2024年9月2日月曜日

藤原定家 - Wikipedia

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藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家歌人藤原北家御子左流正三位藤原俊成の二男。最終官位正二位権中納言京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。

概要

平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、歌道における御子左家の支配的地位を確立。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた。

2つの勅撰和歌集新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進したほか、秀歌撰に『定家八代抄』がある。歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。家集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。また、宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じた。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」。

一方で、『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった)。また、『松浦宮物語』の作者は定家とする説が有力である。

18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(2000年に国宝に指定)を残した[注 1]。このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。

経歴

若年期

後白河院政期前期の仁安元年(1166年従五位下叙爵する。安元元年(1175年)2月に流行していた赤斑瘡を患うが、同年父・俊成右京大夫辞任に伴って侍従任官し官途のスタートを切る。しかし、翌安元2年(1176年)俊成が咳病の悪化により出家したため、定家は後ろ盾を失い昇進面で大きな痛手を受けた。さらに安元3年(1177年)定家は疱瘡にかかって二度目の大病を経験し、以降はしばしば呼吸器疾患に苦しむなど肉体的に虚弱な体質となるとともに、神経質感情に激する傾向が現れるようになったという[3]

治承3年(1179年賀茂別雷神社の広庭で行われた会に歌合として初めて参加し、藤原公時と組んで引き分けとなった。また、養和元年(1181年)『初学百首』を詠むと、翌寿永元年(1182年)俊成の命令により、まとまった歌作として初めての作品となる『堀河院題百首』を作っている。これに対しては、父・俊成、母・美福門院加賀のほか、藤原隆信・藤原定長(寂蓮)・俊恵ら諸歌人からも賞賛を受け、さらには右大臣九条兼実からも賛辞の手紙を送られた[4]。またこの間に俊成の和歌の弟子である藤原季能の娘と結婚し、 寿永3年(1184年)に長男の光家を儲けるとともに[5]、治承4年(1180年)従五位上、寿永2年(1183年正五位下に昇叙されている。

九条家への出仕

文治元年(1185年)11月末に新嘗祭の最中に殿上で少将・源雅行に嘲笑されたことに激怒し、脂燭を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があったという[6]。なお、俊成の赦免嘆願の書状は現存しており[7][8]重要文化財に指定されている(香雪美術館所蔵)[9][10]

同年より親幕府派の摂政九条兼実を主とする九条家家司として出仕を始める[11]。九条家では兼実次男の九条良経に親しく仕えて外出に常に従ったほか、和歌を通して兼実弟の慈円とも交渉が深かった。定家は九条家に家司として精励して務める一方で、文治5年(1189年左近衛少将、文治6年(1190年従四位下、建久6年(1195年)従四位上、正治2年(1200年正四位下と、後白河法皇の没後政権を掌握していた九条兼実の庇護を受けて順調に昇進した。

またこの頃には、『二見浦百首』『皇后宮大夫百首』『閑居百首』(藤原家隆と共作)など歌人として目覚ましい活躍を見せる一方、九条家への出仕後日が浅いにもかかわらず九条兼実の連歌の席に出席するなど、家人同様に重宝がられた様子が窺われる[12]。また、文治5年(1189年)には慈円の『早卒露肝百首』に対して、『奉和無動寺法印早卒露肝百首』『重早卒露肝百首』を著した[13]。なお、建久5年(1194年)ごろに定家は季能の娘と離別して、西園寺実宗の娘と結婚し、建久6年(1195年)に長女の因子が生まれている[14]

後鳥羽院政期

建久7年(1196年)反幕府派の内大臣源通親による建久七年の政変が起こると、九条兼実が関白を罷免され、太政大臣藤原兼房天台座主・慈円も要職を辞任した[15]。さらに、定家の義兄弟である蔵人頭西園寺公経左馬頭藤原隆保も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ[16]。この政変に伴う定家自身への影響は明らかでないが、九条兼実に連座して除籍処分を受けた可能性も指摘されている[17]

