2024年10月7日月曜日

「帶」~詩人・善盛さんの時代 現実の異端を書いた詩人の消息 2023年12月8日 俊カフェ トークと朗読 柴田望  - 詩誌『フラジャイル』公式ブログ

「帶」~詩人・善盛さんの時代 現実の異端を書いた詩人の消息 2023年12月8日 俊カフェ トークと朗読 柴田望  - 詩誌『フラジャイル』公式ブログ

     ナニヤドヤラ      古川善盛

     なにが愛しくて伝え受ける旋回なのだ

     ひとつのちょうちん 古太鼓

     それらを芯に踊りつづける

     おれたち 輪になって

     ナニヤドヤラニヤドヤラニ

     (それなあに?)

     (ヘブライ語

     (え?)

     ひとよ

     讃美歌といったらおまえは笑うだろうか

     しめった火山灰の上に軒を傾け

     ひそひそ噂しあっているおれの故郷の

     夏の夜

     きまって旋回するしわがれた挽歌だ

     (*一部抜粋)  

     (掲載:昭和三十年頃の雑誌「現代詩」と推察)

 身体感覚が素晴らしい、呪文が体を、そして人類全体を動かしていくような言葉の波動。青森県岩手県秋田県、旧南部藩領内に伝わる盆踊りのはやし歌、「ナニヤドヤラ」、意味不明な歌詞のために古来さまざまな研究者が興味を持ち、数多くの説が唱えられました。川守田英二はヘブライ語説を唱え、キリストの墓伝説にからめて解釈し、全国的に注目されました。この古川善盛さんの詩はたぶんですが、昭和三十年代の雑誌「現代詩」に掲載されたと思われます。全国区の雑誌です。同じファイルの他の資料でこの詩と同じ三段組の詩が二つあって、そこに「現代詩」と書いてあったのでそう推察しております。「現代詩」は三人社から復刻が出ています。大岡信関根弘、藤原定といった錚々たる詩人たちが、この古川善盛さんの「ナニヤドヤラ」を論じているのですが、その中で、この詩を激賞したある詩人がいました。その詩人は誰もが名前を知っている、日本を代表する有名な詩人です。誰だと思いますか? なんと、谷川俊太郎さんです。まさに「朝のリレー」の、地球上の遠く離れた地点を読者に同時体験させることができる大詩人が、「ひとつの言葉に、かれの観念を結晶させている。情緒だけじゃない」、「今日の詩の中で一番いい」と、絶賛されているのですね。谷川俊太郎氏公認カフェを経営する古川奈央さんのお父様の古川善盛さんの詩を、谷川俊太郎さんが読んでいた、そして、高く評価していた。これは凄い発見だと思うのです。運命を感じました。今日、このことを俊カフェで皆さんにご報告できますことを、嬉しく思います。


https://fragile-seiga.hatenablog.com/entry/2024/04/20/055920

「帶」~詩人・善盛さんの時代 現実の異端を書いた詩人の消息 2023年12月8日 俊カフェ トークと朗読 柴田望

「帶」~詩人・善盛さんの時代

 現実の異端を書いた詩人の消息

   トークと朗読 柴田望 

    in俊カフェ 2023年12月8日

 本日はご多忙の中お集まり戴き、誠にありがとうございます。昭和二(一九二七)年の今日、十二月八日が詩人・古川善盛さんのお誕生日になります。大切な記念の日です。一九四八年の十二月八日が柴田の父の誕生日、一九四三年の十二月八日が六十年代のロックバンド、ドアーズのジム・モリソンの誕生日です。私は高校時代、ドアーズやルー・リードの影響で、「知覚の扉」、オルダス・ハクスリーウィリアム・ブレイクを読み、ディラン・トマスランボー、ビート・ジェネレーション、ケルアック、ギンズバーグを経由して吉増剛造に辿り着きました。

 普段、講演以外には自分が中心的にお話するイベントをやっておらず、裏方の仕事を五年くらい必死でがんばってきました。今日は不思議な感覚です…。古川善盛さんのことを学び始めたきっかけは、古家昌伸さんの同人誌「調べ」で「日塔聰詩考」を拝読し、そこに古川善盛さんのことが書いていました。古家さんに問い合わせますと「創成川ぞいでデザインの事務所をやってらした」「日塔さん関係の資料はほぼ、古川さんからいただいた」「日塔さんがどんな人だったか、よーく話してくれました」と教えてくださいました。昨年(二〇二二年)のことです。ちょうどコトバスラムジャパン北海道大会の会場を俊カフェさんでさせて戴くことになり、古川奈央さんとのSNSのやりとりの中で、奈央さんが古川善盛さんの娘さんであることを伺いました。その頃、旭川の東延江さんという大先輩の詩人の方が、「グラフ旭川」という雑誌に写真を載せて、「詩の村」の詩人たちとの交流について書いていました。日塔聰さんの折鶴忌の写真に、古川善盛さん、古家昌伸さんも写っています。また、古川善盛さんの詩を私は二十代の頃に読んだ記憶があります。二〇〇一年に二十五歳の柴田は北海道新聞文学賞詩部門の候補に残して戴いて、以降度々候補にして戴いておりますが、当時河邨文一郎さんに柴田の詩は「自己中心的だ」と厳しいご批判を戴いた、その詩集の中に「負けオニ」という詩がありました。大学を卒業して学習塾に勤めており、MAKE~を~にの構文を教える塾講師のことを書いた詩ですが、「負けオニ」という言葉が詩の題名になると思ったのは、間違いなく古川善盛さんの詩に影響されたはずで、詩誌「核」なのか、詩集『鬼郷七番通』なのか、九〇年代にどこかで「負け鬼」とか「オニ」の付くタイトルの詩を読んだ記憶があります。古川善盛さんという大きな詩人のお名前は存じておりました。

