宇野正美と内村鑑三
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内村鑑三の小論より
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日本雛形論
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https://vt.tiktok.com/ZSFL5FGWw/
2024/1/1 -王仁三郎によれば、日本は世界の雛形であり、そのため両者の地形は互いに照応するとされています。しかもそれは四国や九州といった一部に限られる話では ...
日本雛形論とは日本と世界の地形は霊的に連動しており「日本は世界の雛形である」という説。 出口王仁三郎の大本教の教えである。 明治後期から昭和戦前にかけて広まっ ...
内村鑑三が言及した人類学者はマクラウドかも知れないが、以下のスコットのことかも知れない。
日本の天職(280) スコット (W. Robertson Scott) の著書 The Foundation of Japan (1922) には内村との会見記事がみられる。
参考:
内村鑑三(うちむらかんぞう)が『日本の天職』(1924年)という小論を発表している。
■『日本の天職』の冒頭。聖書から3つの聖句が引用されているが、
これを解説しだすとマニアックになり過ぎてしまうので、今回は省略。
興味のある人は各自でご確認を。(使徒17:26,27 ヨシュア13:33 詩編110:3)
■『日本の天職』の末尾に「付録」として、日本人イスラエル説についての解説がついている。
この解説も面白いので、全文載せてみる。
【付録】
日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは、早くより学者の唱えた所である。
かつて、ある有名なる西洋の人類学者が京都の市中を歩きながら、
行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人あるを見て、
指さしてこれを案内の日本人に示したとの事である。
その他、日本人の習慣の内にユダヤ人のそれに似たるもの多く、
また神道とユダヤ教との間に多くの著しき類似点ありという。
今回、米国の日本人排斥に対して、かの国一派のキリスト信者が、
「日本人イスラエル説」を唱えて、
大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。
日本人の敬神にユダヤ人的の熱誠あるは、人のよく知る所である。
キリスト教の宣教歴史において、
日本人のごとくに真実にこの教えを受けた者は他に無いと信ずる。
宣教開始以来六十年後の今日、キリスト教はすでに日本の宗教となった。
キリスト教は日本において、他国において見ざる発達を遂ぐるであろう。
西洋の宣教師が日本人を教化するあたわざるは、
日本人に宗教心が不足するからではない。
それが西洋人以上に多いからである。 (完)
日本の天職&日本人イスラエル説/日本の精神性が世界を感化する … 内村鑑三の小論より
内村鑑三(うちむらかんぞう)が『日本の天職』(1924年)という小論を発表している。
この小論の言葉づかいは古いが(大正時代の文語)、内容はぜんぜん古くない。
むしろ今の時代の日本にこそ当てはまる内容だと思うから、
ひとりでも多くの人に知ってほしい。
そこで今回は、『日本の天職』の要所を抜粋しながら、
・日本の天職とは何か? (=日本がこの世界で果たすべき役割)
・内村鑑三って誰? (=不敬事件の人、キリスト教の無教会主義を創った人)
・百年前の日本人イスラエル説の内容
というあたりについて、私の感想やら雑談やらを。
■まずおおざっぱな概要を。
・『日本の天職』のメインテーマは、
「神が造られたこの世界に対し、日本国はどのような貢献ができるか」。
神は一人ひとりに独自の天職を与えているのと同じく、
世界各地の国、民族、文化という集団にも、それぞれにふさわしい役割を与えているはず。
という発想がベースになっている。
・「天職」は「神が各人に与えた役割」。
天職はあくまで、神が人に与えるもの。
英語でいえば calling ……天職は「神からの呼びかけ、calling」であって、
「私はこれが好きだからこれを天職にする」と人間が自分で決めるものではない。
神からの呼びかけ(calling)に対し、応答するか否かの選択権は人間側にある。
・「天職」という言葉をさらりと使う内村鑑三は、キリスト信者である。
「少年よ大志を抱け」で有名な札幌農学校でキリスト教徒になり、首席で卒業。
卒業後も大志を失うことなく、青年時代のアメリカ放浪経験などを経て、
「日本在住の世界市民(コスモポリタン)」という自覚をもって生きていた国際教養人。
・『日本の天職』の末尾には「日本人イスラエル説」のかんたんな解説も載っている。
日本人イスラエル説(日ユ同祖論)が、すでに百年前に知られていたことにビックリ。
しかも内村鑑三ほどの人が、それを肯定的に受け入れていたことにもビックリ。
日ユ同祖論は、トンデモ説の類といっしょくたにされてしまう分野ではあるけれど、
鑑三先生が是とするなら、私も日ユ同祖論や聖書について堂々と書いてみようと思った。
ということで、私は今年からこういう内容のブログを書き始めたのだ。
(私は鑑三先生のファン)
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■『日本の天職』の冒頭。
聖書から3つの聖句が引用されているが、
これを解説しだすとマニアックになり過ぎてしまうので、今回は省略。
興味のある人は各自でご確認を。(使徒17:26,27 ヨシュア13:33 詩編110:3)
聖句引用の後に、本文がこう始まる。
(ブログ画面で読みやすくするため、適宜改行しています)
日本の天職は何か。
日本は特に何をもって神に仕うべきか。
世界は日本より何を期待するか。
日本は人類の進歩に何を貢献すべきか。
これ日本人各自にとりて切要なる問題であるはもちろん、
世界各国の識者が今日まで知らんと欲して努め、
また今なお解答を求めつつある大問題である。
国に天職あるは人に使命あると同様である。
エジプトとバビロンとは世界に最初の物質的文明を供し、
フェニキアは商業をもって太古時代の文化を助け、
ギリシアは美術、文芸、哲学を生み、
そしてユダヤは、今日に至るもいまだ廃れざる宗教を与えた。
国に特産あるがごとくに、民に特種の才能がある。
世界人類は各国の産物才能の貢献によって進歩し、
その究極の目的に達するのである。
……人類に奉仕するとは、人の言う所である。
神に仕うるのが、これ国たるもののなすべきの祭である。
我らは天職を語る時に、神に対する職分を語るのである。
・「国に特産あるごとくに、民に特種の才能がある。」
たしかそうだと思える。
十把一絡げに、「日本人は皆こういう性格だ」などと決めつけることはできないけれど、
国民性というものはたしかにある。
内村鑑三は、それぞれの国民に与えられた特性を活かすことが、
神に仕えることであり、世界全体の進歩につながると考えている。
神から与えられた特性を自国の発展だけのために用いるのはNG、
その特性をもって世界に貢献するのが祭(マツリ/政)だというわけ。
これは、一個人にもまったく同じことがあてはまると思う。
自分に与えられた才能・特技・特性を、自分の幸せと楽しみのために用いるのはNG。
各人の才能は、自分の想いを実現するために使うのではなく、
いま自分が生かされている世界に貢献するために用いるのが◎。
(この意味で、キリスト教は自己実現を否定する。)
・「人類に奉仕するとは、人の言う所である。
神に仕うるのが、これ国たるもののなすべきの祭りである。」
この部分は、ちょっとわかりづらいかもしれないが、重要な所。
「人類に奉仕する」というのは、いわゆるヒューマニズムで、道徳的には良いことに見える。
しかし内村鑑三およびキリスト教的には、ヒューマニズムはNG。
「人類に奉仕する」のではなく、「神に奉仕する」のが正解。
神への奉仕の一環として、各種人道支援がある。
なによりも神が第一。
だからマザーテレサも、彼女の人道的活動について、
「これは社会福祉事業ではなく、キリストにお仕えするものです」と語っている。
神抜きのヒューマニズムは自分も相手も滅ぼしてしまう。
たとえば「相手が笑顔になることをしたい」を本気で実践すると、
相手の笑顔を最終目標としてしまっているために、
いつも相手の機嫌と顔色をみて、相手の意向をなんでも叶える下僕にならざるをえない。
そして相手のエゴは肥大して、手のつけられないワガママモンスターと化してしまう。
良かれと思って始めたことが、自分にも相手の魂にもマイナスになってしまう。
↑これは私自身のアホくさい実体験でもある。
どうか、このブログを見てくれている人は、私と同じ轍を踏まないでほしい。
「人類に奉仕するのではなく、神に奉仕する」と意識することは、
健全な人間関係をつくるためにも欠かせない大前提だと思う。
神が第一。人はその後。宗教はオプション。
■『日本の天職』では、日本の特色は何であるか、いくつか例をあげながらの考察が続く。
日本の特産物は……戦争か、商業・工業か、美術・工芸・文学か……
ここで知っておきたいのは、この小論が書かれた当時の時代背景。
内村鑑三は、明治維新の7年前(1861年)に生まれている。
1868年(明治元年) 明治維新
1994年(明治27年) 日清戦争 → 日本勝利
1904年(明治37年) 日露戦争 → 日本勝利
1914年(大正3年) 第一次世界大戦 → 日本勝利
1923年(大正12年) 関東大震災
1924年(大正13年) 小論『日本の天職』発表
という流れの中で、内村鑑三は日本の行く末を案じて、
『日本の天職』を記したのではないかと思う。
明治維新後、10年おきの3つの大戦で日本は勝利をおさめた。
戦争では負け知らずだった。
世界の列強国とも対等にやっていけるという自信と傲慢さは、
内村鑑三いわく「明治大正は日本の生意気時代」。
日本は世界の覇権を握る「武の国」であるという主張もあったようだ。
武士という職業は消えたが、武士道はなお生きているというイメージか。
内村鑑三は、武士道の高尚な精神性には好意的だったが、
日本の天職は「戦争」ではないと断言している。
3つの大戦に勝利して調子づいていた日本を、首都東京を、関東大震災が襲う。
きっと内村鑑三は、日本の思い上がりを戒める神からのメッセージと感じただろうと思う。
彼は関東大震災の一か月後に、
『末日の模型――新日本建設の絶好の機会』という論文を発表している。
それから1年後に『日本の天職』も発表されている。
しかしその後の日本は、日本の天職を戦争だとはき違えたのか、
朝鮮・満州に進出し、太平洋戦争に突入し、
ボロボロに叩かれて敗戦を迎えることになる……
■日本の天職は「戦争」ではないし、「商業・工業・美術・文学」でもないと内村鑑三はいう。
その理由は。
日本人の天才に驚くべき者がある。
ただ悲しむべきは独創性の欠乏である。
日本人は新たに思想を起こし得ない。
彼らは改良家であって独創家ではない。
天然を描くには巧みであるが、進んで大胆に天然の秘密を探り出す能に乏しい。
鑑三先生、なんとすばらしい観察眼!
日本人は改良は得意だが、独創的な発想には乏しい。
「みんな同じ」であることを第一とするから、独創家は叩かれて潰されてしまう。
内村鑑三の「不敬事件」も、まさに同調圧力につぶされた結果だといえる。
不敬事件……1891年、内村鑑三が学校の教員だった時、
教育勅語に記された明治天皇の署名に最敬礼をしなかったというだけの理由で、
教育界とマスコミから激しく非難され、ついに教職を辞した事件。
署名に最敬礼するって発想がキモイよね。
でも、当時の日本はそういうことがまかりとおる時代だったんだね。
内村鑑三はキリスト教徒だけど、天皇も人間として尊敬していた。
しかし天皇は神じゃないし、天皇の署名はなおさら神ではない。
だから最敬礼はせず、軽く頭を下げる程度にした。
それが天皇への不敬事件として社会問題になってしまうという。
しかもこの不敬事件に対応していた精神的ストレスで、
内村鑑三の奥さんが病気になって亡くなってしまう。
奥さんの名は「かず」!
