神聖視された「勾玉」の実態 人々がその貴重さに魅せられたわけ
古くから続いてきた、神を祀る文化。
日本人はいかにして神祭りを行い、大切にしてきたのだろうか。
古代にさかのぼり、「祭祀」の発祥に迫る本連載。
最終回となる4回目は、古代の人々が愛した装身具「勾玉」を取り上げる。
勾玉の貴重さを生んだのは古代の人々が愛した「翡翠」
現代の人々がアクセサリを好むように、古代の人々もまた、装身具として工芸品を用いた。その代表格が「勾玉」である。
アルファベットのCに似た形をし、先端に穴を開けて紐を通す。ペンダントのように使われたと考えられる。勾玉の中には、今のダイヤモンドや金のアクセサリと同様、非常に貴重なものもあった。皇位の象徴として知られる「三種の神器」にも、剣・鏡とともに「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」がある。
では、どんな勾玉が高い価値とされたのか。國學院大學博物館の深澤太郎准教授は「原料が価値を大きく左右した」と言う。
「当時、特に貴重だったのは翡翠の勾玉です。産地が限られて希少な上、硬度が高く整形が難しい。だからこそ貴重であり、祭祀の捧げ物や死者の副葬品に用いられたのです。[魏志倭人伝]にも、倭国(日本)の献上品の一つに翡翠の勾玉があったと推測できる記述があります」
それにしても、なぜ勾玉はあの形になったのか。ルーツは諸説あり、はっきりとは分かっていない。ただし、深澤氏は「縄文後期には勾玉に近い牙の形をした翡翠の加工品が作製され、やはり穴を開けてペンダントのように使った形跡がある」とのこと。そうして、弥生時代には勾玉が出てきたという。
古墳時代の前期になると、緑の碧玉を使った勾玉も増えてきた。翡翠の代用品と考えられる。さらに軟質の滑石で勾玉の形を模した祭具も現れたという。
赤や透明の勾玉も流行背景に社会と価値観の変化
5世紀には、赤いメノウや透明の水晶による勾玉も好まれるようになった。その変化の背景について、「当時は、倭国と朝鮮半島の交流が活発化した時期。金属製品など、新しい文化・技術が入る中で、日本人の色彩感覚が変化したのかもしれません。帯金具(おびかなぐ)のほか金製品や鍍金(メッキ)された品物が増え、それに合う色の勾玉を好んだ可能性もあります」と推察するのは、國學院大學 神道文化学部の笹生衛教授(國學院大學博物館長)だ。
一方で、勾玉の普及とともに、原料となる石の産地も存在感を増した。例えば出雲地方。島根県松江市の花仙山は碧玉やメノウの採掘地であり、採掘の跡や勾玉の工房跡が多数見つかっている。近隣の玉作湯神社は、この場所がかつて勾玉作りで栄えた歴史を偲ばせる。
さらに5世紀以降、変わった勾玉も出てきた。「子持勾玉」と呼ばれるそれは、勾玉の表面に、小さな突起物を加えたもの。奈良県桜井市の三輪山と周辺の祭祀遺跡からも数多く出土している。三輪山は、当時のヤマト王権が深く信仰した神の鎮まる場所。その地で異形の勾玉が作られたのだった。
しかし勾玉は、7世紀以降に消えていく。笹生氏は「人々の価値観の変化、あるいは身分を冠の色で示す冠位十二階の制度などが生まれ、権威を示す装身具としての意味を失ったのかもしれません」と考える。
歴史から分かる勾玉の素顔。その由来を丁寧に読み解くと、「伝統」としての輪郭が浮き彫りになってくる。たとえば三種の神器も「鏡や剣は、古代に大陸からもたらされた最先端の技術を象徴する品物。対する勾玉は、縄文から続く日本の伝統のシンボルともいえるもの」と笹生氏は言う。
古代の日本列島で受容され、発展し、今日まで受け継がれてきた伝統の品々。その長い歩みを知ると、現代の神祭りへとつながる祭祀のルーツが見えてくるのではないか。
<編集協力:國學院大學 研究開発推進機構 助教 吉永博彰>
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