 その道新文学賞の候補に残して戴いたとき、今年の九月に他界した北大の教授で、劉暁波(十二月八日は「零八憲章」の発表前日、劉暁波が中国政府に身柄を拘束された日でもあります。)の翻訳や六四天安門事件の本を書いた、中国文学を研究していた伯父の野澤俊敬から、よくやった、と電話をもらったのですが、それから二〇年後の二〇二一年に、私は『壁/楯/ドライブ/海岸線』という詩集を伯父に送ったのです。後半の「海岸線」という詩が、樺太の豊原出身で、学徒出陣で海軍の特攻隊に入った私の祖父野澤俊一を書いたものでした。「望がこうやって親父のことを書くのも悪くはないなぁ…」という電話をもらったのが伯父との最後の会話でした。祖父は大正十四年生まれ。昭和二年生まれの古川善盛さんと同じ世代です。『鬼郷七番通』附録の年表を見ると、善盛さんは十一歳から十七歳までの多感な少年時代を樺太で過ごされています。中学一年の古川奈央さんが書かれた「我が家の歴史」という、お父様が青森から樺太に行き、陸士となり、編集の仕事を始めるまでのこと、最初に海を見たときの感動などを書かれた素晴らしい文章を先日拝読しました。樺太の工業学校機械科から陸軍士官学校に入られ、「人生二十年と覚悟」した古川善盛さんも、私の祖父母も、敗戦とともに樺太という故郷を失いました。 

 旭川の東鷹栖が原籍地である小説家の安部公房も、青春時代を満州で過ごした、故郷を失った作家です。私の大学の恩師で文芸評論家の高野斗志美先生は、安部公房井上光晴倉橋由美子といった、文学の辺境を書くような前衛的な作家を研究しました。辺境とは、世の中の異郷であり、中心ではない、例えば樺太満州、国境のような場所ですね。税関に勤めてその国境を守る役目を背負っていた、ナショナル・ボーダーの肌感覚が古川善盛さんの詩に息づいています。山本丞さんが、古川は制服を着て、拳銃を持つこともあった、と税関の仕事について書いています。日常と日常の境目の異世界、大勢の目はそこに向いていないけれど極めて重要なその国境が、古川善盛さんの詩の源の一つであり、「せんべいの耳」と表現された地帯であるように感じております。

     商法      古川善盛

     菓子屋の父はせんべいの耳を欠いて除けた

     耳はせんべいにとって余計なものだから

     耳は商売にならないから

     欠きとられた耳が子供の僕のおやつになった

     僕は商売にならないように育った

     (*一部抜粋)

     (さっぽろ文庫5『札幌の詩』 札幌市教育委員会文化資料室編集)

 この詩の着想でもっと長く書かれた作品「せんべいの耳」が詩集『鬼郷七番通』に収められています。二〇二二年のコトバスラムジャパン北海道大会の前に、この詩集『鬼郷七番通』と、二冊の土工髙田玉吉の本を古川奈央さんがお送りくださって、読んでいくと本当に素晴らしくて感動して、私のほうからも古川善盛さんの詩が収められている『北海道詩集』などのコピーをお送りしたりして、八月十五日のKSJ北海道大会のカリブラージュで私は「よいしょ」という詩を朗読しました。この詩集は非常に実験的な作りとなっていて、「よいしょ」は本文の中にはない、帯にしか書かれていない、素晴らしい作品です。

     よいしょ      古川善盛

     よいしょ と

     掛け声のつもりが

     独り言に堕ちて

     起き上がってみたが

     するべき用事もない

     力こぶのよいしょ

     息切れのよいしょ

     大きなよいしょ

     逃げ腰のよいしょ

     ごまかしのよいしょ

     軽いよいしょ

     声を合わせたよいしょ

     (*一部抜粋)     

     (詩集『鬼郷七番通』 現地出版)

 この詩に出会い、「帯」とは何なんだろう? と思い始めました。「はるかのはるかの/後ろ道の向こう」…優勝はHarukaTunnelさんでした…。遥かな道のりが帯なのかもしれません。KSJの翌日には古川奈央さんのお母様にもお会いさせて戴き、貴重なお話を伺い、資料もたくさん読ませて戴き、本当にありがとうございます。古川さんのお宅で資料のファイルを拝見して、最初にふっと、目に入った作品がこちらですね。「ナニヤドヤラ」という作品です。 

     ナニヤドヤラ      古川善盛

     なにが愛しくて伝え受ける旋回なのだ

     ひとつのちょうちん 古太鼓

     それらを芯に踊りつづける

     おれたち 輪になって

     ナニヤドヤラニヤドヤラニ

     (それなあに?)

     (ヘブライ語

     (え?)

