「大鏡」では兼家が誤魔化した
さて、第1回で、あれだけ、道兼の殺人を、禁忌を侵したやばい行為であると、この時代に詳しい識者たちがざわついたのに、今度は道長である。自分の手を汚したわけではないが、袖で血を拭うとはかなり大胆である。ほんとうに道長はそんなことをしたのであろうか。「大鏡」を読むとーー。
"高御座の内に、髪つきたるものの頭の、血のつきたるを見つけたりける、あさましく、いかがすべきかと行事思ひあつかひて"とあり、行事の責任者が兼家に話してどうしたらいいか判断を仰ごうとしたら、寝ていて聞いてないふりをして誤魔化してしまったと書かれているのだ。
以前、兼家が寝たふりをしていたのは「大鏡」の逸話から取り入れたものだろうか。そして、今回は、兼家は寝たふりをしないで、道長が事件を誤魔化した。
兼家にしろ、道長にしろ、迷信を気にしないタフなメンタルを持っているようだ。
以上、ここまでが超越した道長。
そして、ここからが人間くさい道長である。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/71eb37373a8167d66572e90f1324755a0fc1d39c「光る君へ」おぞましき高御座の首。「大鏡」ではどう書いてあったか。第11回 道長ブチ切れるの巻
大河ドラマ「光る君へ」(NHK 脚本:大石静)第11回「まどう心」(演出:中島由貴)はまたまた衝撃回。放送前、大石静さんはインタビューで「高御座の生首」もやります、と言っていたけれど、「大鏡」で有名なエピソードをこんなふうに描いたのか!と、そのおぞましい描写に度肝を抜かれた。
(*ネタバレありますのでドラマをご覧になってからお読みください)
第11回の注目ポイント
その1:高御座の事件での道長の行動
その2:まひろとの逢瀬での道長の行動
その3:井浦新と三浦翔平が「おっさんずラブ‐リターンズ‐」から平安に転生したら父子になっていた
第11回の見どころは、ほぼ、道長(柄本佑)に尽きるのだが、端的にまとめると、その1は何かを超越した凄みがあり、その2では、あまりにも人間くさかった。両者の飛距離の幅広さが道長を魅力的な人物にしている。
大石静さんが道長をとても大事に描いているのを感じる。じゃあ、主人公のまひろ(吉高由里子)は?というと、そこが「光る君へ」の面白さのひとつでもあるのだが、道長のキャラを作っているのは、まひろとしか思えないのだ。
のちの天才作家の想像力で、のんきな三男坊だった藤原道長に陰影がついていく。
「光る君へ」の藤原道長像を完成させていくのは、大石静であり、紫式部でもあるのではないか。
ではここから、第11回での作家渾身の、道長の超越と人間くささを振り返っていこう(ポイントその3に関してはこの記事では触れない)。
「ここがあの人(道長)の家……」
花山天皇(本郷奏多)を19歳という若さでまんまと退位、出家させた藤原兼家(段田安則)率いる藤原家。作戦成功によって兼家は摂政となり、為時(岸谷五朗)や実資(ロバート秋山)は職を追われてしまう。その分、兼家は身内を出世させる。
すっかり気落ちした為時を見かねたまひろは倫子(黒木華)に、父である左大臣にとりなしてもらえないかと頼みに行ったが、さすがの倫子も何もできないときっぱり断る。
それで諦めるまひろではない。単独、兼家に談判に向かった。
「ここがあの人(道長)の家……」とはじめて藤原邸に入るまひろ。まひろのこの冒険心は、親や家の面目のためもちろんあるが、道長の家を見たかったという乙女心でもあるのかもしれない。
のっぴきならない状況でも恋する想いも捨てられない。それはそれ、これはこれ、と割り切れず、言動にいろいろな感情が混ざり合っている。だからこそ、見ているほうも言葉にならないざわつきを抑えられることができなくなるのだ。
納得いかない"どの女性もまんべんなく慈しんでいる"
幸い、兼家と会うことはできたが、「わしの目の黒いうちにそなたの父が官職を得ることはない」ときっぱり言われ(しかも、まひろの聞いていないところで「虫けら」扱いもされ)さんざんであったが、まひろのこわいもの知らずの奮闘を、宣孝(佐々木蔵之介)は「おまえすごいな」と讃える。
ふつうならできないことをやってのけるまひろは、型破りな存在である。そうでもないと、世紀の文学は書けないのだろう。
そんなまひろに宣孝は結婚をすすめる。だが、それは正室ではなく妾である。自分だってどの女性もまんべんなく慈しんでいると、ぬけぬけという宣孝。この時代、これが男の甲斐性だったのであろう。でも、その当たり前がまひろには承服できない。まひろのなかでは、愛する人のたったひとりになりたいという欲望が大きくなっていく。
正室になれない身分のまひろは、道長のことを思う。
その頃、道長もまひろとの逢瀬を思い出していた。
ふたりがお互いを思って恍惚となる表情は、十代の若者がはじまったばかりの恋に夢中で、ほかのことが考えられないという雰囲気だった。
「穢れてなぞおらん」
まひろも型破りだが、道長も型破りである。
退位した花山に代わり、藤原詮子(吉田羊)の息子がわずか7歳で即位。一条天皇となった。詮子は国母となった。
一条天皇即位の朝、おそろしいことが起こる。それが大石さんの言う「高御座の生首」。
即位式のときに用いられる高御座にとんでもないものが置かれていて、その場は震撼となる。
