2024年3月1日金曜日

尾張古論10 伊福部考(9)   伊香色謎命の生涯 | 女神物語 ー弥生神代の考察ー

尾張古論10 伊福部考(9)   伊香色謎命の生涯 | 女神物語 ー弥生神代の考察ー

尾張古論10 伊福部考(9)   伊香色謎命の生涯

             前報1伊香色雄命をめぐる系譜
  本報2伊香色謎命の生涯
      (1)  姉・伊香色謎命は、孝元・開化期に生き、崇神天皇を生む
         <1> 伊香色謎命は孝元天皇妃となる
         <2> 伊香色謎命は従弟・開化天皇の皇后となる
      (2) 伊香色謎命の婚姻のカタチ:「庶母婚」と「従姉弟婚」
         <1> 庶母婚
         <2> 神代・古代の近親間婚姻のカタチ(名称と事例)
      (3) 伊香色謎命の立后が「丹波・竹野郡の分立」をもたらした悲話(推測)
         <1> 丹波国に竹野郡の分立とその屯倉化
         <2> 「天孫本紀」には竹野媛は登場せず
         <3> 他の史料は「竹野媛」を明記する
         <4> 伊香色謎命立后と先妃・竹野媛の悲話
      (4)  矢田八幡神社の祭神(武諸隅命、配祀:孝元天皇 内色姫命)
  次報3伊香色雄命の活躍した崇神朝の出来事
            4伊香色雄命の活躍伝承
      5新撰姓氏録に見る伊香色雄命の裔

  伊香色雄命は、開化天皇・崇神天皇・垂仁天皇の三代にわたって生きた可能性があります。その内、開化朝はその少年期~青年期、崇神朝は青年期から成人期だったでしょう。

 垂仁朝では、伊香色雄命の子らの活躍が知られますが、もはや、伊香色雄命本人の垂仁朝での活躍は史料上で認められませんので、崇神朝が伊香色雄命の活躍期(青年期から成人期)だと思われます。

2 伊香色謎命の生涯

(1)  姉・伊香色謎命は、孝元・開化期に生き、崇神天皇を生む

<1> 伊香色謎命は孝元天皇妃となる
 伊香色雄命の姉・伊香色謎命は、孝元天皇妃となり、第一皇子・彦太忍信命を生みます。

   「古事記」によれば、彦太忍信命は成人すると、木国造・宇豆比古の妹・山下影日売を娶って建内宿禰を生むとしています。建内宿禰の父だと云うのです。

 更に、別に、彦太忍信命は葛城之高千那毘売(尾張連等の祖・意富那毘の妹)との間に味師内宿禰(甘美内宿禰、山代の内臣の祖)を生んだ、とも記します。 
   注 建内宿禰は、後に「諸豪族の祖」と云われるエポックを画する、伝説上の人物説があり、幻の様な人物で、

              味師内宿禰との葛藤も伝えられています。ここでは深入りできません。

<2> 伊香色謎命は従弟・開化天皇の皇后となる
 開化天皇は、父・孝元天皇が崩御した同じ年の11月に即位し、翌年、春日の率川宮に都を移します。
 そして、即位7年(父・孝元天皇の崩御7年後)、開化天皇は父帝の皇妃・伊香色謎命を皇后に立てる一大決意をします。それは実行に移され、伊香色謎命は御間城入彦五十瓊殖尊(崇神天皇)と皇女:御真津比売命とを生みます。

 父・孝元天皇の皇后・鬱色謎命は開化天皇の母であり、鬱色雄命は皇后・鬱色謎命の兄にして伊香色謎命の父なのですから、開化天皇と伊香色謎命とは従兄姉関係にあります。

 伊香色謎命が、生んだ御間城入彦五十瓊殖尊は後に崇神天皇として即位すると、母・伊香色謎命を皇太后として敬い、その次の垂仁天皇の時は太皇太后を追贈します。
 と云うことは、垂仁天皇の即位の時、伊香色謎命は既に亡くなられていた事を意味します。

(2) 伊香色謎命の婚姻のカタチ:「庶母婚」と「従姉弟婚」

 伊香色謎命はよほど魅力的な女性だったのでしょう。二人の父子の天皇に娶られたのです。
 伊香色謎命の婚姻は「従姉弟婚」(孝元天皇を巡って)、且つ、「庶母婚」(開化天皇を巡って)と云う稀なカタチです。

