2024年2月14日水曜日

寺田紀之 · 魏志の地名:糸島の怡土郡は伊蘇志[イソシ]の訛りであった

  

 
 
けい 邪馬台国阿波(徳島)説論者
⁦‪@hareharedesyo31‬⁩
九州説破綻
糸島がイト郡と呼ばれていたのは事実です。
ですが
伊蘇志(イソシ)→伊蘇(イソ)→伊覩(イト)
と変化しています。
これは仲哀天皇が伊蘇志と褒めたことが由来です。
つまり、卑弥呼の時代にイト国とは呼ばれていなかったということです。
筑前国続風土記にすべて載っている事実です。
(続↓) pic.twitter.com/uf4jhfKsMo
 
2024/01/27 15:30
 
 
https://x.com/hareharedesyo31/status/1751130419012219140?s=61


寺田紀之

魏志の地名:糸島の怡土郡は伊蘇志[イソシ]の訛りであった

末盧國を、東松浦半島もしくは唐津に比定すると、糸島への方角(東南500里)に合致しない。糸島には、添付のように前漢・後漢時代の遺物は多くあるものの、魏の時代の遺物に比定できる物はない。
出土した40面の銅鏡のうち、実に半数以上の22面に着色が確認されており、捏造品の疑いがかけられている。方格規矩鏡、内行花文鏡、四螭鏡は漢鏡であり、魏鏡ではない。魏鏡の鏡とされている画文帯神獣鏡、曹操鏡などは糸島からは発掘されていないのである。即ち、糸島は前漢・後漢時代は中国王朝と深い交流を持っていたが、魏の時代には、交流が乏しかった地と言える。
実際、2世紀後半、後期小氷期が起こり、水田耕作が進んでいた北部九州は飢饉に見舞われた。新羅本紀には、その様子が記載されている。
(伐休尼師今)十年,六月,倭人大饑,來求食者千餘人。
(AD193年 六月、倭人が大飢饉となり、食を求める者が千余人も来た。)
北部九州が再び発展するのは、西晋の時代になってからであろう。にも拘らず、糸島=伊都國という説が定着している。その理由として、糸島周辺が怡土(イト)郡と呼ばれていたことが大きな論拠となっているようである。
しかし、コトバンクによれば、怡土郡は、古代(記紀成立以前)、「伊蘇(イソ)国」と呼ばれ、それが訛って、「伊覩」(イト)と呼ばれるようになったとのことである。怡土の地名は、「和名抄」諸本に怡土とみえるが、「魏志」東夷伝倭人条にみえる「伊都国」に由来するとされる。
https://kotobank.jp/word/怡土郡-3096265
旧怡土郡は大化の改新以前は伊覩(イト)縣が置かれ、『日本書紀』によるとその祖の名は五十迹手(イトテ)で、仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したとされる。福岡市西区には伊覩神社がある。
『筑前国風土記』逸文では筑紫に行幸した天皇を出迎えて奉ったため、勤し(伊蘇志[いそし])と讃えられた。それがなまって伊覩(いと)になったと伝える。同様に「日本書紀」でも、仲哀天皇八年正月四日条には仲哀を「穴門の引嶋」(現山口県下関市の彦島か)に出迎えた「筑紫の伊覩県主の祖 五十迹手」を、仲哀が「伊蘇志」とほめたのでその本拠地が「伊蘇国」とよばれるようになり、「伊覩」(イト)はその訛りである(今謂伊覩者訛也)と明記されている。
神功皇后記が、その七支刀の記述、三国史記との記述矛盾から、120年遡って記述されていることが指摘されている。その夫の仲哀天皇の時代に伊蘇志[いそし]という名がつけられ、それが訛ったというのであれば、魏の時代に「イト郡」と言う名前があったはずがない。
当郡に関する神功皇后伝承も多く、同様の地名起源説話は「筑前国風土記」逸文(釈日本紀)にもみえ、そこには「恪勤(カクゴ)国」とある。「日本書紀」神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年九月一〇日条)によると、出産間近の神功が応神の出産を抑えるため使用したという鎮懐石が「今、伊覩(イト)県の道の辺」にあったとされ、「古事記」は所在地を「伊斗村」と記す。