正治元年(1199年)頃より後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化し、正治2年(1200年)院初度御百首が企画される。当初、藤原季経六条家の策謀を受けて、源通親は定家を敢えて参加者から外したが、義弟・西園寺公経や父・俊成らの運動もあり、ようやく定家は参加を許される[18]。翌建仁元年(1201年千五百番歌合にも定家は参加して詠進を行い、いずれも後鳥羽上皇から好みにあったとの評価を受けている[19]。また同年には勅撰和歌集の編纂を行うことになり、定家は源通具らとともに院宣を受けて撰者に選ばれる。元久元年(1204年)勅撰集の名称として『新古今和歌集』を上申、いったん歌集は完成し、定家の和歌作品は41首が入集した[20]。なおその後、歌集に対して追加の切り継ぎが行われ、最終的に47首が採録されている[21]

一方で、建仁2年(1202年)定家は源通親宛に内蔵頭・右馬頭・大蔵卿いずれかの任官を望んで申文を提出したり[22]、当時強い権勢を持っていた藤原兼子(後鳥羽天皇の乳母)に対しても仮名状を送ったほか、兼子が病臥していると聞くと束帯姿で見舞いに行くなど、猟官を目的に権力者の意を迎えるために腐心した[23]。同年10月に源通親が没して政局は動揺した一方で、執拗な運動の効果があったためか、翌閏10月に定家は左近衛少将から左近衛権中将への昇任を果たしている[24]

中将在任は8年に亘るが蔵人頭への任官は叶わず、承元4年(1210年)正月に嫡男・為家の左近衛権少将任官の代わりに、定家は左近衛権中将を辞退するが、同年12月に年来の希望であった内蔵頭に任ぜられる。次に定家は公卿昇進を望んで、姉・九条尼から讃良荘(現在の大阪府四條畷市付近)・細川荘(現在の兵庫県三木市の東北方)の両荘園を藤原兼子に贈与する約束を行うなど猟官運動を続け、建暦元年(1211年従三位侍従に叙任されて50歳にして公卿に列した[25]

その後も、兼子に対する猟官運動が奏功して[26]建保2年(1214年参議に任ぜられて、父・俊成が得られなかった議政官への任官を果たすと、建保4年(1216年正三位に昇叙され、承久2年(1220年播磨権守を兼ねるなど、後鳥羽院政期において主家である九条家や外戚の西園寺家が沈滞する中でも定家は順調な官途を歩んだ。しかし、定家は昇進面で不満を持っていたらしく、承久2年(1220年)2月に行われた内裏歌合に官途に対する不満を託した和歌を持参したところ、後鳥羽上皇の逆鱗に触れて勅勘を受け、和歌の世界での公的活動を封じられてしまった[27][注 2]

承久の乱以降

承久3年(1221年承久の乱が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方で、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返すなど、定家にとって非常に幸運な時代となる[29]。承久4年(1222年)参議を辞して従二位に叙せられると、嘉禄3年(1227年)には正二位に至った。正二位への昇進に際して定家は、承久の乱がなかったらこの叙位はなかったであろう、との感想を残している。さらに、70歳を越えても官位への執着が衰えなかった定家は権中納言への任官を望んで、寛喜2年(1230年)自らは老体のため妻に日吉神社への参籠祈念をさせ、翌寛喜3年(1231年)歩行困難の中で人に縋り付くようにして春日詣を行うなどする一方で、関白・九条道家に猛運動を行う[29]

こうしてついに、 寛喜4年(1232年)正月に71歳で権中納言に任ぜられる。権中納言在任時の『明月記』の記述はほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって定家がたびたび上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元四条天皇践祚などの重要な議定にも参加している。しかし、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく[30]、同年の12月には権中納言を罷免されてしまい官界を退く[31]。翌天福元年(1233年)10月11日に慈心房(海住山長房)を戒師として出家、法名は明静を名乗った。

