http://glowforestmoon.livedoor.blog/archives/2392741.html
キルギスと弓月国と日本
■弓月国
古代イスラエルの人々は離散したあとキルギスの北部のエニセイ川源流あたり
(現在のカザフスタン北部)に弓月国を立てました。
そこにはヤマトゥという町があり鋳造や織物などの盛んな工業国だったそうです。
「資治通鑑」によると「弓月国」は「三カ月国」ともよばれており、「弓月国」は3世紀
から6世紀ごろに栄えた「キリスト教国」だったのである。
秦氏はこうしたユダヤ人コミュニティとの深い関連が予想される。
http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/hidecross.html
■キルギスの伝説
「キルギス人と日本人が兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は東に渡って日本人となった。」
■キルギス語
- キルギス語はアルタイ語属のテュルク諸語に属する。
日本語と同じく、目的語や述語に助詞や活用語尾が付着する膠着語で、母音調和を行うことを特徴とする。文の語順も日本語と同じ主語-目的語-述語になる。http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/i2/dg.gif キルギス語Wikipediaより
248年頃、倭国の卑弥呼が亡くなります。。倭国が朝貢していた漢も滅びています。(箸墓古墳の頃。日本書紀では垂仁天皇46年位?)
■秦氏の来日と移住
仲哀天皇の199年にも来日した弓月国王の功満王
応神天皇の283年の弓月君(融通王)の来日の前に応神天皇の父とされる仲哀
天皇の199年に、 融通王の父である功満王(弓月の王)が日本を公式訪問したと
いう(新撰姓氏録)。(西暦319年)
この訪問の翌年、仲哀天皇は旅先でなくなります。
后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)は身重の体で新羅に出兵、帰国の途で応神天皇を出産します。
もしかして天皇を新羅に毒殺されたと思った后が復讐しに行ったのかと思うくらい唐突な出兵に思えます。
帰国後は摂政として国の運営に当たります。
やがて応神天皇の治世になります。
応神天皇14年、弓月の君が再び来日し、日本への移住を求めます。新羅が邪魔をするので兵を出して新羅を鎮め、応神天皇16年に弓月の人々を迎えます。
日本書紀の記録は120年ずれているので西暦405年頃のことになります。
応神天皇の283年に弓月国の「ヤマトゥ」から来た秦氏
秦氏の来日は、公式記録(日本書紀)によれば、応神天皇の283年に弓月君が百済から127県の1万8670人を連れて、 日本に来たという。
弓月君の名前は、新撰姓氏録では融通王と呼んでいるそうで、 天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしい。
この「ヤマトゥ」の近くに「ハン・テングリ(Khan Tengri)山」という山があって、 この山が「天狗」のルーツではないかと言われている。
ハン(Khan)は、族長の称号であり、テングリ(Tengri)は、天神を示すと言う。
http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index5.html
キルギスの南西1000kmの所にカイラス山(標高6050m)があります。
カイラス山の麓にWesak Valleyウエサク渓谷という所があります。ここで、ウエサク祭というのが、大昔から行われています。
京都の鞍馬寺でも、「五月満月祭」と言う、同じような祭事が行われていました。
戦後、名前が「ウエサク祭」に変わりました。
なぜ「月」なのだろうか。
私は、おそらく、この国があった場所と関係していると思う。
大陸の西にはイスラエルが。そして、弓月国の東にはまだ土地が広がっている。
つまり、中間だ。とすれば、それは月だ。
ユダヤ系キリスト教徒であった秦氏は、ユダヤの象徴表現に通じていた。聖書において、天体の序列は、星→月→太陽である。
秦氏は、大陸を月の土地として認識していた。
だから、弓月とか三日月という国名を使用したのだろう。
この秦氏が日本にやってきた理由は、太陽の土地に移り住むためだ。
東の果ては太陽の地である。だから、彼らが日本列島にやってきたときに、この国を日本と名づけたのだろう。
彼らがもともといたローマは、星の土地である。イスラエルも星。
それは日が沈む場所。夜の国だ。
今でもEUやイスラエルの象徴は星である。
そして、中東や中央アジアなどイスラムの象徴は月。
仮に秦氏が宗教的動機で日本に移住したとすれば、それは、イエス・キリストの象徴が太陽だからだろう。
ヨハネは、「天地を照らすまことの光」と呼んだ。
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