<1> 庶母婚
 伊香色謎命は、孝元天皇妃となり、しかも、孝元天皇が皇后・鬱色謎命との間に生んだ開化天皇の皇后にもなったので、「古事記」は態々「庶母」を伊香色謎命の名前の前に付けて、「庶母・伊迦賀色許売命を娶り」と記しています。

 その婚姻は「従姉弟婚」(開化天皇は叔母・欝色謎命の子で伊香色謎命の従弟に当たるから)、且つ、「庶母婚」(欝色謎命は孝元天皇皇后で、開化天皇の実母ですが、父・孝元天皇の皇妃だった伊香色謎命は開化天皇からみて庶母に当たる)と云う稀なカタチの婚姻であり、崇神天皇は開化天皇から見て庶母に当たる伊香色謎命の御子として生まれたのです。

 この「庶母婚」は、今日の日本社会では存在しないと思われますが、古代社会ではあったのです。しかも様々な波紋を生じたことでしょう。

  「庶母婚」の習俗は高句麗王族・女真族など、扶余族系の北方農牧社会に観察されていますが、それが古代日本の婚姻習俗に繋がっているのでしょうか。これは、天孫降臨は大陸からの人々の渡来を神話化したとの見方に通じます。

<2> 神代・古代の近親間婚姻のカタチ(名称と事例)

 いずれ、機会を得て、古代の結婚様式を考察したいと思いますが、取り敢えずの「古代の近親婚のカタチ(名称と事例)」をここに記し残しましょう。今後は、事例の積み上げを図ります。

  参考表               神代・古代の近親間婚姻のカタチ(名称と事例)
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  ◆近親間婚姻のカタチと名称・事例
    ・叔母・姪一括婚:叔母と姪が共に一人の男性の妻となるのを「叔母・姪一括婚」(当ブログ命名)と呼ぶ。
             事例  孝元天皇は、叔母・姪の関係にある鬱色謎命・伊香色謎命を娶った。
    ・従兄妹婚 :  事例  伊香色謎命と開化天皇との通婚は「従兄妹婚」のカタチです。
    ・叔父・姪婚:  事例   日本足彦国押人尊(後の孝安天皇)は兄・天足彦国押人命の女・押媛を娶る。
                            事例   崇神天皇と姪・御間城姫命との結婚は「叔父・姪婚」です。これは多数例あり。
       ・叔母・甥婚:    事例  フキアエズは叔母・玉依姫と結婚し、神武天皇ら5人の御子を生む。
       ・庶母婚:自分の庶母(父親の妾で、自分の生母とは異なる)を妻とする婚姻を云う。
                      事例1  伊香色謎命は叔母・欝色謎命が皇后となった孝元天皇の皇妃として娶られると共に、
                          孝元天皇の崩御後、孝元天皇と欝色謎命との皇子・開化天皇の皇后として娶られた。
                          開化天皇からすると、伊香色謎命は庶母に当たる。
                          事例2 用明天皇没後、第一皇子・田目皇子は庶母(用明天皇后)・穴穂部間人皇女を娶り、

                                          佐富女王を生む。
       ・姉妹一括婚:    事例1  伊香色雄命は、山代県主の祖・長溝の娘・三姉妹(真木姫・荒姫・玉手姫)を妻・妾と

                                          して娶る。
                           事例2 孝霊天皇は紐某姉・紐某弟の二姉妹を娶ります。
             事例3 景行天皇は播磨稲日大郎姫とその妹を娶ります。
               事例4 垂仁天皇は、丹波道主王の五女(日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛)を

              一括娶る。
             事例5 応神天皇は、品陀真若王(五百城入彦皇子の御子)の三女(后・仲姫命、高城入姫命、弟

                                         姫命)を娶る。
     ・同父異母兄弟姉妹間の婚姻
             事例1 天火明命の第一妃・天道日女の男・天香語山命と天火明命の第二妃・市杵嶋姫命の女

                                        ・穂屋姫命との結婚により天村雲命を生む。
             事例2 天村雲命の第一妃・阿俾良依姫命の男・天忍人命と天村雲命の第二妃・伊加里姫の女

                                        ・角屋姫(葛木出石姫)との結婚により天忍男命を生む。
               事例3 敏達天皇と推古天皇(異母妹)
             事例4 用明天皇と穴穂部間人皇女(異母妹)
  ◇ その他の婚姻形式
    ・レビラト婚:夫が死亡すると、未亡人は夫の兄弟と結婚する慣習で、女真(満州族)の古習で、普通に行われて

