2024年2月14日水曜日

ゾンバルト ヴェネチア

  


第二章 十六世紀以来の経済中心地の移動  

 近代経済の発展の経過にとって、決定的に重要な事実は、国際経済関係の重心と、経済エネルギーの中心地が南欧諸国民(イタリア人、スペイン人、ポルトガル人と、いくつかの南ドイツ地域の住人)から北西ヨーロッパ国民へと移ったことである。後者にはまず、ベルギー人とオランダ人、ついでフランス人、イギリス人、そして北ドイツ人が属する。本質的な出来事は、突然オランダが興隆したことであり、それがその後の経済大国、とくにフランスとイギリスの強力な発展のきっかけをつくったことだ。十七世紀全体を通じ、北西ヨーロッパ諸国のすべての理論家および実業家にとってはただ一つの目標しかなかった。それは商工業、海運それに植民地獲得の分野でオランダに追いつき追い越すことであった。  この周知の事実に関して「歴史家」たちは、まったく奇妙な説を打ちだしている。

  たとえば、アメリカの発見、東インド諸島へ向かう航路の開発のせいで、イタリアと南ドイツの諸国家、それにスペインとポルトガルは経済的重要性を失ったというのだ。またこれによってレヴァンテ、つまり対中近東貿易の重要性が減少し、この貿易の主要国であった南ドイツとイタリアの諸都市の地位がゆさぶられたともいうのだ。だがこれは全く筋の通っていない説明である。まず第一に、対中近東貿易は、十七および十八世紀を通じて、他のほとんどすべての地方との貿易を凌いで発展した。南フランスの商業都市の繁栄も、はたまたハンブルクの商業の発展も、この期間を通じて、とくに対中近東貿易に依存していた。それに十七世紀になって勢力を失った様々なイタリアの都市は、貿易ルートが荒廃したにもかかわらず、十六世紀全般を通じて依然として強力に対中近東貿易に関与していた(たとえばヴェネチアのように)。  しかしなぜ十五世紀にいたるまでの指導的民族であったイタリア人、スペイン人、それにポルトガル人が、(航路を通じる)アメリカおよび東アジアとの新しい貿易関係の発展によって損害を受けねばならなかったのか、ということや、なぜこれら国民が、少なくとも、フランス人、イギリス人、オランダ人、それにハンブルク市民とくらべ地理的位置のために不利益を受けたのかという理由は、まったくわからない。  ジェノヴァからアメリカあるいは東インドに向かう航路の長さは、アムステルダム、ロンドン、それにハンブルクからこれらの土地に向かう航路とほとんど同じではないか? ポルトガルとスペインの港を出たイタリア人とポルトガル人によって発見され、まず最初にスペイン人とポルトガル人によって獲得されたこれら新開地にはまるで、最短距離の航路が通じていないみたいではないか?  

 これと同様に頼りなく思われるのが、経済の中心地の北西ヨーロッパ諸国への移動を納得させるための他の論拠、つまり強力な国家権力のことである。国家権力によって、これら諸国民は、分裂していたドイツ人およびイタリア人よりも優位に立つことができたというのだ。ふたたび驚きのあまり質問したい。それではあのアドリア海の強力な女王〔ヴェネチア〕は──十六世紀はともあれ──十七世紀において、オランダよりも貧弱な国家権力しかもっていなかったのか? またフェリペ二世の国・スペインが、権力と名声において、その頃すべての国にまさっていなかったか?

 驚きつつ質問はつづく。なぜ政治的には分裂していたドイツのなかの個々の都市、たとえばフランクフルト・アム・マインやハンブルクが、十七および十八世紀を通じて、英仏でもわずかな都市にしか比肩を許さないほどの繁栄に達したのか? 

