言葉遊びの視点から「君が代」を解明
ヘブライ語と日本語の2か国語で歌える国歌
言葉遊びが絡む日本古謡
誰もが日本の国歌として歌ってきた「君が代」は、日本語だけでなく、西アジアの言語であるヘブライ語でも、そのままの発音で歌うことができます。しかもヘブライ語で歌う「君が代」は、日本語よりも歌詞の意味が明瞭でわかりやすくなります。そこにはユダヤ民族の信仰告白の思いが込められていたのです。
「君が代は、千代に八千代にさざれ石の巌となりて、苔のむすまで」をヘブライ語で訳すと、以下のとおりになります。
立ち上がれ! 神を讃えよ! 神の選民であるシオンの民よ。
喜べ! (神の国を相続する)残された民よ!
人類に救いが訪れ、神の預言は成就した。
全地にあまねく宣べ伝えよ。
日本古謡の「さくらさくら」も「君が代」と同様にヘブライ語に置き換えて読むことができるように、日本語とヘブライ語、どちらの言葉でも読むことができる和歌は少なくありません。ふたつの言語で読める和歌が複数存在する背景には、平安時代以降、一時期普及した枕詞や折句などの言葉遊びが絡んでいたと考えられます。
ヘブライ語の発音に日本語が当てられた和歌
ヘブライ語で読める和歌の存在については、日本語の歌にヘブライ語が当てられたのではなく、むしろ、ヘブライ語の讃歌が先に存在し、その発音に日本語が当てられるようになったと理解するのが自然です。その理由は、ヘブライ語で読むと、原語の意味が強い宗教観に溢れるものが多く、テーマも一貫しているだけでなく、文章もわかりやすく整っていることが挙げられます。それに比べ、ヘブライ語で読める和歌を日本語のまま読むと、それらの多くは一見、表現は滑らかなようであっても、言い回しや言葉の選択などが不自然に感じられる箇所が散見されます。
平安時代、和歌をたしなんでいた当時の知識階級層の人々にとっては、そのような表現が自然であり、現代の日本語とは違った感覚で言葉が用いられていたのでは、という議論も考えられなくはありませんが、ぎこちない言葉の使いまわしが多いことに変わりありません。それ故、ヘブライ語の原文がまず存在し、それに当てて、日本語で意味合いを持つ言葉の漢字を並べながら文面を創作し、一つの歌の流れを作ったのではないかと考えられるのです。
ヘブライ讃歌を末永く残し口ずさんでもらうために
「君が代」が2か国語で歌えるということは、折句のような二重の意味が歌詞に含まれているということです。折句の主旨とは簡単には公表したくない、本音のメッセージを歌の中に折り込んで隠すことですから、表面上の歌詞よりもむしろ、その根底に潜むメッセージこそ、本来、作者が意図した大事な思いが込められているのではないでしょうか。
母国の西アジアとはまったく異なる日本列島という新天地では、言語の違いもさることながら、ヘブライ讃歌の歌詞とその意味は容易く普及できるような内容ではなかったはずです。特に大衆レベルにおいては、古代イスラエル人の間で伝承されてきた聖書の教理に基づく本来の教えなどは、理解し難い内容であったことでしょう。それ故、無理矢理に説法をするよりも、もっと自然な形で、信仰にまつわる教理をより多くの人に伝える方法が模索されたのではないでしょうか。その結果、大切なヘブライ讃歌を末永く残し、多くの人に口ずさんでもらうためにも、ヘブライ語の発音にあてた日本語を歌の形にし、誰が読んでも美しい日本語の和歌と思えるまでの遜色ないレベルに仕立て上げたと考えられるのです。
「枕詞」「折り句」の手法を用いた「君が代」
「君が代」に含まれている二重の意味についての理解を深めるために、まず、枕詞について考えてみましょう。枕詞とは、特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添えたりする和歌の修辞法であり、通常は5音の言葉を用います。万葉集にも多用されている枕詞は言葉の遊びとして、古くは平安時代から活用されました。「君が代」の出足の言葉には、「きみがよは」と「わがきみは」、という2種類の5音が存在するのも、枕詞の影響と考えられます。
枕詞という言葉自体、ヘブライ語のמקור(makor、マコー) とכתוב(katuv、カトゥブ) が組み合わさった「マコーカトゥブ」がその語源と考えられます。前者は「源」「ルーツ」を意味し、ユダヤ教の聖なる文献をも指します。後者は「文書」を意味することから、「マコーカトゥブ」の元来の意味は「原文書」「聖なる文献」であり、それが多少訛って日本語の「マクラコトバ」になったと考えられます。
ヘブライ語で読む「君が代は」は、「立ち上がって神を誉め称えよ!」という意味を持っていましたが、それをそのまま「君が代は」と読むのではなく、同じ意味をもつ「我が君は」に差し替えるという言葉遊びの手法をもって、誰もが理解し易い内容の歌詞に置き換えた可能性も見えてきます。二重の意味をもつ歌でありながら、しかも時には言い回しを変えながら、日本語を巧みに操った結果とも言えるでしょう。