かずさん(本名は加寿子)は素晴らしい人だったに違いない。
■「みんながやっているんだからオマエもやれ」と横並びを強要する文化は、
今の日本にも根強く生きているよね。
悲しいことに、これが日本の特色の一つなんだなあ……
日本には独創性がないのはよくわかった。
それでは、日本の天職とは何なのか。
いよいよ結論部に入っていく。
日本人は特別にいかなる民であるか。
私は答えて言う、宗教の民であると。
かく言いて、私は私の田に水を引き入れんとするのではない。
日本の歴史と日本人の性質を考えて見て、かく言わざるを得ないのである。
内村鑑三は、学生時代の親友たちと共に、「二つのJに仕える」と誓っている。
二つのJ…… JAPAN と JESUS。
日本と神(ジーザス・クライスト=イエスキリスト)に仕える。
それが内村鑑三のいう「宗教の民」ということかと思う。
だから彼が「宗教の民」というのは、宗教団体への所属とはまったく関係ない。
「宗教団体に所属する民」ではなく、
「神を知り、神を信じ、神に仕える民」という意味で「宗教の民」といっている。
なにより内村鑑三自身がキリスト教団体を嫌って、
「キリスト教の無教会主義」を旗揚げしてしまったぐらいなのだ。
彼は青年時代を過ごした札幌の地で、
キリスト教の外国人宣教師どうしの縄張り争いに巻きこまれ、苦労している。
どうも、異なる教派間で信徒の奪い合いがあったようである。
その後も彼は、外国人宣教師と衝突して職を辞したり、
アメリカの神学校に入学するも、そこで教えられている内容の霊性の無さに失望したり、
日本人のキリスト教組織とも折り合いが悪かった……妥協できない人だったのだろう。
内村鑑三は、自身のキリスト信者としてのありかたをこう述べている。
余はキリストと聖書とを信ずる者ではあるが、
しかし、いずれの教会または教派に属する者ではない。
余を支配するに、法王もなければ、監督も牧師も何もない。
従って余は何びとより伝道の許可を得たる事もなければ、
また信者を作りたればとてこれを収容するための教会を持たない。
余の伝道なるものは単に教理伝播にとどまって、
人のこれを受くると受けざるとについては余は全く無頓着なる者である。
現に今日に至るまで、余はかつて一人の信者に洗礼を授けしことなく、
また一人の弟子の余に支持する者はない。
――1901年12月 『余の従事しつつある社会改良事業』
内村鑑三はキリスト教団体に所属していないのだから、
キリスト教団体から付与される修了証、免状、資格証の類はもっていないのである。
内村鑑三は神様直属のフリーランス伝道者といったところかな。
しかし彼は無免許(笑)とはいえ、自宅での聖書研究会は盛況だったようで、
会員には小山内薫、志賀直哉といった大御所の名も。
今の日本でも、フリーランスで聖書を語れる人が増えてくれればいいのにと思う。
宗教は嫌だが聖書やイエスには興味がある、という人の需要は少なくないだろうに。
■『日本の天職』の結論部をさらに読み進めてみよう。
日本今日の仏教は腐敗せる迷信であると西洋のキリスト教徒らは言う。
されども腐敗せる点においては西洋のキリスト教も異ならない。
そして腐敗せる仏教界に誠実なる真の信者の潜んでいることは、
西洋のキリスト教界におけると同じである。
内村鑑三は青年時代にアメリカを放浪し、人種差別で嫌な思いをしている。
キリスト教国であるはずのアメリカに失望した経験をもとに、
「西洋のキリスト教界も腐敗している」と論じているのだろう。
日本の仏教界に多くの尊むべき信者があった。
……法然、日蓮、道元ら、いずれの宗教にありても偉大なる宗教家である。
また神道においても、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)らは、
西洋に多く見る信仰的愛国者の秀でたる者であって、国の誇り、民族のほまれである。
内村鑑三はキリスト一筋だったが、だからといって他の宗教を排斥したりはしなかった。
宗教にかかわりなく、真の神を求めて仕える霊性をもつ人を尊敬した。
内村鑑三は、「宗教の教えに詳しい人」ではなく、
「宗教の教えどおりに生きている人=信仰者」を重視していたのだと思う。
だからキリスト教者ではなくても、神道の国学者である本居宣長、平田篤胤のことを、
「国の誇り、民族のほまれ」と称賛している。
彼らはいずれも、私がここに唱うるがごとくに、
日本国の天職の道義をもってする万国指導にあるを唱えた。
彼らが日本を神国ととなえたのはこの意味においてである。
そしてその聖(きよ)き理想を言い表したものが平賀源内の有名なる一首である。
さしのぼる朝日の本の光より 高麗唐土(こまもろこし)も春を知るらん
この聖望たる、これを国自慢としてしりぞけてはならない。
こはイスラエルの民のいだきし望みであって、
日本人たるものは何人もこの高き理想をいだくべきである。
武をもって、シナ朝鮮を征服するのではない。
またアジア大陸をわが勢力範囲に置かんと欲するのでない。
日本にのぼる道の光をもって、世界の暗を照らさんと欲するのである。
これよりも高きまた聖き愛国的志望はない。
日本が「日出づる国」であるのは、単にユーラシア東端に位置するというのみならず、
霊的な徳の光をもって諸国を照らし感化してゆくためだという。
この意味で日本は神国なのだ。
しかしここで興味深いのは、
内村鑑三が日本の近未来を見てきたかのような預言的警告を発していること。
「武をもって、中国・朝鮮を征服するのではない」
→ 彼が没した翌年(1931年)に満州事変 → 日中戦争へ。
「アジア大陸を勢力範囲に置くのでもない」
→ 1940年に「大東亜共栄圏」が提唱され、太平洋戦争へ突入。
聖書時代の預言者と同じく、
残念ながら、内村鑑三の警告は偉い人には届かなかったようだ……
■日本は武力によってではなく、霊的な光をもって世界を照らす。
これは聖書の民=イスラエルの民(ユダヤ人)の望みでもあったということで、
内村鑑三は旧約聖書イザヤ書60章1,2節を引用している。
(聖書の文語訳はわかりづらいので、新共同訳を引用します)
起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
まことに「暗きは全地を覆い、闇はもろもろの民を覆う」とは世界今日の状態である。
それから、ドイツ、スイス、イギリス、アメリカのキリスト教事情&批判が、
かんたんに述べられている。
これらのキリスト教国批判で私が気になったのは、この個所。
……英国人は教会を捨てる時に、たいていは信仰を捨てる。
これはたぶん英国人だけのことではないだろう。
キリスト教が浸透している地域ならどこでも、教会制度に嫌気がさした人々は、
教会を捨てる時に、信仰も神も聖書もいっしょに捨ててしまうのではなかろうか。
私ならそうしてしまうと思う。
しかし、教会と信仰を捨てたからといって、真の神への思慕が消えてしまうわけではない。
だからイギリスで心霊主義が盛んになり、
それが現在のスピリチュアリズムにつながっているのだと思う。
神は好きだが、宗教が嫌いという人は、スピリチュアリズムを選ぶしかない。
私もそうだった。
神様の話をしたい人はたくさんいるし、神様の真相を知りたい人もたくさんいる。
そういう人の受け皿としてのスピリチュアリズムは今後も衰えないと思う。
一方で、内村鑑三の立ち上げた無教会主義も、
現代人の実情によくマッチした在り方だと思う。
「イエスキリストや聖書、神様には興味があるが、宗教は嫌いだ。
かといって心霊主義やスピリチュアリズムも肌に合わない」
そういう人は、無教会主義のキリスト教徒として、
日々に聖書を読み、神様との個人的交わりを深めるのがいいと思う。
なにしろ無教会だから、誰に認可してもらう必要もない(笑)
神様に対してそう宣言するだけでいい。
神様はそういう人を放置しないで、しかるべき人や情報に導いてくれるはずだ。
■で、キリスト教国であるはずの欧米諸国では、
真のキリスト教は育たないと、内村鑑三は結論づけている。
そこで、日本の出番である。
全生涯を金もうけ事業のために費やせし者が、老年に近づいて、
実業界を去って精神界に入らん事を願うと同じく、
今や人類全体が憧憬(あこがれ)の目を純信仰に注ぐに至った。
誰かこれを供する者ぞ。
日本人ではあるまいか。
仏教がインドにおいて亡びし後に、日本においてこれを保存し、
儒教がシナにおいて衰えし後に、日本においてこれを闡明(せんめい)せし日本人が、
今回はまた欧米諸国において捨てられしキリスト教を、
日本において保存し、闡明し、復興して、
再びこれをその新しきかたちにおいて世界に伝播するのではあるまいか。
日本は神国であり、日本人は精神的民族であるとは、自称自賛の言ではない。
恥を知り名を重んずる点において日本人は世界第一である。
我らは自分に多くの欠点あるに省みて、神のこのたまものを看過してはならない。
日本人が信義に鋭敏なるは、これ精神界において神と人とに尽くさんためではあるまいか。
ここが『日本の天職』のクライマックスであり、結論かと思う。
日本人は精神性に優れた民族であるゆえ、信義に鋭敏であり、
アジア大陸で興って滅びた仏教と儒教をよく保存してきた。
そしてこれからは、生気の抜けた欧米のキリスト教を霊的に復興する。
キリスト教にこびりついている欧米文化の垢やら人間制度を除去して、
本来イエスが意図したであろう形のキリスト教を、あらためて世界に伝えてゆくのだろう……
私も何度か思ったことがある。
たしかに、仏教、儒教は、その本家ではあまり相手にされず、日本で花開いた感がある。
だったら、キリスト教についても、同じことが起こってもおかしくはないと。
無教会主義はその第一歩のように思う。
■内村鑑三はさらに続けて、詩編110編3節を熱く解説している。
あなたの民は進んであなたを迎える。
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ、
曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
「あなた」はキリストであり、「曙の胎」とは日本国のこと……という、
日ユ同祖論そのものな説明がしばらく展開されるが、
ちょっとマニアック過ぎるので割愛させていただく。
ともかく詩編110編の結論としてはこう。
キリストは日本人の信仰の奉仕を受くる特権を有したもう。
彼の栄光は我らの名誉である。
我らは感謝して彼の召命(めし)に応ずべきである。
召命(めし)というのが、神からのcalling、天職のこと。
天職は神から任じられるものであって、人間が自分で好きなものを選ぶのではない。
■『日本の天職』の最後はこう結ばれている。
この時期、関東大震災があり、アメリカでは日本からの移民を制限する排日移民法が成立。
そうした時代背景があっての結びである。
大震災に次いで友邦米国の排斥起こり、わが国の万事非ならざるはなき状態である。
しかしながら悲境はすべて我らの肉とこの世にかかわる状態である。
誰か知らん、日本国の真の隆起は彼が悲境の極に達した後にある事を。
国としての存在を失った後の今日、
イスラエルの子孫はその宗教と信仰とをもって世界の最大勢力である。
多くの人類学者によって、
イスラエルの血をまじえたる民なりと称せらるる日本人の世界的勢力もまた、
亡国とまでは至らざるも、その第一等国たるの地位を抛(なげう)ちて後の事であると思う。
神が今、日本国をむち打ちたまいつつあるは、この準備のためではあるまいか。
『日本の天職』はここで完結。
内村鑑三は『日本の天職』を記した6年後、1930年に亡くなった。
だから彼は、日本と世界がどんどん悪い方向へと向かっていくのを見ずにすんだ。
内村鑑三が没した翌年、1931年に満州事変が起こり……
日本の国際連盟脱退、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争、第二次世界大戦……
1933年にはドイツでヒトラー内閣成立、ナチスのユダヤ人迫害がはじまる。
こういう歴史の流れをみると、内村鑑三が『日本の天職』の結びで記している内容は、
神からの預言としても読めてしまう……
「日本国の真の隆起は彼が悲境の極に達した後にある」
「亡国とまでは至らざるも、その第一等国たるの地位を抛(なげう)ちて後の事」
鑑三先生、慧眼です。
たしかにその後の日本は原爆投下で悲境の極に達したし、
亡国とまでは至らざるも、第二次世界大戦の敗戦によって国際的地位は没落した。
その後、目覚ましい復興と高度成長期を経て……バブル崩壊、阪神淡路大震災、
東日本大震災を、神からのウェイクアップコールと感じた人もあると思う。
日本でスピリチュアルブームが起こったのは、バブル崩壊後だよね。
経済的ないきづまりをきっかけに、物質的豊かさを求める生き方から、
精神的豊かさを求める方向にシフトし始めたわけでしょ?
