「クマヤ」の意味は「神よ立ち上がれ」
前述したとおり、「クマヤ」という名称の意味には定説がありません。しかしながら、この言葉をヘブライ語で読むと意味が明確になることから、その語源はおそらくヘブライ語であると考えられます。
「クマヤ」の意味はヘブライ語で簡単に理解することができます。まず、קום(kum、クム)は立ち上がるとう意味のヘブライ語です。そして「ヤ」は「神」を意味する言葉です。ヘブライ語では神のことを יהוה(yhwh、ヤ―ウェー)と書きますが、実際には母音がついてないことから発音できない言葉です。よって任意の母音をつけて「ヤ―ウェー」と記載する場合があります。しかし、今日までユダヤ人は聖なる神の名を発音することを避けています。よって、yhwhというヘブライ語の言葉は発音できないままなのです。その代わり、「ヤ」という言葉は「神」を意味する言葉として頻繁に用いられてきました。つまるところ、「ヤ」の神はイスラエルの神なのです。
すると、「立ち上がる」を意味する「クム」と、神の「ヤ」を合わせると、「クムヤ」となり、「神よ、立ち上がってください」という祈りの言葉になります。その「クマヤ」が多少訛って「クマヤ」になったと考えられます。それ故、神が立ち上がることを象徴する岩にふさわしい名として、「クマヤ」という名称で知られるようになったのではないでしょうか。
もしかすると、クマヤ洞窟が天岩戸伝説に結び付いているという説は、あながち間違いではないのかもしれません。天照大神が洞窟から立ち上がって出てくることを願い求めて、「神よ、立ち上がってください」と祈ったことが、クマヤ洞窟の背景に潜んでいたのかもしれないからです。天岩戸伝説とクマヤ洞窟が結び付いているという学説の信憑性が増してきます。
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中でも、その舞台は琉球にあったという説が、18世紀後期に歴史学の分野にて名を馳せた藤原貞幹の「衝口発」という論文の中で発表されました。そして天岩戸の比定地が、伊平屋島の「クマヤ洞窟」であったと解説されたのです。衝撃的な論説を繰り広げた「衝口発」の内容は、その後、多くの論争を巻き起こすことになります。
伊平屋島クマヤ洞窟の考察
天の岩戸伝説に繋がるクマヤ洞窟
伊平屋島のクマヤ洞窟とは
伊平屋島の最北端、田名(だな)集落の北側にあるクバ山の近くに、「クマヤ洞窟」があります。島の東岸に位置し、その西側には「ヤヘ岩」があります。3億年近く前のチャートが海風によって浸食され、風化して出来上がったとされる「クマヤ洞窟」は、沖縄県の天然記念物に指定されています。
洞窟内は高さが約10m、奥行は40mほどあり、およそ600平方メートルの広さを有します。洞窟の奥は島の西岸にまで繋がっているという伝承があり、西側からの入口は西クマヤ穴と呼ばれていました。また、洞窟の奥には石積みに囲まれた住居のような跡があります。
「クマヤ」と呼ばれるようになった所以に定説はありません。一説によると、神が「籠る」場所が「籠屋」であり、「コモヤ」が訛って「クマヤ」になったと言われています。また、神が穴に籠ることから「籠穴」を「クマヤ」と呼ぶようになったという説もあります。
天岩戸伝説の舞台と言われる所以
日本書紀や古事記に記されている古代の神話の中には、天照大神が洞窟の中に隠れてしまい、出てくることを拒んだ天岩戸伝説に関する記述があります。その比定地としては、九州の高千穂が有名であり、高千穂には天岩戸神社も建立されています。その他にも、天岩戸伝説の比定地は国内に数多く存在します。
中でも、その舞台は琉球にあったという説が、18世紀後期に歴史学の分野にて名を馳せた藤原貞幹の「衝口発」という論文の中で発表されました。そして天岩戸の比定地が、伊平屋島の「クマヤ洞窟」であったと解説されたのです。衝撃的な論説を繰り広げた「衝口発」の内容は、その後、多くの論争を巻き起こすことになります。
藤原貞幹の「衝口発」とは