                            いたと云う。
            ・戯曲ハムレット:ハムレットの父王が死ぬと、王弟クローディアスが即位し、ハムレットの母で

                                                    ある先王妃ガートルードと再婚する。
    ・ソロレート婚:妻が死亡すると、その姉妹が残された寡夫と結婚する慣習

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      ・ネット上の参考文献:「神々の結婚ー異世代婚と二分組織」布村一夫  民俗学研究24/3 1960.9

(3) 伊香色謎命の立后が「丹波・竹野郡の分立」をもたらした話(推測)
 ここに、「庶母婚・従兄妹婚」の伊香色謎命の立后が「丹波・竹野郡の分立」をもたらしたとする裏話(シナリオ仮説)を提出し、古代史の秘められた一幕を明かしたいと思います。
 お読みの皆さんには、このシナリオ仮説(推測)の真偽をご検討の上、ご批判下さるようお願いします。

<1>  丹波国に竹野郡の分立とその屯倉化
 開化天皇は、伊香色謎命を皇后に迎える以前(多分、即位前)に、「丹波の竹野媛」を皇妃に迎え、第一皇子・彦湯産隅命を生んでいます。(日本書紀・古事記)

  ところが、父・孝元天皇が崩御されると、開化天皇は父の皇妃・伊香色謎命を皇后に迎えると云い出し、実際に、伊香色謎命の立后は成るのです。

 そして、即位6年、開化天皇は父・孝元天皇の皇妃(側室)だった伊香色謎命を皇后に迎え、御間城尊(後の崇神天皇)ら三子を得ます。(日本書紀)

  当ブログでは、先に、この「竹野郡分立、屯倉化」の理由は、第一皇子・彦湯産隅命の誕生を喜び、竹野媛への褒賞として与えられた、と見ました。

 だが、経緯はそれほど単純なものではなかっただろう、と気付いたのです。

                                参照  丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須 2019年10月20日

  上記の「竹野郡分立、屯倉化」はこの時の事だったのではないか、と推測します。
  ここへ来て、開化天皇が伊香色謎命を皇后に迎えた「話」と「丹波・竹野郡の分立」し管理者・竹野別を建諸隅命に委嘱した「話」とは無縁ではないと判断し、ここで修正したいと思います。

  この尾張系の先妃・竹野媛に配慮して、開化天皇は、態々、丹波に竹野郡を分立させ、竹野媛妃の屯倉とし、その父・建諸隅命にその管理を委ね、建諸隅に「竹野別」の称号を与えます。.(勘注系図)

                                      <2> 「天孫本紀」には竹野媛は登場せず
  おかしな事に、「天孫本紀」には竹野媛は登場せず、「竹野郡の分立」話もないのです。
 「天孫本紀」(天璽瑞宝氏mononobe.webcrow.jp/index.html)の該当部分は「竹野媛」は見当たりません。次の如くです。
   六世孫・建田背命。        [神服連、海部直、丹波国造、但馬国造らの祖]
       次に建宇那比命。  この命は、城嶋連の祖の節名草姫を妻として、二男一女をお生みになった。
       次に建多乎利命。   [笛吹連、若犬甘連らの祖]
       次に建弥阿久良命。  [高屋大分国造らの祖]
       次に建麻利尼命。   [石作連、桑内連、山辺県主らの祖]
       次に建手和迩命    [身人部連らの祖]
       妹に宇那比姫命。
     七世孫・建諸偶命。この命は、腋上池心宮で天下を治められた孝昭天皇の御世に、大臣となってお仕えした。

                     葛木直の祖の大諸見足尼の娘の諸見己姫を妻に一男をお生みになった。
         妹・大海姫命[亦名は葛木高名姫命]。この命は、磯城瑞垣宮で天下を治められた崇神天皇の皇妃となり、

                     一男二女をお生みになった。八坂入彦命、次に渟中城入姫命、次に十市瓊入姫命がこれである。
   八世孫・倭得玉彦命[亦名は市大稲日命と云う]。

                     この命は、淡海国の谷上刀婢を妻として、一男をお生みになった。

       伊我臣の祖・大伊賀彦の娘の大伊賀姫を妻に四男をお生みになった。
 
<3> 他の史料は「竹野媛」を明記する
  これに引き換え、他の史料は「竹野媛」を次の如く明記します。
       日本書紀・開化天皇段:6年春1月、伊香色謎命を立てて皇后とした。后は御間城入彦五十瓊殖(崇神)天皇を生

