2024年9月14日土曜日

love-history: 内藤湖南 1909年

love-history: 内藤湖南 1909年

内藤湖南 1909年

みまつひこしことのみこと

みまつひこ

いろと

そのため、記紀を充分検証することなく「国造本紀」に依拠することは、史料の扱いとして本末転倒である。

④「観松彦」という個性的な名は、第五代孝昭天皇の諱(いみな)として記紀に明瞭である。そのことを読み取ったのが内藤湖南京都大学教授であり、同博士の「徳島一瞥」を左に引用する。

 「それは日本の上古の天皇の中に孝昭天皇の御名を観松彦香殖稲尊と申し上げる。其の時分の天皇の御名は、多く其の居られた所とか…………に関係を有って居る。……此の観松彦といふ御名は余り大和の土地関係が無い。所が阿波の国には式内の古社に御間都比古神社といふのがある。栗田博士などの考へに依ると、是れは旧事紀国造本紀にある長(なか)(今の那賀郡の名に当る)の国造の元祖たる所の観松彦色止命(みまつひこしことのみこと)(色止(しこと)と読むべきか)といふを祭ったのであらうといふことであるが、兎に角日本の古史で観松彦といふ御名を有って居られる方が外にない所を見ると、孝昭天皇の御名も或は此の美馬郡若しくは御間都比古(みまつひこ)神社に関係を有って居られはしないかと考へられる。」(内藤湖南全集第十二巻・筑摩書房・明治四十二年)とされるとおり、観松彦は明瞭な御名である。

⑤御間都比古色止命から長国造と意岐国造の二氏が出ているということは、色止命は単なる地方豪族でなく、王族か中央の豪族となる。したがって天皇であったとしても矛盾はない。

⑥問題は「色止命」である孝昭天皇の表記は次のようである。

かえしね

御真津日子訶恵志泥命(古事記)

158

  上

 自分は此の夏阿波の徳島へ行った。處で此の阿波と云ふ處には多少興味を有つて居った事柄がある。それを少し許 り話して見たいが、現に朝日新聞に天豪君の「阿讃素見」が出て、真面目な方面の事は最早盡してあるから、自分は マルで突飛な方面の事だけを述べて見ようと思ふ。 

 阿波といふ國は四國の一隅にはあるが、日本の天下に關係を有ったことがある。それは武家の時代になってから、 日本で天下を争った者を出した國が凡そ六つほどある。それは北條を出した伊豆、足利を出した下野、足利の中頃か ら亂世の間に暫し中央の權力を握ったものは、周防の大内、阿波の細川、三好、其の後は尾張の織田、豊臣、三河の 德川であるが、其の中大内、細川、三好は、周り其の勢力が天下に及んで居るのでもなし、又其の年代も極めて短い。 けれども兎に角一時は中央の權力を握って居った。此の天下を取った者を出した國として、極めて阿波の國に歴史上 の興味を感ずる。又其の他阿波から出た人の中に、自分の記憶に眞先に浮ぶのは貫名海屋である。是は詩文書畫共に 堪能の人であるが、殊に書法に就ては唐時代の書法を復興した人である。日本に於て數百年來和様やら唐様やら雑然 として生じ來つて、徳川の末に及んだ時に當つて、異常の天才と又非凡の鑑賞力とを有つて居って、而して其の書法 が日本ならば弘法時代、支那ならば唐時代に復さなければならぬことを悟った。其力量も亦其の考へを實行するに足 るだけの人であった。其の力から云へば、殆ど五百年來特出の人と云っても宜い。而して其書法の正道に歸した事か らいへば、千年以來の一大時期を作ったものであつて、殊に明治時代の書法の如きは、謂はゞ貫名時代と云っても差 支ないのである。貫名以前には關東に市川米庵とか、湖とかいふものが居つて、一時を風靡したが、其の時から 既に貫名の力量は識者の間に認められて居たので、明治の時代になってから貫名の書の非常に優れて居ることを認 められるやうになった。そこで明治時代の書家としては故人になった長三洲、巌谷一六、現在の日下部鳴鶴等の人を 數へるが、是等は皆貫名時代に於ける多少の波瀾を造ったけの人であって、其の全體を通じて云へば、矢張り貫名 時代と云って差支ない位である。而して此の人の鑑賞力は、書法のみならず、其の他の藝術に就ても特別な眼識を有 して居つて、曾つて賴山陽が諸友人から詩律に關する議論を集めた時に、其の中で最も優れた議論を出したのは矢張 り此の貫名であった。又畫法の事に就ても、自分も勿論之を能くするが、其の議論の如きは最も優れて居って、浦上 春琴の論畫の詩に評をしたものがある、それ等に依って見ると、唐の王摩詰を以て水墨の畫法の祖とする事などを否 認して居る。それ等は最も特出の見識と謂つて宜いので、數百年來破天荒の議論である。阿波は斯の如き藝術家を出 した國として、大いに興味を有つて居つた。又明治の時代の人でも、亡くなった岡本韋庵翁、本田種竹君など云ふ人 を知つて居た爲に、尚一層興味を有つて居った。 