晩年

一方で、寛喜4年(1232年)6月に定家は後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂の下命を受けて単独で撰出を開始。同年12月に権中納言を辞した後は撰歌に専念する。天福2年(1234年)6月に後堀河上皇の希望で1498首の草稿本を清書し奏覧(仮奏覧)する。後堀河上皇崩御後の同年11月に前関白・九条道家の要望で後鳥羽上皇ら承久の乱で処罰された歌人の和歌を削除し、文暦2年(1235年)3月に精撰本を道家に提出して完成した。なお、『新勅撰和歌集』への定家自身の作品の採録は15首と、『新古今和歌集』の47首と比べて大幅に少ない。さらに、このうち絢爛・華麗な新古今朝の和歌は少なく、質実な建保期以降の作品が中心となっている[21]

嘉禎元年(1235年宇都宮頼綱から嵯峨野(現在の京都市右京区嵯峨)に建てた別業(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しいとの要望を受けて、定家は天智天皇から順徳院に至るまでの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで頼綱に対して書き送る[32]。後に、これが定家が小倉山で編纂したことに因んで『小倉百人一首』という通称で呼ばれるようになった。『小倉百人一首』は勅撰集と異なりバランスを考慮する必要がなく、定家の好みの和歌を自由に選んだためか、部類分けの内では、恋(46)、秋(15)が多くを占めている[33]

仁治2年(1241年) 8月20日薨去享年80。

人物

  • 美の使徒[34]、「美の鬼[35]、「歌聖[注 3]、「日本最初の近代詩人[36]などと呼ばれることがある日本を代表する詩人の一人。美への執念は百人一首の撰歌に見られるように晩年まで衰えることがなかった。
  • 『玉葉』によると文治元年11月、少将雅行に嘲弄されたことに激怒して、脂燭(ししょく)で相手を殴り除籍となり、『古今著聞集』によると父俊成から和歌によって取りなして貰い、後鳥羽天皇から許しを得たとあるほど気性が激しく、また『後鳥羽院御口伝』によると「さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさ/\と思ひたりし上は、ましてや余人の歌沙汰にも及ばず」、「傍若無人、理(ことわり)も過ぎたりき。他人の詞(ことば)を聞くに及ばず」と実父を含む自分以外の人間の和歌を軽んじ、他人の言葉を聞き入れない強情さを指摘されている。また、どんなに後鳥羽院が褒めても、自詠の左近の桜の述懐の歌が自分では気に入らないからと、新古今に入撰することに頑強に反対するなど、身分の高下にかかわらず相手がだれであろうと自説を曲げることがなかった。順徳天皇歌壇の重鎮として用いられるも、承久二年の内裏歌会への出詠歌が後鳥羽院の勅勘を受け、謹慎を命じられた。しかし、この謹慎の間、さまざまな書物を書写した結果、多くの平安文学が後世に残ったと言える。
  • 定家の日記には、「心神不快」とか「心神迷惑」とか「心神常に違乱」といった言葉が随所に出てきており、若い頃から病弱だったことが分かる。とりわけ日記に咳病や風病が頻繁に記録されていて、いずれも風邪の症状で、呼吸器系の疾患で冬になると毎年のようにこの病に悩まされ、写経や書写を通して持病の不快感を克服していた[37]

歌風

  • 巧緻・難解、唯美主義的・夢幻的で、代表的な新古今調の歌人であるとされている。
  • 定家の和歌の性格について風巻景次郎著『新古今時代』の「『拾遺愚草』成立の考察」に要約がある。

定家は平安朝生活の伝統を多分に承け、それにふさわしく繊細な神経で夢の世界を馳せ、その天性によって唯美的な夢の文学を完成した。しかし表現せんとするものが縹渺(ひょうびょう)として遥かであるほど、それを生かすには辞句の選択、着想の考案のために心を用いることは大でなければならぬ。そして定家はそれに耐えるほどの俊敏な頭脳をもっていた。かれの歌の成功はこの頭脳の力にある。しかしまた、その失敗も頭脳のためであった。かれの歌の大半は、優艶(ゆうえん)なる夢をいかにして表現しようかと努力した理知の影を留め、その表現のために尽くした努力はその措辞(そじ)の上に歴々として現れた。かれはじつに夢の詩人で、理知の詩人で、そして言葉の詩人であった。