     ひとよ

     讃美歌といったらおまえは笑うだろうか

     しめった火山灰の上に軒を傾け

     ひそひそ噂しあっているおれの故郷の

     夏の夜

     きまって旋回するしわがれた挽歌だ

     (*一部抜粋)  

     (掲載:昭和三十年頃の雑誌「現代詩」と推察)

 身体感覚が素晴らしい、呪文が体を、そして人類全体を動かしていくような言葉の波動。青森県岩手県秋田県、旧南部藩領内に伝わる盆踊りのはやし歌、「ナニヤドヤラ」、意味不明な歌詞のために古来さまざまな研究者が興味を持ち、数多くの説が唱えられました。川守田英二はヘブライ語説を唱え、キリストの墓伝説にからめて解釈し、全国的に注目されました。この古川善盛さんの詩はたぶんですが、昭和三十年代の雑誌「現代詩」に掲載されたと思われます。全国区の雑誌です。同じファイルの他の資料でこの詩と同じ三段組の詩が二つあって、そこに「現代詩」と書いてあったのでそう推察しております。「現代詩」は三人社から復刻が出ています。大岡信関根弘、藤原定といった錚々たる詩人たちが、この古川善盛さんの「ナニヤドヤラ」を論じているのですが、その中で、この詩を激賞したある詩人がいました。その詩人は誰もが名前を知っている、日本を代表する有名な詩人です。誰だと思いますか? なんと、谷川俊太郎さんです。まさに「朝のリレー」の、地球上の遠く離れた地点を読者に同時体験させることができる大詩人が、「ひとつの言葉に、かれの観念を結晶させている。情緒だけじゃない」、「今日の詩の中で一番いい」と、絶賛されているのですね。谷川俊太郎氏公認カフェを経営する古川奈央さんのお父様の古川善盛さんの詩を、谷川俊太郎さんが読んでいた、そして、高く評価していた。これは凄い発見だと思うのです。運命を感じました。今日、このことを俊カフェで皆さんにご報告できますことを、嬉しく思います。

 私は旭川で戦後七十二年続いた詩誌「青芽」の後継誌「フラジャイル」を二〇一七年から発行しています。二年前に他界された「青芽」主宰の富田正一さんから戴いた『北海道=ヴェトナム詩集Ⅰ』に古川善盛さんの詩を見つけました。堀越義三さん、佐々木逸郎さん、笠井嗣夫さん、原子修さん、江原光太さん、花崎皋平さん、工藤正廣さんもご参加されていて、北海道の詩の派閥を超えて力を合わせて発行された本ですが、岡和田晃さんも「フラジャイル」十九号収録のトークの中でお話されていますが、批判のあった詩集でもあります。千葉宣一が「ヒューマニズムとセンチメンタリズムとは決定的に違う」と述べて批判しています。反戦の詩がずらりと並ぶ中、古川さんの詩は一風変わっており、ベトナムの昔話をベースに、神話的な詩空間を編み出しています。

   三滴の血      古川善盛

       ベトナム民謡「蚊の由来」による――

  ムカシ たむハ愛シマシタ 悪女トモ

  知ラズニ 妻ヲ。 ソレカラ 妻ハ愛

  シマシタ 金ノ首飾リヲ たむヨリモ。

     緑したたる水田で 限りなく深い空の下で

     タムは愛する

     ガスライターよりハンマーを

     金の首飾りよりも汗をふく手拭を

  アル日 妻ハ死ニマシタ。たむハ泣キ

  マシタ。

     愛するもののために

     タムは立ち上がる

   (*一部抜粋) 

   (『北海道=ヴェトナム詩集Ⅰ』 同書刊行会)

 戦争が何によって引き起こされているのか、その普遍的な根源に、詩人の目は届いていました。利権に群がる兵力をヘリコプターのような蚊の大群に例えました。一九六五年の北海道詩人協会の「北の詩祭」で、若い詩人たちによって朗読されました。

 今年(二〇二三年)の二月、ちょうどこの『北海道=ヴェトナム詩集Ⅰ』を読み、かつてはこのような活動があったのに、何故今はないのだろうと考えていたとき、ウエッブ・アフガンの野口壽一編集長からご連絡戴き、一月にアフガニスタンタリバン暫定政権が詩作禁止令を発令したこと、オランダに亡命中の詩人ソマイア・ラミシュさんが抵抗のために、世界の詩人たちへメッセージを発信していることを知り、その活動に反応致しまして、全国の詩人の方々へSNSを通して呼びかけを拡散し、日本からは三十数篇の詩が集まりました。今の日本では詩を書いても逮捕されませんし、アフガニスタンでも二年前までは詩を書いたり音楽を聴いたり、映画を見たりできたのですが、常識が変わってしまい、女性の人権も奪われているという中で、このような活動はソマイアさんには命を狙われる危険なことです。世界中から百篇程の詩が集まり、海外詩人二十一名、日本の詩人三十六名の詩を収めた詩集『詩の檻はない』を、八月十五日、アフガニスタンタリバンに陥落したちょうど二年後に、日本で発行しました。この編集・発行の作業を行い、道新さんをはじめ、様々なメディアでご紹介戴き、「詩と思想」や「現代詩手帖」、ペルシャ語版のBBCやインデペンデント紙でもご紹介戴きました。九月には日本ペンクラブ獄中作家・人権委員会が支持声明を出してくださいました。玉懸光枝さん(ドットワールド編集長)の朝日新聞デジタル、Yahooニュースにも掲載された記事では、旭川の詩の歴史…小熊秀雄や今野大力の時代には、日本でも自由に詩を書くことができなかったこと、戦後七十二年間、詩人たちに自由な発表の場を提供し続けた「青芽」の富田正一さんの想いなどについても、丁寧に紹介戴いております。十二月にはコトバスラムジャパンが全国大会へソマイア・ラミシュさんを日本へ招聘。現在準備が進められています。詩の歴史に刻まれるような素晴らしいことです。

 このアフガニスタンに関する取り組みや、各文学館での講演やイベント、小樽詩話会の六十周年、北海道詩人協会、安部公房の没後三十年、小熊秀雄の朗読会、鎌田東二さんの講演会、左川ちかの朗読会…今年は本当に忙しく、機会を戴くのは本当にありがたいですが、「フラジャイル」も発行しますし、会社勤務もありますし、果てしなく忙しくて、皆さん、生きていくのって辛いですよね(笑)。辛いとき、どうすればいいのか。例えば尊敬する詩人や文学者だったら、どうしただろうとか、ロールモデルのような存在なら、自分の直面する危機をどう乗り越えただろうとか、チャールズ・ブコウスキーが「ジュネやセリーヌだったら、こんなときどうするんだ」とよく書いていますけれど。何となく私の中で、古川善盛さんを学ばせて戴くことで、救われるような気が致しておりました。