 併しながら私が阿波の國を見たのは、極めて短時日であって、徳島市すらも其一隅しか見ない位である。けれども 兎に角親しく其の土地を踏み、其の土地の色々の人に接したことなどに依って、色々突飛な考へが出て来る。それは 日本の古代史に就ても、阿波といふ國は既に明かに知れて居る。阿波の忌部といふもの元祖である天日鷲命を祭っ たといふ忌部神社があり、又忌部氏の末孫なる三木といふ姓の人もあるだらうと思ったが、尋ねる暇はなかった。この忌部神社といふものは、其の場所に就ていろいろ争ひがあって、其場所を三度も移して、今では何も忌部に關係の 無い處に置かれてあるといふ事である。それは兎に角、忌部氏の元祖があって、古代の祭祀に用ひた臓などを作るこ とを職として居ったのを見ても、其の時分から土地の豊饒であった事が察せられる。即ち麻殖[をゑ]の郡とか大麻比古[おほあさひこの]神社 といふのがあったりして、皆其の當時の名残を留めて居る。阿波縮みが其の流れを汲んだと云ふ譯でもないけれども、 兎に角吉野川といふ大きな川があって、其の沿岸には豊富な物産を有つべき運命を古代から備へて居る。併しそれが 或は今の徳島縣には却て害をして居るかも知れぬことがある。其の事は後に言はうと思ふ。 








 それからもう一つ不思議な事がある。それは日本の上古の天皇の中に孝昭天皇の御名を觀松彥香殖稻尊[みまつひこかゑしねのみこと]と申上げる。 其の時分の天皇の御名は、多く其の居られた所とか、若くは其の所から出られたといふ如きことに關係を有つて居る。 磯城津彦[しきつひこ]といふ名前を有つて居られる方は、大和の磯城[しき]の地方に關係を有つて居られ、又神武天皇の如く磐余彦[いはれひこ]といふ名を有つて居られる御方は、磐余の地方に關係を有つて居られる。さういふやうな次第であるが、此の觀松彥[みまつひこ]とい ふ御名は餘り大和の土地に關係が無い。所が阿波の國には美馬郡[みまごほり]といふのがあって、しかも其の郡ではないけれども、 阿波の國には式内の古社に御間都比古[みまつひこの]神社といふのがある。 栗田博士などの考へに依ると、是れは舊事紀國造本紀にある長[なが](今の那賀[なか]郡の名に當る)の國造の元祖たる所の觀松彥色止命[みまつひこかゑしねのみこと](色止[しこと]と讀むべきか)といふを祭ったのであら うといふことであるが、兎に角日本の古史で觀松彦[みまつひこ]といふ御名を有つて居られる方が外にない所を見ると、孝昭天皇 の御名も或は此の美馬[みま]郡若くは御間都比古[みまつひこの]神社に關係を有つて居られはしないかと考へられる是等は餘程突飛な考 へではあるけれども、若し果してさういふ事があるとすると、阿波の國が中央の政權に關係した事は、細川、三好以前に既に上古からあるとこじつけられる譯である。是等は國史家の研究を要する所であつて、我々門外漢は其の疑問 を提出するに止めて、其の結論はせずに置かうと思ふ。