  • また石田吉貞は次のように言う。

「凡そ定家の歌は、どれ一つとして、官能美という眼をもたないものはない。定家の詠作の場合におけるあらゆる苦心、沈思、彷徨は、結局において一つの官能美をさがし出すことであり、その官能美によって、彼のうちにある辿りようもない、深い、もつれた、複雑なものを、爽やかな客観的世界につなごうとすることにあったと言ってよい」。(『藤原定家の研究』270頁)

「定家美(妖艶)のなかには、多くの非正常的・怪奇的なものがある。あまりに華麗幻燿にすぎて、人を誑(たぶらか)さずにはおかないこと、つよい阿片性・麻薬性があって、人を麻痺、昏酔させる毒性をもつこと、あまりにつよい性欲性・獣性があって、人を頽廃・好婬に誘わずにおかないこと、つよい幽鬼性・悪魔性があって、人を悪魔的世界に誘おうとすること、死や亡びのもつ非生命性・空無性・滅亡性等に美を感じさせ、死や亡びのなかに投身させようとする性質をもつこと等々がそれである」。(『妖艶 定家の美』56頁)

  • また谷山茂は以下のように指摘する。
「定家が恋歌を最も得意としたということは、彼を知る上で極めて重要な事実である。「定家などは智慧の力をもってつくる歌作り也」(『井蛙抄』)と自認していたというが、その智巧的態度に立って、幻想世界を縦横に描き出そうとする定家にとっては、現実にしばられ易い四季自然歌よりも、智巧(利巧)や空想(そらごと)の恣意を多分に許容される恋歌のほうが得意であったことは、全く当然のことなのである。すなわち、定家ーー少なくとも新古今撰進期における定家をして、恋歌を本領とさせたのは、その恋の体験の深さや広さではなくて、彼の智巧的超現実的な芸術至上主義の魔力的意欲であるというべきである。そういう点では、さすがの俊成も西行も家隆も俊成女(としなりのむすめ)も、遥かに遠く及ばない古今独歩の境地を極めているのである。しかも、そういう行き方が、恋歌からさらに四季自然歌にまで拡充されているのだから、全く驚くべき魔術師である。そして、新古今の歌人たちは、ほとんど例外なく、及ばぬながらにも、多かれ少なかれ、一応はこの道に追従していったのである」。(谷山茂 著作集第5巻『新古今集とその歌人』282頁)

近代秀歌』定家自筆本(「やまとうたのみち あさきにゝてふかく やすきにゝてかたし わきまえしるひと 又いくばくならず むかし つらゆき 哥の心たくみに たけをよびがたく ことばつよく すがたおもしろきさまをこのみて 余情妖艶の躰をよまず それよりこのかた その流をうくるともがら ひとへにこのすがたにおもむく、、、、」)

定家のは、父の俊成と同じく法性寺流より入ったが、強情な性格をよく表した偏癖な別の書風を成した。能書といったものではなく、一見すると稚拙なところがあるが、線はよく練れて遒勁である。江戸時代には、小堀遠州松平治郷らに大変に愛好され、彼らは、この書風を定家流と称して大流行させた。定家の書は特に近世以降、特に茶人や書家たちにあまりにももてはやされたため、偽筆も多く現代に伝わっている現状があり、だまされないために注意が必要である。

また、定家は古典文学作品の書写においては、原本に問題ありと考えれば、場合によっては校訂作業を加えることもあったが、基本的にはどんな誤りがあっても私意では訂正しない学者的慎重さを見せている[38]。なお、「定家自筆」とされる書の中には定家本人のものではなく、彼の監修の下に定家の子女や家臣などによって行われた作品が含まれているとする説もあり、議論が行われている(同様の趣旨の説は父の俊成や九条兼実など、当時の公家の書に関して広く指摘されている)[39]