花山院がお経を唱えているカットと、高御座がどうなったのか見に行く道長のカットが交互に映り、「は!」となる道長の顔と、パイプオルガンの荘厳な劇伴。ホラー映画のようであった。
高御座のうえにあった首を、道長は淡々と家来に、鴨川に処分するように命じ、そのまま即位式を行おうとするが、家来は「穢れております」と恐れ慄くばかり。
この時代は「死」を穢れとして恐れていたし、ましてや誰のものともわからない首である。
仕方なく道長が処理をし、血がついた高御座をあろうことか己の袖で拭い、「穢れてなぞおらん」と淡々とつぶやく。
すでに直秀(毎熊克哉)たちをこの手で埋葬している道長はもう、こういう迷信に振り回されることに飽き飽きなのであろう。
道兼(玉置玲央)の殺人がまひろを苦しめ、今度は道長が死(穢れ)を隠蔽することになる。なんの因果であろうか。
道長が穢れを否定したとき、花山の数珠がちぎれて床に散乱する。それはまるで花山の藤原家への呪詛が現実的な道長に敗北した瞬間にも見える。
本来ふたりとも、頭を大事にする時代に、足を器用に使う、まるで価値観を転倒させた人物と解釈できる人物であったのに、花山は追い詰められ、道長が残った。
そして、即位式を中止にしないで済ませた道長を、兼家は五位の蔵人に出世させる。
一番したたかなのは兼家である。迷信をおそれ、占いにも執心するが、現実的でもあって、自分の都合のいいように粛々と人間関係を整理していく。
「大鏡」では兼家が誤魔化した
さて、第1回で、あれだけ、道兼の殺人を、禁忌を侵したやばい行為であると、この時代に詳しい識者たちがざわついたのに、今度は道長である。自分の手を汚したわけではないが、袖で血を拭うとはかなり大胆である。ほんとうに道長はそんなことをしたのであろうか。「大鏡」を読むとーー。
"高御座の内に、髪つきたるものの頭の、血のつきたるを見つけたりける、あさましく、いかがすべきかと行事思ひあつかひて"とあり、行事の責任者が兼家に話してどうしたらいいか判断を仰ごうとしたら、寝ていて聞いてないふりをして誤魔化してしまったと書かれているのだ。
以前、兼家が寝たふりをしていたのは「大鏡」の逸話から取り入れたものだろうか。そして、今回は、兼家は寝たふりをしないで、道長が事件を誤魔化した。
兼家にしろ、道長にしろ、迷信を気にしないタフなメンタルを持っているようだ。
以上、ここまでが超越した道長。
そして、ここからが人間くさい道長である。
「勝手なことばかりいうな」
為時が職を追われ再び貧しくなったので、使用人に暇をとらせ、まひろは家のことを自分でやるようになる。働くまひろをそっとのぞく道長。まひろはキラキラ光っている。そのときの劇伴がギター演奏による、なんともエモーショナルな、広大な平野が広がっている洋画みたいなものだった。
辛抱たまらない道長は乙丸(矢部太郎)にいつものところで待っていると伝言を無理やり頼む。
夜、駆けつけるまひろ。今日もまた濃密に抱きしめあい唇を求め合ったあと、道長はまひろに妻になってくれ、と求婚する。
「遠くへは行かない。都にいて政の頂きを目指す」と宣言するのだ。
ただただ、まひろのために興味のない政治をやろうと考えたのに、まひろは、北の方になれず妾になるのは「耐えられないそんなの」と頭ごなしに拒否する。
このシーンのまひろは、道長を見つめる瞳の焦点に少女の恋する気持ちがあふれていた。
政治の頂きには登ろうとし、穢れも否定しながら、「北の方は無理だ」と婚姻に対する認識を変えようという気にはならない道長は女心をわかっていない。
「ならばどうしろうというのだ」と切れる。そして「勝手なことばかりいうな」とさらにブチ切れて去ってしまう。
なんて人間臭いのだろう。大好きなまひろのために、彼女の望みを叶えようとしたら、わがままがエスカレートして、どうすることもできずブチ切れてしまうのだから。
ここにはいつもの切ない劇伴。物悲しくも、燃え盛る炎のようなメロディ。
道長が家に戻ると、兼家が火を燃やしていた。
最初のうちは、道長の手綱を握っていたかのようなまひろだったが、塩梅を見誤って去られてしまった。
藤原道綱(上地雄輔)の母・寧子(財前直見)が「男は座る地位で育つのです」と言っていたが、無理めな要求をつきつければ、男はだんだんそれに合うように成長するのかもしれない。
でもいまはそこまでの余裕はまひろにはまだない。池に映った自分の顔を崩して泣くばかり。でもまたすぐに水鏡のゆらぎは元に戻り、泣いたまひろの顔が映る。最初は映っていた小さな月が、そこにはもうない。
様式性の高い、前回の黛りんたろう演出に対して、中島由貴演出は、心情の繊維を集めて紙を漉くような絵づくりをする。さらにその繊維の細い一本にフォーカスするようなまなざしだ。どっちも美しい。
大河ドラマ「光る君へ」(NHK)
【総合】日曜 午後8時00分 / 再放送 翌週土曜 午後1時05分【BS・BSP4K】日曜 午後6時00分 【BSP4K】日曜 午後0時15分
【作】大石静
【音楽】冬野ユミ
【語り】伊東敏恵アナウンサー
【主演】吉高由里子
【スタッフ】
制作統括:内田ゆき、松園武大
プロデューサー:大越大士、高橋優香子
広報プロデューサー:川口俊介
演出:中島由貴、佐々木善春、中泉慧、黛りんたろう ほか
0 件のコメント:
コメントを投稿