2024年3月1日金曜日

高松塚古墳は忍壁皇子の陵墓だ | 日本の歴史と日本人のルーツ

高松塚古墳は忍壁皇子の陵墓だ | 日本の歴史と日本人のルーツ

高松塚古墳は忍壁皇子の陵墓だ

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これに対し、文武天皇自身のキトラ古墳は天皇にふさわしい古墳の位置(吉野宮からは亀虎方向)と精密な宿星図を実現したが、それ以外の規模はキトラ古墳の方が劣っている。これはキトラ古墳を築造した元明天皇(文武天皇の母親)の質素を好んだ意図によると考えられる。


人物像の観察に四神壁画や立地を加え、直木氏は被葬者の条件を導き出した。⑴死亡年代は藤原京の造営プランが整った朱鳥元(686)年から平城京遷都まで。または大宝元年から養老3年  ⑵大納言以上の身分  ⑶熟年男子。これら条件で天武の皇子たちを照らすと、忍部(忍壁、刑部)皇子が浮かび上がる。吉野から「壬申の乱」に従軍し、大宝律令を編集した人物。『続日本紀』によると、慶雲2(705)年5月に死没した。 


高松塚古墳の海獣葡萄鏡


中国の唐代を代表する鏡の一つ。中央に想像上の獣を置き、周囲に葡萄の文様がある。葡萄唐草文は西域の伝統的な文様で、シルクロードを通じた中国との交流をうかがわせる。正倉院宝物にも含まれる。高松塚古墳の鏡は良質な白銅製で、今年3月に亡くなった帝塚山大学短期大学部名誉教授、大伴公馬氏のコレクションにも同型鏡がある。鏡研究の第一人者、樋口隆康・県立橿原考古学研究所長は同古墳の中間報告書で「日本出土の海獣葡萄鏡の内では最も大型で文様が精緻」と指摘している。



② 忍壁皇子(wikiより)


おさかべ の みこ、生年不詳 - 慶雲2年5月7日(705年6月2日)は、忍坂部皇子刑部親王とも記される。天武天皇の皇子。官位は三品・知太政官事

天武天皇元年(672年)の壬申の乱では父・天武天皇が吉野から東国に赴いた際に付き従った者として、草壁皇子とともに名が挙げられている


天武朝では天皇の皇子のして、以下の政治的活動が見られる。


・天武天皇8年(679年)、天智・天武両天皇の諸皇子とともに吉野宮に参集し、先の壬申の乱のような戦渦を起こさないよう誓約した(吉野の盟約)。


・持統天皇10年(696年)、高市皇子が没すと、天武天皇の諸皇子の中で最年長となり皇族の代表的存在となる。一方で、持統朝においては彼の事績は伝わらないことから、持統天皇に嫌われて不遇をかこっていた所を、藤原不比等の入知恵で甥の文武天皇擁立を支持し、ようやく政界復帰したとする主張がある。


・文武朝に入ると、文武天皇4年(700年)6月に藤原不比等らと大宝律令の選定を命じられ、翌大宝元年(701年)8月に完成させた。またこの時に大宝令による位階制の導入により三品に叙せられている。大宝2年(702)12月に持統上皇が崩御すると、若い文武天皇の補佐を目的に、大宝3年(703年)正月に忍壁親王は知太政官事に就任して太政官の統括者となる。


・この時点で既に二品の位階にあった異母弟の長親王・舎人親王・穂積親王ではなく、忍壁親王が知太政官事へ任官されたことについて、大宝律令の編纂を主宰するなどの政治面での実績があることや、天武天皇の最年長の皇子であったことから、最有力の皇族として重んぜられていたことが理由と見られる。



③ 高松塚古墳は江戸時代まで文武天皇陵と考えられていた(参考)


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文武天皇陵の塚の頂上に松がはえていたので高松塚の名前となった。



④ 高松塚古墳、文武天皇陵、中尾山古墳、そして天武・持統合葬陵は混同されていた。


第四十二代「文武(もんむ)天皇陵」粟原塚穴(あわらつかあな)、ジョウセン塚古墳(参考)


小池  香津江(奈良県立橿原考古学研究所)


① 治定

文武天皇は慶雲四年(707)に崩御し、飛鳥岡で火葬に付された後、檜隈安古山陵(ひのくまのあんこやまのみささぎ)に葬られた(『続日本紀』)。『延喜式』(諸陵寮)には「檜隈安占岡上陵」「藤原宮御宇文武天皇。在大和高市郡。兆域東西三町。南北三町。陵戸五烟」と記されている。安占の占は古の誤りとみられ、飛鳥岡は現在の岡寺付近と推定されるが、安古の地名は江戸時代にすでに失われていたらしい。そのため、文武陵の治定は不安定で、明治十四年に現陵に確定するまで転々としている。


元禄九年(1696)の『前王陵廟記』では、文武陵の具体的な所在地についての記述はない。元禄十年の幕府による山陵修復に当たっては、文武陵は当初不分明陵として報告されており、奈良奉行の調査を経て高松塚古墳(明日香村大字平田字高松)がそれにあてられた(『諸陵周垣成就記』元禄十一年)。これに対し、享保二十一年(1736)の『大和志』では、「平田村の西に在り。俗に中尾の石墓と呼ぶ」(現在の中尾山なかおやま古墳)としている。また、文化五年(1808)に蒲生君平の著した『山陵志』では、「高松山」として、高松塚古墳を比定している。この他に、寛政三年(1791)の『大和名勝図絵』のように、「中尾の石墓…字は高松塚」として、中尾山古墳と高松塚古墳を混同しているものも見られるものの、安政年間までには、ほぼ高松塚古墳説で固まった。


しかし、嘉永元年(1848)に北浦定政が『山陵志』を補って刊行した『打墨縄(うつすみなわ)』では、野口村皇(王)の墓(野口王墓、現天武・持統陵)を比定し、安政二年(1855)の奈良奉行による御陵改めでも野口王墓を文武陵として報告されている。その後、文久年間(1862・63頃)に大がかりな修陵が行われるが、この時山陵奉行戸田忠至の相談役であった谷森善臣は著書『山陵考』の中で、粟原村の字「あんどく」が「あんこう」と書かれるものもあり、それが安古の転化であろうとして、その東北の字塚穴(俗にジョウセン塚、現文武陵)を文武陵に比定し、その説が採用されて修理・修築がなされている。ただし、谷森は後に自説をひるがえして、野口王墓を文武陵にあてている。明治に入り、文武陵は野口王墓として扱われ、宮内省による陵墓の測量の際にも野口王墓が文武陵となっている。しかし、明治十三年、『阿不幾乃山陵記(あふきのさんりょうき)』が公表され、野口王墓が天武・持統陵であることが確実となると、天武・持統陵は野口王墓に治定が変更される。それに伴って文武陵も明治十四年、現陵に治定された。変更に際し、現陵が選ばれた根拠は明らかではないが、前述の谷森の説などが参考にされたと見られる。歴史読本特別増刊 事典シリーズ「天皇陵」総覧



⑤ 高松塚古墳とキトラ古墳の規模


高松塚古墳: 直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳

キトラ古墳: 直径13.8m(下段)及び9.4m(上段)、高さ3.3mの二段式の円墳



⑥ 壁画の図柄からキトラ古墳より高松塚古墳の方が先に出来た(参考)



⑦ キトラ古墳の被葬者は文武天皇

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