今こそ、『日本の天職』の内容が日の目をみるべき時期じゃないかと、私は思っている。
宗教とは関係なしに、神からのコールを感じている人に読まれてほしいなあ。
■『日本の天職』の末尾に「付録」として、日本人イスラエル説についての解説がついている。
この解説も面白いので、全文載せてみる。
【付録】
日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは、早くより学者の唱えた所である。
かつて、ある有名なる西洋の人類学者が京都の市中を歩きながら、
行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人あるを見て、
指さしてこれを案内の日本人に示したとの事である。
その他、日本人の習慣の内にユダヤ人のそれに似たるもの多く、
また神道とユダヤ教との間に多くの著しき類似点ありという。
今回、米国の日本人排斥に対して、かの国一派のキリスト信者が、
「日本人イスラエル説」を唱えて、
大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。
日本人の敬神にユダヤ人的の熱誠あるは、人のよく知る所である。
キリスト教の宣教歴史において、
日本人のごとくに真実にこの教えを受けた者は他に無いと信ずる。
宣教開始以来六十年後の今日、キリスト教はすでに日本の宗教となった。
キリスト教は日本において、他国において見ざる発達を遂ぐるであろう。
西洋の宣教師が日本人を教化するあたわざるは、
日本人に宗教心が不足するからではない。
それが西洋人以上に多いからである。 (完)
この「付録」からわかることは、日本人イスラエル説をとなえたのは日本人ではないということ。
日本人とは無関係の、欧米の人類学者やキリスト教徒がそこに気がついたらしいこと。
日本のキリスト教の歴史は浅いし、「ユダヤ人」との交流もなかったのだから、
明治大正時代の日本人は、自分たちがユダヤ人なるどこかの外国人と似ているなどとは、
まったく考えたこともなかっただろうね。
一例として、京都の市中を歩いている一般人がユダヤ人に似ていたという話が出ている。
私は個人的に、「京都の市中」というロケーションが気になった。
京都の市中といえば……京都御所に……賀茂氏と秦氏の本拠……
ああ、やっぱり彼らの祖先はユダヤ人なのかもしれないなあ。
しかしまさか内村鑑三の著作で、日ユ同祖論に出くわすとは思っていなかった。
すでに100年前に、しかも外国人がそれを指摘していたのであれば、
日ユ同祖論の信ぴょう性が少しアップ?
けれども内村鑑三が日本人イスラエル説をもちだしたのは、
日本人の肉体DNAがユダヤ人とつながっていることを強調するためではないと思う。
神への熱心さにおいて、ユダヤ人と日本人には相通ずるものがあることを言いたかったのだろう。
「付録」の最後は、西洋のキリスト教への皮肉で結ばれている。
西洋の神学校で学んだ宣教師よりも、
キリストのキの字も知らない一般日本人の方が宗教的であると。
日本人は古代ユダヤ人の霊的DNAを受け継ぐ「霊的イスラエル人」として、
この世界で神国としての役割を果たすべきだと、内村鑑三は言いたかったのだと思う。
政治、宗教団体、なにかの人道支援機関などによって国際貢献するのではなく、
個人レベルで神と共にある生き方をすることが大事。
そうして日本の精神レベルの平均値を上げることが、
日本の天職を果たすことにつながる。
自分の夢を叶えてハッピー☆というレベルで一生を楽しく幸せに生きたとしても、
内村鑑三のいうような日本の天職は果たせないと思う。
神と自分との関係において、神を第一とする生き方を選ぶか否かなんだろうなあ。
内村鑑三のいうことが全部ぜったいに正しいとは思わないが、
彼の著述内容は、私にはめっちゃツボで、響くことが多い。
100年前の日本に内村鑑三という人をおいてくださった神に感謝。
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
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以下追記 2022年12月16日***************************
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排日法案(36) 同内容の英文 'The Exclusion Bill' とともに掲載されている。アメリカでは、一九二四年
四月に、日本人移民を排除する新しい移民法が可決された。内村はこの処置を激しく怒り、『国民新聞』
『東京日日新聞』などに非難の文を発表する一方、日本のキリスト教信徒たちの対米問題協議会の委員と
して反対宣言の起草などの活動をおこなった。
宣言(16) 前項で述べた反対宣言の内村案である。しかし、内村の一九二四(大正一三)年六月一六日
の日記(『全集』第14巻に収録)によると、過激すぎるの理由で採用されなかった。
日本の天職(280) スコット (W. Robertson Scott) の著書 The Foundation of Japan (1922) には内村との会見記事がみられる。
日本国と基督教(20) 一九二五(大正一四)年六月六日、青山会館を会場として開催された東京市内外学生
大連合礼拝会で講演されたもの。同会合は、中渋谷教会教師森明(森有礼の三男、森有正の父)の指導のも
とに設立された学生キリスト教団体(帝大学生基督教共助会など)の主催。内村の「日本国と基督教」とと
もに高倉徳太郎の「基督教と文明の精神」と題する講演があった。この講演は大きな影響を与えているの
で、同日の内村の日記を掲げておく。
六月六日(土) 半晴 午後二時より市内青山会館に於て故森明君牧会の渋谷日本基督教会の主催に
かる都下男女学生の連合礼拝会が開かれた。 来会者三千五百人と註せられた。自分も説教を依頼さ
れ、東京神学社校長の高倉徳太郎君と高壇を共にした。自分は「日本国と基督教」と題して講じた。
久振りにて市内の聴衆に語ることって随分骨が折れた。然し若い人等の大衆に向つて語ることって気
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内村鑑三 - Wikipedia
内村鑑三
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月23日〈万延2年2月13日〉[1]- 1930年〈昭和5年〉3月28日[2])は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。『代表的日本人』の著者でもある。
生涯
幼少期
万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる[注 1][3]。 慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。
明治4年(1871年)の廃藩置県により、高崎知藩事の大河内輝声は罷免された。父も県小参事を免ぜられ隠居した。高崎で白井という人より手習いを受けた後、大河内輝声の創立した英学校に入り、小泉という教師より初めて英語を教えられ、英語に勤しむようになった。
明治6年(1873年)に単身で上京して、有馬学校英語科に入学した。この時の同級生に後の日本銀行総裁の三島弥太郎がいる。有馬学校で1年学んだ後、東京外国語学校の下等第四級に編入した。この時の同級生に、末松謙澄、天野為之、佐藤昌介らがいた。後の首相・加藤高明は一級に在籍していた。この学校で教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学中、一年だけ病気のために休学し、杉田玄端から治療を受けた。一年遅れたことにより、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。その頃初めて英文講読で『旧約聖書』の聖書物語に触れた。
札幌農学校時代
明治10年(1877年)4月に東京英語学校は東京大学予備門と改称されて、東京英語学校を修了すれば東京大学への進学が認められることになった。しかし、内村が入学して3年後の明治9年(1876年)、北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立された。内村は、北海道開拓使の役人の演説と官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあり、札幌農学校への入学を決意する[注 2]。 札幌へ旅立つ前に、東京の芝で1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成した。
内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、いわゆるお雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる[5]。内村はヨナタンというクリスチャンネームを自ら付けた。当時札幌には教会がなかったので、彼らは牧師の役を交代で務めた。そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。
明治11年(1878年)6月2日には、アメリカ・メソジスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンドという。
在学中、内村は水産学を専攻し明治14年(1881年)7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業した[6]。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に南2条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立する。また、明治14年(1881年)10月に結成された札幌YMCAの副会長になった。
明治15年(1882年)に開拓使が廃止されると、札幌県御用係になり[7]、漁業調査と水産学の研究を行った。ほどなく伝道者になるために県に辞職願を提出した。同年6月に辞職願は受理された。その後、津田仙の学農社農学校の教師になり、12月からは農商務省の役人として水産課に勤め、日本産魚類目録の作成に従事した。同月の第三回全国キリスト信徒親睦会には、札幌教会代表で有名な演説を行った。
最初の結婚・離婚
明治16年(1883年)夏に安中教会を訪問した時に知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って明治17年(1884年)3月28日に結婚した。しかし、半年後には破局して離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている[8][9]。
アメリカ留学時代
浅田タケとの結婚が破局した後、両親と友人の勧めにしたがって、明治17年(1884年)に私費でアメリカに渡り、11月24日にサンフランシスコに到着する。拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。渡米後に何のあても持っていなかった内村は、メリマン・ハリスの妻によりミデヤの叔父の家を紹介された。ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のエルウィンの養護施設を尋ねた時に、医師である院長のI.N.カーリンと出会い、そこの知的障害児養護学校で看護人として勤務することになる。
1885年(明治18年)6月にカーリンはワシントンD.C.の全米慈善矯正会議に出席する際に内村を同行した。ワシントンで大統領グロバー・クリーブランドに面会している。ワシントン滞在中に終生の友である、D・C・ベルと出会った。
この時期、札幌農学校同期の新渡戸稲造もまた、佐伯理一郎とともにフィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒のウィスター・モリスと親交を持つ。
この頃、日本にいた浅田タケは4月15日、女児ノブを出産した。タケはそのことで手紙で復縁を迫った。タケに洗礼を授けた新島襄も内村に説得したがきっぱりと断った。
内村はペンシルベニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。カーリンの妻はユニテリアンでハーヴァード大学で学ぶことを勧めたが、米国滞在中の新島襄の勧めで、9月に新島の母校でもあるマサチューセッツ州アマーストのアマースト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師J・H・シーリーの下で伝道者になる道を選んだ。
在学中、アマースト大学の総長であり牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。1887年(明治20年)に同大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受ける。続けてシーリーの勧めで、コネチカット州のハートフォード神学校(英語版)に入学するが、神学教育に失望し、1888年(明治21年)1月まで学業を続けたが退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国。
教員時代
在米中に新潟県の北越学館への教頭としての招聘が一度あったが内村は断り、帰国後に新島襄の仲介で契約が成立し、明治21年(1888年)6月6日に館主・加藤勝弥と約定書を交わした。新島によると独立心の強い内村は新潟行きに難色を示していたが、親しい友人には教頭就任の喜びを書き送っていた[10]。新潟赴任後成瀬仁蔵ら同校の発起人幹部と対立し、正教頭ではなく、仮教頭とされた[注 3][10]。北越学館ではエレミヤ書を講義し、土曜日には講演会を開き、ルターについて講義した。就任一ヶ月後に、宣教師の運営方針に反発する見解を表明、宣教師たちも内村の下で働くことを拒否し辞職を通告して、学生を巻き込んでの学館紛争になった。調停のために、新島襄は横井時雄を派遣するが効果はなく、成瀬は内村と激しく対立して、意見書を著し辞職を迫った。紛糾中、成瀬は「内村は他人と事業の出来ぬ人」と新島襄が語ったと聞き、最終的に同校発起人を辞任[10]、内村も赴任後わずか4ヶ月で辞職した。