 『詩の檻はない』の発行で忙しさはピークになり、それでもどうしても古川善盛さんを勉強したくて、それであれば、一冊本を作るくらいの覚悟でなければならないと思って、死に物狂いで作っていたのが、今日お配りさせて戴きました『帶』という詩集です。勉強するために作ったという感じです。タイトルについてですけれど、「帶」という字が普通の帯ではなくて、旧字になっています。旧字のほうは人名用漢字なので、命が与えられて生きているような、今日も展示されています古川善盛さんの切り文字が、「帶」という旧字のイメージに近いということ、「ナニヤドヤラ」なども切り文字が想像できる。独特な世界観だなと思ったこと、また、先程ご紹介した詩集『鬼郷七番通』の帯に書かれている「よいしょ」の詩の遥かな道、その道が帯かもしれないと思ったこと、古川さんが樺太で少年時代を過ごされた、国境に近い危険な地帯、その国境を表す帯であり、光と闇の境界のような、表紙に谷口雅彦さんの太陽の写真(「昭和最後の日の太陽」)を使わせて戴いておりますけれど、その光が闇に溶ける部分は虹を帯びていたのではないか…、そして、私は「連帯」という言葉につかう普通の帯にはしたくない気持ちが何となくあって、今回、『詩の檻はない』の活動を行う上で、みんなで連帯してタリバンと戦うぞ! という、デモ行進のような感覚よりは、アフガニスタンからオランダへ亡命した、母親であり政治家でもあるソマイア・ラミシュさんという、一人の詩人の想いに共感して、ソマイアさんが故国の人々のために行動する姿勢に心を動かされて、日本の表現の自由のもと、当たり前に詩を書ける私たちの普通の感覚で、普通に応援するような、そういう次元でなければ、多くの人に参加してもらうのは難しいし、日本の普通の感覚で多くの方にご参加戴いた方が、効果的だと思ったのですね。

 まだいくつか、この『帶』というタイトルの理由があるのですが、五月に吉増剛造さん主演の映画『眩暈 VERTIGO』がシアターキノで特別上映され、吉成秀夫さんが井上春生監督とご対談されたその日の一回目と二回目の上映の間に、井上春生さん、阿部嘉昭さんとこの俊カフェでご一緒させて戴きました。映画の最初のほうで吉増先生が、フィルムがカメラの外に出て、世界が膜になった、というお話をされたとき、今はあまり見ることのないカメラのフィルム、ビデオテープ、カセットテープなどは、音や映像の記憶のこめられたアナログの帯であって、デジタル化により絶滅へ向かっている《野性》なのではないかと思いました。吉本隆明がかつてゼロ年代の若い詩人たちの作品を「過去もない、未来もない。」「現在も何といっていいか見当もつかない「無」なのです。」(『日本語のゆくえ』光文社)と評したり、若い詩人は自然を書けないと批判し、万葉集を例に挙げたりしたときに、《野性》を嗅ぎとることができない、原稿用紙の升の帯に掌で書く文字ではなく、データ化されたテキストを「無」と感じたのではないかと、何となくそのように思っております。

 八月に道東へ行き、釧路のモンクールさんや、大空町のしまちちさんのcafeそらさんへ行く途中、弟子屈更科源蔵文学館へ参りました。佐々木逸郎さん、堀越義三さん、古川善盛さんは詩誌「野性」に参加していましたから、更科源蔵のお弟子さん筋のような存在だったのではないかと思いますが、更科源蔵の詩「雲よ」は古川善盛さんの切り文字の「夢」…そら、もうわすれてしまった…に少し似ているなあ、と思いつつ展示を眺めていると、展示ケースに詩誌「野性」二十三号を見つけました。目次のページが開かれていて、古川善盛さん、小樽の萩原貢さん、日塔聰さんの名前もあります。パネルには「戦時中のひよわな知性への反省と反論をこめて、《野性》とつけられた」という詩誌の名前の由来も書いてあります。プライマルな感性を大切にしようということですが、今だったら詩誌の名前には考えにくいかもしれませんね。いかがでしょう? 若い方でこれから詩誌を創刊して文フリで売ろう、というときに《野性》にしようぜ、ということになりますでしょうか。この詩誌「野性」には、安部公房安部公房の弟の井村春光さんも寄稿していたことを、先日、旭川文学資料館の安部公房の展示で知りました。そしてこれは北海道詩人協会の先輩詩人の本庄英雄さんが教えてくださったのですが、二〇二一年に復刻された鈴見健次郎の第二詩集『雪の美しい國』(一九五一年)復刻版の冒頭にいくつか写真が掲載されており、一つの集合写真に何の説明もなく、中央に安部公房、右隣に吉田一穂が写っています。昭和二十六年頃のようです。同じページの写真に更科源蔵もいます。最初に朗読しました古川善盛さんの詩「商法」が収められている『札幌の詩』(一九七八年)にも井村春光さんの作品が収められています。こうした北海道の詩人や文学者の繋がりも不思議な帯のようです。

