時代と海を越える上総掘り|水の話|フジクリーン工業株式会社
千葉県君津市を歩いていると、現代には珍しくまちの所々に井戸を見かけます。これらの井戸の多くは、この地で誕生した『上総掘り』という井戸掘り技術によって掘られた自噴井です。上総とは、房総半島の古い地名で、現在の君津市や袖ケ浦市などの君津地域を指しますが、この地域は昔から上総掘りによって豊かな水に恵まれており、中でも久留里地域には今でも約200本の上総掘りの井戸があると言われています。
清澄・三石山系の山林に降った雨が天然の地層を通ることでろ過され、さらに地下水脈を通って湧き出てくる久留里の井戸水は、「平成の名水百選」に選定され、水質やその美味しさから「生きた水・久留里」と呼ばれる、まさに名水。地下400~600メートルからきれいな自然水が1年中こんこんと湧き出ています。さらに毎年地元の観光協会によって水質検査が行われ、安心安全な水であることが証明され、定期的な保全もされていることから、遠方からわざわざ足を運び、道のほとりで水を汲む人の姿も珍しくありません。
こうした水環境をつくり出した上総掘りは、君津市の小糸 川・小櫃川に沿う地域が発祥と言われていますが、いくつか の地域的要因があります。まずはこの地域の地層が砂利の 少ない掘りやすい細粒の地層であったこと、自噴する被圧 地下水が豊富だったことがあげられます。一方で、小糸川・ 小櫃川の慢性的な水不足や、耕地が川よりも高いところに あったために川の水を利用することが難しく、農民にとって は灌漑用水として、飲料水として、水の安定した確保は切実 な願いだったのです。江戸時代までの井戸掘りは人力で堅 穴を掘る『掘り井戸』、そこから地中に鉄棒を突き入れる『鉄 棒式(突抜工法、掘抜工法)』が普及しており、人手と危険が 伴うだけでなくその深さも30メートル程度が限度で十分な 農業用水が確保できませんでした。しかも工事には高額な 資金が必要なため、特定の裕福な商人だけしか掘ることが できず一般には普及していなかったそうです。そこでさまざ まな職人が徐々に改良を加え、身近な素材と人力だけで掘 削を可能にしたのが上総掘りでした。
1, 2:久留里駅周辺には、久留里観光交流センター前の水汲み広場をはじめ、徒歩圏内に一般に開放された井戸が点在しています。
3:上総高校近くの春日神社前にある『上総掘発祥地碑』。上総掘り発祥を後世に伝えようと小糸町教育委員会が1962年8月に建立しました。
上総掘りは、小櫃地域の大村安之助、小糸地域の池田久吉、池田徳蔵らが中心となって技術の改良に努め、誕生したと言われています。1882年頃に樫の棒を用いた樫棒式を考案すると、5~6人で100メートル程まで掘削できるように。さらに竹ヒゴと掘り鉄管、スイコを組み合わせた技術を考案すると一挙に掘削能力が向上し、わずか3~4人まで作業人員を減らし、人力のみで500メートルを超える掘削ができるようになりました。その後も職人たちのたび重なる改良の結果、1886年頃に上総掘りの技術体系が完成したと言われています。
上総掘りの工法を簡単に説明すると、まず足場の櫓を組み、上部にハネギを取り付けます。竹ヒゴの先に取り付けられた重量約30キログラムの鉄管を、ハネギの弾力を利用して上下させながら地底に打ちつけることで地層を砕いて穴を掘り進めます。鉄管の長さを超えて掘り進めていくには、鉄管の上方に一本が7~8メートルの竹ヒゴを継ぎ足していきます。直径4メートルほどのヒゴ車の中には人が入り、足で踏み回すこと
上総掘りによる井戸掘りの労力軽減化が、君津地域の自噴井の急速な広まりを助け、稲の増産に飛躍的な効果を発揮しました。丈夫な孟宗竹が容易に入手できる地域であり、漁業が発達していたことから桶職などの職人も多かったため、竹をヒゴに加工する技術が桶職人から井戸職人へ伝わったとも言われています。上総掘りの技術は、一人がつくり出したものではなく、多くの職人たちが実践しながら試行錯誤し、その技術革新と伝承の繰り返しによって普及していった知恵の結晶なのです。
