| ||||||||||||||||||||||||
明治大正史 世相篇 柳田国男コレクション (角川ソフィア文庫) Kindle版
いまひとつは正反両様の証拠のともにしめしがたく、たとえば日本人は希臘よりきたるという説8までも、成り立ったり闊歩したりするような区域9において、この無敵の剣を舞わすことは、なにか巧妙なる一種の逃避術のごとき感がある。だから邪推をする者には故意に事実の検閲を避け、推理法の当否を批判せられるのを、免れんとする者のごとく解せられるので、これはこの新たなる研究法10の信用のため、かなりおおいなる損害といわなければならぬ。それを防止するためにも自分はいま一方の片扉11を、ぜひとも押しひらく必要があると思った。
8 日本人は希臘よりきたるという説 法隆寺の胴張り(中央部が一番太い柱の形)の起源が古代ギリシアの建築にあるとする伊東忠太の学位論文(一八九三)の仮説で、和辻哲郎『古寺巡礼』(一九一九)で有名になった。
9 成り立ったり闊歩したりするような区域 古代研究という領域のこと。その時代は、だれも現実に経験したことがないうえに、「正反両様」すなわち、肯定にせよ否定にせよ、どちらも説の証拠をしめすことがむずかしいため、推理の当否の議論や判断から逃避しているかのように思われてしまう。
10 この新たなる研究法 先述の「Folklore」「民俗学」「この方法」を指す。
11 いま一方の片扉 古代史ではない、もう一方のほうの研究、すなわち近代史・現代史の研究。
資料はむしろありすぎるほど多い。もし採集と整理と分類と比較との方法さえ正しければ、彼に可能であったことがこちらに不可能なはずはないと考えたのである。
この方法はいまわずかに民間におこりかけていて、人はこれを英国風に Folklore などと呼んでいる。一部にはこれを民俗学ととなえる者もあるが、はたして学であるか否かは、じつはまだ裁決せられていない。今後の成績によってたぶん「学」といいうる6だろうと思うだけである。
しかもそういう人たちのなかには、もっぱらその任務を茫洋たる古代歴史の模索に局限しようとする傾向がみえるが、これに対しても自分は別な考えをもっている。
そのひとつは古代史にしてなおこの方法によって究めえべくんば、新代史7はいよいよその望みが多かろうということ、遠き上古にすらこれを応用する必要があるならば、近くしてさらに適切なる現代の疑問にも、ぜひとも試みてみなければならぬということであった。
6 今後の成績によってたぶん「学」といいうる こうした現状認識は、『民間伝承論』(一九三四)でも主張されている。「あるていどの協同が得られるまでは、民俗学という語は日本語にならぬほうがよい。それにこの学問は今日はまだ組織だった学ですらもないのである。」[全集8:一六頁]
7 新代史 上古(古代初期)の歴史に対して、新しい時代の歴史、すなわち近代史・現代史のこと。
いまひとつは正反両様の証拠のともにしめしがたく、たとえば日本人は希臘よりきたるという説8までも、成り立ったり闊歩したりするような区域9において、この無敵の剣を舞わすことは、なにか巧妙なる一種の逃避術のごとき感がある。だから邪推をする者には故意に事実の検閲を避け、推理法の当否を批判せられるのを、免れんとする者のごとく解せられるので、これはこの新たなる研究法10の信用のため、かなりおおいなる損害といわなければならぬ。それを防止するためにも自分はいま一方の片扉11を、ぜひとも押しひらく必要があると思った。
8 日本人は希臘よりきたるという説 法隆寺の胴張り(中央部が一番太い柱の形)の起源が古代ギリシアの建築にあるとする伊東忠太の学位論文(一八九三)の仮説で、和辻哲郎『古寺巡礼』(一九一九)で有名になった。
9 成り立ったり闊歩したりするような区域 古代研究という領域のこと。その時代は、だれも現実に経験したことがないうえに、「正反両様」すなわち、肯定にせよ否定にせよ、どちらも説の証拠をしめすことがむずかしいため、推理の当否の議論や判断から逃避しているかのように思われてしまう。
10 この新たなる研究法 先述の「Folklore」「民俗学」「この方法」を指す。
11 いま一方の片扉 古代史ではない、もう一方のほうの研究、すなわち近代史・現代史の研究。
0 件のコメント:
コメントを投稿