 古川善盛さんという一人の詩人を学ぶために、本を作ることが台風の目のようになって色んな情報を渦巻状に引き寄せて、様々な資料を拝見させて戴く過程の中で次々と謎が浮かんできます。最初に書いた詩、最初に活字になった詩は何なのか? 先生は誰なのか? 更科源蔵、江原光太、療養されていた幌南病院にもいらしたはずです。そして、何を読んで影響を受けられたのか。陸士で、エリートで、英語が話せた。海外のものも読んでいたのではないか? 中央の現代詩もお読みで、古川善盛さんの詩論には朔太郎や鮎川信夫の引用もあります。詩誌「荒地」の創刊号の有名な「私の心臓の牢屋にも閉じこめられた一匹の犬が吠えている/不眠の蒼ざめた vie の犬が」の三好豊一郎の「囚人」のVieが登場する詩もあります。

     存在の斜面を      古川善盛

        ―その斜面を切傷のある無数の

         眼球たちが転がってゆく

     私の眼球と

     シャボン玉との

     確かに触れ合っていた

     接点

     ひろがりのない結合へ

     Vieの刃が無造作にすべりこむ

      そのようにして人は放たれた

      不均衡な歴史の重量に傾むく

      存在の中へ

      ひとり づつ

      (*一部抜粋) 

      (詩誌「野性」二十二号)

 これは昭和三十一年、二十九歳のときです。眼球ではなく風景が転がる、逆説的で硬質な哲学詩。三好の「囚人」が掲載されている「荒地」創刊号は昭和二十六年です。一人の文学者が、年代によってだんだん書き方や文体が変わってくるという謎が、どの作家や詩人にもあると思います。全詩集を読んだり、鈴木志郎康のようにプアプア詩の後はがらっと変わるとか、古川善盛さんも、初期の頃と、詩集『鬼郷七番通』の頃とは同じテーマを扱う詩でもやっぱり書き方が違います、こうした一人の詩人における詩そのものの変容の謎にも現代詩は対峙して取り組んでいかなければならないと考えております。もし古川善盛さんが三十代、四十代の、「野性」や「詩の村」の頃に詩集を出していたならば、その本は『鬼郷七番通』という一冊とは違ったものになっていたはずです。

 まだ私の拙い調査はほんの入口なので、資料の初出が何か、すべての作品に正確には記されておらず、何も書かれていないものもありますので調査中ですが、古川善盛さんは、詩の全国誌に度々登場するような詩人でした。北海道ではどういう存在だったのでしょう? 『鬼郷七番通』附録の堀越義三さんや佐々木逸郎さんの文章を読むと、「若い頃に「北海道文化論」を書いて入選している。」とあります。詩論も書いていたようです。「詩の村」に、当時の古川善盛さんが現代詩についてどう考えていたのか、手がかりとなる掲載があります。創刊号(昭和三十八年)と第三号(昭和四十年)です。三十六歳から三十八歳くらいのときの詩論です。

 現代詩は、結実をいそぐあまり、大事な何かを見落としてはいまいか。「何か」とは、つまり読者の側の美学であり、広言すれば大衆の美意識である。難解さの原因は、用語や、技法や、思考の問題であるよりも前に、まず読者の美意識に結びついているか否かに関わっているのではないか。思想――理性では動かされないもっと奥に、人間の美意識の一面が存在するはずだ。

その美意識をゆすぶり、魂の根底に喰らいつき、必要ならばそれを組織しなおすエネルギーとなること。それこそ詩が持つ力であろう。

 換言すれば詩人のコスモスの確立の度合が、その陥穴を発見するただ一つの呪文であろう。この陥穴へ近づく危険を避けようとして、敢えて読者の美意識には触れようとせず、強引な自己の美観の押しつけのみをくり返して「難解」の非難をあびているのが現代詩の現状ではあるまいか。

 (古川善盛「現代詩と大衆の美意識」 詩誌「詩の村」創刊号)

 詩の核心に迫る凄まじい論が展開されています。詩を語るとき、読者の美意識や流行に迎合してしまうという落とし穴があるけれど、その落とし穴にはまるかどうかは、詩人が自己の内部にどれだけ世代の典型を発見できるか、言い換えれば「詩人のコスモスの確立の度合い」が、その落とし穴を「発見するただ一つの呪文であろう」…「呪文」という言葉が出てきます。それから、「コスモスの確立の度合」…凄いですね。コスモスとは、一般的に、宇宙を秩序ある調和のとれたシステムとみなす宇宙観ですね。

 詩は、いわれるように呪文である。筋肉や神経や骨格や、その他解剖学が構成する人間の諸要素を一気にとびこえ、いのちの中核へまっすぐ喰らいつくための呪文である。呪文の言葉がおおむね他愛ない無意味なものであるように、詩も科学から見れば論理滅裂な世迷い言に似ているかもしれない。

 呪文は幾百度唱えられても常に畏怖であるように詩がくりかえし読んでも常に新鮮なおどろきであることを止めないのは、この期待ゆえにであり、詩人との対話を求めているゆえにではなかろうか。読者が期待しているのは「詩人の自我」ではない「詩人の主観」ではないそれは詩人の舟であり舳(へさき)であるにすぎない。この宇宙をいっぱいひろがっているあおい海、詩人の目の奥でも、読者の胃袋の底でも、ひたひたとひろがり、等しく波うっているこの海を覗き得ることこそ詩を読むよろこびである筈だ。

 (古川善盛「現代詩とは何か?」 詩誌「詩の村」第三号)