政治家として

定家は藤原道長来孫(5代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の嫡流から遠く、院近臣を輩出できなかった定家の御子左流は他の御堂流庶流(中御門流花山院流)と比較して不振であった。更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は藤原顕頼葉室家)の養子となって諸国の受領を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にもかかわらず官位には恵まれなかった。

定家自身も若い頃に宮中にて、新嘗祭の最中に源雅行と乱闘したことで除籍処分を受けるなど波乱に満ち、長年近衛中将を務めながら頭中将にはなれず、50歳の時に漸く公卿に達したがそれさえも姉の九条尼が藤原兼子(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は九条家家司として仕えて摂関の側近として多くの公事の現場に立ち会って、有職故実を自己のものにしていくと共に、反九条家派の土御門通親らと政治的には激しく対立する(建久9年(1198年土御門天皇の親王宣下なしでの践祚に際し「光仁の例によるなら弓削法皇(道鏡)は誰なのか」(兼実を道鏡になぞらえるつもりか)と『明月記』建久9年正月11日条に記して憤慨している)など、政治の激動の場に身を投じた。定家が有職故実に深い知識を有していたことや政務の中心に参画することを希望していたことは『明月記』などから窺い知ることは可能である。そして、寛喜4年(1232年)正月に定家は二条定高の後任として71歳にして念願の権中納言に就任する。だが、九条道家との対立によって、同年12月に権中納言を更迭される。こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる[40]右大臣藤原実資のように政治的な要職に就くことは適わなかった[41]

また、2代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元年(1225年)7月には同じく嫡男を蔵人頭にしようとする藤原実宣と激しく争って敗れている。だが、この年の12月に実宣の子公賢の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年1月に父が自分の妻を追い出して権門の娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している[42]。その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。定家が歌道のみならず、『次将装束抄』や『釋奠次第』など公事や有職故実の書を著した背景には自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている。

作品

勅撰和歌集

家集等

秀歌集

  • 秀歌大体:後堀河院に進献。
  • 定家八代抄:八代抄、八代知顕抄、二四代集、二四代抄、黄点歌勅撰抄とも。初撰本とそれを増補した精撰本とがある。
  • 八代集秀逸:定家単独撰、または後鳥羽院、藤原家隆との共撰。
  • 百人秀歌
  • 物語二百番歌合
  • 小倉百人一首

歌学書・注釈書

  • 詠歌大概:漢文体の歌論と「秀歌躰大略」と題する秀歌例からなる。快法親王に進献したものか。
  • 衣笠内府歌難詞:藤原家良に宛てた手紙。家良の歌を批評する。
  • 近代秀歌:和歌秘々、秘々抄、定家卿和歌式とも。実朝に送った初撰本と成立不明の再撰本とで秀歌例が大きく異なる。
  • 下官集:下官抄、僻案とも。草子や和歌の書式を述べる。
  • 顕註密勘:古今秘注抄、古今和歌集抄とも。顕昭の古今集への注に定家が補注したもの。
  • 五代簡要:万物部類倭歌抄とも。
  • 三代集之間事:三代集について父俊成から伝授されたものを中心に纏める。
  • 先達物語:京極黄門談、京極中納言定家卿相語、定家卿相談とも。藤原長綱の聞書き。
  • 定家十体:定家が10に分類した歌体にそれぞれの例歌を集めたもの。
  • 定家物語:古今集や万葉集の歌に関する質問に答えたもの。
  • 僻案抄:三代集注釈書。
  • 毎月抄:定家卿消息、和歌庭訓とも。偽作説も。
  • 万葉集長歌短歌説:定家卿長歌短歌之説、長歌短歌古今相違事、万葉集長歌載短歌字由事などとも。古今集雑躰の部に「長歌」を「短歌」と題してあることにつき、万葉集の例歌や題詞をあげて論証し正したもの。
  • 明月記:毎月抄に見えるが不詳。
  • 和歌会次第:定家卿和歌書様並会次第、和歌秘抄、和歌秘書などとも。