戦いに敗れて東京に戻った内村は植村正久の一番町教会(現、日本基督教団富士見町教会)で説教したり、東洋英和学校、明治女学校、水産伝習所などで教鞭を執る。東洋英和学校では山路愛山が内村の「万国史」の教えを受けた。明治22年(1889年)7月31日に旧高崎藩士の横浜恕の娘・かずと結婚した。
不敬事件
明治23年(1890年)から、植村正久の一番町教会の長老・木村駿吉の推薦により、第一高等中学校(現・東京大学教養学部、千葉大学医学部、薬学部)の嘱託教員となった[12]。
明治24年(1891年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。
事態の悪化に驚いた木下広次校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。内村はそれに同意したが、悪性の流感にかかっており本人が行けなかったので、代わりに木村駿吉が行った。しかし、マスコミがこの事件を大きく取り上げ、「内村鑑三の不敬事件」として全国に喧伝した。そうして、事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。
内村は悪性の流感により病床にあり、意識不明の状態だったが、2月に本人に知らない間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、1月31日には本人の名前で辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。
加寿子の死
妻かずは、夫に代わって抗議者を引き受けたが、流感で倒れてしまった。かずは2ヶ月の病臥の後に、4月19日に死去した。
不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月すごした後、帰京した。そして、本郷教会の横井時雄が内村を支え、教会でエレミヤ書の講義をさせたり、『基督教新聞』に執筆の場を与えたりした。明治25年(1892年)1月より、横井時雄の世話で、日本組合基督教会の京橋の講義所の説教者になった。その後、組合教会の総会にも出席している。不敬事件で教員の道を閉ざされた内村は伝道者の道を本格的に歩み始めた。同年の夏に、千葉県君津郡竹岡村に滞在した。一ヶ月間熱心に伝道して、8月25日に天羽キリスト教会(竹岡美以教会)が設立されることになった。
千葉から帰るとすぐに、泰西学館、高等英学校(現:桃山学院高等学校)、熊本英学校、名古屋英和学校(現:名古屋高等学校)と教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。
静子との再婚
明治25年(1892年)のクリスマスに京都の旧岡崎藩士で判事の岡田透の娘・静子と結婚した。この頃、帝国大学文科大学教授の井上哲次郎によって「不敬事件」の論争が再燃した。明治26年(1893年)になると、井上の所論をめぐりキリスト教会はもとより、仏教界、思想界、学会、教育界、ジャーナリズム界で大論争が巻き起こった。内村は井上の記す「不敬事件」に事実誤認を指摘して反論したが、国家主義的な時流により、世論は井上に味方した。
この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『基督信徒の慰』、『求安録』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How I Became a Christian) を初め、多くの著作・論説を発表した。
明治26年(1893年)4月に熊本英学校の教師として赴任し7月まで務め、その後は京都に住んだ。京都に帰る途中で、須磨で開かれたキリスト教青年会第6回夏季学校に講師として出席した。横井時雄と共に講演し、内村は日本教会論を語った。この論は、翌年2月に発行された『基督信徒の慰』にも記されている。
京都では、便利堂の中村弥左衛門と弥二郎が経済的に内村を支えた。明治27年(1894年)の箱根でのキリスト教青年会第7回夏季学校では「後世への最大遺物」を行う。これが、便利堂によって明治30年(1897年)に刊行されている。森敦はこの本を非常に愛読していたという。
不遇だった京都時代を助けたのは徳富蘇峰だった。蘇峰のおかげで、『国民之友』に文を発表し生活を支え、文名を上げることができた。『国民之友』の編集の国木田独歩も、内村に感銘を受けた一人である。国木田は、明治29年(1896年)に妻を亡くした際アメリカ行きを思い立ち、内村に手紙で相談している。
新聞記者時代
明治30年(1897年)に黒岩涙香が名古屋にいる内村を訪ねて朝報社への入社を懇請した。内村はためらいつつも黒岩の説得に答えて朝報社に入社した。同社発行の新聞『萬朝報』英文欄主筆となった。一高時代の教え子山県五十雄らと共に、通算二百数十篇の文章を書いた。この文章は外国人系新聞からマークされ、松井広吉ら日本人にも愛読された。同年3月16日には、英文欄にて足尾銅山の鉱毒問題を取り上げた。
翌明治31年(1898年)5月22日には黒岩の熱心な慰留にもかかわらず朝報社を退社した。そして、同年6月10日より、山県悌三郎を社主として、『東京独立雑誌』を創刊し主筆となりジャーナリストとして独立した。坂井義三郎、佐藤迷羊、西川光二郎、佐伯好郎、中村諦梁らが編集者になり、大島正健、松村介石、留岡幸助、元田作之進、田岡嶺雲、山県五十雄、駒井権之助らが寄稿した。内村の論評に対して、高山樗牛が雑誌『太陽』で公開質問状を発表した。
明治32年(1899年)6月、女子独立学校の校長に就任したことで、角筈の敷地内に居を移し、東京独立雑誌の発行所も角筈に移った。しかし、明治33年(1900年)7月5日に内村の問題により突如、廃刊されることになり、同社は解散した。その後旧社員は『東京評論』を創刊して、深刻な敵対関係になった。
『聖書之研究』時代
『東京独立雑誌』の廃刊直後に、すでに誌上で参加募集していた第一回夏期講談会を、旧社員らの反対にもかかわらず、自分の責任により独立女子学校で行った。内村を始め、留岡幸助、松村介石、大島正健らが講師になった。小山内薫、青山士、荻原碌山、井口喜源治、西沢勇志智、倉橋惣三、武藤長蔵、森本慶三、小林洋吉らが参加した。参加者により、上田や小諸に独立倶楽部が結成されると、各地で伝道を始めた。内村は8月に群馬県を訪れて、上田を拠点にキリスト教の伝道活動をしようとしたが断念し、同年10月より、日本で最初の聖書雑誌である『聖書之研究』を創刊した。聖書之研究は内村の死まで続けられたライフワークになった。聖書之研究を創刊する一ヶ月前9月より、生活のために万朝報の客員として復帰し、今度は日本語の文章を寄稿した。『聖書之研究』創刊号で生徒を募集して10月に聖書研究所を発足させる。この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。それらは、25人定員の角筈聖書研究会になる。その中の、熱心な12名は角筈12人組と呼ばれた。明治34年(1901年)3月には『聖書之研究』の読者の交通機関を目的に月刊の『無教会』を発刊した。
足尾銅山鉱毒問題
明治34年(1901年)4月21日に、栃木県足利の友愛義団に招かれて、巌本善治、木下尚江と共に講演した。翌日4月22日に、木下尚江と共に、初めて足尾を訪れた。足尾の鉱毒の被害の激しさを知って驚いた内村は、帰京すると『万朝報』に記事を書いた。これが、『鉱毒地遊記』である。その中で、鉱毒問題の原因を経営者・古河市兵衛の起こした人災であると言った。
5月21日には、東京神田の東京キリスト教青年会会館で津田仙を座長にして足尾鉱毒問題の『同情者』の会が開かれ、田中正造が説明をした。その結果、鉱毒調査有志会が結成され内村と巌本善治が調査員に選ばれた。6月21日より、有志会の調査が、内村を主査、田中正造を案内役として始まった。そして、11月に調査会の第一回報告が内村、巌本善治、田中弘之、高木政勝の連名で出された。
また、7月20日に内村は黒岩涙香、堺利彦、幸徳秋水、天城安政、円城寺清、斯波貞吉、山県五十雄らが発起人なり社会改良を目的とする理想団を結成した。夏には、第二回夏期講談会が開かれ、巌本善治が講師になり、小山内薫、志賀直哉、倉橋惣三、浅野猶三郎、斎藤宗次郎に加えて、足尾鉱毒被害地の田中正造の片腕の永島与八らが出席した。
11月1日には東京キリスト教青年会館で足尾鉱毒演説会に、内村は巌本善治、安部磯雄、木下尚江、島田三郎と共に出席した。内村は、鉱毒問題が色慾問題であることを説いた。11月29日には桐生教会の訪問途中で佐野駅で降りて、被害地を再び訪問する。12月10日には田中正造の明治天皇直訴事件が起こり、そのような中で12月12日に再び東京キリスト教青年会館で巌本、黒岩、幸徳伝次郎(秋水)、佐治実然、三宅雄二郎らと足尾鉱毒演説会を開いた。内村は古河市兵衛にポーコを加えよと叫んだ。12月27日には、田村直臣を委員長、安部磯雄を監督委員として、約800人の学生によって鉱毒被害視察旅行が行われ、内村、木下らも同行した。
しかし、明治35年(1902年)になると、4月2日の鉱毒問題解決演説会に出席した以外は、運動への参加が消極的になり、聖書研究へ沈潜していくことになる。3月10日の理想団晩餐会の席上でも、社会の改良法をめぐり、「内村が個人、安倍が社会と個人」と発言し、安倍磯雄との違いを述べた。
非戦論
日清戦争は支持していた内村だったが[注 4]、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。6月24日に東京帝国大学の戸水寛人ら7人の教授が開戦を唱える建議書を提出し、それが公表されると、同月6月に『戦争廃止論』を萬朝報に発表した。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、明治36年(1903年)10月8日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れることとなった[14]。
萬朝報退社後も、『聖書之研究』を通じて非戦論を掲げていたが、明治37年(1904年)2月には日露開戦にいたった。戦争中は、日本メソジスト教会の本多庸一や日本組合教会の小崎弘道らキリスト教の多数派が主戦論に傾いて積極的に戦争に協力したが、非戦論は内村や柏木義円などのきわめて少数であった。内村はキリスト者の間でも孤立していたものの、明治37年(1904年)のクリスマスを迎えた内村が、クリスマスは平和主義者の日であって「主戦論者はこの日を守る資格を有せず」と述べたことについては、中里介山が内村の言葉に拍手喝采を送り、半年後に『新希望』(『聖書之研究』の改題)に「予が懺悔」という文を寄せている。
なお、戦争反対を強く訴えた内村だったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。弟子の斎藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村がわざわざ岩手県花巻の斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させている。この言動は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める、無教会平和主義者の教理(「戦争自体に直面したときの無抵抗」)に基づいている。内村は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。また、「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じた。そして内村は「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げるとともに、若きキリスト教兵役者へは、個人の救いとしての「身体の復活」と社会の救いとしての「キリストの再臨」の信仰に固く立つよう勧めた。
以上の内村の非戦論思想における、「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現は、あらゆる暴力と破壊に対する抗議を表明すると同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を明確にした。
教友会の結成
1904年11月に精神障害を患っていた母親が死去する。すると、弟の達三郎が、母親を死に至らしめたのは内村であると責め始め、母親の葬儀では内村に妨害と侮辱を加えた。この争いは、『東京パック』の北沢楽天の風刺画で取り上げられ、兄弟間の骨肉の争いは世間に知られることになった。
この騒動をきっかけに、内村は自身の肉親よりもキリスト者との交流を求めるようになり、角筈聖書研究会が再開され、聖書之研究の読者組織である教友会の結成を呼びかけるようになった。東京の角筈に最初の教友会が設立され、新潟の柏崎、大鹿、三条、長野県では上田、小諸、東穂高、千葉県では鳴浜、栃木県では宇都宮、岩手県では花巻に結成された。そして明治39年(1906年)の夏には、新潟県柏崎で夏期懇談会を開き、明治40年(1907年)に夏には千葉県鳴浜で同じ懇談会を開催して、全国から教友が参加した。
幻の改訳聖書
1888年(明治21年)に明治元訳聖書が刊行されてから、改訳を求める声が絶えなかった。そこで、警醒社がスポンサーになり、聖書の改訳を試みた。1905年(明治38年)5月11日東京基督教青年会館で改訳のための最初の会合が開かれ内村に植村正久と小崎弘道を加えた当時のキリスト教界の著名人と、新進気鋭の聖書学者の柏井園を加えた4名が集まった。そして、翌週5月18日から毎週1回の毎週木曜日に集まり明治元訳聖書の改訂作業をすることになった。最初に『ヨハネ伝』から改訳事業を始めた。7月6日には『ヨハネ伝』の3章まで進んだが、内村が業同作業に不満を覚えて、辞意を表明する。翌週7月13日の会合の次から夏休みになる。夏休み明けて9月14日に再開するが、小崎が渡米していたので、日本にいた内村と植村と柏井の3人で会合を持つ。しかし、内村は、11月6日付けで植村に脱退の手紙を送る。翌1月10日に改めて内村は、3人に病気を理由に辞退届を送り事実上改訳会は空中分解した[15]。
社会主義批判
また、教友会の結成が進み始めた頃より、内村は社会主義者に距離を置くようになった。明治40年(1907年)2月には『基督教と社会主義』を小型の「角筈パムフレット」として刊行し、キリスト者と社会主義者との差を明確にした。明治41年(1908年)には社会主義者福田英子の聖書研究会への出席を拒絶している。