 「詩は呪文である」ということが語られています。「ナニヤドヤラ」のような、神秘的、呪術的な、古代の儀式的な言葉でしょうか。「新鮮な驚きと期待」。古川詩論では、現代詩とは書き手が自分の美意識を難解な言葉で押し付けるのではなくて、読者の美意識に結びつくところで、宇宙の秩序を確立させて、いのちの中核へ喰らいつく呪文のような言葉で、新鮮な驚きと期待に満ちていなければならない…こんな凄い詩を書けたら、大天才だと思いますけれど、私にはできませんが、詩人には目指すことはできる。一篇の詩で目指すことがもしできなければ、一冊で目指すことができるかもしれないと考え、決して一冊では完成しないけれど、一人の詩人を学ぶという目的で一冊の本を作る。レポートを書く目的で図書館でたくさん本を読むような感じで、『帯』という詩集を作りました。

 今日皆さんにお配りした拙作詩集『帯』(フラジャイル)の第一章は、古川善盛さんが二十代から四十歳になられるくらいまでの、「扇状地」、「野性」、「詩の村」、「北海道詩集」などに掲載された初期詩篇を読み込んで、何かを感じた私が、古川善盛さんの作品と同じタイトルの詩を、同じ語彙を一切使わず、ずれを生じさせるように書いたものです。すると引用は無いので出典も無いのですが、すべての資料に何年何月のどの出典かはすべて正確には記されていませんので、研究者の仕事としては、原典を辿る仕事を一歩一歩、これから取り組んでいかなければなりません。

 ちょうど先ほどの詩論が書かれた頃の詩で、「詩の村」第三号に古川善盛さんの「がったら」という作品がありますが、昭和三十八年(一九六三年)の「北海道詩集」には「がったろ」というタイトルで掲載されています。「ら」と「ろ」の違いの謎、単なる編集者の誤植というだけではなく、非常に重要なポイントではないかと考えます。固有名詞が揺れているのですが、言葉を扱う人がそれまでどんな風土の中で生きてきたか、そういうことによって、言葉が揺れるので、がったろ、がたろう、河童川太郎の訛りか、川底を網でさらうガタロか、古川善盛さんは樺太の前には十歳歳くらいまで青森にいらしたので、津軽弁が関係してくるのか、樺太は色んな土地から人が入っているので、様々な方言のミックスがあったのではないかとか、「ら」と「ろ」の違いで何世代分もの時間や距離が込められているかもしれない(「ナニヤドヤラ」を検索すると「ナニヤドラヤ」も出てきます)、吉増剛造さんが旭川での講演で、吉田文憲氏を、ふみのりさん、ぶんけいさん、「フラジャイル」の木暮純さんをキグレさん、コグレさん…、といった《名前の揺れ》についてお話されました(「小熊秀雄生誕一二〇年記念講演」(主催・旭川市中央図書館)「小熊秀雄への応答~現代への影響と将来への展望~」「フラジャイル」第十四号に収録)。古川よしもりさん、ぜんせいさん、キゴウではないオニゴウ(鬼郷)七番通…固有名詞の揺れる、焦点の揺らいでいる入口の扉の段階から時間や空間を動かして奥へ踏み進めていくと、だんだんピントが絞られていく、そのリズムのような揺れが私たちを言葉の内側へ誘ってくれるようです。柴田は紫田によく書き間違えられますが、じつは嬉しく、木は糸になるんだという詩の発想の瞬間のようで、糸や紐、帯などは想いの宿る不思議なもので、紫田と間違ってくださる方とは、何か特別なご縁が続いているように感じております。

 古川善盛さんの「がったら(ろ)」は、草野心平芥川龍之介の河童とは異なり、孤独な修道僧のような影であり、宇宙の謎を信じ、真理を追究し続ける。人よりも遥かに永く生き、三態の謎を解くことで有機から無機へ、冬の訪れとともに体が石へ変容してしまう呪いが覚めると信じる。何万回もの石の季節を経て、永遠の雲を眺め、結晶が舞い落ち、ようやく手が届くそのとき、かれは再び石と化してしまう…。この言語の運動体は、沈黙を強いられ、隠された真実により多くの命が失われた冬の時代に青春を奪われた詩人の眼差しが、永遠の自然の掟の向こうから現代を照射しているようです。

 『帶』の第一章では、古川善盛さんの初期詩篇の詩世界を、前詩集『4分33秒』で試したような短い詩形で、すくなくし、古川善盛さんの原詩とは一語も被らないように再現を試みました。「フラジャイル」十二号に掲載の阿部嘉昭さんのインタビュー(「減らしながら書く、減らすことと書くことの一体化」)が念頭にありました。先月十一月二十四日、美術新彩堂さんでの左川ちかトリビュートバイリンガル朗読会(思潮社)で、中村和恵さんが、ミナ・ロイの詩「ジャズ、エロス、投げられるわたし」と佐川ちかの「太陽の娘」についてお話されていましたが、左川ちかがミナ・ロイの詩を見事に減らした、すくなくした、ように感じます。

 『帶』は基本三章構成ですが、先ほどの古川善盛さんの詩論の問題提起として、「コスモスの確立の度合」、宇宙を秩序ある、調和のとれたシステムとみなす宇宙観を詩人は確立させなければならない…宇宙は、最新の観測では三次元のドーナツ型である可能性が判明しています。三次元の平坦トーラスという、初等幾何学のドーナツ型のようなもので、私たちは巨大な多次元の平坦ドーナツの表面に住んでいる。三次元でありながら、四次元以上の空間の中でしか実現しない。そういう宇宙観に近づこうとしたときに、異世界との接点の三つの次元を文体で示す、または文体が引き裂かれる状態で示していくということを考えて、三つの章でそれぞれ書き方が違うような宇宙構造を目指しました。

