」との替地で「球磨郡久米郷」の領主となった、宮原一族の先祖「橘公業」
※宮原一族の先祖「橘公業」を含む伊予橘氏はブログ「曾祖父への手紙の真相は?」で書いたように https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12312088938.html
「本姓 橘氏(伊予橘氏=越智氏=物部氏+紀氏」 )という系である。
纏めるとこうなりました・・・
★シュメール系クメール族(地上のメル族)・・・久米であり球磨である・・・
私が、今回のブログで気が付いた"事"は、全て上記に繋がる"事"なのでは・・・
そう言う考えが頭に浮かんでいます・・・
(もちろん思い込みと言うご指摘もあると思いますが(..))
今回は『天子神社の御神紋について』気が付いた事を書かせて頂きました。
次回 『球磨の落人伝説 ①』 に続きます。
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