内村は年を経るごとに、社会主義をさらに明確に批判していくようになり、大正4年(1915年)には、『聖書之研究』にて「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。
内村はキリスト者の立場から、他階級への抑圧を繰り返す社会主義の本質的欺瞞を指摘するとともに、後の社会主義思想の退潮を予言する、厳しい批判の言葉を残しているが、これらの言論をロシア革命以前から発していたことは注目に値する。そして内村の社会主義批判の姿勢は、矢内原忠雄ら内村の後継者の一部にも引き継がれることとなった[注 5]。
柏木時代
明治40年(1907年)11月、内村一家は角筈から淀橋町の柏木に移った。内村の感化された実業家の今井樟太郎の未亡人ノブの寄付により同年末に内村の活動のための建物を建設し、それが今井館と呼ばれるようになり、無教会主義キリスト教の本拠になった。明治41年(1908年)6月に『聖書之研究』第百号の祝いを兼ねて、今井館の開会式を行った。
明治42年(1909年)秋には、第一高等学校の校長・新渡戸稲造のもとで読書会グループを形成していた学生たちが、新渡戸の推薦状をもって、内村の弟子に入門した。この一団は内村によって柏会と命名された。10月29日に第一回明の会合を行った。岩永裕吉、金井清、川西実三、黒崎幸吉、沢田廉三、膳桂之助、高木八尺、田中耕太郎、田島道治、塚本虎二、鶴見祐輔、前田多門、三谷隆正、森戸辰男、藤井武らがメンバーになった。柏会が結成された二年後の明治43年(1911年)秋に『聖書之研究』で、読者であれば誰でも聖書研究会に出席しても良いと広告された。そして、同年10月1日に矢内原忠雄と坂田祐らが出席した。矢内原は柏会に入し、坂田は南原繁と別の会を作り、明治45年(1912年)1月30日に、白雨会として発足した。
明治44年(1911年)の春頃より、女学校を卒業した娘のルツ子が原因不明の病のために病床に就くことになった。東洋宣教会の教師・笹尾鉄三郎に信仰の導きを依頼した。内村は看病で聖書研究の準備ができなかった、その頃に『デンマルク国の話』が語られ、学生たちに感化を与えた。内村夫妻の不眠不休の看病にもかかわらず、明治45年(1912年)1月12日にルツ子は18歳で夭折した。
柏会は大正5年(1916年)10月に解散して、藤井武、黒岩幸吉、塚本虎二、江原万里、金沢常雄、矢内原忠雄、三谷隆正、三谷隆信、前田多門らが、純信仰的集団のエマオ会を創設した。
これらの会は、大正7年(1918年)から内村が再臨運動を始めると発展解消して、同年9月15日に内村以下82名からなる柏木兄弟団になった。しかし、その4ヶ月後には、門下の医者によりサマリヤ会ができ、大正12年(1923年)12月には足洗会という愛の交わりの集会が生まれた。これは、内村の死後も続き戦後「霊交会」という名前になり長く続くことになる。
再臨運動時代
明治45年(1912年)の娘ルツ子の病死とアメリカ在住のアメリカ人の友人ベルの手紙での感化によって、内村の再臨信仰は形成された。大正6年(1917年)に宗教改革四百年記念講演会が成功に終わったことに励まされ、無教会の特徴である閉鎖的な集会の方針を変えて、大々的な集会を開催する方針になった。大正7年(1918年)より再臨運動を開始した。内村は再臨信仰において一致できるならば誰とでも協力したが、その一人が日本ホーリネス教会の監督中田重治である。もともと中田の設立したホーリネス教会は、主要教理の四重の福音の一つとして再臨を強調していた。
中田と内村は同じ柏木に住んでいた、それまで交流がなかったが、近所で発生した火災をきっかけに交流を持つようになる。互いに再臨信仰への使命も持っていることを知り、急速に接近して協力するようになった。それに、組合教会の巡回伝道者の木村清松と話し合い再臨運動を始めることになった。さらに、アメリカ留学から帰国したばかりの平出慶一、武本喜代蔵、自由メソジストの河辺貞吉、聖公会の藤本寿作らなどが加わり、超教派の運動として、再臨運動は展開された。運動は、当初東京や関西を中心に再臨講演会をもっていたが、後に北海道から岡山にまで及び、多くの聴衆が出席した。各地の教会に熱烈な信仰復興が起こり、キリスト教界に大きな影響を与えたが、大正8年(1919年)6月には海老名弾正らを中心に基督再臨反対演説会が開かれるなど、キリスト教会内部での反対運動も大きかった。キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ運動は、明確な決着を見ずに、ほぼ2年で終息した。しかし、内村は生涯復活信仰を捨てなかった。
晩年
大正11年(1922年)10月世界伝道協賛会を創設して、世界の伝道事業に貢献する組織を作った。協賛会は毎月一回開かれて、世界の伝道のために祈り、献金が捧げられた。そして、同年暮れには、中国、台湾、南洋諸島の伝道を援助するために送金された。
大正12年(1923年)7月7日に、自分の後継者と期待していた元弟子の有島武郎が、人妻の波多野秋子と心中した。これを聞いた内村は『萬朝報』に「背教者としての有島武郎氏」という文章を載せた。死の原因を「コスミック・ソロー(宇宙の苦悶)」であるとのべ、激しい怒りを表明した。同年9月1日の関東大震災では長野県沓掛に滞在中で震災を逃れたが、2日に帰京した。内村の家族には被害がなかった。しかし、かれが心血を注いで福音を語った「霊的戦闘のアリーナ」であった衛生会講堂を失った。
大正13年(1924年)、同年に米国で可決された、排日法案に反対するために、絶交状態にあった徳富蘇峰と和解して、『国民新聞』に何度も排日反対の文を掲載した。また、植村正久や小崎弘道ら教会指導者と「対米問題」について議論を重ねた。
大正15年(1926年)には、内村聖書研究会からアルベルト・シュヴァイツァーに送金された。昭和2年(1927年)には、シュヴァイツァー後援会を設けて、事業を積極的に支援した。
昭和3年(1928年)6月2日の受洗50周年記念に同期生の新渡戸稲造、広井勇、一期生の伊藤一隆、大島正健らと一緒に青山墓地のハリスの墓参りをした。同年7月から9月にかけて、北海道帝国大学の教授として札幌に赴任していた祐之一家と共に札幌伝道を行った。無牧になっていたメソジスト派の札幌独立キリスト教会で説教をし、伝道を助けた[注 6]。 伝道を終了するにあたって同教会の教務顧問に就任した。この頃から内村は体調を崩し始めた。
内村の既存の教会に協力的な行動に対して反発した塚本虎二らと、無教会主義の考えにおいて対立するようになった。昭和4年(1929年)暮れに、塚本らとの対立は激化して、分離することになった。これが原因で、内村はさらに病状を悪化させた。最晩年に師事したのが、大塚久雄であった。
昭和5年(1930年)1月20日に、柏木の聖書講堂で「パウロの武士道」について述べたのが公の場に出た最後であった。3月26日の内村の古希感謝祝賀会には本人は出席できず、長男祐之が挨拶した。 3月27日、心臓発作を起こして病状が急変[17]、3月28日朝に「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」との言葉を最後に昏睡状態に陥り、午前8時51分に家族に見守られて死去した[18]。 3月30日、聖書研究会約500名により会員葬が営まれた[19]。
4月6日に内村の遺言により、内村聖書研究会は解散式を行い、「聖書之研究」は第357号をもって廃刊になった。
年譜
- 万延2年(1861年) - 上州高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれる。
- 明治6年(1873年) - 東京の有馬学校入学
- 明治7年(1874年) - 東京外国語学校入学
- 明治10年(1877年) - 札幌農学校入学、「イエスを信ずる者の誓約」に署名
- 明治11年(1878年) - 受洗、洗礼名「ヨナタン」
- 明治14年(1881年) - 首席で農学校卒業、卒業演説「漁業も学術の一つなり」。開拓使御用掛となる。
- 明治15年(1882年) - 父・宜之受洗礼。札幌独立教会設立。
- 明治17年(1884年)
- 3月28日、浅田タケと結婚(7ヶ月後破婚)。
- 11月、渡米。
- 明治18年(1885年) - エルウィン白知院にて看護人として働く。新島襄の紹介によりマサチューセッツ州アマースト大学に入る。
- 明治19年(1886年) - 学長シーリーの人格と信仰の影響を受けて、キリストの贖罪の信仰を得る。
- 明治20年(1887年) - アマースト大学卒業。ハートフォード神学校入学。
- 明治21年(1888年) - ハートフォード神学校を退学し、帰国する。新潟の北越学館に赴任。12月に宣教師らと衝突して、辞職、帰京。
- 明治22年(1889年) - 東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女学校に教える。
- 7月31日、横浜加寿子と結婚。
- 明治23年(1890年) - 9月に第一高等中学校嘱託職員になる。
- 明治24年(1891年)
- 1月9日、不敬事件。
- 4月19日、妻加寿子が病死。
- 明治25年(1892年) - 大阪の泰西学館に赴任。
- 12月23日、岡田シズと結婚
- 明治26年(1893年) - 著作活動を始める。処女作は『基督信徒のなぐさめ』。同書で「無教会」という言葉を初めて使った。泰西学館辞任。熊本英学校赴任。8月すぐに辞任して京都に住む。
- 明治30年(1897年) - 「万朝報」の英文欄主筆になる。
- 明治34年(1901年) - 「無教会」を創刊。黒岩涙香らと「理想団」を作り、社会改良運動を行う。9月に研成義塾で3日間の講演を行う。
- 明治35年(1902年) - 角筈聖書研究会を自宅で始める。
- 明治36年(1903年) - 日露非開戦論、戦争絶対反対論を「萬朝報」「聖書之研究」で発表。萬朝報客員を辞す。
- 明治40年(1907年)
- 4月13日、父宜之が死去する。
- 11月、角筈より柏木に移転
- 明治45年(1912年) - 長女ルツ子が病になり信仰の導きを笹尾鉄三郎に委ねる。1月12日ルツ子が死去する。ルツ子の死を通して復活信仰を得る。
- 大正7年(1918年) - 中田重治、木村清松らと共に、再臨運動を始める。
- 昭和5年(1930年) - 3月28日死去、遺言により「聖書之研究」は廃刊、内村鑑三聖書研究会解散。
家族
- 祖父・内村長成 ‐ 高崎藩士
- 父・内村宜之(1833-1907) ‐ 高崎藩士、儒学者
- 母・ヤソ(八十子、1839-1904) ‐ 実家の大戸家は高崎藩の江戸詰め藩士で、本郷林町に広い地所と家作とをもつ裕福な家庭で、ヤソは文をよくし、短歌も嗜んだ。鑑三の最初の結婚に反対し不仲となる。晩年は病を得て失明し、精神障害もみられるとして鑑三によって精神病院に入所せらる。母に対するこの扱いを巡って弟妹と鑑三との間に確執が生まれる。[20][21]
- 弟・ 内村達三郎(1865-1934) ‐ 英文学者
- 次弟・内村道治(1871-1943) ‐ 小学校卒。長くアメリカで暮らし、帰国後英語教師となった。[22]
- 妹・木村宜子(1876-1945) ‐ 仙台の東北実業銀行支配人・木村康託の妻。1896年結婚。母の勧めで佐々木信綱の竹柏園に入門したこともあった。鑑三は弟たちとは生涯不仲であったが宜子とは比較的親しくしていた。[22][21]
- 三弟・内村順也(1880-1965)‐ 教員。1893年に開成中学校入学、1897年関西学院普通学部へ転入し1899年卒業、1900年陸軍東京砲兵工廠勤務、1903年福島県立福島中学校の英語と歴史の教師となる。父の死後、妻子を残して渡米し1919年末に帰国、関西学院中等部の英語教師となる。娘婿に和田洋一 (文学研究者)。[23]
- 妻・タケ(竹) ‐旧姓、浅田。上州安中出身、京都の同志社、横浜の共立女学校で学び、新島襄から受洗。1883年に安中教会で鑑三と出会い、翌年結婚するも、3部屋しかない狭い家に両親と弟妹4人と暮らす生活に耐えきれず、7か月で内村家を出奔。娘が生まれたことで復縁を望んだが鑑三に拒否され、1888年離婚。その後他家に嫁ぎ、息子娘を儲けた。[24][25]
- 長女・日永ノブ(信子、1885-) ‐ 鑑三とタケの娘。鑑三が滞米中に母方伯父宅で生まれ、4歳で母とも別れ、祖母と伯父夫婦に育てられ、16歳で伯父の養子となる。女学校卒業後、1902年に鑑三と初対面し以来交流する。群馬県神川村万場の教員となり、30歳で同僚で桐生聖書集会主宰の日永初太郎と結婚、夫ともに伝道活動に励んだ。[26]
- 妻・かず(嘉寿子、-1891) ‐ 高崎藩士・横浜恕の娘で鑑三の幼馴染。1889年結婚。不敬事件の騒動による過労に加え、鑑三の流感に感染し、死別。甥に濱田成徳。[24][27]
- 妻・築山モト ‐ 1892年に結婚したとされるが詳細不明。[24]
- 妻・内村静子(1874-1945) ‐ 岡崎藩士・判事の岡田透の娘。1892年末に結婚。[24]
著作
- How I Became a Christian
- 邦訳 『余は如何にして基督信徒となりし乎』(岩波文庫)ほか多数 ISBN 4003311922
- Representative Men of Japan(『代表的日本人』岩波文庫、のちワイド版)1908年 - Japan and Japanese(1894年)の改訂版
- ヘルマン・ヘッセの父であるヨハネス・ヘッセは、上記『余は如何にして……』を1905年に、また本書を1908年に初めてドイツ語訳した人物として知られている。なおこの独訳本は、シュトゥットガルトのD.グンデルト社という出版社から刊行されたが、同社代表であったグンデルトはヨハネスの義兄弟にあたり、その息子のヴィルヘルム・グンデルトは1906年に内村を慕って来日し、のちにドイツの日本学に多大な貢献をもたらす研究者となったことが知られている[28]。
- 『基督信徒のなぐさめ』 - 1893年の内村鑑三の処女作。「無教会」という言葉が初めて使われた作品である。岩波文庫(1976年、改版2021年、ISBN 978-4003815137)。
- 『求安録』 - 警醒社・福音社(1893年8月)。のち岩波文庫(1939年、ISBN 4003311973)。