身近な素材を巧みに利用し、細部にわたる数々の工夫によって経済的に優れた高度な技術体系を実現した上総掘りの技術は、明治後期から大正時代にかけて日本各地に伝播し、生活用水、灌漑用水用に深井戸の掘削技術の主流として応用されていきました。さらに井戸掘りだけに留まらず、油田掘りや温泉の掘削、石炭の地下埋蔵量調査にも活躍したと言われています。さらに1902年には、上総掘りについてまとめた著書『KAZUSA SYSTEM』がインドで発刊されています。これは、著者であるF・J・ノーマンが、1888年に来日し千葉県の学校で英語教師を勤める中で「上総掘り」に出会い、インドの水不足解消に貢献できる技術としてまとめたものです。今から100年以上前から、すでに「上総掘り」の名は世界に伝わっていたのです。
しかしこうして人々の暮らしを潤し、遠く海外にまで広がった上総掘りの技術は、1960年代以降のボーリング技術の発達など機械化という時代の変遷によって、次第にその役目を終えていきました。その高い技術の功績は認められ、1960年に上総掘りの用具が国の重要有形民俗文化財に、2006年には技術が重要無形民俗文化財の指定を受けています。
消滅寸前だったこの上総掘りの伝統技術は、近年、水不足に悩む東南アジアやアフリカなどの開発途上国において再び脚光を浴びることとなります。現在、NPOや日本の数少ない伝承者の実施指導によって、技術の継承が行われています。
『NPO法人上総掘りをつたえる会(以下、つたえる会)』は、1981年に当時、袖ケ浦町で町議会議員を務めていた山田吉彦さんが中心となって結成し、水不足に悩む東南アジアの人々のために上総掘りの技術を伝え、国際交流・国際協力に役立てることを目的に活動しています。フィリピン・バタンガス州の学校に、井戸掘り職人2名を派遣し現地の人々とともに井戸を掘ったのを最初に、以来30年以上にわたってフィリピンやインドネシアの学校や集落の中心地に井戸建設を続けています。
同時につたえる会では、若い世代や現地ボランティアへの井戸掘り技術の継承にも努めてきました。会の代表である高橋文代さんは「2005年にフィリピンのキロキロ小学校で井戸を掘った際、フィリピンのカウンターパートが掘削中に掘り鉄管を地中に落とすアクシデントに遭遇しましたが、しっかりと引き上げる技術を覚え対応している姿を見て、技術を"伝える"という目的は達成できたと確信しました」と話されるように、現在では現地のボランティアスタッフだけで井戸の掘削が可能になるまでになっているそうです。
さらに近年は、井戸のほかにも学校の校舎や水道、トイレの建設など、活動の領域を広げています。2011年には、セブ島アレグリア州の小学校に、水道をつくりました。島全体が岩盤でできているセブ島は機械でも井戸を掘ることが難しいため、上総掘りによる井戸ではなく、2キロも離れた湧水の源泉からパイプで水を引き蛇口をつけて、いつでも水が使えるようにしたのです。また2012年には、同じくセブ島アレグリア州の別の小学校に、水道とトイレを建設しました。この小学校のトイレは屋外にあり、雨が降ったら傘をさしてトイレまで行かなくてはいけない状態の上、子どもの数に対して圧倒的に数も足りず、流すために汲み置きしている水も少ないため、不衛生になっていました。こちらも湧水の源泉から学校まで、パイプをつなぎ手洗い場と足洗い場を完成させ、各教室にトイレをつくりました。高橋さんは「この地域の子どもは、毎日使う水を何キロも離れた湧水まで汲みに行くのが日課でしたが、水道やトイレが整ったことで、衛生面や学習環境が良くなって多くの人に喜んでいただきました」と当時を振り返ります。これらの活動は、日本水大賞※の国際貢献賞や地球倫理推進賞などを受賞しています。「最近は、学用品や衣類の提供、給食支援なども始めました。これからも"命の水"を贈ることを軸に、自分たちができることを精一杯にやっていきたいです」と熱い想いを膨らませています。
※日本水大賞とは:
