2024年3月3日日曜日

神道のルーツ 雛祭り


 
 
好事家ジュネ
⁦‪@DilettanteGenet‬⁩
寺山修司の『田園に死す』屈指の迷シーン、川上から雛段が流れてくるやつ。この前場面で川に捨てられた赤子が迎えられなかった雛祭りの暗示というのは勿論だけど、流し雛の起源は日本神話の蛭子の海流しにあるとも言われていて、それを含めて見ると余計に「赤子の間引き」という哀愁が迫るんですよね。 pic.twitter.com/8cDaLNUcMl
 
2024/03/03 19:34
 
 

https://x.com/dilettantegenet/status/1764237941759746438?s=61


 罪の処分 

 日本には古来、古代イスラエルの「贖い」(罪の赦し)の思想に似たものがある。

  古神道には、「大祓いの儀式」というものが伝わっている。これは日本の国の一切の罪汚れを払いやる儀式である。宮中や各地の神社などで、毎年6月30日と12月31日に行なわれる。  

 大祓いの時、天皇は「麻の衣」を着て紫宸殿に来られる。その「麻の衣」には、国民の一切の罪汚れが託されている。天皇は国民の代表となり、卑しい姿になって、その衣を着て大祓いのお祭りをなさるのだ。

  その後、衣は小さな舟に乗せられ、当時都のあった京都から加茂川に流された。そして大阪の浪波洲まで流れ、波の中に消えるまで見届けた。これは、国民の罪汚れが川に流されて捨てられ、遠ざけられたことを意味した。

  またそのとき、ある祝詞(祈祷文)が唱えられた。どんな祝詞かというと、天皇家は高天原から天降って、豊葦原の瑞穂の国、日本列島を治めることになったけれども、国中にいろいろの罪が起きてくる。これはどうしても処分しなければならない。

  ところが、この罪というものは、ひどくしぶといもので、なかなか処分できるものではない。だから、ちゃんと日を決めて、天皇が国民のために大祭司となって贖いの儀式をする。 

 このようにこの祝詞は、きわめてユダヤ的な祈りの言葉である。ユダヤでは、罪の処分、罪の赦しということが、必ず祈りに盛り込まれたのである。筆者はよく思うのだが、神道の祝詞は、きわめてユダヤ的な祈りである。

  日本では民間でも、古来、神社の神官が、「ひとがた」(人形)といって人の形に切った紙に人々の罪汚れを託し、それを川や海に流すということをしてきた。「ひとがた」に身をこすりつけて、罪を移し、それを水に流すのだ。 

 このように古代の日本人は、罪の処分をきちんとしなければ新しい年を迎え得ないと思った。そしてその仕方は、何かのものに罪を託し、それを遠くに追いやるというものであった。 

 日本には、「流しびな」の風習もある。ひな人形に人々の罪を託し、それを川や海に流して、遠くに追いやるのである。「流しびな」は一種の身代わりなのだ。流しびなも、「ひとがた」と同じ観念から来ている。 流しびな。罪を遠くへ追いやる風習だった。  「ひな祭」のときの「ひな人形」も、もとは「ひとがた」であり、体をなでて身の穢れをそれに負わせ、海や川に流す風習であった。これを飾って遊んだりする風習が生じ、ひな人形になり、ひな祭になったのだ。ひな祭の起源は、流しびなである。

  こうした日本の風習は、旧約聖書にある思想とまったく同じである。  

 とりわけレビ記に書かれてある「アザゼルのやぎ」の風習によく似ている。アザゼルのやぎとは、イスラエルの大祭司が神殿において行なった儀式であった。  

 やぎの頭に手を置いて祈り、そのやぎにイスラエルの人々の罪を移す。つぎに、やぎを荒野に連れていき、やぎが地平線のかなたに消えていくのを見届けた。このやぎは一種の身代わりなのだ。

  このとき、やぎと共に民の罪も見えない所に運び込まれ、神ももはや私たちの罪をご覧にならないと感謝したのである。そういう儀式を毎年行なった(レビ記16章)。 

 現在は、ユダヤ人は神殿を持たないので、この「アザゼルのやぎ」の風習は持たないが、その代わり、「タシュリック」等の風習を持っている。 

 タシュリックでは、ユダヤ暦第7月の1日に、各自が手に小石を一つずつ持って、池や川や海へ行く。その間、小石の温度と手の温度が同じになるまで、つまり一体感が持てるまで握りしめている。  

 そして水のあるところに来ると、リーダーは皆にこう言う。 「では、みなさんの心にある苦い思い、いやな思い、人には言いたくない罪など全部、思い出して下さい。そうして、それらをこの小石に託して、小石と共になるべく遠く深いところに投げ込みましょう。聖書にこう書かれています。 『もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れて下さい』(ミカ書7章19節) 

 私たちも、象徴的にこの小石を投げ入れることによって、この祈りを神様に届けたいと思います」 このように言って、小石に罪を託し、罪を遠くに追いやるということをする。この小石も身代わりである。このタシュリックは、見ようによっては、日本の「節分」(鬼は外、福は内)の豆まきにも動作が似ているが、その主眼点は「罪を託して遠ざける」ことにある。 

 このようにタシュリックといい、アザゼルのやぎといい、日本の大祓いといい、流しびなといい、みな基本的に同じ考えに基づいている。これほどに、古代ユダヤ教と日本神道は、よく似ているのだ。これほどに似ている宗教が、ほかに世界にあるだろうか。 

「罪」の種類  

 それだけではない。大祓いの時に唱えられる祝詞に述べられた「罪」の種類も、聖書のレビ記に述べられている「罪」の種類に酷似している。

  たとえば大祓いの祝詞において、地上的な罪として、 「生きている人を傷つけること(生膚断)、死人を傷つけること(死膚断)、ハンセン病(白人)、せむし(こくみ)、母と姦通する罪、自分の子を犯す罪、母と子を犯す罪、……獣姦、また呪術」  

 などが挙げられている。これらの罪は、旧約聖書『レビ記』に述べられているものに、そっくりだ。  

 たとえば古代イスラエルにおいては、人の体でも自分の体でも、傷つけることは禁じられた(レビ記19章28節)。死体を冒涜することも禁じられた。

  ハンセン病(らい病)人や(同13章10~11節)、せむし(同21章20節)、そのほか体に欠陥のある者は、神殿で仕えることはできなかった(同21章17~23節)。母との姦通、娘との姦通、獣姦なども、もちろん禁じられていた(同18章6~23節)。そして呪術、魔法の類も禁じられていた(申命記18章11節)。

  このように日本の大祓いの祝詞で言及されている「罪」は、旧約聖書で言われているものと、驚くほど似かよっているのだ。

  ときに、日本文化は「罪」の文化ではなく「恥」の文化だといわれることがある。日本人は罪の意識よりも恥の意識のほうが強い、ということも言われる。確かに「恥」の観念は強いが、かといって「罪」の観念がないわけではない。

  日本の古典をみる限り、日本人は昔から「罪」ということを強く意識した人々だったのである。神道では「罪」の観念が明確に存在し、しかも、それはきわめてユダヤ的な「罪」観念だった。 

 先に見たように、罪の処分、罪のあがないということに関しても、神道と古代ユダヤ教は酷似している。ユダヤ教と「仏教」はまったく似ていないが、ユダヤ教と「神道」はあまりによく似ているのだ。

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