詩篇
18:32
32主のほかに神はない。 神のほかに我らの岩はない。
サムエル記下
22: 32
主のほかに神はない。 神のほかに我らの岩はない。
nob********さん
2015/4/20 22:12
4回答
旧約聖書で神様を
「岩」にたとえているのを幾度も見かけます。
新約ではシモンを「ケファ(ぺトロ)」と呼んでいます。
双方、どういう意味合いで使われていますか?
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ign********さん
2015/4/21 19:48
旧約聖書には「岩」という意味の言葉が2つ、「ツール」(=ツル)と「セラア」(=セラ)ですが、この意味の違いは「よく分からん」などということはありません。聖書神学では「よく分かって」います。
「ツール」は、noble_prince_of_pianoさんがご指摘の「神」のたとえとしての「岩」です(詩編18:2〔訳によっては3〕、18:31〔訳によっては32〕、73:26他)。これはゆるがない、どっしりとした大きな岩を意味し、人間がどうこうできない対象、厳然たる存在としての「岩」です。これを「絶対性の象徴としての岩」と呼ぶことにします。
・・・ということで、神さまを「岩」にたとえている、その1つめの意味は明快です。当時の人々の神のイメージが、大きくて不動の存在であったことが読み取れます。2つめは当時のイスラエルにおいては避難場所として岩穴が重要だったという歴史的背景があります。したがって、困難な状況において神さまとの関係に避難しようという信仰的心理が(一種の現実逃避と言えるかも知れませがネガティブな意味ではなく)、「神=岩」という表現を生んだのです。
これに対して「セラア」の方は、えぐられたり、打ち砕かれる岩です。つまり人間が何らかの作用を及ぼすことのできる対象としての「岩」です。これを「相対性の象徴としての岩」と呼ぶことにします。
聖書の舞台となった地域の風土は砂漠地帯で岩が多く、住居は岩をえぐってつくられました。それが「セラア」です。また、モーセは荒野で岩を打って水を出すという奇跡を起こしましたが、あの岩がこれです。その場合、「ツール」が用いられている箇所もあるにはありますが(出エジプト記17:6)、主要な場面では「セラア」が用いられています(民数記20:11)。
さて、ご質問の、シモンを「ケファ(ぺトロ)」と呼んでいるその意味ですが、この「セラア」が語源です。
イエスや弟子たちはアラム語で話をしていたので、イエスはシモンに「ペトロ」と名付けたのではなく「ケファ」と名付けました。その意味が「岩」ですが、上記のとおり、絶対性を象徴する「ツール=大岩」という意味ではなく、むしろ相対性を象徴する「セラア=えぐられ、砕かれるべき岩」という意味です。
「ケファ」をギリシャ語に訳すと女性名詞の「ペトラ」になり、それを男性化したのが「ペトロ」です。
なぜ、イエスがシモンに「岩」という、それも「えぐられ、砕かれるべき岩」という意味として名づけたのか?といえば、シモンがそのようにされるべき「我(ego)」の強い頑固者だったからだといわれます。
しかしそういうことよりも、イエスという神の子であり神である存在の弟子たちが、けっして私たちとは違う特別な人たちなどではなく、むしろ私たちと同様に弱い人間だったということ、相対的な存在であったということを弟子の代表格であるシモンが体現することになるからだと思います。
事実、彼はイエスを裏切り、その悔恨の十字架を背負って生きる者となりました。しかしその負のエネルギーが逆に、聖霊降臨を通して原始キリスト教会を形成してゆく原動力へと転化されたのです。
余談になりますが、そのようなペトロをイエスは「この岩の上に私は自分の教会を建てよう」と言われたのです。その意味は、このような相対的存在を土台とするキリスト教会もまた、けっして絶対的などではなく、つねに自己を相対化しつつ歩まなければならないということだと思います。
ところが後のキリスト教会は「教会の外に救いなし」などとおごり高ぶって他宗教を見下し、キリスト教絶対主義という大きな過ちを犯すことになりました。このようなキリスト教会こそ神のみ手によって「えぐられ、砕かれるべき」ものなのです。
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