徳島市立考古資料館
- はじめに
- 縄文時代
- 弥生時代
- 古墳時代
- 律令制度
- 一宮城模型
- おわりに
はじめに
徳島市立考古博物館は、縄文時代から律令時代にかけて発掘された、たくさんの遺物を展示しています。
埋葬された時に一緒に埋められたものやゴミとして捨てられたものもありますが、今となっては、当時の人々の暮らしぶりを知るための貴重なものばかりです。
昔のモノを見ることを通して、その時代に生きていた人々の様子を想像することができました。
縄文時代
徳島に人々が住み始めたのは、縄文時代よりまだ前の旧石器時代、約2万年前ぐらいからだといわれています。
当時は氷期であり、厳しい寒さの中で生存しなければならなかった時代です。
氷河時代は温暖な時期と寒冷な時期があり、より寒冷な時期を氷期、より温暖な時期を間氷期と呼んでいます。
約1万年前、氷河時代が終わり暖かくなるとともに縄文時代が始まります。
徳島でも徳島市中心部の眉山山麓に縄文時代の三谷遺跡があり、多くの遺物が出土しています。
狩りや漁、採集を生業としていたので、当時のゴミ捨て場である貝塚からは土器・石器・骨角器・装身具・貝がらなど、生活の様子を窺うことのできるものが見つかっています。
埋葬された犬も発掘されていて、縄文時代の人たちも犬を大切に飼っていたことが分かりました。
弥生時代
弥生時代には米づくりが始まるとともに、青銅器や鉄器といった金属器の使用も始まりました。
徳島は銅鐸の多い地域で、全国の約1割、50個近くが発見されているそうです。銅鐸(どうたく)というのは青銅製の鐘のことといわれ、上側につり手(=鈕⦅ちゅう⦆といいます)と音を鳴らす振り子(=舌⦅ぜつ⦆といいます)があります。
弥生時代の人々は銅鐸を鳴らして、その音に神秘を感じていたのでしょうね。
弥生時代の土器や竪穴住居の模型があり、生活の様子を想像することのできる展示でした。
古墳時代
稲作が発達するとむらの有力者の中から地域の首長が生まれ、その埋葬のために古墳がつくられるようになりました。
全長105mで県内最大、四国で2番目の大きさの前方後円墳が徳島市にある渋野丸山古墳です。かなり大きい勢力がこの地を支配したと考えられます。
残念ながら、かなり削られていて原型をとどめてはいないようです。
ちなみに四国で一番大きいのは香川県さぬき市にある全長139mの富田茶臼山古墳です。
古墳には多くの円筒埴輪が使われていたようです。
本格的に戦争が行われた時代でもあり、戦いのための鉄の甲冑も展示されています。
律令制度
7世紀後半になると律令(りつりょう)制度が整えられ、国府(役所のこと)が置かれました。
徳島市立考古資料館のある徳島市国府町は、その名が示しているように国府の置かれていた地域です。
紙がない時代なので、役人は木に文字を書いて仕事をしています。これを木簡(もっかん)といいます。
筆と硯が文房具ということで、書き直す場合は小刀で文字を削って消していたようです。
一宮城模型
一宮城は、14世紀前半の南北朝時代に作られた山城です。小笠原氏が築城し、のちには三好氏と長曾我部氏の攻防の中心となります。
その後豊臣秀吉による四国攻めの主戦場となっていますが、長曾我部氏が降伏したことで蜂須賀氏が支配する城となりました。
やがて蜂須賀氏が徳島城を築城したことで一宮城は支城となります。
1639年の一国一城令によって、一宮城は廃城となりました。
一宮城の麓には13番札所大日寺と一宮神社があります。詳しくはこちらをご覧ください。↓↓↓
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おわりに
2万年も前から徳島に人が住んでいて、その時代・時代の暮らしの様子を実際の遺物を見ながら感じ取ることができました。
考古資料館の展示を見ながら、四国の古い歴史を思い起こし、現在やこれからの四国について考えることも大切なことだと思いました。
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