2024年12月8日日曜日

「ゴルドン夫人 石羊」の検索結果 - Yahoo!検索

2019/11/13 -この石羊は英国人のキリスト教および仏教研究家で早稲田大学の名誉講師として教壇(比較宗教学)にも立ったエリザベス・アンナ・ゴルドン夫人 ...

据えられている一対の石羊がある︒夫人. が朝鮮の義. 州. で. 神殿彫刻とを関連づけ︑更に石羊の角. はユダヤ教会で贖. 罪の日に吹くジョファ. ー. ︵角笛︶と同一であると ...

https://search.yahoo.co.jp/search?p=ゴルドン夫人%20石羊&ei=UTF-8 

中村
17:37 12月8日 ( 日 )
Waseda DaigakuTosyokanKiyou_30_Nakamura

E・A・ゴルドン夫人の生涯
中村悦子

ゴルド文庫
和漢書
五八六冊
書一、
一、四四三
「ゴルド文庫」の創設者である夫人に私が最初に関
心を持ったのは、明治・大正期の女子教育に大きな足跡
を残した実践女子学園の創立者、下田歌子を調べている
時であった。
華族女学校の学監であった歌子が、一八九三(明治二
十六)年皇女教育視察のために渡欧した際、ロンドンで
懇切に世話をしてくれた親日的な女性があった。ハイド
パークの傍の「みやのした」と日本名をつけた自邸に歌
子を寄宿させ、当時としては非常に困難だったヴィクト
リア女王の謁見まで実現させた女性、それがゴルドン夫
人だったのである。その後調べを進めるに従って、夫人
の日本文化への貢献の大きさと、英国貴族の身で、日本
を愛しついには日本に骨を埋めたその生涯に私は深い興
味を抱くようになった。 夫人が私の二つの母校のそれぞ
れの創立者と厚い友情で結ばれていた事にも縁(えにし)
を感じないではいられなかった。まだ不明の点も多い
が、ここに夫人の一生の概略を記してみよう。
エリザベス・アンナ・ゴルドンは、一八五一年イング
ランドのランカシヤー地方の名家ヘンリー家に生まれ、
後にスコットランドの貴族ジョン・エドワード・ゴルド
の妻となった。 ゴルド家は「太平天国の乱」を鎮圧
した司令官として勇名を馳せたC・G・ゴルドン将軍の
一族で、古くから名門として知られていた。一八九七年
の英国紳士録によれば、ジョンはエジンバラ大学出身
で、 ネス湖に近いエルギンとネアン地方を選挙区とする
保守党の議員であり、ロンドン商工会議所会員としても
活躍していた。
一方、夫人は数人の子女を育てながら、ヴィクトリア
女王の女官をつとめ、さらにオックスフォード大学を一
PERALATY