- 『地人論』 - 初め『地理学考』の書名で刊行(警醒社、1894年5月)。第2版(1897年2月)で『地人論』と改題[注 7]。のち岩波文庫(1942年、ISBN 4003311906)。
- 『後世への最大遺物』 - 1894年7月のキリスト教徒夏期学校での講演をまとめたもの。1897年、便利堂より刊行。のち岩波文庫(『後世への最大遺物・デンマルク国の話』、改版2011年、ISBN 4003311949)。
- 『デンマルク国の話』 - 1911年の今井館での講演をまとめたもの。副題は「信仰と樹木とをもって国を救いし話」。同年の「聖書之研究」第136号に掲載。のち岩波文庫(『後世への最大遺物・デンマルク国の話』ISBN 4003311949)。
- 『内村鑑三所感集』 鈴木俊郎編 岩波文庫
- 『キリスト教問答』 講談社学術文庫
- 『内村鑑三/岡倉天心』 新学社:近代浪漫派文庫、2004年
- 西郷隆盛(鈴木範久訳)、ダンテとゲーテ、余が非戦論者となりし由来、歓喜と希望、所感十年を収録。
- 『内村鑑三全集』全40巻 岩波書店、1984年完結
- 『内村鑑三の伝道論 - なぜ宗教が必要なのか』新・教養の大陸シリーズ、幸福の科学出版、2016年3月発行、ISBN 978-4-86395-769-5。
- 「雑誌 聖書之研究」に掲載された論文をまとめたもの。『内村鑑三信仰著作全集17巻 伝道』教文館(全25巻)を参照。
関連項目
人物
- 内村美代子 - 内村祐之の妻。『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』の翻訳(角川文庫)や、鑑三選集の編纂、『晩年の父内村鑑三』(教文館)の著作を行った。
- 内村祐之 - 内村鑑三の長男。精神科医、東京帝国大学医学部教授。第3代日本プロ野球コミッショナー。
- 小原信
- 亀井俊介
- 新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生
- 正宗白鳥
- 山本一太 - 政治家、元参議院議員。遠い親戚にあたる[29]。
- 三浦政治 - 主に北海道で活動した教育者。明治40年頃から鑑三より教えを受けたという[30]。
その他
- 良心的兵役拒否
- 石の教会・内村鑑三記念堂
- 普連土女学校 - 内村と新渡戸稲造の提言により設立された。
- 基督教独立学園高等学校 - 門下生の鈴木弼美らによって創設。
- 上毛かるた - 「こ」の札に「心の燈台 内村鑑三」として採録されている。
脚注
注釈
- 「自己を鑑みる」という用法は、『何に』鑑みるのかが欠落しているが、鑑三の父の勘違いによるものであろう。[要出典]
- 後に「なぜ帝大に入らなかったのか」という質問に対して、内村は「金がなかったから」と答えたという[4]。
- 北越学館で、1年間の契約と共に、内村は伝道活動に携わらないことが約定書で決められていた。北越学館のキリスト教のみを教え、日本のことを教えない点と、外国伝道会社の援助を得ることによって自主独立が損なわれている点について、信仰上の束縛を内村は嫌ったと思われる[11]。
- 「吾人は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと」[13]
- 「矢内原にとって、キリスト教的観点に立てば唯物史観は偽キリストであり、矢内原がマルクス主義と対決してキリスト教弁護論を体系的に展開したのは、偽キリストからキリストを峻別するとともに、その挑戦に応じて現世同化したキリスト教を改革純化するためであった」[16]
- メソジスト教会で洗礼を受けたが、1891年の不敬事件で除籍された。しかし、1900年以来、内村は日本メソジスト教会の教会員に復籍していた。[要出典]
- 第2版の冒頭に、親友の勧誘に従って改題した旨が書かれている。第二版に附する自序
余は久しく本書の改題に躊躇せり、然れども二三親友の勸誘に從ひ、竟に先哲アーノルド、ギヨー氏の著書に做ひ、其名を籍りて此書に附するに至れり、勿論彼の優此の劣は余の言を待ずして明かなり。 — 内村鑑三、『地人論』訂正版、1897年none
出典
- “内村鑑三”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2020年11月5日閲覧。none
- 『朝日年鑑 昭和6年』朝日新聞社、1930年、738頁。none
- ^ 関根(1967)、6頁
- ^ 関根(1967)、17頁。
- ^ 内村鑑三著作集21 岩波書店
- ^ 『北海道帝国大学一覧 昭和8年』北海道帝国大学、1933年10月、p.379
- ^ 彦根正三編『〔改正官員録 明治15年9月〕』博公書院、304丁
- ^ 関根(1967)、25頁
- ^ “内村鑑三の離婚”. ケベル先生のブログ. 2013年3月21日閲覧。[出典無効]
- ^ a b c 北越学館事件の成瀬仁蔵と内村鑑三―「成瀬意見書」の検討を通して片桐芳雄 日本女子大学教育学科の会 人間研究 第 53 号 2017
- ^ 鈴木(1984)、43頁。
- ^ 『第一高等学校一覧 自明治23年至明治24年』第一高等学校、1891年、66頁。
- ^ 内村(1977)、308-311頁、(初出:内村鑑三「日清戦争の義」『国民之友』、民友社、1894年9月、 オリジナルの2016年9月13日時点におけるアーカイブ。)
- ^ 「幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三等 非戦論者=「萬朝報」を去る」明治36年10月12日萬朝報(新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第12卷』林泉社、1936年、pp.117-118)
- ^ 鈴木範久『聖書の日本語』岩波書店、2006年2月、117-118頁。ISBN 4000236644。
- ^ 岡崎滋樹「矢内原忠雄研究の系譜 戦後日本における言説」『社会システム研究』第24号、立命館大学社会システム研究所、2012年3月、223-262頁。
- ^ キリスト教界の巨星、死去『東京朝日新聞』昭和5年3月29日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p19 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 臨終の様子は祐之の「父の臨終の記」に克明に記録されている。内村(2006)
- ^ 全国から教友集まり葬儀『東京朝日新聞』昭和5年3月31日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p19)
- ^ 『近代日本とキリスト教の光源を見つめて 内村鑑三の生涯』小原信、PHP研究所、1992、第4章父と母
- ^ a b 『晚年の父内村鑑三』内村美代子、教文館, 1985、p218
- ^ a b 『近代日本とキリスト教の光源を見つめて 内村鑑三の生涯』小原信、PHP研究所、1992、第5章幼年時代・弟妹
- ^ 井上琢智「内村順也」『関西学院史紀要7』2001年3月
- ^ a b c d 内村鑑三歴史が眠る多磨霊園
- ^ 『晚年の父内村鑑三』内村美代子、教文館, 1985、p134
- ^ 内村鑑三と3人の娘たち矢田部千佳子、立教大学 『DEREK』 第 40 号(2020 年)
- ^ 『晚年の父内村鑑三』内村美代子、教文館, 1985、p205
- ^ 鈴木(1995)、196-197頁
- ^ 山本一太 (2014年6月10日). “偉大なる上州人、内村鑑三のDNA:その1”. 2014年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月15日閲覧。
- ^ 松本成美 編『迫害に抗して』三浦政治顕彰碑建立期成会、1978年、55頁。
参考文献[編集]
- 内村鑑三 著「日清戦争の義」、河上徹太郎 編『内村鑑三集』筑摩書房〈明治文学全集 第39〉、1977年(原著1967年)、308-311頁。ISBN 978-4-480-10339-0。
- 内村祐之「父の臨終の記」『内村鑑三日記書簡全集』 第4巻(日記 第4)、教文館、2006年2月(原著1965年)。ISBN 978-4-7642-0253-5。
- 江端公典『内村鑑三とその系譜』日本経済評論社、2006年11月。ISBN 978-4-8188-1883-5。
- 大竹庸悦『内村鑑三と田中正造』流通経済大学出版会、2002年9月。ISBN 978-4-947553-25-6。
- 鈴木範久『内村鑑三』岩波書店〈岩波新書 黄版 287〉、1984年12月。ISBN 4-00-420287-6。
- 鈴木範久「解説」『代表的日本人』岩波書店〈岩波文庫 青119-3〉、1995年7月。ISBN 4-00-331193-0。
- 関根正雄『内村鑑三』清水書院〈Century books 人と思想 25〉、1967年。ISBN 978-4-389-41025-4。
- 関根正雄『内村鑑三』(新装版)清水書院〈Century books 人と思想 25〉、2014年9月(原著1978年)。ISBN 978-4-389-42025-3。
- 森有正『内村鑑三』講談社〈講談社学術文庫 64〉、1976年。ISBN 978-4-06-158064-0。
- 若松英輔『内村鑑三 悲しみの使徒』岩波書店〈岩波新書 新赤版 1697〉、2018年1月。ISBN 978-4-00-431697-8。
外部リンク[編集]
- 朝日日本歴史人物事典『内村鑑三』 - コトバンク
- 今井館教友会 - 無教会関連の情報サービスを提供するNPO法人
- 内村鑑三記念文庫 - 国際基督教大学図書館: 文庫目録およびデジタルアーカイブ
- 内村鑑三 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館: 電子展示会
- 内村鑑三:作家別作品リスト - 青空文庫
- 思想家紹介 内村鑑三 - 京都大学大学院文学研究科・文学部
- 鈴木範久氏、60年の内村鑑三研究まとめ講演 クリスチャントゥデイ
#1
I greatly regret that the present conditions of book production make it impossible to reproduce more than one in thirty of my photographs. It is in no spirit of ingratitude to my hosts and many other kind people in Japan that I have taken the decision resolutely to strike out of the text all those names of places and persons which give such a forbidding air to a traveller's page. I have pleasure in acknowledging here the particular obligations I am under to Kunio Yanaghita, formerly Secretary of the Japanese House of Peers and a distinguished and disinterested student of rural conditions, Dr. Nitobe, assistant secretary of the League of Nations, and his wife, Professor Nasu, Imperial University, Mr. Yamasaki, Mr. M. Yanagi, Mr. Kanzō Uchimura, Mr. Bernard Leach, Mr. M. Tajima, Mr. Ono and two young officials in Hokkaido, who each in turn found time to join me on my journeys and showed me innumerable kindnesses. It was a piece of good fortune that while these pages were in preparation Mr. Yanaghita, Professor Nasu and other fellow-travellers were in Europe and available for consultation. Professor Nasu unweariedly furnished painstaking answers to many questions, and was kind enough to read all of the book in proof; but he has no responsibility, of course, for the views which I express. I am also specially indebted to Dr. Kozai, President of the Imperial University, to Mr. Ito and other officials of the Ministry of Agriculture, to Mr. Tsurimi, one of the most understanding of travelled Japanese, to Mr. Iwanaga, formerly of the Imperial Railway Board, to Dr. Sato, President of Hokkaido University, and his obliging colleagues, to the Imperial Agricultural Society, to Professors Yahagi and Yokoi, and to Viscount Kano, Dr. Kuwada, Mr. I. Yoshida, Mr. K. Ohta, Mr. H. Saito, Mr. S. Hoshijima, and many provincial agricultural and sociological experts.