 三章構成でそれぞれ違う書き方で書く、一人の詩人も年代によって書き方が変わるということを考え、もう皆さんご存じのように私はあまり詩は得意ではありませんから、どろどろとした原形質のようなものしか書けませんけれど、その三章の三つの書き方のうちたった一篇でも詩の水準と呼べるようなものが書けたら、類型が見えてくる、自分の書き方が見えてくるような気が致しました。古川善盛さんの詩の書き方と自分の経験と密接であるところは何か? 表紙の谷口雅彦さんの「昭和最後の日の太陽」の光の通路をくぐった先は何か? 第二章は、古川善盛さんが詩人として活動されていた時代に私自身は何をしてきたのか、『鬼郷七番通』が発行された一九九六年に柴田望は何をしていたか? 数年前にあるご縁でボディートークという施術を受けて、二十一、二歳の悲しみが胸に溜まっていると診断されましたが、その頃を書いたのが第二章で、旧旭川駅を書いた「幻駅」(「ツヅル」08号に掲載)や、「書いてはならない」という作品です。この詩を五月にFacebookにアップし、なんと宮尾節子さんより「最高です」とのコメントを戴いたことが今年の、大変恐縮で、一番嬉しい出来事の一つでした。以前、帷子耀さんの影響で三角形の前衛的な詩をSNSにアップしていたとき、「もっと柴田さんという人が見える詩を書きなさい」と長田典子さんにアドバイスのコメントを戴いたことを念頭に、九六~七年頃、大学時代の中国人留学生との出会いと別れ、二人で強制労働の慰霊碑がある東川の中国人墓地の近くを訪れたときのことなどを書いているのが第二章です。古川善盛さんの編集者としての代表的なお仕事である『実録 土工・玉吉―タコ部屋半生記』(太平出版社)にも戦時中の中国人、朝鮮人の強制労働の場面があります。

 『帶』第三章はその髙田玉吉のこと、昭和五年(一九三〇年)から十五年間、北海道各地のタコ部屋を渡ってきた土工夫、髙田玉吉のお話を詩人であり編集者である古川善盛さんが口述し、詩人が土工髙田玉吉の聲と言葉に文体を与え、歴史的な経験を現出させました。謎とされ、忘れられようとしていた土工の世界の実態を克明に蘇らせた『実録 土工・玉吉―タコ部屋半生記』は、オイルショックの翌年、高度経済成長時代が終焉を迎えた一九七四年、東京の出版社から発行され、失われた時代の真実を露呈し、全国の注目を集めました。口述筆記と言えば今年、古家昌伸さんの調査メモも収められた『あたたかき日光 三浦綾子・光世物語』という田中綾先生の小説にえがかれている三浦綾子ご夫妻の仕事が有名ですが、魂のセッションのような、髙田玉吉さんと古川善盛さんによって記された北海道の土工の経験、膨大なエピソードを読み、そのお二人の仕事の現場に立ち会って声が聴こえてくるように感じたいくつかのエピソードを詩にまとめたものが『帶』後半第三章になります。

 さて、二十七年前の今日、一九九六年十二月八日に、中森敏夫さんのギャラリーで、古川善盛さんの唯一の詩集、『鬼郷七番通』の出版記念会が行われました。この日の様子が、一九九七年の江原光太さんの雑誌「妖」に、克明に記されています。江原光太さん、大島龍さん、笠井嗣夫さん、河邨文一郎さん、柴橋伴夫さん…錚々たる方々がご出席されていて、本当にアットホームな、いい会だったと皆さんが書かれています。詩集についても様々な方が「妖」にコメントされています。

「ぼくは古川善盛が『詩の村』に発表した「がったら」「波―Z労働組合通信」「空腹のタム」の三篇を忘れることができません。今回の詩集の巻末を飾った「負け鬼」から「鬼せがみ」までの七篇とともに」(江原光太)

人間主義ヒューマニズムの問題ですけど、そこに彼の鬼の意義があり、彼の存在の証明になっていて面白いですね。素晴らしい人柄だし」(長光太)

「《鬼》よりはむしろ、《せんべいの耳》こそ、詩人の自覚的な意識の基底に置かれた、およそ不可欠の形象と思われてくる。一種異形で、即物的なあの「耳」を言うのではない。生の苦渋を乗り切るに当たって、強い力を贈与しつつ向こうから作用してくるシンボルとしての《せんべいの耳》」(薩川益明)

「「カラスウリ」「貞作仮伝」「葦原」では断ち難い生まれ育った土地への思い。「肩車」「背からの声」でのファミリーの守護者の勤しさと優しさ」(川村竜)

       (「妖」一九九七年三月号)

 今日ご紹介する最後の詩、古川善盛さんの「背からの声」を朗読させて戴きます。

     背からの声      古川善盛

        1

     〈どうしてそっちへ行くの?〉

     雪道を曲った私へ

     小さなナオが背から尋ねる

     〈病院はすぐそこなのに〉

     〈こっちの方が近いのだよ〉

     小さなナオは

     〈ふうん〉

     といぶかしげに頷く

     本当は道を一本間違えたのだ

     (*一部抜粋) 

     (詩集『鬼郷七番通』 現地出版)