 このように疑問を抱える様々な現象の全体の原因を探るには、ここは適当な場所ではない。最終的結果が出るまでには一連の状況が同時に作用したのであろう。そこでむしろわれわれがこの問題をあつかうにさいして、もっとも注意を払うべきように思われながらも、不思議なことに、わたしの知るかぎりでは、そもそも考慮に入れられることもなかった奇妙な現象を解明する可能性を指摘すべきであろう。わたしはもちろん経済の重心の南欧から北欧への移動(簡略化したため、かならずしも正確な表現ではない)を、ユダヤ人の移住と関連させる可能性を考えているのだ。この考えを抱くや否や、これまでは、どうもはっきりしないように思われたあの時代の様々な動きについて、一挙にすばらしい解明の兆しが出てきた。そこで、われわれは少なくとも、これまで、ユダヤ民族の地理的な移動と、様々な民族と都市の経済的運命との間の外面的並行性が気づかれなかったことに驚いている。まるで太陽のように、ユダヤ人はヨーロッパ全土の上に照り輝いた。ユダヤ人が来る所には新生命が芽生え、ユダヤ人が去った所では、これまで栄えたものすべてが衰えていった。ユダヤ人が十五世紀末以来体験した有名な移動、変動の状態を少しでも思い出すならば、この観察の正しさがすぐに確かめられるであろう。 

 まず他の何ものにも先がけて思いをはせなくてはならない壮大な世界史的出来事は、ユダヤ人のスペインおよびポルトガルからの追放であろう(一四九二年、一四九五年、それに一四九七年)。コロンブスが、アメリカを発見するために、パロスを出帆した日(一四九二年八月三日)に、三十万人のユダヤ人が、スペインから、ナヴァラ、フランスへ、そしてポルトガルへ、また東方へと移住させられたことをけっして忘れてはならない。しかもヴァスコ・ダ・ガマが、インド航路を発見した年にイベリア半島の他の部分、つまりポルトガルがユダヤ人を追放したのだ。 

 ユダヤ人が十五世紀末から経験した場所の移動についての、数字の裏づけのある把握はできない。この方向で行なわれた試みは、その大部分が推測値の割りだしにとどまっている。わたしの知っている最良の研究は、J・S・ロエブ「中世におけるカスティリアおよびスペイン在住のユダヤ人の人口」(「ユダヤ人研究評論」第十四号、一八八七年、一六一頁以下)である。ロエブの数字の多くはほとんど見積りにすぎないが(ほとんどが現在各地に居住するユダヤ人の人口である)、ここで彼の熱心な研究の成果をあえて伝えたいと思う。彼によれば一四九二年に、スペインとポルトガルには、約二十三万五千人のユダヤ人がいた。これは二百年前とほとんど変わらない。そのうちアンダルシア、グラナダを含め、カスティリアには十六万人、ナヴァラには三万人となっている。これらスペイン─ポルトガルのユダヤ人のその後の行方は次のとおりである。受洗者五万人、航海中死亡した者二万人、移住者十六万五千人、そして移住者の受け入れ先は、 欧亜にまたがるトルコ  九〇、〇〇〇人 エジプト、リビア  二、〇〇〇人 アルジェリア  一〇、〇〇〇人 モロッコ  二〇、〇〇〇人 フランス  三、〇〇〇人 イタリア  九、〇〇〇人 オランダ、ハンブルク市、イギリス、それにスカンジナビア諸国  二五、〇〇〇人 アメリカ  五、〇〇〇人 他の国々  一、〇〇〇人  これを補完するため、わたしは多くの物事について、きわめて知識豊かなヴェネチア使節ウィツェンツォ・クエリーニの一五〇六年の報告のなかに見られる数字をあげておく。「スペインのカスティリアおよびその他の州では、州の人口の三分の一がマラノス(改宗ユダヤ人)である。彼らは市民と商人階級のおよそ三分の一にあたる。なぜなら庶民階級は、純然たるキリスト教徒であり、また上流階級の大部分も純粋なキリスト教徒だからである」(アルベリによる) 

 したがって公式な追放のあとも市民階級の三分の一がユダヤ人であった! そうしたことからしても(他の理由からも大いにそのように思えるのだが)、スペイン(およびポルトガル)からの彼らの退去はとくに十六世紀を通じて行なわれたと考えるべきだろう。  

 その方式からいって、同じように考慮に値する出来事が続出したのは、奇妙な偶然である。それは、新大陸の開発と、同じ頃行なわれたユダヤ民族の大がかりな再編制だ。しかしユダヤ人のイベリア半島からの公式な追放は、同地における彼らの歴史をただちに終わらせたわけではない。まずはじめは多くのユダヤ人が仮装したキリスト教徒(マラノス)として残留した。彼らは、フェリペ三世以来とりわけきびしく実施された異端糾問(1)によって、それにつづく世紀の間に、土地から追いだされた。スペインとポルトガルのユダヤ人の大多数は、十六世紀とくにこの世紀末期に、他の国々に移住した。そしてこの時代にはまたスペイン─ポルトガルの国民経済の成行きがおかしくなった。 