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ASIA
よう。
八八六年に三十五才で卒業している。この時大学で比較
宗教学、サンスクリットの大家F・M・ミュラー博士に
師事したことと、同門の日本人留学生高楠順次郎らと知
り合ったことが彼女のその後の生き方を決定したといえ
大学でアジア宗教に魅せられた夫人は、夫との世界旅
行の途次、一八九一 (明治二十四)年にはじめて日本を訪
れた。
anod d
この時の旅行記 “Clear Round" には「日の出の国」
「天使の子の国」として、日本の美しい自然と、穏やか
微笑を浮べ上品で清潔で屈託ない国民と、その高い文
化が描かれている。版を重ねて広く読まれたこの本は、
英国人の日本への好感を生み、日英同盟の締結に有利に
作用したと評価された。
旅から帰った夫妻は、その年発足したジャパン・ソサ
エティに入会し、一層日本とのつながりを強めた。ロン
ドンで下田歌子と出会ったのはこの頃であった。 夫人の
「姉妹母子もただならぬ懇情」に、二人の間には国境を
文庫創設者を語る
越えた友情が芽ばえた。その後夫人は他の英国在留日本
人にもさまざまな援助を惜しまず、「英国における日本
の母」と慕われたという。
そして十数年が過ぎ、夫人は日本と新たな結びつきを
持つこととなった。日本に洋書が少いと同門の高楠らが
嘆くのを聞いた夫人が、 それを英・米・カナダの新聞に
訴えたのが発端だった。それは日露戦争後の日本への関
心の高まりを背景に大きな反響をよび、夫人のもとに九
万冊余の書籍が届けられた。 一九〇七 (明治四十) 年八月
一九〇七(明治四十)
の末、夫人は再び来日してこれらの本を日比谷図書館に
寄託した。こうして「日英文庫」 (Dulce Cor Library)
とよばれる厖大な書籍が日本にもたらされた。これが日
本の文化にどれ程の貢献をしたかはかりしれない。 しか
もこの洋書寄付運動を、夫人はその死まで十七年の長き
にわたって続けたのだった。
この再来日を機に夫人は日本に留まって、かねてから
の持論である仏耶一元の研究にとりかかった。それは仏
教とキリスト教の同根をあらゆる方向から実証しようと
T
ビー
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するものであった。夫人は中国の景教を媒介として、 キ
リスト教が空海の真言密教に伝えられたに違いないと考
えた。八世紀の頃、唐の長安に建てられた「大秦景教流
行中国碑」の複製を高野山に建立し、漢字とシリア文字
で書かれた碑文の研究を進めたのもそのためであった。
夫人はこのほか、ザヴィエル記念碑の建立やエジプト
発掘などにも援助の手をのべた。また名誉講師として早
大の教壇に立ち、『愛国婦人』などの新聞や雑誌に寄稿
し、講演も行なった。 “Speaking Stone” “The Glories
of Christ" "Symbole of the Way" "In the Name of
the Messiah” “The Lotus Gospel” などなど、多く
の著作を丸善や早大図書館から出版し、『弘法大師』な
どの仏教書の英訳も手がけた。
だがこうした充実の日日に突然、第一次世界大戦に従
軍していた長男戦死の悲報がもたらされた。急いで帰国
しなければならなくなった夫人は、それまで研究のため
収集した洋書約一五〇〇冊、仏画や器物など五〇〇余点
早稲田大学に寄贈することとした。 大隈夫妻を敬慕し
ていた夫人が、「学問の独立を標榜する大学で自由に同
好の士の研究に資する」ことを望んだためだった。
 こうして一九一六(大正五)年の末に「早大ゴルドン文
「庫」が誕生した。 それは夫人の深い探求心によって集め
られた宗教、民族学などを中心とする貴重なコレクショ
であった。その中の一つに、現在も図書館の玄関脇に
据えられている一対の石羊がある。 夫人が朝鮮の義州で
入手したというこの石羊のイチハツ紋の台座の柱には、
現在はよくわからないが、輝く真珠とそれを破壊しよう
とからみつくトカゲ、そしてラテン様式の七つの十字架
が彫られていたらしい。夫人は著書の中でこれらの文様
と、中国景教碑の文様、二世紀のシリアの神学者バル・
ダイサンの詩「真珠賛歌」、紀元前六世紀の頃のメロエ
神殿彫刻とを関連づけ、更に石羊の角はユダヤ教会で
罪の日に吹くショファー(角笛)と同一であると論証して
いる。つまり夫人はこの石羊を古代宗教の東アジア伝播
のあかしと見たのであった。大隈侯も「これは消すこと
このできない石に刻まれた証拠である」と語ったという。
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EM
さて大隈侯らに惜しまれて去った夫人がそれからの数
年をどのように暮したか、はっきりしない。だが一九二
○(大正九) 年頃には再度来日していて、 京都ホテルで研
究三昧の日を送っていたことがわかっている。
この時期、夫人は既に夫と愛息を失っており、高齢と
なって宿痾にも冒されていたらしい。「淋しき異邦人」と
自らを呼ぶ夫人にはかつての闊達さは望むべくもなく、
京都ホテルでの晩年の六年間、ただ一度しか外出しなか
ったといわれている。だが研究心は衰えることがなかっ
た。学問上の疑問については誰彼となく手紙でただしな
がら、“Heirlooms of Early Christianity Visible in
Japan" "Indian Church History" “Asian Christology
and the Mahāyānā" 等の著作を次々と上梓した。 そ
の一方で、 ユダヤ問題や排日運動にも心を痛めて発言を
続けた。学問とヒューマニズムに生きた晩年であった。
一九二五 (大正十四年六月二十七日、かねてからの腎
臓病が悪化して京都ホテルで逝去、七十六歳であった。
葬儀は京都東寺において仏式で営まれ、遺言によって高
文庫創設者を語る
野山奥の院と朝鮮金剛山長安寺に分骨して葬られた。 戒
名は「密厳院自覚妙理大姉」。仏耶一元の研究に生涯を
かけた人にふさわしく、 高野山景教碑の傍らの、 八葉蓮
華に十字架を配した墓の下に眠っている。
先般高野山大学を尋ねた私は、夫人の死後収められた
蔵書(高野山ゴルドン文庫)に混って部厚い遺稿が残され
ているのを知った。 ホテルの一室で病と戦いながら書き
続けたものだろうか。びっしりと書きこみの残る草稿を
見ながら、家族も国も捨てて研究に没頭した夫人の心を
思って、私はいつか深い感動に包まれていった。
Hi
E.A.GORDON
COLLECTION
書集ンドルゴ
學大田租早
館鴦鍋附
Waseda University
Library
1916
ゴルドン文庫蔵書票
-211-

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まろリンさんによるXでのポスト 信長

    まろリン ⁦‪@tXKC3twb1U7m6ee‬⁩ 信長公直筆の雪月花 お鍋の方が残された遺品 この書をみて風流だと感じられる方と 志半ばで本能寺に倒れた儚さを感じる方がいるそう。 私は拝見して、初めは文字の意味までは汲み取れず あぁ、信長公は存在したんだ。 と改めて感じ...