その他

偽作

  • 雨中吟:歌学書。
  • 桐火桶:歌学書。鵜鷺系偽書の一。
  • 愚見抄:歌学書。鵜鷺系偽書の一。歌の詠みかた、定家卿詠方集とも。
  • 愚秘抄:歌学書。鵜鷺系偽書の一。
  • 三五記:歌学書。鵜鷺系偽書の一。
  • 定家卿筆諌口訣
  • 定家卿自歌合
  • 定家卿鷹三百首
  • 未来記:歌学書。
  • 小倉問答

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

藤原北家長家流(御子左家)に属し、藤原道長来孫にあたる。

子孫

定家の子孫は御子左家(嫡流は別名二条家とも)として続いたが南北朝時代から室町時代にいたる戦乱により嫡流は断絶した。御子左家の分家である冷泉家は現在も京都に於いて続いており、この系統からは4家の羽林家上冷泉家下冷泉家藤谷家入江家)を輩出したことでも知られる。

なお、嫡系子孫の歌人である二条為子二条藤子は、後醍醐天皇の妻でもあり、後醍醐との間に皇子・皇女をもうけている。為子との皇子は上将軍尊良親王と征夷大将軍宗良親王。また、藤子の子である征西大将軍懐良親王は、から日本国王に冊封された。そのため、生前は出世に苦労した定家であるが、明の視点で見れば、日本の統治者の外戚一族の始祖となる。

定家神社

群馬県高崎市下佐野町に、藤原定家を祭神として祀る定家神社(ていかじんじゃ)がある。最寄り駅は上信電鉄上信線佐野のわたし駅[48]

伝承によると、定家は源雅行との間で起こした揉め事が原因で上野国流罪となり、それが許されて京へと戻る際、自刻像と持念仏(観音菩薩像、3)を村人たちに贈った。これを神体として作ったが定家神社の始まりであるという[49][50]。また、「駒とめて…」の歌に見える「佐野」という地名にあやかり、江戸時代になって当地の文人らによって定家が祀られたともいう。定家が詠んだ「こぬ人を…」の恋歌から、恋愛成就の御利益があるとされる[48]

  • 社殿

    社殿

その他

  • 定家クラスの中級貴族が一度に工面できる金額は200で年収はその10倍の2千貫くらいという説(本郷恵子)があり(後述書 p.67)、荘園領主は1=1貫(千文)で安定させようとしていたため、これを基準とするなら、定家の年収は現代にして2億円とされる[51]。これに対し、皇族長屋王は年収4億円(1991年当時の価格。なお、長屋王と定家には500年の時代差があることにも注意)であったとされている(「長屋王#逸話」を参照)。二位になった時点で年収は1億1千万円とする試算もある[52]
  • 5つの邸宅を所有するも大邸宅ではなく、牛車も新旧合わせて2、3台所有していた[53]
  • 藤原兼子に対しては、日記において、「凶女」「権門狂女」と罵倒するほど好感が見られないが、本音とは別に二位になるためコネとしてすがった[54]
  • の演目『定家(ていか)』(古くは「定家葛」。三番目物)は、初冬に北国から来た僧が時雨の亭(ちん)に来て、式子内親王の霊と出会い、内親王が生前定家と深い契りを結ぶも、死後もその執心から定家がとなって内親王のにまとわりつき、邪淫の妄執に苦しめられていると伝えられ、僧が法華経を読むと、内親王の霊がその功徳によって葛から解き放たれ成仏できたと喜び舞うも、再び現れた葛にまといつかれて墓の中に埋もれるように消え失せるという内容となっている[55](「テイカカズラ」も参照)。