                                                        まれた。

                   これより先、天皇は丹波竹野媛を妃とされ、彦湯産隅命を産まれた。

    古事記・開化天皇段:この天皇、丹波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶り、生みませる御子、比古由

                                       牟須美命。
   勘注系図:⑪建田勢命(六世孫)笠津彦命之子 一本云、小登與命 一云建登米之子 亦名大諸過命云云
                亦名高天彦命 亦名大宇那比命 母笠津姫命也、大日本根子彦太瓊【孝霊】天皇御宇、於丹波國

                          丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、故亦云山背直等祖也、后更復移坐于大和國、

                          而娶葛木高田姫命、生建 諸隅命(一云、次生和多津見命)矣、
          ⑫建諸隅命(七世孫)亦云、建日潟命 亦名彦由麻須命亦云 建日方命 一云、丹波縣主由碁理命

                       母葛木高田姫也、稚日本根子彦大日日天皇【開化】御宇於丹波國割丹波郡與余社郡、被置竹野姫之

                         屯倉、于時此命奉仕、故亦名曰竹野別、后爲郡名矣、此命娶大諸見足尼女諸見己姫、生日本得魂命、

                         次生 大倭姫命(一云、次生依網吾彦男垂見宿禰)矣、

    「天孫本紀」(物部氏史料)では竹野媛は完全に抹消されています。
   他の史料からすると、竹野媛は建諸隅命(七世孫)の女であり、且つ、倭得玉彦命(八世孫)の姉妹の筈ですが、「天孫本紀」はそれを隠しているのです。

 「勘注系図」は丹波(原尾張)・海部直系の史料ですから、これを隠す筈はありません。
  「日本書紀」も「古事記」も、この部分の編集に際して、「勘注系図」乃至同類の史料を参照したと推定するのが妥当でしょう。

<4>  伊香色謎命立后と先妃・竹野媛の悲話
  ここで、先妃・竹野媛が第一皇子・彦湯産隅命を産んだ後に、伊香色謎命立后の話が持ち上がった時に話を元に戻します。

 「丹波の竹野媛」は、開化天皇が伊香色謎命を皇后に迎えると、その境遇は一変します。
 宮中では大騒ぎが起こったでしょう。何しろ、「庶母」を皇后に迎える事態に、母皇太后・鬱色謎命は勿論のこと、先妃・丹波の竹野媛とその一族は驚愕し激怒したことでしょう。

  当時は未だに原・尾張氏と物部氏が完全には分化していなかった、と思われます。原・尾張氏とは丹波竹野媛一族です。物部氏とは鬱色謎命・伊香色謎命を出した一族です。

 そこで、開化天皇は、物部系の伊香色謎命を皇后に迎えたいとして、これを断固として実行したのですが、その代わりに、「丹波の竹野媛」とその父・建諸隅(七世孫)に「竹野郡の分立」で償いをした、と思われるのです。

 極端な場合、竹野媛は泣き崩れながら故郷に帰ったかも知れません。
 それでも、開化天皇は、伊香色謎命から見れば叔母に当たる鬱色謎命を母としながら、従妹であり、且つ、庶母でも伊香色謎命を皇后に迎える決意は変わらなかったのです。

 複数の女性を娶る習わしがあった古代でも、女性の心の綾アヤは複雑でしょう。
 今、話中の二女性は、共に饒速日命裔で、丹波の竹野媛は尾張八世孫、伊香色謎命は物部六世孫、のほぼ同年代人で、お互い知らない仲ではないのです。

 月並みな表現を使えば、ライバル意識は燃え上がったことでしょう。まして、その根底には美醜・人柄が問われていたかも知れないし、皇后・妃の地位を巡る確執も想定できるのです。

    「竹野媛」については、「日本書紀」の垂仁天皇紀に次のような話が記されています。
  すなわち、丹波の日葉酢媛と三姉妹は垂仁天皇の后妃に迎えられたが、もう一人の竹野媛は、不器量だったので独り親元に帰されることとなり、その帰路、葛野弟国(乙訓)で自死した、と云う話が遺っているのです。

 この開化朝と垂仁朝の「二人の竹野媛」話は、確かに、二朝にわたり大きく分かれて記載されているのですが、この話には天皇の御代をワザ(意図的に)と違えて、真実を歪めながらも「竹野媛悲話」を分割して伝承しようとした操作があると穿ち読みします。