江戸時代中後期の卓越した歴史研究家である藤原貞幹は、儒学や書道、和歌、雅楽をはじめ多くの学問に精通し、日本の考古学や文献学の祖とも称された学者でした。その学識の領域は大変広く、代表作である「集古図」には、日本の地理や天文学、石器、刀剣、銅器、瓦器、葬具などに関わる幅広い見識に基づく資料が提供されています。
「衝口発」によると、神武天皇は伊平屋島にて出生しただけでなく、その北端にあるクマヤ洞窟が、天岩戸伝説の舞台であったとしています。そして発表された学説の中では、神武天皇が在位した年代を繰り下げ、神代文字の存在を否定し、さらには素戔嗚尊を新羅の国王としたことを論じています。そのため終始議論は尽きず、本居宣長を筆頭に多くの国学者らはこの論説を糾弾したのです。です。
「衝口発」が提唱するクマヤ洞窟と岩戸伝説の関連性については、定かではありません。しかしながら、まだ交通の便もさほど発達していなかった江戸時代に、広い日本の国土の中から沖縄諸島の離島である伊平屋島に着眼しただけでなく、島の北端に佇む巨石見出して、そこを天岩戸と特定することは至難の業であり、何かしら大事な根拠が存在したに違いありません。そこでクマヤ洞窟の詳細を詳しく検証することとします。
クマヤ洞窟を塞ぐ落石の跡
クマヤ洞窟の実態を詳しく見てみると、小さい山のようにも見える巨石からなる岩の山は、とても不思議な形をしていることに気が付きます。特筆すべきは、海側に面している正面の形状です。洞窟の入口がある正面側は、頂上から山が切り落とされたような様相となっており、崩れ落ちたと考えられる大きな岩石が落下したまま積み重なって残されていることを確認できます。つまり、洞窟全体を構成する巨大な岩石の前面部が、最上段から落下した形跡が残されているのです。
人為的に崩された可能性さえ否定できないような不思議な切り口であることから、いずれにしても遠い昔、何等かの力が加わり、クマヤ洞窟の前面の岩は崩れ落ちたことがわかります。そして崩れる前に、岩の前面が風や波により浸食されて空洞化したため、結果として正面が崩れた岩によって塞がれ、洞窟の様相を呈するようになったのです。
その一連の出来事を天岩戸伝説に結び付けて考えると、確かに辻褄が合うのです。つまり入口が岩石の落下によって一時塞がれてしまい、その中に天照大神が閉じ込められてしまったと想定しても不思議ではありません。その後、大勢で岩を動かすことにより、少しずつ光が入り始め、やがて人が通れるようになったと推測すれば、天岩戸伝説のストーリーと見事に繋がります。
今日、これらの推測については何ら立証する術はありません。しかしながら、これほどまではっきりとした落石の痕跡が残されている巨大な洞窟で、入口が塞がれているような様相となっている岩石は、国内にほとんど事例がありません。どのようにして京都に拠点を持つ藤原貞幹が琉球諸島の伊平屋島にクマヤ洞窟を見出だしたのか、知る由もありません。何らかの天文学的な知恵や、レイラインの構想などを用いた洞察力を駆使して特定したのではないかということが想定されます。
クマヤ洞窟2枚岩の意味
実際にクマヤ洞窟の中に入ってみると、その中は意外に広いことに驚きます。そして奥にある祭壇の右側には、2つに割れた岩が左右に広がるように置かれ、その中間が通り道となっているようです。この2枚岩は、古代イスラエルの民が神との契約のシンボルとして設置した、割かれた生贄の象徴に類似したものであると考えられます。
旧約聖書創世記15章には、アブラム(後のアブラハム)が生贄を真っ二つに裂いて、互いに向かい合わせて置いた後、アブラムの眠っている間に煙と松明に象徴される神が、その間を通り抜けたと記されています。約束が成就されることを象徴する神聖な出来事として、古代イスラエル人は、1つの体を2つに割いてその間を通ることが、命をかけて約束の契りを結ぶ意味となることを知るようになりました。そして岩は神を象徴することから、いつしか2枚の岩の合間を歩む時、神との契約が結ばれるという儀式として理解されるようになったのではないでしょうか。