 十五世紀にユダヤ人は、もっとも重要なドイツの商業都市から追放された。ケルン(一四二四─二五年)、アウクスブルク(一四三九─四〇年)、ストラスブール(一四八三年)、エアフルト(一四五八年)、ニュルンベルク(一四九八─九九年)、ウルム(一四九九年)、レーゲンスブルク(一五一九年)。  

 十六世紀にはユダヤ人は多くのイタリアの都市で同じ運命にあった。彼らは一四九二年、シチリアから、一五四〇年から四一年にかけてナポリから、一五五〇年にジェノヴァから、同じ年にヴェネチアからそれぞれ追放された。しかもイタリアでも一時的な経済的後退とユダヤ人の退去が一致した。 

 その半面、とりわけスペイン系ユダヤ人が移住したもろもろの都市や国で経済的興隆──それもまったく突然の興隆──がみられたが、それはユダヤ人移民の到着以後のことと考えられる。たとえば十六世紀に強力に繁栄したわずかなイタリア都市の一つリヴォルノは、イタリアへ逃げこんだ大多数のユダヤ人の目的地であった(2)。

  多くのユダヤ人を十六および十七世紀に受け入れたのは、ドイツではとくにフランクフルト・アム・マインとハンブルクであった。


 一五五〇年、ヴェネチアの市参事会がマラノスを追放し、彼らとの取引を厳禁すると決めたとき、同市のキリスト教徒の商人たちは「それではわれわれが破滅する。われわれ自身も放浪の旅に出なくてはならない。なぜならわれわれはユダヤ人との取引によってのみ生きてゆけるからだ」と宣言した。彼らはさらにユダヤ人は次の四つの事業を手中におさめているとのべた。

 一 スペインの羊毛取引 

二 スペインの絹、深紅色の色素、砂糖、胡椒、西インドの植民地商品と真珠の取引 

三 輸出貿易の大部分。ユダヤ人はヴェネチア人に商品を委託輸出している。「なぜなら、彼らは自分たちも儲けながら、われわれの日用品を売ったからだ」(!) 

四 手形取引(14)


#6

第六章 経済生活の商業化

145

いうまでもないが、ここではまず、第一期、つまり内的発展期、内なる成熟期に目を向けること

にする。

近代証券取引所の起源を手形取引に求めようとすることは

むしろこの概念を外面的に把握す

るとすれば、手形商の統合ということになるが おそらく的を射ているだろう。 十六世紀、とく

に十七世紀に著名な取引所が生まれた場所は、例外なく、活発な手形取引が行なわれた中心地であるからだ。

 だが、 取引所全盛期にはユダヤ人が証券取引市場をほぼ独占的に支配していたことは、すでに明らかである。 手形取引は、十六、十七世紀、 さらに部分的にはそれ以後も、各地でユダヤ人の独壇場であった。

 (十六世紀の) ヴェネチアに関しては、他の問題を論じたさいに、すでにふれた。


 アムステルダムでも、 ユダヤ人は抜群の手形および貨幣交換商であった。 それは、とくに十七世

紀末以後のことであるが、それ以前はそうではなかったと言明できるだけの根拠はない。

十七世紀にアムステルダムの支店としての役割を演じたのは、フランク

マインで

あった。すでに十六世紀にステファヌスは、「ユダヤ人は市場にとって、装飾物ではなく、とくに

手形取引に関しては利益になった」とのべている。 一六八五年には、フランクフルトのキリスト教

商人たちが、「ユダヤ人は手形取引と仲介活動を完全に手中に収めてしまった」と嘆いている。グ

ルンの友人たちは、「手形などの取引をまるでユダヤ人のお家芸のよ

リュッケル

うに」したの る。

ハンブルクでは、ユダヤ人が最初に手形および銀行事業を定着させた。 一世紀後(一七三三年)、

市参事会文書は手形取引業者としてのユダヤ人について、 ユダヤ人は手形取引においては「ほぼ完

全に親方」であり「われわれを凌駕してしまった」とのべている。 十八世紀末には、ハンブルクの

ユダヤ人はほぼ唯一の本格的な手形買取人であった。

(3)

