鬼無里の京|天武天皇の信濃遷都と鬼無里を京にした鬼
湖水が枯れ、諏訪族が去った後の鬼無里その地には鬼が住まふようになりました。
そんな
こんな信濃の山奥が都となる??
住む場所を奪われると恐れた鬼たちは抵抗しました。後の歴史を見ればこの地が都となることはありませんでしたが、鬼達は退治されました。
その後、この地に強力な妖術を持った鬼が現れます。
その鬼の名は
鬼無里と都の関係についてまとめます。
目次
1.一夜山の鬼|天武天皇の信濃遷都
2.白髭神社|遷都計画の鬼門に創建
3.春日神社|鬼無里の西京の意味とは?
4.賀茂神社|鬼無里の東京の意味とは?
5.内裏屋敷跡|鬼無里を京にしたのは紅葉
6.紅葉と平安京
7.まとめ
1.一夜山の鬼|天武天皇の信濃遷都
2.白髭神社|遷都計画の鬼門に創建
3.春日神社|鬼無里の西京の意味とは?
4.賀茂神社|鬼無里の東京の意味とは?
5.内裏屋敷跡|鬼無里を京にしたのは紅葉
6.紅葉と平安京
7.まとめ
1.一夜山の鬼|天武天皇の信濃遷都
『日本書記』白鳳年間の条に曰く…
天武天皇が都を飛鳥から移す計画をたて、
三野王はこの土地を見て都にふさわしいと考えたが、それを知った鬼達が都の者達に住処を奪われてなるものかと計画を阻止しようとした。鬼達は一夜の間に山を運び、かつて湖に覆われていたこの谷間を埋めてしまった。
その偉業を村の人達は「一夜山の鬼」と伝えている。
天武天皇は阿倍比羅夫を遣わして、一夜山の鬼達を退治させた。このことからこの村を
一夜山を取り除いた戸隠、虫倉、新倉の山々に囲まれた盆地は、飛鳥から遷都する藤原京や大和三山に囲まれた地域、そして次なる平城京が入る程の広さがあります。
2.白髭神社|遷都計画の鬼門に創建
天武天皇がこの地に遷都計画を企てた白鳳十三年、鬼無里に鬼門守護神として創建された神社があります。
それは導きの神・猿田彦大神を勧請した
鬼門除けといえば、平安京でも鬼門に出雲神が置かれ、出雲郷に建てられていた出雲族の祀る神社は、怨霊鎮めの御霊神社に変えられていました。この時代の出雲神はそういう役目を負わされていたのかもしれません。
神紋を見ると右巻きの三つ巴紋でした。
右巻きは陰であり、減少などを意味するそれは鬼門に当てられているのでしょうか?
そもそも、ここは鬼無里村の中心からは南西方向にあり、ここを鬼門に置くと都は大町市あたりになりそうなのですが、遷都予定だった都は松本平とも言われていました。
3.春日神社|鬼無里の西京の意味とは?
鬼無里の中心より西へ行くと
春日神社は天武天皇が遷都の地を検分するため派遣した三野王 (みぬのおう)が来村し、白鳳年間に創建した社といわれています。天児屋根命(あめのこやねのみこと)・健御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと) を祀る旧村社で、西京(にしきょう)の裾花川と天神川の合流付近の台地にあります
「現地案内板」
しかし、白鳳年間(7世紀後半)に創建されたとなると、春日神社の総本宮である春日大社(728年)よりも前というおかしなことになります。
春日大社は平城京の守護として創建されましたが、ここでの京は「平安京」を指していると思われます。鬼無里の春日神社は平安京の西区域にある春日神社を模しているのでしょう。
それがこの地が西京と言われる由縁です。その理由は鬼無里の東京まで見れば分かります。
4.加茂神社|鬼無里の東京の意味とは?
鬼無里に西京があれば
加茂神社は天武天皇が遷都の地を検分するため派遣した三野王(みぬのおう)が加茂大神宮の称を与えたといい、また勅使の館をおいたので地名を東京(ひがしきょう)といいます。貞観7年(865) 創立と伝えられる旧村社で、東京組の産土神(うぶすながみ)であり、 別雷命(わけいかずちのみこと)、御名方命(たけみなかたのみこと)・天思兼命(あめのおもいかねのみこと)を祀っています。
「現地案内板」
こちらも由緒は天武天皇の信濃遷都によるものとありました。しかし、西京の春日神社、東京の加茂神社とくれば、それはもはや平安京を思って建てたとしか考えられません。
そして、どちらにも建御名方がいることが、信濃らしさと先住の諏訪族への想いが垣間見えます。
5.内裏屋敷跡|鬼無里を京にしたのは紅葉
結局、天武天皇は都を飛鳥から信濃に移すことはありませんでした。この信濃遷都が囁かれたのは、壬申の乱による味方に信濃勢力が多かったからとも言われています。
しかし、鬼無里には「内裏」や「西京」、「東京」、「春日神社」に「賀茂神社」など、平安京を模した地名がいつくも見られます。
これらの地名や神社は平安京よりやってきた者によって付けられました。
その者こそが鬼女
彼女が住んだ場所は内裏屋敷跡として残っています。そこには鬼女紅葉の供養塔がありました。
しかし、この時点でも推測できるように、何か理由があって都を追われた高貴な身分の者だと考えられるでしょう。故に、彼女に関する伝説は悪者の「鬼女」と、善人の「貴女」の二通り伝えられています。
彼女の伝説とその真相については別記事にてまとめます。
6.紅葉と平安京
鬼無里にある松巖寺は、討伐された鬼女紅葉の守護仏地蔵尊を安置し、彼女を供養する寺として紅葉についても詳しく伝えられていました。
その中から、彼女と京との関係について抜粋します。
松巖寺縁起
当寺の起源は「紅葉の物語」に深いかかわりをもっている。平安時代冷泉天皇の安和年間、京の鎮守府将軍源経基卿の寵妃「紅葉」は不埒の廉によって、信濃国戸隠の山奥に流刑追放の身となったが、この里の猟師に助けられ、この地に住いを得た、村人は紅葉を憐れみ内裏様と呼び瑞祥な屋敷を作り尊敬し慕ったという。
紅葉はこの里を水無瀬と呼び、居館の東の方を東京、西の方を西京と称し二条、三条、五条の地名もつけ、川は加茂川といって、この山里を京の都に準えて暮した。
「現地案内板」
やはり、鬼無里に表された京とは彼女の暮らしていた平安京だったのです。
7.まとめ
日本書記に記された天武天皇の信濃遷都。その内容は山奥の鬼無里にも伝わっていました。
鬼無里に棲む鬼はその遷都計画に反対し、一夜山を築いてて対抗しましたが討伐されました。その後、信濃の遷都計画が進んだのか、鬼無里には白髭神社や春日神社、加茂神社などが信濃遷都由来で創建されています。
しかし、鬼無里に根付いた都要素は、天武期よりも後の平安京のものに似ていました。
その時代に都よりやってきた鬼が鬼無里には伝わっています。それは鬼女紅葉という強力な悪鬼でした。この鬼無里に伝わる都との関係はこの鬼女紅葉にあったのです。
その詳細は別記事にて記します。
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