現在の本作りの状況では、私の写真の30枚に1枚以上の複製が不可能であることを大変残念に思う。旅行者のページに禁欲的な雰囲気を与える地名や人名を、本文からすべて削除する決心をしたのは、私のホストファミリーをはじめとする日本の多くの親切な人々に対する恩義からではない。元貴族院書記官で、農村事情に造詣の深い柳下國男氏、国際連盟事務次長の新渡戸博士夫妻、帝国大学教授の那須氏、山崎氏、Mr. 山崎氏、柳宗悦氏、内村鑑三氏、バーナード・リーチ氏、田島幹事長、小野氏、そして北海道の2人の若い役人たちは、それぞれ時間を見つけては私の旅に加わり、数え切れないほどの親切をしてくれた。このページの作成中、柳下氏、那須教授、その他の旅人たちがヨーロッパに滞在しており、相談にのってくれたのは幸運であった。那須教授は多くの質問に丹念に答えてくれたし、校正のためにこの本のすべてを読んでくれた。また、帝国大学総長の古在博士、伊藤氏をはじめとする農水省の役人たち、農水省の最も理解ある人物の一人である釣見氏にも特に感謝している。
CHAPTER X A TROUBLER OF ISRAEL The signification of this gift of life, that we should leave a better world for our successors, is being understood.—Meredith To some people in Japan the countryman Kanzō Uchimura is "the Japanese Carlyle." To others he is a religious enthusiast and the Japanese equivalent of a troubler of Israel. He appeared to me in the guise of a student of rural sociology. Uchimura is the man who as a school teacher "refused to bow before the Emperor's portrait."[100] He endured, as was to be expected, social ostracism and straitened means. But when his voice came to be heard in journalism it was recognised as the voice of a man of principle by people who heard it far from gladly. There is a seamy side to some Japanese journalism[101] and Uchimura soon resigned his editorial chair. He abandoned a second editorship because he was determined to brave the displeasure of his countrymen by opposing the war with Russia. To-day he deplores many things in the relations of Japan and China. Uchimura has written more than two dozen books, mostly on religion. How I became a Christian has been translated into English, German, Danish, Russian and Chinese, and is to that extent a landmark in the literary history of Japan. His Christianity is an Early Christianity which places him in antagonism, not only to his own countrymen who are Shintoists, Buddhists or Confucians, or vaguely Nationalists, but to such foreign missionaries as are sectarians and literalists. His earliest training was in agricultural science, and the welfare of the Japanese countryside is near his heart. If he be a Carlyle, as his fibre and resolution, downright way of writing and speaking, hortatory gift, humour, plainness of life and dislike of officials, no less than his cast of countenance, his soft hat and long gaberdine-like coat have suggested, he is a Carlyle who is content to stay both in body and mind at Ecclefechan. He is not, however, like Carlyle, whom he calls "master," a peasant, but a samurai. "As you penetrate into the lives of the farmers and discover the influences brought to bear on them," Uchimura said to me in his decisive way, "there will be laid bare to you the foundations of Japan. You know our proverb, of course, No wa kuni no taihon nari ('Agriculture is the basis of a nation')? Have you been to Nikko?" This seemed a little inconsequent, but I told him I had not yet been to Nikko. ("Until you have seen Nikko," runs the adage, "do not say 'splendid'.") "How many of the tourists who are delighted with Nikko," he went on, "have heard how the richest farms near that town were devastated? A century ago a minister of the Shogun, who realised that fertility depended on trees, saw to the whole range of Nikko hills being afforested. It was a tract twenty miles by twenty miles in extent. But the 'civilised' authorities of our own days sold all the timber to a copper company for 8,000 yen. The company destroyed the fertility of the district not only by cutting down the forest but by poisoning the water with which the farmers irrigated their crops. A member of Parliament gave himself with such devotion to the cause of the ruined farmers that when he died the ashes of his cremated body were divided and preserved in four shrines erected to his memory." It was a sad thing, said Uchimura, that the farmers of Japan, because of the decreased fertility of the land due to the denudation of the hills of trees, and because of their increased expenses, should be laying out "a quarter of their incomes on artificial manures." "The enemies which Japan has most to fear to-day," Uchimura declared, "are impaired fertility and floods." It may be well, perhaps, to explain for a few readers how floods do their ill work. The rain which falls on treeless mountains is not absorbed there. The water washes down the mountain sides, bringing with it first good soil and then subsoil, stones and rock. The hills eventually become those peaked deserts the queer look of which must have puzzled many students of Japanese pictures. The debris washed away is carried into the rivers, along with trees from the lower slopes, and the level of the river beds is raised. Because there is less space in the river beds for water the rivers overflow their banks, and disastrous floods take place. The farmers, the local authorities and the State raise embankments higher and higher, but embankment building is costly and cannot go on indefinitely. The real remedy is to decrease the supply of water by planting forests in the mountains[102] . In many places the rivers are flowing above the level of the surrounding country. The imagination is caught by the fact that there are four earthquakes a day in Japan [103] and that within a twelvemonth fires destroy 400 acres or so of buildings; but every year, on an average, floods, tidal waves and typhoons together drown more than 600 people and cause a money loss of 25 million yen! Every year 10½ million yen are spent by the State and the prefectures on river control alone. Uchimura put on his famous wideawake and we went out for a walk. "I should like," he said, "to press the view that the vaunted expansion of Japan has meant to the farmers an increase of prices and taxes and of armaments out of all proportion to our population[104]." Uchimura stood stock still in the little wood we had entered. "There is one thing more," he added gravely. "Before you can get deeply into your subject you must touch religion. There you see the depths of the people. A large part of the deterioration of the countryside is due to the deterioration of Buddhism. You must ask about it. You will see in the villages much of what your old writers used to call 'priestcraft.' You will hear of the thraldom of many of the people. You will see with your own eyes that real Christianity may be a moral bath for a rural district." "The essentials, not the forms of Christianity," he declared, would save the countryside by "brotherly union." "Brotherly union" would make a better life and a better agriculture. The rural class, he explained, was more sharply divided than foreigners understood into owners of land who lived on their rents and farmers who farmed[105]. The division between the two classes was "as great as an Indian caste division." "To the landowner who lives in his village like a feudal lord the simple Gospel, with its insistence on the sacredness of work, comes as an intellectual revolution." Women as well as men of means received from Christianity "a new conception of humanity." They ceased to "look upon their own glory and to take delight in the flattery of poor people." They changed their way of speaking to the peasants. They developed an interest, of which they knew nothing before, in the spiritual and material betterment of the men, women and children of their village. I went a two-days journey into the country with Uchimura. We stayed at the house of a landowner who was one of his adherents. I found myself in a large room where two swallows were flitting, intent on building on a beam which yearly bore a nest. In this room stood a shrine containing the ancestral tablets. The daily offerings were no longer made, but Uchimura's counsel, unlike that of some zealots, was to preserve not only this shrine but the large family shrine in the courtyard. Near by was an engraving of Luther. Uchimura spoke in the house to some thirty or more "people of the district who had accepted Christianity." His appeal was to "live Christianity as given to the world by its founder." The address, which was delivered from an arm-chair, was based on the fifth chapter of Matthew, which in the preacher's copy appeared to contain cross-references to two disciples called Tolstoy and Carlyle. When I was asked to speak I found that the women in the gathering had places in front. "The remarkable effect of Christianity among those who have come to think with us," Uchimura told me afterwards, "is seen most in their treatment of women. Our host, had he not been a Christian, would have been credited by public opinion with the possession of a concubine, and would not have been blamed for it." When, after the speaking, we knelt in a circle and talked less formally of how best to benefit rural people, we were joined by the women folk. Later, when a dozen of the neighbours were invited to dinner, it was not served at separate tables for each kneeling guest, but at one long table, an innovation "to indicate the brotherly relation." "So you see," said Uchimura, as we walked to the station in the morning, "in an antiquated book, which, I suppose, stands dusty on the shelves of some of your reformers, there is power to achieve the very things they aim at." He went on to explain that he looked "in the lives of hearers, not in what they say," for results from his teaching. He believed in liberty and freedom, in sowing the seed of change and reform and allowing people to develop as they would. "Let men and women believe as they have light." He spoke in his kindly way of how "the bond of a common faith enables Japanese to get closer to the foreigner and the foreigner closer to the Japanese." There were many things we foreigners did not understand. We did not understand, for example, that "A man's a man for a' that" was an unfamiliar conception to a Japanese. I was to remember, when I interrogated Japanese about the problems of rural life, that they had had to coin a word for "problems." Above all, I must be careful not to "exaggerate the quality of Eastern morality." Uchimura asserted sweepingly that "morality in the Anglo-Saxon sense is not found in Japan." We of the West underrated the value of the part played by the Puritans in our development. Our moral life had been evolved by the soul-stirring power of the Hebrew prophets and of Christ. To deny this was "kicking your own mother." Just as it was not possible for the Briton or American to get his present morality from Greece and Rome exclusively, it was not possible for the Japanese to obtain it from the sources at his disposal. The faults of the Eastern were that he thought too much of outward conduct. Good political and neighbourly-relations, kindliness, honesty and thrift were his idea of morality. "To love goodness and to hate evil with one's whole soul is a Christian conception for which you may search in vain through heathendom." The horror which the Western man of high character felt when he thought of the future of the little girls in attendance on geisha was not a horror generated by Plato. "Heathen life looks nice on the outside to foreigners," but Confucianism, Buddhism and Shintoism had all been weak in their attitude towards immorality. It was Christianity alone which controlled sexual life. Without deep-seated love of and joy in goodness and deep-seated horror of evil it was impossible to reform society. Uchimura said that it had taken him thirty years to reach the conviction that the best way of raising his countrymen was by preaching the religion of "a despised foreign peasant." Many things he had been told by exponents of Christianity now seemed "very strange," but there remained in the first four books of the New Testament, in the essence of Christianity, principles "which would give new life to all men." Moved by this belief, Uchimura and his friends gave their lives to the work of the Gospel, to a work attended by humiliations; "but this is our glory." Japanese civilisation, he reiterated, was "only good in the sense that Greek and Roman civilisations were good." Modern Japan represented "the best of Europe minus Christianity; the moral backbone of Christianity is lacking." "Probe a dozen Buddhist priests in turn," he said, "and you find something lacking; you don't find the Buddhist or Confucian really to be your brother [106]." "The greatness of England," he went on, "is not due to the inherent greatness of the English people, but to the greatness of the truths which they have received." In considering the sources of national greatness, it was idle to believe that some peoples were original and some not original in their ideas and methods. Where were the people to be found who were without extraneous influence? Where would England be without Greek philosophy, Roman law, and Christianity? Our talk broke off as several peasant women passed us on the narrow way by the rice fields. The mattocks they carried were the same weight as their husbands' mattocks and the women were going to do the same work as the men. But the women were nearly all handicapped by having a child tied on their backs. Uchimura, returning to his objection to foreign political adventure, said that Japan, properly cultivated, could support twice its present population. There were many marshy districts which could be brought into cultivation by drainage. Then what might not forestry do? But the progress could not be made because of lack of money. The money was needed for "national defence." "For myself," said Uchimura, "I find it still possible to believe in some power which will take care of inoffensive, quiet, humble, industrious people. If all the high virtues of mankind are not safeguarded somehow, then let us take leave of all the ennobling aspirations, all the poetry, and all the deepest hopes we have, and cease to struggle upward. The question is whether we have faith." We still waited, he declared, for the nation which would be Christian enough to take its stand on the Gospel and sacrifice itself materially, if need be, to its faith that right was greater than might. And so "impractical, outspoken to rashness, but thoroughly sincere and experienced," as one of his appreciative countrymen characterised him to me, we take leave of the "Japanese Carlyle." With whom could I have gone more provocatively towards the foundation of things at the beginning of my investigation in farther Japan?
FOOTNOTES: [100] The statement is, he told me, a calumny. He explained that he lost his post for refusing to bow, not to the portrait, but to the signature of the Emperor, the signature appended to that famous Imperial rescript on education which is appointed to be read in schools. Uchimura is very willing, he said, to show the respect which loyal Japanese are at all times ready to manifest to the Emperor, and he would certainly bow before the portrait of His Majesty; but in the proposal that reverence should be paid to the Imperial autograph he thought he saw the demands of a "Kaiserism"—his word, he speaks vigorous English—which was foreign to the Japanese conception of their sovereign, which would be inimical to the Emperor's influence and would be bad for the nation.