ドイツの諸都市に関しては、さらにフェルトについても、手形取引(十八世紀のの大半がユト


#10

 ユダヤ人は、彼らが空間的に拡散したことによって与えられた利益を、組織的に利用し、そのあげく、地球上の様々な場所の状況を迅速かつ確実につかみ、さらに最良の情報を入手していたことから、もろもろの証券取引所において、彼らの業務上の態度を、物事の状態に応じて、利益のあがるように調整していけた。この様子をこれ以上は望めないというほど詳細な描写を交えながら、ハーグ駐在のフランス公使が一六九八年に伝えている(5)。この報告者は、ユダヤ人がこのように正確な情報をもっていた理由の大部分を、彼らがアムステルダムの証券取引所において占めている卓越した地位にあると見ている。なぜなら、ユダヤ人がここを本質的に支配していることを、彼はすでに詳述しているからだ。  この文句のつけようのない証言の重要さに直面したわたしは、次にその要点を伝えようと思う。フランス語の文面は難解で、翻訳も困難であったが、わたしは意味の上では正解だと思われる次のような訳文をあえてのせることにした。 「彼らは(情報と商業)両面において組合と呼ばれている組織を通じ交流しあっている。そのなかでも(たしかにそれほど富んでおらず、組合員の数も多くはないが)、ヴェネチアの組合が、これらの組織のなかでも一級の組合と見なされている。それというのも、この組合は西方と東方の世界を結んでいるからだ。それにこの組合は、東方および西方世界にいるユダヤ人を管理しているサロニカの組合と結びついている。またサロニカの組合はヴェネチアの組合と結びついているおかげで、北方の世界を支配しているアムステルダムの組合とも連絡されている(このほかロンドンには、一応黙認されている組合があり、フランスにも秘密の組合がある)。そんなわけで、オランダ在住のユダヤ人は、商業および情報の両面において、現代の世界の出来事について、もっとも早く、しかも、もっともたしかな知識を得ることができる。彼らはさらにこれに基づいて、きわめて合目的的にキリスト教徒がどの宗派も、一斉に宗教上の義務に忙殺されている日曜日、つまり土曜日の次の日に毎週、集会を開く組織をつくりあげた。明敏かつ微妙な趣きのあるこの組織は、その週内に得たもろもろの情報を、ラビや聖書学者の助けを借りて、吟味、検討し、日曜の午後、早くもおよそ考えられるかぎり、もっとも利口な証券取引所の仲買人や代理人に通達している。この人々もやはり互いに十分に話し合ったあと、やはりその日のうちに、彼らの目的にかなった情報を個々にひろめてゆく。その翌日(月曜日の朝)、この人々は、ただちに仕事をはじめる。彼らは個々の人間の様子を見た上で、品物の売買や有価証券、株式の取引を行なうことにする。これらすべての品目を金額の面からいっても備蓄量の面からいっても、大量に抱えこんでいるために、彼らは売買にあたって高値の方向で、あるいは安値の方向で、それとも両方の方向で同時に勝負に出るか好機が来るまで待つかをつねに正しく測定することができる」  王侯貴族の信頼を得ることが問題になるとともに、彼らユダヤ人の国際性は本質的な利益を与えてくれる。彼らの大銀行家、大資本家への道はしばしば次のようにして開かれていった。彼らはまず言語の知識が豊富なところから通訳となって王侯の役に立った。ついで彼らは仲介者、交渉人として異国の宮廷に派遣された。その後王侯は彼らに自分の財産の管理を委任した(その間に、王侯は彼らの債務者になることによって同時に彼らに栄誉を与えた。それから彼らは、財政の支配者となった。そして後には証券取引所の支配者になった)。  ユダヤ人は、外国語の知識と、外国の文化になじんでいたことによって、すでに古代から、王侯の信頼を得るきっかけが与えられていた。彼らはエジプトに行ったヨセフからはじまり、史家ヨセフスが伝えているアグリッパ王およびローマ皇帝クラウディウスの母の相談役アラバルヘン・アレキサンデルを経て、聖書「使徒行伝」(第八章二十七節)が伝えているエチオピア人の女王カンダケの高官で女王の財産の管理人にいたっている。

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