このような割かれた岩の祭壇は、諏訪大社の裏山に佇む守屋山の磐座などにも散見されます。クマヤ洞窟の中に、人為的に割かれた岩が綺麗に二股に分かれて置かれていること自体、古来よりイスラエルの民がその場所で祭祀活動を行っていた可能性があることを示唆しています。
「クマヤ」の意味は「神よ立ち上がれ」
前述したとおり、「クマヤ」という名称の意味には定説がありません。しかしながら、この言葉をヘブライ語で読むと意味が明確になることから、その語源はおそらくヘブライ語であると考えられます。
「クマヤ」の意味はヘブライ語で簡単に理解することができます。まず、קום(kum、クム)は立ち上がるとう意味のヘブライ語です。そして「ヤ」は「神」を意味する言葉です。ヘブライ語では神のことを יהוה(yhwh、ヤ―ウェー)と書きますが、実際には母音がついてないことから発音できない言葉です。よって任意の母音をつけて「ヤ―ウェー」と記載する場合があります。しかし、今日までユダヤ人は聖なる神の名を発音することを避けています。よって、yhwhというヘブライ語の言葉は発音できないままなのです。その代わり、「ヤ」という言葉は「神」を意味する言葉として頻繁に用いられてきました。つまるところ、「ヤ」の神はイスラエルの神なのです。
すると、「立ち上がる」を意味する「クム」と、神の「ヤ」を合わせると、「クムヤ」となり、「神よ、立ち上がってください」という祈りの言葉になります。その「クマヤ」が多少訛って「クマヤ」になったと考えられます。それ故、神が立ち上がることを象徴する岩にふさわしい名として、「クマヤ」という名称で知られるようになったのではないでしょうか。
もしかすると、クマヤ洞窟が天岩戸伝説に結び付いているという説は、あながち間違いではないのかもしれません。天照大神が洞窟から立ち上がって出てくることを願い求めて、「神よ、立ち上がってください」と祈ったことが、クマヤ洞窟の背景に潜んでいたのかもしれないからです。天岩戸伝説とクマヤ洞窟が結び付いているという学説の信憑性が増してきます。
クマヤ洞窟と酷似する巨石や磐座
クマヤ洞窟の容姿に似た形状の巨石や磐座が、日本全国を見渡すといくつか存在することに気が付きます。まず、四国の徳島県と高知県の県境にある竹ヶ島の東海岸にある磐座です。古代からその巨石の頂上に置かれた石の上では神が祀られてきました。太平洋側に面している前面は綺麗に崩れ落ちており、表面はほぼ、平らになっています。よって、竹ヶ島の磐座を横から見ると、クマヤ洞窟の形に酷似して見えるのです。また、同じ四国の徳島県には剣山へ向かう山麓に、石尾神社の巨石が存在します。山のような岩そのものが御神体となり、その形状もクマヤ洞窟を彷彿させます。巨石を御神体としているだけでなく、その場所が古代の聖地である剣山へ向かう途中の通過点であったことから、石尾神社は古代の旅人の聖地となったことでしょう。
さらには、クマヤ洞窟をモデルとしたようなミニチュア版の磐座も、諏訪大社の奥宮である裏山の守屋山の山麓上に存在します。長さ2mほどの積み石ですが、明らかに人為的に作られた岩であり、その形状もクマヤ洞窟との関連性を匂わせています。特に守屋山は古代集落として名高い阿久遺跡のそばに聳え立つ名山であり、諏訪大社と共に、古代、イスラエルから渡来した民が神事を行ってきたと考えられる痕跡が残されています。
クマヤ洞窟は、その名称の由来からして、イスラエル人が命名した可能性が高いと考えられます。神が立ち上がることが宣言されたのが、「クマヤ洞窟」だったのです。また、クマヤ洞窟の形状に酷似した磐座が、琉球諸島を超えて日本列島に存在することは、大変興味深いことです。これらの洞窟や磐座の存在と、その地理的な位置付けや相互関係を調べることにより、古代人の知恵の結晶がいかなるものであったのか、その真相にすこしずつ近づくことができるはずです。
クマヤ洞窟の背後には、マスターマインドとしてイスラエルからの渡来人の存在があったと推測されます。
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