安全な水、きれいな水、おいしい水にあふれる21世紀の日本と地球をめざし、水循環の健全化に貢献するさまざまな活動の中から優れた活動に 対して、日本水大賞委員会が平成10年度から毎年表彰を行っています。フジクリーンも環境関連企業としての啓発活動に対して、第10回日本水大 賞・経済産業大臣賞を受賞しています。
1:2005年キロキロ小学校につくった上総掘りの足場の前で
2:NPO法人上総掘りをつたえる会代表の高橋文代さん(写真中央)とセブ島アランガセル小学校の子どもたち
2006年に上総掘りの技術が重要無形民俗文化財の指定を受け、その技術保持団体として技術を保持、伝承する活動を行っているのが『上総掘り技術伝承研究会(鶴岡塾)』です。
上総掘り技術伝承研究会は、上総掘り職人の経歴を持つ鶴岡正幸さんのもとで、上総掘りについての歴史から道具、掘削方法まで、幅広い技術と知識を学び継承している団体です。鶴岡さんは、祖父の代から続く井戸掘り職人の3代目として17歳で家業を継ぎ、袖ケ浦市や君津市を中心に多数の井戸を掘って活躍されていました。しかし時流の中で、井戸の需要がなくなると職人を廃業し、公務員として定年まで勤められ、退職後は袖ケ浦市郷土博物館の職員として小学生や地域の方々に上総掘りを教えられていました。そうするうちに、継続的に上総掘りについて学びたいという市民学芸員のグループからの声を受けて、「鶴岡塾」を発足。その2年後に重要無形民俗文化財に指定を受けたのを契機に、団体名を『上総掘り技術伝承研究会』に改めました。
現在は、袖ケ浦市郷土博物館の敷地内に足場を設置し、掘削作業を行いながら模型や道具の制作、過去に上総掘りで掘られた井戸のメンテナンスなども行っています。また体験実習やJICAなどを通じて海外からの見学者の受け入れも積極的に行っています。「海外ではまずは水を出すことが重要なので、上総掘りの原理を役立ててもらえば、あとはどうアレンジしてもいいと思います。ただこの会では、昔の職人の技術をしっかりと伝承することを最大の目的として、私の祖父から受け継いできた技術を教えています」と鶴岡さんが語るように、"昔ながら"の職人の技術を大切に守り、後世へとつなげています。
また会員の藤代かおるさんは、上総掘りを学ぶ中で、改めて伝統技術を知ることの面白さに出会ったそうです。「道具一つをとっても、なぜこの大きさでなぜこの素材を使うのか、すべてが理にかなっていて職人が試行錯誤を繰り返して培ってきた知恵を感じます。またその地域にあったモノを使い、ほとんどが土に還る素材を使っているなど、今で言うエコな技術であることからも、残すべき技術だと痛感します」。豊富で安全な水があたり前に手に入る現代の日本では、なかなか気付きにくい新しい発見が伝統技術の中に隠れているようです。
1, 2:袖ケ浦市郷土博物館の敷地内に立てられた上総掘りの足場。上総掘りの掘削体験をすることができます。
3:2015年8月に上総掘りを体験するため来訪されたJICA筑波センターの方々と。(写真提供:上総掘り技術伝承研究会)
上総地域では、現在、紹介した以外にもさまざまな団体が上総掘りの伝承や保全に取り組んでいます。木更津、袖ケ浦、君津の3市では、2004年~2006年の3年間にわたり「上総掘りサミット」を開催し成功させるなど、小さなまちで生まれた偉大な技術をしっかりと守る人たちがいます。上総掘りの恩恵は、地域の産業の中にも息づいています。井戸水を使った花のカラー栽培は全国一の生産量を誇り、豊富で良質な水でつくられる清酒やじねんじょなどは地域の特産品として注目されています。
上総掘りは、今もなお、時代や空間を越えて生きています。かつての技術として手放すことなく、守り、活かそうとした人々のおかげで、遠く離れたアジアの地に水という贈り物が届けられました。先人たちの知恵と技術は、地域に残る大切な財産です。この大切な財産から、限られた資源への不安と多くの環境問題を抱える私たちの未来にも、新たな可能性が見つけられるかもしれません。
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