日本書紀は魏志を意識して記述されたと思われ、神功皇后記で魏志を引用し、伊都國に関する記述も多い。おそらく、記紀成立以前、魏が来倭した頃には、怡土郡は[イト]とは呼ばれていなかったことに間違いないであろう。
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イトと呼ばれる場所は、糸島の他にもある。田川郡位登(イト)郷(福岡県)であり和名抄にも記載されている。また位登古墳もある。以前投稿した内容を下記に再掲する。
1)伊都國の場所
魏一行が宗像(末盧國)に上陸したとすると、東南五百里の地は田川である。宗像~田川間の直線距離は35.9km、行程距離は39.5km程度であり、記述にほぼ合致している。古遠賀川は、縄文海進の時代は、深い入り江で、江戸時代にバイパス工事が行われるまで、舟が往来できる川であった。添付図の、「12上の原遺跡群」、「13下伊田遺跡群」(平成筑豊鉄道糸田駅の東側)の付近まで舟が往来できたという。この付近が古来『イト』と呼ばれていた。この付近に伊都國の港があったと推定できる。実際、両遺跡からは、弥生時代、大陸、半島、日本海側との交流があった遺物が多く残されている。糸魚川の翡翠も発掘されている。魏の一行はおそらく、「喫水の深い船」で来倭したと思われる。古遠賀川は水深が浅いので、喫水の深い帆船は、寄港することができなかったので、当時玄界灘を支配していた宗像水軍の港、宗像から上陸したと考えられる。
伊都國の王は、この港には常駐せず、「15宮原遺跡」に居たものと思われる。この遺跡は弥生時代後期~終末期(1世紀~2世紀頃)の2基の箱式石棺墓から後漢で製作された鏡2面、大型鏡1面の破片と国産の鏡1面の計4面が出土した。この大型鏡は、遠賀川流域内で最も大きく、他の2面の鏡を含めて、状態が良いままで現在まで残っている。この時期の銅鏡は、地域の首長クラスの墳墓に1面ずつ副葬されることが多いが、宮原遺跡では2面ずつ出土したことから、埋葬されていた人物は有力な首長であったことがうかがえる。
宮原遺跡の地は香春(かわら)であり、近くに社格の極めて高い香春神社がある。この神社には豊比売命(とよひめ)が祀られており、続日本紀に八幡比売神であると記され、宇佐の元神とされている。宗像~田川~宇佐~豊後・大野のルートは宗像氏が力を及ぼしていた地域であり、副官・卑奴母離が対馬から投馬國まで宗像族に友好的、かつ安全なルートで道案内したのである。
田川からは糸島同様、魏鏡は出土していないが、田川の南には、大分県日田市があり、曹操の鏡(鉄鏡)が発掘されている。日田と田川は約40km程度の近距離である。阿波の萩原1号墓から画文帯神獣鏡の同范鏡が出土しているが、これと同じ鏡が平壌大同江区域からも出土している。卑弥呼の時代は、糸島周辺よりも田川を介して豊前、豊後等が魏と深い交流を図っていたと推定できる。
2) 不彌國の港
不彌國の港は草野津(かやののつ)であった可能性が高い。古代、行橋のみやこ湾は内陸にかなり入り込んでいた。実際、草野津には弥生時代の桟橋、倉庫跡の遺跡が発掘されている。
では、魏の一行は伊都國(田川)からどのようなルートで不彌國まで行ったのであろうか?添付図に示すように、田川から東南百里の地は内田付近である。この地に、倭国大乱を勝ち抜いた奴國の関所があり、その役人に面会したのであろう。さらに東百里行くと犀川になる。犀川には小規模ながら、弥生時代の遺跡が数多く残されている。この地が不彌國の入口で、魏の一行はここで歓待を受けたのであろう。
倭人伝に記載されている工程で、多くの人は、その国の都に行ったと考えているが、それは違う。例えば、伊都國と不彌國の距離はわずか2百里であるが、その間に2万戸を擁する奴國の都が存在し得るはずがない。官吏と面会した場所は奴國の関所であろう。不彌國の場所も魏一行が不彌國の官吏とした場所であろう。投馬國も同様に都まで行かずに、投馬國の港に立ち寄ったのである。ゆえに、奴國、投馬國に関する記述は簡潔なのである。なお、南至邪馬壹国の記述も邪馬壹国への上陸地点が南の方角であるという意味である。







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