また、枕詞と同じ平安時代まで遡る折句は、別の意味の言葉を文章や歌に織り込む言葉遊びの一種として普及しました。これらの枕詞と折句というふたつの手法を用いて、一見して日本語であっても、日本語の意味とは異なる主旨の信仰告白がヘブライ語で巧みに盛り込まれたハイブリッド型の和歌が「君が代」です。
言葉遊びが盛り込まれた「万葉集」や「古今和歌集」
こうして、ヘブライ語の読みが折句として隠ぺいする歌の流れが出来上がり、その結果、日本語の歌の背後に、もう一つのまったく別の意味を持つヘブライ語の文脈が存在する和歌が平安時代に普及し始めたようです。それが言葉遊びの発端ではないかと推測されます。それは単に頭文字の遊びに終わらず、へブライ語の文章がそっくり折句として和歌全体に込められるという大胆な試みでもありました。
そのような日本語、ヘブライ語、どちらでも読むことができる和歌は、万葉集や古今和歌集など、多岐の文献にわたり散見されます。しかしながら、古代日本社会におけるヘブライ語の存在感は歴史の流れとともに薄れていき、その本来の意味は、次第に見失われていくことになります。
語学に精通していた渡来人
折句を駆使して、和歌に二重の言語を取り入れるという歌詞を創作するには、日本語とヘブライ語の発音を自由に使いこなすだけでなく、漢字を主体とした中国語も読み書きできるという、すなわち言語学に精通している立役者が存在したことでしょう。古代の日本社会において学者の大半は渡来人の家系であったと考えられ、中にはイスラエル系の学者も存在したと推測されます。また、中国大陸で高度な教育をうけた文人も少なからず存在し、当時の知識層は日本語に加えて中国語の勉学に励みながらも、ヘブライ語を理解することもできたようです。
「君が代」の立役者は空海か?
その立役者の筆頭候補として、「君が代」の立案に一番貢献した可能性が高い人物が、弘法大師、空海です。大師は遣唐使として中国に渡った際、ネストリウス派のキリスト教を学びました。語学の才能に長けていた大師ゆえ、旧約聖書を原語のヘブライ語で読むために相当勉強されたはずです。日本語とヘブライ語を自由自在に使いこなすことができたからこそ、「君が代」のように実はヘブライ語で書かれた歌であっても、同じ発音を用いて日本語でも読み通すことができる和歌を考案することができたのではないでしょうか。
2か国の言語を用いて、それぞれが違う意味を持つ和歌が創作された可能性が見えてきました。こうして民族の宗教観に基づく力強い信仰のメッセージがふんだんに盛り込まれた元来のヘブライ讃歌は、何ら遜色のない美しい日本の和歌として、何世紀にもわたり温存されることになったのです。その結果、日本人は遠い昔から今に至るまで、その本来の意味を知らぬまま、日本語の歌と思ってヘブライ讃歌を歌い続けてきたのです。それこそ、折句が持つ究極の目的だったと言えます。
ヘブライ語と日本語の見事なコラボレーション
新約聖書のヨハネ書に、「初めに言葉があり…言葉(ロゴス)は神であった」とあります。聖書を学んだ空海の心の中には、いつしか聖書の言葉のとおり、「言葉」「ロゴス」が神であるという認識が芽生えたのではないでしょうか。そして最終的に「ロゴス」と呼ばれる言葉そのものに神の本質を見出す鍵があることを信ずるに至り、自らの信仰生活の母体も「真言」と呼ぶようになったと想定されます。
言葉そのものが大切であることから、空海はいかにして、日本という土壌でロゴスの信仰を布教するかを模索する最中、日本語そのものを神の民の証のツールとして用いることを考えついたのではないでしょうか。つまり、日本人なら誰しも日々語り、使う必要のある日本語そのものに、神と信仰に関連するヘブライルーツの言葉を折句のように埋め込むことにしたのです。日本語の内に神の民の言葉、ヘブライ語を内在させることにより、多くの人々がそこに秘められているヘブライルーツのメッセージを、例えその意味を理解できずとも、日本語として口ずさみ使っているうちに、いつかその本来の意味が紐解けてくることを願ったのです。
その結果、日本語というオブラートに包まれた和歌は、表立った日本語の意味とはまったく違う意味をもつヘブライ語にもなっていることを知られないままに、多くの人々が口ずさむようになり、日本語の和歌として覚えられるようになったと考えられます。こうして弘法大師を筆頭とするヘブライ語に精通する言語学者の英知により、ふたつの言語の見事なコラボレーションが古代、実現しました。それは和歌を口ずさむだけで、神を讃美することに直結するという夢が現実となった証だったのです。
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