 次に中頃の世になつては、源義經が屋島に居る平家を討つ爲に大阪の渡邊から船出をして、阿波の勝浦に着いた。 此が例の逆櫓の騒ぎの時である。是れ等も親しく往つて地理を見ると、餘程思ひ當る事がある。義経が渡った時は強 い東北の風が吹いて、船子が皆いやがるのを無理に押渡ったのであるが、それが此の勝浦といふ處へ着いた。丁度自 分の往つた時も、恰も東北風の強い時であったが、平常ならば徳島へ着くべき船が、徳島は港の口が悪いので入り得ずに、小松島といふ處に着いた。勝浦といふのは即ち其の附近に在るのであって、東北風の激しい時には、大阪灣か ら出る船は勝浦附近に着くのが自然の地勢であると見える。又義經が讃岐の屋島に居る平家を討つのに、兵庫から一 直線に屋島の方に向はずに、渡邊即ち今の大阪から阿波の方へ向ったといふのも一の疑問であるが、是は當時義經 には關東勢ばかりであつて、まだ熊野の水軍も部下に加はらず、阿波の國もまだ平家の勢力範圍であったから、水軍 に馴れない關東勢を以て、兵庫から直ちに屋島に向って平家の得意な海上戦争をすると、木曾義仲の部下の兵が水島 灘で敗北した様な前轍を踏む次第であるから、其の裏手なる阿波の方に上陸點を求めて、平家の氣の着かない中に安 全に上陸をすることに第一に着眼したのである。又海上の平和な時には、平家の方でも矢張り用心をして居るから、 水軍に乏しい闘東勢は阿波の海岸にでも中々上陸は出来ぬ。故に最も風波の激しい時を擇んで、極めて少數なりとも 先方の地點に上陸して、陸岸の根據地を得ることが主眼であって、あ云ふ策を取ったものと見える。又背後から屋 島へ押寄せると云ふのは、矢張り一の谷で背後から壓迫したと同じ手段で屋島の根據地を奪ったのである。併し其の 次の壇の浦の戦に至つては、既に熊野の湛増の戦艦を澤山に得、又平家方阿波の田口成良といふ者から内應する約束 をも得たので、關西の水軍を利用することの出来る見込があったから、十分に海上から壓迫して之を全滅する策を取 つたのである。此の屋島の戦ひに阿波から上陸したといふ一事を考へて見ると、義経の一の谷に於ける、若くは壇の 浦に於ける戦略をも判定することが出来る様に思ふ。

 たんぞう しげよし はい あかぬけ かいぶ  

徳島へ往つて見ると、徳島の人は頬に阿波の國の振はぬことを憤慨して居る。尤も芳川顯正といふ様な大臣をも出 して居るから、他のと比較してさう振はないとも言はれないけれども、現在の形勢では四國の中心が段々に瀬戸内 の海岸の方に向って、先づ今の所では高松などは將來發達すべき見込がある。徳島は四國第一の大市でありながら、 唯一縣の中心であるだけで、其の隣縣土佐の如きすら、其の連絡は直ちに大阪に取って、徳島には殆ど何の關係も無い。是等は振はぬと云へば振はぬのであるが、是はどう云ふ原因であるかと思つて、段々様子を見て居る中に、略ぼ 分る様な心持がした。それは徳島の市を通って見ると、シモタヤの非常に多いことを認める。 つまり多少の貯蓄があ つて懐手をして暮して居る人が割に多い。是は舊藩時代に藍などの特産物があつて、自然國が富裕であった其の餘溫 が今でも残って居る譯である。浄瑠璃などの名物であると云ふのも、詰り餘裕のあることを示して居る。又市街の建 築などを見ると、家の建て方が大阪に似て居るだらうと想像して居った所が、さうではなくして寧ろ關東風の建築と 云っても宜しい。是は其の土地の人の言ふ所に據ると、蜂須賀侯が徳川家と結婚をしたので、何事も江戸の真似をし たのが今以て残って居るといふことである。又其建築に石材、木材の非常に賛澤に使はれて居ることを認める。是等 さこやま も縣内に海部地方の如き木材の産地があり、又佐古山といふ石材の産地がある。總て斯う云ふ風に何も彼も自分の縣 で一通り備はつて居つて、極めて氣樂に出來て居る。或る村の如きは其の村の祭禮に三千圓位かけて煙火を揚げるこ とがあるさうだ。さういふ風であるから、詰り内の方で足つて居つて、餘り外に發展せねばならぬと云ふ考へが起ら ないものと見える。 

 徳島は美人系に當つて、頗る婦人が美しいといふことである。其の爲かどうか知らないが、兎に角婦人の風俗は皆 垢抜して居る様に見受ける。婦人の美しい土地は、今の日本では政治上餘り勢力のない處が多い。京阪、愛知、廣島、 新潟、秋田などの如き其の通例である。是等の色々の事が綜合されて詰り現今の振はざる徳島縣を成立たして居るの はなび ほとぼり 139 であらう。  