  「古事記」も「勘注系図」も丹波の竹野媛について言及しているのに、「天孫本紀」は竹野媛について一切言及がありません。

 これは「謎」と云うよりは、「天孫本紀」が物部氏中心に編纂されているため、物部氏に好ましくない「竹野媛」事件は、編集に当たり、削除したものと思われます。

 以上は孝元・開化・崇神・垂仁の四朝に跨がる「尾張・物部の女性たちの入内」に関する推定悲話です。

 皆様はどうご覧になるでしょうか。

(4) 矢田八幡神社の祭神(武諸隅命、配祀:孝元天皇 内色姫命)の「謎」

 丹波竹野媛の故郷は京丹後市久美浜町(古丹波熊野郡)だと推定されています。
  竹野郡の分立後、そこには竹野神社ができ、その斎宮神社に竹野媛が祀られていますが、竹野媛の本来の故郷は熊野郡(現・久美浜町)には竹野媛の祭祀社は見当たりません。

 原・尾張氏の重鎮・建田背命(六世孫)も武諸隅命(七世孫)も、確かに久美浜町に祭神として鎮座しています。
    ・矢田神社(京丹後市久美浜町海士)
             祭神:建田背命、配祀:和田津見命 武諸隅命  
         由緒:垂仁朝、河上摩須が勧請
       熊野郡誌:海士の地は往古神服連海部直を居住地にして、館跡を六宮廻ロクノマワリといふ。海部直は

                             丹後國造但馬國造の祖にして、「扶桑略記」にも丹波國熊野郡川上庄海部里を國府と爲す、

                             とあり。されば、海部直の祖・建田背命及其御子武諸隅命、和田津見命を斎祀れるも深き由緒

                             の存ずる所。

  だが、久美浜町には竹野媛(八世孫)を祀る神社は見当たりません。
  これが第二の「謎」の始まりなのです。
                      参照:依網氏論7 建豊波豆羅和気王・竹野別の謎解けずも一条の光 2019年10月13日
                             丹波古史1 建田背命・建諸隅命・川上麻須                         2019年10月20日


  竹野媛は竹野郡の斎宮神社に祀られ、その故郷・熊野郡には祀られず、です。

   勿論、竹野姫が生んだとされる第一皇子・彦由牟須美命も祀られておらず、竹野媛が生まなかった二皇子が斎宮神社に混ぜられて祀られているのです。この祭祀のカタチは異常です。
          ・竹野神社 (京丹後市丹後町宮宮ノ谷、式内大社 丹後國竹野郡)  祭神:天照皇大神、
        ・斎宮神社(竹野神社境内) 祭神:竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命
                                           参照 依網氏論5 建豊波豆羅和気王の謎 2019年09月30日


  その代わりに、熊野郡には「矢田八幡神社」が鎮座し、その古祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后・内色姫命だ、と云うのです。これが第二の「謎」なのです。
              ・矢田八幡神社(京丹後市久美浜町佐野)式内社 丹後國熊野郡 矢田神社
                  祭神:應神天皇 神功皇后 武諸隅命、配祀:孝元天皇 内色姫命 
                  社伝:崇神天皇十年、四道将軍の一人丹波道主命が勅命により山陰地方平定のため丹後国に至って

                                 比治の真名井に館を構えられ、平定祈願のため、矢田部の部民(物部)に祖神を祭らしめられ

                                 たのが当社の起源。

                      ・元の祭神は饒速日命、孝元天皇、皇后の内色姫命であったが、奈良朝の物部氏と蘇我氏の争

                                 いによって物部氏が滅亡し、矢田部一族は蘇我氏の探索を恐れて、宇佐八幡を勧請して矢田

                                 八幡と改めたと云う。                                               「式内社調査報告」矢田八幡神社

  開化天皇とその皇妃・竹野媛を祀るならば、至極当たり前に思えます。

    それは謎ではありません。

  しかし、この地に竹野媛を祀る社は知られず、それに引き換え、「孝元天皇とその奥后・内色姫命」が祀られているのです。これが第二の「謎」なのです。
  ここに竹野媛の一世代前の「孝元天皇とその皇后・内色謎命(内色姫命)」が祀られている、その理由が判らないのです。

   この丹波国に、図らずも、原・尾張の女人・竹野媛、物部の女人・内色謎命と伊香色謎命と三人の女性が、欠史時代の二天皇の后妃として、異なる伝承に交差して顕れ記されているのです。

   古代史に多々ある謎に戸惑い、やや脱線しましたが、やがてこの謎が解けることを期待します。

 今は、二つの「謎」が「竹野郡の分立」話に絡んで浮かび上がってきた事を確認して、次に進み

ましょう。

 

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