 私はこの詩は夜だと思ったのですね。夜、雪の中で眼鏡をかけて歩くと、街灯の光が見えたのではないか、その街灯の周りには、光の輪が帯びていたのではないか、その光が闇に溶ける境界は、虹を帯びていたのではないか、その虹彩の帯が、今日展示されています素晴らしい切り文字の帶であり、音を収めたテープ、映像を収めたフィルム、失われた野性であり、青森、樺太、埼玉、北海道…移住を続けた道であり、髙田玉吉が満州から小樽へ帰ってきて旭川へ向かう、長い長い線路の道であり、古川善盛さんが陸軍士官として、税関として立った国境の地帯であり、せんべいの耳なのではないかと。今年、井上靖記念文化賞を受賞された吉増剛造先生が、十月に平原一良先生と井上靖記念館で対談され、詩や芸術は「ほんのちょっとした瞬間に《別世界》があるなっていうのが勝負」と仰られました。その《別世界》へ一瞬にして導かれるきっかけのような古川善盛さんの、鬼、河童、せんべいの耳といった詩の言葉に触れるたび、だんだんこの谷口雅彦さんが撮影された「昭和最後の日の太陽」、『帶』の表紙に戴いた写真の太陽が瞼に浮かぶようになって、古川さんが出会った愛すべき鬼たち、河童も、三滴の血のタムも、ナニヤドヤラの踊り手も、国境の税関職員も、土工髙田玉吉も、昭和の太陽を見たのではないか、その太陽が虹の輪を帯びて、小さなナオさんを背負って歩いた雪の街灯や、遥かな道のりを歩いた様々な景色の世界に重なるように視えております。

 今日はせっかくお誕生日なので、古川善盛さんのことをご存じの方にぜひご発声戴ければと思います。小川道子さん、恐縮です、ぜひ古川善盛さんの想い出を、一言お話し戴けますでしょうか。

小川道子  今日は詩人の古川さんに出会わせてくださってありがとうございました。私が編集者の古川さん(当時五十代)に出会ったのはまだ三十代のころで、フリーライターとして古川さんの下でも随分仕事をさせていただきました。ある時、一行十六字、八行で「北海道のジンギスカン鍋の魅力を書く」という仕事をいただきました。その初稿を古川さんの元に持参すると「書き直し」とだけ。でも、どこを直していいのかわからない、何がお気に召さないのだろうと、とにかく直して持っていくとまた書き直し。「この原稿にはジンギスカンの匂いがない」と。匂いのある記事ってどう書けばいいのか、ひたすらそれを考え続け、書き直し、七回目の書き直しでやっと「よしできた」と言っていただけました。あれ以来、私は自分の書いた原稿に「あなたの求める匂いはこの中にあるの?」と自分で問うようになりました。古川さんは、私に原稿との向き合い方を教えてくださった大恩人です。

 私は今「よりみち+」という冊子を隔月で発行していますが、その前々身「香澄」を創刊したのは二十六年前です。その時の発案者の一人が「詩の村」の同人だった方で、「詩の村がなくなり僕は詩を書く場所がなくなった。でも詩を書きたい。お前は古川善盛の薫陶を受けたんだろう、じゃあ、編集長になって冊子をつくってくれ」と。その時の発案者三人は皆もう他界されていますが、それ以来私は古川さんを引きずって、冊子の発行も続けています。

柴田  小川さん、ありがとうございます。ぜひ、もうお一人いかがでしょうか。古家昌伸さん、お願いできますでしょうか。

古家昌伸  冒頭に名前を出して頂いて驚いておりました。私は二年くらい前まで北海道新聞におりまして、文化部の記者でした。若い頃に少し詩を書いていて、山形にいた頃、真壁仁さんを慕っていた人たちの同人誌に入りました。その後、北海道に来ることになって真壁仁と更科源蔵さんが結びつきました。たしか北海道詩人協会の方の紹介で更科さんの奥さまとお会いしたり、日塔さんの詩が好きだったものですから「折鶴忌」に顔を出させていただいたりしていました。その縁で、古川さんや堀越義三さんとお会いする機会も頂きました。柴田さんが仰っていたように、日塔さんが奥さんと子どもを連れて札幌へ移ることになったとき「詩人が来た」と歓迎して家も仕事も探してくれたそうです。更科さんは面倒見がよく、しかも真壁さんの紹介もあったのでしょうか。日塔さんと古川さんはともに結核療養所で過ごした仲でしたし、古川さんは仲間と札幌での日塔さんの詩集刊行にも尽力しました。「日塔さんは細身でいつもビシッと背広を着て、襟に親指を入れてパタパタさせて服を見せる仕草をよくしていたよ」などと、人となりも伺いました。そんなよき時代が北海道の詩の歴史にあったことを、自分の同人誌(「調べ」)に書いたのを柴田さんが読んでくださり、俊カフェの古川奈央さんが善盛さんの娘さんであると教えていただきました。古川さんは編集者やデザイナーの仕事をされていて、事務所を訪ねた記憶があります(筆者注:CAPSという編集プロダクションだと、のちに奈央さんからうかがいました)。詩人であることも分かっていたのですが、当時はあまり作品を読む機会がありませんでした。柴田さんが一年間でここまでしっかり調べ、古川さんの詩を紹介してくださったので、このような詩人だったのかとあらためて知ることができました。いい時間でした。ありがとうございました。

柴田  古家さん、貴重なお話をありがとうございます。もっと皆様のお話を伺いたいですが、お時間となりましたので本日は以上になりますが、もっと古川善盛さんのことを勉強させて戴いて、ぜひ三年後の十二月八日、この続きをさせて戴きたく存じております。この俊カフェというスペースが北海道の詩の重要拠点でありますことを、古川善盛さん、江原光太さん、更科源蔵さん…先達の詩人の方々にお伝えしたいなぁと思っております。たくさんの詩のイベント、朗読会、若い詩人たちが俊カフェで育って、詩を書き、学び、素晴らしい場を古川善盛さんの娘さんの奈央さんが作られて、この俊カフェから新しい北海道の詩の文化ができていく、素晴らしい場で今日お話しをさせて戴きましたことを心より感謝申し上げます。本日は皆様誠にありがとうございました。

*詩誌「フラジャイル」第20号記念号(2024年5月発行)に収録

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