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大避神社 道竜の握りしめている紙片に、そう識されている。禰宜波多春満という。 その奇妙な名の神社を訪ねるために、道竜は須磨からいったん神戸へ引返した。神戸駅から、山陽線に乗る。 降りたのは、相生である。そこで一泊して翌朝、比奈という部落を目指して、二里の田舎道を歩いた。道は、暑かった。 何に憑かれて、炎天の田舎道をこう歩かねばならないのか。これは、今となっては、己れのことながら道竜自身にも測りがたいものになっている。元々は、波那に関する精神病の遺伝系統を調べる筈であった。これについてはさすがの彼も無意味に近いことが判りかけている。とは云っても(道竜のために開きなおるようであるが)、追放後の彼の生活ではいま何を為すこともなかった。真空内での物体の運動は、それを阻止する抵抗がない限り永久にとどまらぬ如く、目的の殆どを喪失した道竜のこの行為もまた、追放という時間と精神の真空内にあっては、ただ運動のみが残されたが如くであった。道竜は、とにかく調査せねばならぬ。いわば、至純といっていい一種の学問的情熱であった。悪くいえば、理性を失った学問的情熱であったろう。学者としては、ある意味では、これほどみごとな情熱は稀なことかもしれなかった。 比奈の部落は、赤穂郡南部のひくい丘陵群が海に落ちこむあたり、なだらかな山ひだに囲まれて散在している。 郷社があり、大避神社がそれであった。村道を外れると自然石を積んだ十数段の石段になり、登れば森に入る。石鳥居が傾き、くぐると、屋根に苔をおいた小さな流れづくりの社殿があり、貧寒たるたたずまいであった。ただ、森の中に湖の香りがする。神社が背負っている丘の頂きに登ると、内海が一望に見渡せた。近くに散在するのが家島群島であり、遠くに望見できるのは、小豆島である。 社殿の東側に、社務所がある。藁葺白木造のまぐち二間ほどの建物で、社殿と同様、蒼古として海風の中に立っている。道竜が軒先で汗をぬぐっていると、うしろで、草履で土を踏む足音がして、 「客人かな?」 道竜がふりむくと、媼のように物柔らかな色白の老人が立っていた。 「私が、当社の宮司代務者波多春満だが、御用は? いや御参詣かな」 道竜は、手短かに用件をのべた。その用件が理解できたかどうかはわからない。まあまあと、人懐っこく道竜を座敷へ招じ入れ、 「まず、上衣をおとりなされ。当社は無人な上、収入もない。従って何のおもてなしもできかねるが、茶だけは自慢にしている」 自ら茶を汲んで、茶たくを道竜の前へ押しやった。 「といって、茶の葉ではない。この葉は、番茶です。自慢は、湯ですな。つまりこの水です。さ、喫まれよ。何なら、水だけ差しあげてもよい」 云われて、道竜は、茶わんをとって一気に咽喉へ流し込んだ。別に、どうという味の変わりばえはなかった。 「違うでしょう。この水は、千数百年来、大避の神水とよばれている。境内に在って、いすらい井戸というものから湧く。これほどの甘露は、全国に二つしかない。どうですか、いま、一杯」 「もう一つの井戸と云うのは?」 「京都の太秦にある大酒神社、そこにやすらい井戸という古い井戸がある。いすらいと、やすらい、語呂が似ていますな。大避神社と大酒神社、これも訓が通じている。この謎を大正の中期、英国のゴルドンという女学者が興味をもって、熱心に調べたそうだ。あなたも、それを御研究なのか?」 「いや、私は法律の教師です。いま、精神病の遺伝について調べている」 「遺伝? 何のことだ」 「妻に、精神病の遺伝があったかどうか……」 「あなたの御家内に?」 道竜は、あらましを話し、波那の神戸の実家の係累を貴老はよく知っている筈だときいて来た──そう訊ねると、 「なるほど。幾らかは知っている。私の家はかつて、室津にあった。両家はもと同系で徳川初期に分立した。その後も代々縁組その他何等かの形で接触がもたれ、つい先年まで両家の間に交際があったが、今はない。私のほうが没落したからです。というより、当主の私が家を出て、こんな、神官の真似事をして世を捨てたからでもあるでしょうな。神官といえば、この神社もいわば両家の氏神といっていい。で、遺伝……?」 「精神病の、です」 「それは、なさそうだ。少なくとも、明治この方は聞かない。色情狂ぐらいは居たかも知れないが。──まあ、私です、むろん若い頃の。……それと、もう一人居た」 「誰です」 「秦ノ始皇帝です」 「からかわれては困る」 「からかってはいない。秦ノ始皇帝ということに、私の先祖は一応なっている。これは、日本書紀に明記されている。始皇帝の裔功満王の子弓月ノ君が、山東百二十県の民を率いて日本に帰化した。その移民団が、どこに上陸したか。それは、あなたが今いるこの岬に上陸した。そしてこの神社近辺に定着し、まず井戸を掘った。その井戸から汲んだ水が、いまあなたが喫んでいるその茶です」 「………」
「ということに日本書紀ではなっているが、私は秦ノ始皇帝とは思わない。むかし、田村卓政やゴルドン女史が、説をたてた。その説に私は従っている。つまり、ユダヤ人だったんだ」
「………」 「あなたの奥さんは、ユダヤ人の移民団の子孫だった。精神病については知らないが……」 「ユダヤ人……」
道竜はどういう訳か、ひくっと頸をのばして老人の笑顔を見た。そしてすぐ、目を離してきょときょと視線を座敷の調度品に移していたが、やがて頸をふって庭先を見た。柴垣に囲まれた十坪ほどの蕪雑な庭である。芭蕉が一本、松が四本、雪ノ下が二株、石が五基……道竜の目はうっそりと光を喪ったまま、それを数えてゆく。ふしぎと石燈籠が一基もなかった。あるじはおよそ、住いや庭に興趣を起こさぬひとらしい。庭はそのまま丘の傾斜につづき、その頂きに立てば海が見える。海には、いま白帆が浮かんでいるだろうか?
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