【国富町】美女と古墳:37号墳が語る美しき髪長媛(かみながひめ)の伝説
《本庄古墳群》
( 4 ) 37号墳 (上長塚古墳)
5世紀、日向地方にはその美しさで知られる女性がいました。彼女の名は髪長媛(かみながひめ)。今回は前半で彼女と関わりがあると言われる37号墳について、そして後半は髪長媛の物語に踏み込んでいきます。
・37号墳の墳丘はまるで滑走路
37号墳は全長約73m、高さ約7mの前方後円墳で、5世紀中頃に築造されたといわれています。
旧道から古墳北側に入り、登ってみましょう。東京苑右隣です。勾配がきついので、滑らないように注意。
「上長塚」の標石。長い年月で傾いたのでしょうか?白黒にすると荒涼感があって良いですね。
前方部は工事中?
前方側に石が積まれています。これは何でしょうね?この辺に祠があると聞いたのですが……
さらに、前方の端の部分に何かが吊るされています(2024/9下旬)。もしかして、祠の修復作業中でしょうか?
アゲハチョウ発見。彼岸花の赤との組み合わせがきれい。
平面と曲線の美しさ
後円墳側の光景です。墳丘は平らで滑走路のようです。古墳にしては不自然な平坦さですが、以前ここで何らかの祭典を行っていたようです。そこで墳丘を整地して、このように平らになったとか。古墳全体が空母のような気がしました。
北側側面。傾斜の曲線ラインが美しいですね。
後円墳側の風景です。日露戦役記念碑が建っています。
・37号墳から望む千貫塚古墳
後円側からは36号墳(千貫塚古墳)が見えます。古墳から古墳を見る。なんとも贅沢な光景ですね。
・絶世の美女と言われる、髪長媛(かみながひめ)
諸県君(もろかたのきみ)は南九州を一帯を支配する豪族でした。その中心地は国富と考えられています。その一族の牛諸井(うしもろい)の娘、髪長媛は絶世の美人と評判でした。噂を聞き付けた応神天皇は、自分の妃にと迎え入れます。ところが天皇の息子であり、後の仁徳天皇が彼女に一目ぼれしてしまいます。それを知った応神天皇は息子を思い、彼と媛を引き合わせました。そして後に仁徳天皇妃となった髪長媛は、生涯を終えるまで、一度も国富に帰ることはありませんでした。
下は髪長媛中心に見た系図です。分かりやすくするため簡略化しています。また、この系図には神話の要素が含まれています。
応神天皇は実際に会うこともなく、性格も気にせず、美人という噂だけで彼女を迎え入れたのでしょうか?現代で言うルッキズムに当たるかもしれませんが、これは神話の世界。ご容赦くださいませ。
ちなみに髪長媛は都城の早水池近くで生まれ、彼女が顔を洗った泉水は「美人の水」と言われているそうです。
・37号墳と髪長媛との関係は不明
髪長媛と37号墳の関係について具体的なことは分かっておらず、彼女が埋葬されているかも不明です。一説には、西都原の女狭穂(めさほづか)古墳に埋葬されているとも言われていますが、実在そのものにも諸説あります。
・古墳の美、人間の美
37号墳は住宅や畑に囲まれています。なので全体を眺めることは難しく、上からの眺めを堪能するタイプです。側面は整った傾斜、そして本来の形ではありませんが、滑走路のような墳丘も美しいです。37号墳の美しさは、この造形美にあります。
一方、髪長媛の美しさは天皇の耳にまで届いたと言われていますが、それはどのような美しさだったのでしょうか。
「いつも笑顔の子が一番美しい」
~オードリー・ヘプバーン(女優)
今の時代だと、人間の美しさは老若男女問わずこれですね。髪長媛はいつも笑顔だったのでしょうか?それとも時折その笑顔が消え、遠く離れた国富や家族を思うこともあったのでしょうか?古墳の上に立ち、彼女の思いを想像するのも面白いかもしれません。
取材協力:
中野正裕様 (くにとみ史跡・文化ガイドの会会長)
37号墳 (上長塚古墳)
住所:〒880-1101 宮崎県東諸県郡国富町本庄4046 (地図)
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