関連作品

テレビドラマ
小説

脚注

注釈

  1. 明月記にはおうし座超新星爆発が起こったこと(現在のかに星雲)に関する記述があり、天文学上でも重要な資料となっている[2]
  2. 定家と後鳥羽院との交流は正治2年(1200)秋の最初の百首歌合より始まり、歌を通じた心の通い合いがあった一方で「新古今集」成立以前より早くも定家に対して院が不快感を抱くに至る局面はあったようであり、徐々に広がっていった二人の間の心理的な疎隔は承久2年(1220)2月13日順徳天皇の内裏歌合で決定的となった。この日、亡き母の28年目の祥月命日にあたるので出席を免除願いたいという定家の申し出を後鳥羽院は却下し、三度も使を出して督促し無理やり定家を参内させた。この際に定家が詠進した歌が「春山月 さやかにもみるべき山はかすみつゝわがみの外も春のよの月」「野外柳 道のべの野原の柳下もえぬあはれなげきのけぶりくらべに」の二首であり、後者、野外柳の歌の五句「けぶりくらべ」の語が後鳥羽院の逆鱗に触れたとされる[28]
  3. 国書刊行会『藤原定家全歌集』序文に引用される霊元天皇の言葉「人麻呂貫之が亡くなりたる後には、ただ京極の黄門のみぞ。古(いにしえ)を正し今を教へ、独(ひとり)この道の聖(ひじり)なりける」
  4. 当該記事以前の記事は冷泉家時雨亭文庫所蔵の定家直筆の『公卿補任』写本・建暦元年条「藤定家」条による。国史大系本『公卿補任』と内容が異なる部分(国史大系本にある仁安2年12月30日条の紀伊守補任の記事が存在しないなど)があるものの、定家自身が記した官歴がより正確な記述と考えられている。なお、五味文彦によれば国史大系本に登場する仁安2年補任の紀伊守季光は定家のことではなく、同国の知行国主藤原光能の息子のことである(五味(2000), p. 4-5)

出典

  1. "藤原定家が古今和歌集の歌の解釈記した注釈書 原本が見つかる". NHK NEWS WEB. NHK (2024年4月18日). 2024年4月19日閲覧。normal
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    林直道「隠岐の後鳥羽院と『百人一首』の秘密」『北東アジア研究』第6巻、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2004年1月、141-151頁、CRID 1050001201682317824ISSN 1346-3810 
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参考文献

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定家自筆の影印刊行

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  • 『拾遺愚草 上・中』冷泉家時雨亭叢書第八巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. 朝日新聞社. 1993.
  • 『拾遺愚草 下・拾遺愚草員外・俊成定家詠草・古筆断簡』冷泉家時雨亭叢書第九巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. 朝日新聞社. 1995.
  • 『明月記 一~五』冷泉家時雨亭叢書第五十六~六十巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. 朝日新聞社. 1993~2003.
  • 『古今和歌集 嘉禄二年本・古今和歌集 貞応二年本』冷泉家時雨亭叢書第二巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. 朝日新聞社. 1994.
  • 『後撰和歌集 天福二年本』冷泉家時雨亭叢書第三巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. 朝日新聞社. 2004.
  • 『京都冷泉家・国宝明月記 展』図録. 五島美術館. 2004.
  • 『近代秀歌』久松潜一解説. 武蔵野書院. 1958.
  • 『藤原定家 近代秀歌』古谷稔解説. 日本名跡叢刊33・二玄社. 1979.
  • 『伊達本 古今和歌集―藤原定家筆』久曽神昇解説. 笠間書院. 1977. 新版2005.
  • 『藤原定家筆 古今和歌集』全二冊. 久曽神昇編. 汲古書院. 1992.
  • 『藤原定家筆 拾遺和歌集』全二冊. 久曽神昇編. 汲古書院. 1990.
  • 『御物 更級日記』橋本不美男解説. 笠間影印叢刊・笠間書院. 1971.
  • 『更級日記―翻刻・校注・影印』橋本不美男ほか解説. 笠間書院. 1995.
  • 『更級日記 藤原定家筆』島谷弘幸解説. 日本名筆選43・二玄社. 2004.

関連項目

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交友・関連人物

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外部リンク

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