 次に土地の人の人相にも一種の特徴がある。自分が従來徳島縣の著しい人で知って居るのは、岡本韋庵翁、本田種 竹君、友人では藤田劍峰、喜田貞吉、鳥居龍藏などと云ふ人々であるが、考へて見ると是等の人々に通有して居る所 の相好が即ち徳島縣人の男の相好と謂つて宜い。それは顔の上の半部は外の方に多少張って居る趣をもつて居り、又 顔の下半部は内の方に窪んで居る趣を有つて居る。女の方は日が浅くて研究が出来なかった。 

 自分の見た徳島は夫れ位に過ぎないが、此の外自分が今度徳島へ行くに就ては最も肝腎な目的があつた。それは德 島中學校の附屬圖書館に在る蜂須賀家より寄託して居る所の書籍と、徳島の名儒の後裔として現在残って居る那波氏 の蔵書とである。而して概略ながら此の二つは一通り見ることを得た。蜂須賀家の寄託書は其の册數が三萬九百册餘 であつて、其の數に於ても頗る多いものであるが、其の内容に至つては一層驚くべきものであった。勿論是は其の由 來があつて、柴野栗山先生が晩年に其の蔵書を悉く蜂須賀家に譲ったのと、屋代弘賢翁が矢張り其の藏書を蜂須賀家 に譲ったのが重なる原因で、又當時の蜂須賀侯が柴野屋代二氏を相手にする程の人だけあって、随分書籍を好まれた ものと見え、此の二氏の遺書の外にも、元來の蜂須賀家の蔵書として非常に勝れたものがある。其の大體をざっと云 ふと、宋版が三部ほど、元版が三部ほど、朝鮮版もあり、日本の五山版、慶長版なども普通の者でない珍書があり、 其の他古寫本、影鈔古寫本、さういふ様なものが非常の数であって、さうして普通の本でも何か皆其の由来があり、 一節變つた本ばかりであつて、殆ど一部の俗本も無いと云っても宜い位である。書籍の数から云へば僅々三萬である が、其の全部が悉く珍書と云っても宜い位であり、其の間には栗山、弘賢兩先生の心血を注いだ跡が歷々と見えるの である。(其の一々の事に就いては何れ別に擧げる事あるべし。) 那波氏の藏書は、極めて其の小部分だけしか見ない が、其の中には朝鮮版の珍書などが種々あった。これは其の遠祖の那波活所即ち道圓といふ人から傅はつたものと思 140 目睹書譚 德島一瞥 ふ。此の那波道圓といふ人は、初め肥後の加藤氏に仕へ、後に紀州賴宣公に仕へた人であるが、此の朝鮮本の由来を 考へて見ると、或は是は加藤清正が朝鮮から齎らした本を貰って傳ったものかとも考へられる。其の多くは矢張り皆 古版であつて、文祿征韓以後と認められるものは殆ど無い。尚此の外にも徳島にはまだ蜂須賀家の留守居の處に多數 の書を藏して居るといふことであるが、それは見ることが出来なかった。要するに今まで知って居る所では、徳島に 於ける書籍は、加賀の金澤の前田家の蔵書と殆ど匹敵するものであつて、其の藏書の中の種類に就ては各一長一短は あらうが、兎に角其の奇書珍籍を蒐集して居る點に就ては決して金澤に劣るものではない。  そこで自分の見る所では、現在徳島の誇りとすべきものは此の書籍である。若しもつと之を整理して立派な圖書館 でも建てるやうなことになるならば、確に一方に雄を稱するに足るのであって、近來新しく出来る處の各府縣の圖書 館などの容易に及ぶ所ではないと思ふ。是等は自分が徳島に興味を有つて居る所の一大要件として行ったのであるが、 此の書籍の事は殊に自分が豫想したよりも遙に上であったので、大に驚歎した次第である。      

  (明治四十二年八月卅一日|九月三日 「大阪朝日新聞」)    [1909年]

 下  自分が徳島にて見たる珍籍中、先づ中學校附屬圖書館の本から、あらまし述べると、  春秋穀梁傳十二卷(二冊) これは宋の紹熈二年の板で、印刻精明、南宋板の絶好なる者である。黎庶昌の古逸叢 書は狩谷掖齋、松崎慊堂等が此の本を影寫したのを其のま刻したので、經籍訪古志にものって、古くから有名の者 である。金澤文庫の墨印及び阿波國文庫の印がある。(阿波國文庫の印は、何れの書にも皆ある譯だから、以下は省 141

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