[101] But journalism is one of the most powerful influences for good, and some of the best brains of the country is represented in it. Papers like the Jiji, Asahi, Nichi Nichi, and the Osaka papers run in conjunction with them have altogether a circulation approaching two millions. [102] For statistics of forests, see Appendix XXXII. [103] A severe shook occurs on an average about every six years. The eminent seismologist, Professor Omori, told me that he does not expect an earthquake of a dangerous sort for a generation. [104] The Oriental Economist, a Japanese publication, in the autumn of 1921 suggested the abandonment of all the extensions to the Empire on the score that they had not been a benefit to Japan, and that she was in no way dependent on them. See also Appendix XXXIII. [105] See Appendix XXXIV. [106] What of the old story which I have heard from Uchimura and others of the Confucian missionary to certain head hunters of Formosa? After many years of labour among them they promised to give up head hunting if they might take just one more head. At last the good man yielded, and told them that a Chinaman in a red robe was coming towards the village the next day and his head might be taken. On the morrow the men lay in wait for the stranger, sprang on him and cut off his head, only to find that it was the head of their beloved missionary. Struck with remorse and realising the evil of head taking, the tribe gave up head hunting for ever. CHAPTER XI THE IDEA OF A GAP
第 11 章 イスラエルのトラブル者 この命の贈り物の意味、つまり私たちが後継者のためにより良い世界を残すべきであるということは、理解されつつある。―メレディス 日本の一部の人々にとって、田舎者内村鑑三は「日本のカーライル」である。他の人にとって、彼は宗教愛好家であり、日本ではイスラエルの問題児に相当します。彼は田舎の社会学の学生を装って私に現れました。内村は学校教師として「天皇の肖像の前に頭を下げることを拒否した」[100]男である。彼は予想通り、社会的排斥と束縛的な手段に耐えた。しかし、彼の声がジャーナリズムで聞かれるようになると、それを喜んで聞いた人々からは、それは原則を持った人の声であると認識されました。日本のジャーナリズムには不穏な側面があり[101]、内村はすぐに編集委員長を辞任した。彼はロシアとの戦争に反対することで同胞の不興を乗り越える決意をしたため、2度目の編集職を放棄した。今日、彼は日本と中国の関係における多くのことを遺憾に思っている。内村氏は主に宗教に関する本を20冊以上執筆している。『私はどのようにしてクリスチャンになったのか』は英語、ドイツ語、デンマーク語、ロシア語、中国語に翻訳されており、その限りにおいて日本の文学史における画期的な作品です。彼のキリスト教は初期キリスト教であり、神道家、仏教徒、儒家、または漠然とした国家主義者である同胞だけでなく、宗派主義者や文学主義者のような外国人宣教師に対しても敵意を抱いている。彼の最初の訓練は農業科学であり、日本の田舎の福祉が彼の中心にありました。もし彼がカーライルであるなら、彼の性格と決断力、あからさまな書き方と話し方、敬虔な賜物、ユーモア、生活の質素さ、役人への嫌悪は、彼の顔つきと同様に、彼のソフト帽とギャバジンのような長いコートにも劣らない。彼は心も体もエクレフェカンに留まることに満足しているカーライルであると示唆した。しかし、彼はカーライルのように「主人」と呼んでいる農民ではなく、武士である。「農民の生活に入り込み、彼らに与えられた影響を発見すると、日本の基礎が明らかになります。もちろん、私たちのことわざを知っていますね。 、「農は国の基礎なり?日光に行ったことがありますか?」ちょっとどうでもいいような気がしましたが、私はまだ日光に行ったことがないことを伝えました。(「日光を見るまでは、『素晴らしい』とは言ってはいけない」という格言がある。)「日光を喜ぶ観光客のうち、どれだけの人が、その町の近くにある最も裕福な農場がどうなっているかを聞いたことがあるだろうか」と彼は続けた。 1世紀前、肥沃度が樹木に依存していることに気づいた将軍の大臣は、20マイル×20マイルの広さの日光丘陵全域を植林することにした。しかし、私たちの時代の「文明」当局は、すべての木材を銅会社に8,000円で売却しました。同社は森林を伐採しただけでなく、農民が作物に灌漑するために使用した水を汚染することによって、この地域の肥沃度を破壊した。ある国会議員は、農民の没落の大義に非常に献身的に身をささげたので、彼が亡くなったとき、火葬された遺体の遺灰は分割され、彼を記念して建てられた4つの神社に保存されました」と内村氏は語った。日本の農民は、樹木の丘陵の荒廃により土地の肥沃度が低下し、出費が増大しているため、「収入の4分の1を人工肥料に充てる」べきである。 「今日最も恐れるべきことは」と内村は宣言した、「生殖能力の低下と洪水だ。」少数の読者には洪水がどのように悪影響を与えるかを説明するのがよいかもしれない。樹木のない山に降った雨はそこで吸収されない。 「水は山の斜面を流れ落ち、最初に良質の土を運び、次に下層土、石、岩をもたらします。丘は最終的にあの尖った砂漠になります。その奇妙な外観は、多くの日本画研究者を当惑させたに違いありません。流された瓦礫は運ばれます。」斜面の下の木とともに川に流れ込み、川床のレベルが高くなります。河床には水が入るスペースが少ないため、川は堤防から氾濫し、悲惨な洪水が発生します。農民、地方自治体、国は堤防をどんどん高くしていきますが、堤防の建設には費用がかかり、いつまでも続けることはできません。本当の解決策は、山に森林を植えて水の供給を減らすことである [102] 。多くの場所で、川は周囲の国よりも高いところを流れています。日本では 1 日に 4 回地震があり [103]、12 か月以内に火災により 400 エーカーほどの建物が焼失するという事実が想像力をかきたてます。しかし、毎年、洪水、高波、台風により、平均して600人以上が溺れ、2,500万円もの金銭的損失が発生しています。国と県は河川管理だけで毎年1050万円を支出している。内村さんは有名なワイドアウェイクを着て、私たちは散歩に出かけました。「私は、自慢の日本の拡大が農民たちにとって、人口に比例しない物価や税金、軍備の増加を意味しているという見解を主張したいと思う[104]。」と彼は言った。内村は私たちが入った小さな森の中にじっと立っていた。「もう一つあります」と彼は重々しく付け加えた。「主題に深く入る前に、宗教に触れなければなりません。そこに人々の深みが見えます。田舎の衰退の大部分は仏教の衰退によるものです。それについて尋ねなければなりません。あなたは見るでしょう」村々は、昔の作家が「司祭の業」と呼んでいたものの多くを占めています。多くの人々の奴隷状態について聞くことになるだろう。「本当のキリスト教が田舎の道徳の泉となるかもしれないことを、あなたは自分の目で見ることになるでしょう。」「キリスト教の形式ではなく、本質的なもの」が「兄弟の団結」によって田舎を救うだろうと彼は宣言しました。農村部の階級は、外国人が理解している以上に、地代で暮らす土地所有者と農業を営む農民にはっきりと分かれていたと氏は説明した[105]。2つの階級間の分裂は「同じくらい大きかった」 「封建領主のように自分の村に住んでいる地主にとって、仕事の神聖さを主張する単純な福音は、知的革命として伝わってくる。」 女性も男性もキリスト教から受けた資力のある人たちだ。彼らは「自分たちの栄光を見つめ、貧しい人々へのお世辞を喜ぶ」ことをやめ、農民への話し方を変え、以前は何も知らなかった興味を抱くようになった。 、村の男性、女性、子供たちの精神的および物質的な向上に貢献します。私は内村と一緒に田舎へ2日間の旅に行きました。私たちは彼の信奉者の一人である地主の家に泊まりました。私は大きな部屋にいて、そこには2羽のツバメが飛び交い、毎年巣を作る梁の上に建物を建てようとしていました。この部屋には祖先の位牌が納められた祠が立っていた。毎日のお供え物はもう行われなくなりましたが、内村の助言は、一部の熱狂的な信者とは異なり、この神社だけでなく、中庭にある大きな家族の神社も保存することでした。近くにはルターの彫刻がありました。内村さんは家で約30人以上の「キリスト教を受け入れた地区の人々」に話を聞いた。彼の訴えは「創始者が世界に与えたキリスト教を生きる」というものだった。肘掛け椅子から行われたこの演説は、マタイ福音書の第5章に基づいており、説教師の写しにはトルストイとカーライルという2人の弟子への相互参照が含まれているようだった。私が発言するように頼まれたとき、集会に参加していた女性たちが前に席を持っていたことがわかりました。「私たちと一緒に考えるようになった人々の間でのキリスト教の顕著な影響は、女性の扱いに最もよく表れています。私たちのホストは、もし彼がキリスト教徒でなかったら、世論によって評価されていたでしょう」と内村は後で私に語った。妾を所有していたとしても、それについて咎められることはなかったでしょう。」講演の後、私たちが輪になってひざまずいて、田舎の人々に利益をもたらす最善の方法について形式張らずに話し合ったとき、女性の人々も参加してくれました。その後、十数人の隣人が夕食に招待されたとき、ひざまずくゲストごとに別々のテーブルではなく、1つの長いテーブルで提供されました。これは「兄弟関係を示すため」の革新でした。「そうか」朝、駅まで歩きながら内村が言った。「改革者の一部の本棚に埃をかぶって放置されていると思いますが、この古びた本には、まさに彼らが目指していることを達成する力が秘められています。」彼は続けて、自分の教えの結果を「聞く人の言葉ではなく、聞く人の生活の中に」求めていると説明した。彼は自由と自由を信じ、変化と改革の種をまき、人々が思うがままに成長できるようにすることを信じていました。「男性も女性も光があるように信じましょう。」「共通の信仰の絆によって、日本人は外国人に近づき、外国人は日本人に近づくことができる」ということを、優しい語り口で語ってくださいました。私たち外国人には理解できないことがたくさんありました。例えば、「あれだから男は男だ」という言葉が日本人には馴染みのない概念であることを私たちは理解していませんでした。田舎の生活の問題について日本人に尋問したとき、彼らは「問題」という言葉を造らなければならなかったということを思い出しました。何よりも「東洋の道徳の質を誇張」しないように注意しなければなりません。内村氏は「アングロサクソン的な意味での道徳は日本には存在しない」と断言した。私たち西洋人は、私たちの発展においてピューリタンが果たした役割の価値を過小評価していました。私たちの道徳的生活は、ヘブライ人の預言者とキリストの魂を揺さぶる力によって発展してきました。これを否定することは「自分の母親を蹴っている」ことになる。イギリス人やアメリカ人が現在の道徳をギリシャやローマからのみ得ることが不可能であったのと同様に、日本人も自由に使える情報源からそれを得ることができませんでした。東洋人の欠点は、外面的な行為を重視しすぎたことだった。良好な政治的および近隣関係、親切さ、正直さ、倹約が彼の道徳観でした。「善を愛し悪を全身全霊で憎むというのはキリスト教の概念であり、異教を通してそれを探しても無駄かもしれない。」品格の高い西洋人が、芸妓に通う少女たちの将来を考えたときに感じた恐怖は、プラトンが生み出した恐怖ではなかった。「異教徒の生活は外国人にとっては外面的には素敵に見える」が、儒教、仏教、神道はいずれも不道徳に対する態度が弱かった。性生活を管理していたのはキリスト教だけでした。根深い善への愛と喜び、そして根深い悪への恐怖がなければ、社会を改革することは不可能でした。内村氏は、同胞を育てる最善の方法は「軽蔑された外国人農民」の宗教を説くことであるという確信に達するまでに30年かかったと語った。キリスト教の擁護者たちから彼に聞かされた多くのことは今では「非常に奇妙」に思えたが、新約聖書の最初の4冊にはキリスト教の本質である「すべての人に新しい命を与える」原則が残されていた。この信念に動かされて、内村と彼の友人たちは福音の働きに命を捧げ、屈辱を伴う仕事に。「しかし、これが私たちの栄光なのです。」日本の文明は「ギリシャやローマの文明がよかったという意味でのみよかった」と彼は繰り返した。近代日本は「ヨーロッパの最良のものからキリスト教を差し引いたものであり、キリスト教の道徳的バックボーンが欠けている」。「十数人の仏教僧を順番に調べてみると、何かが足りないことがわかる。その仏教徒や儒者が本当に自分の兄弟であるとは思えない[106]。」と彼は言った。「イギリスの偉大さは、イギリス国民の生来の偉大さによるものではなく、彼らが受け取った真理の偉大さによるものである」と彼は続けた。国家の偉大さの源を考えるとき、一部の民族がその考えや手法において独創的であり、一部の民族が独創的ではないと信じるのは空虚であった。外部からの影響を受けていない人々はどこにいたのでしょうか?ギリシャ哲学、ローマ法、キリスト教がなければイギリスはどこにあるでしょうか? 田んぼのそばの細い道で数人の農民の女性が私たちを追い抜いたとき、私たちの会話は中断されました。彼らが運ぶマトックは夫のマトックと同じ重さであり、女性は男性と同じ仕事をすることになっていました。しかし、女性たちはほぼ全員、背中に子供を縛り付けられていたという障害を負っていた。内村氏は、外国の政治的冒険への反対に戻り、日本は適切に栽培すれば現在の人口の2倍を養えると述べた。排水によって耕作に持ち込むことができる湿地帯が数多くありました。では、林業ができないことは何でしょうか?しかし、資金不足のため、進歩は見られませんでした。そのお金は「国防」のために必要でした。「私自身としては」と内村は言った。「私は、無害で、物静かで、謙虚で、勤勉な人々を世話してくれる何らかの力をまだ信じることができると思います。もし人類の崇高な美徳のすべてが何らかの形で守られないのであれば、休暇をとりましょう。」 「私たちは、すべての高貴な願望、すべての詩、そしてすべての最も深い希望を捨てて、上向きに奮闘するのをやめます。問題は、私たちが信仰を持っているかどうかです。」私たちは、福音に基づく立場を取り、必要であれば、権利は力よりも大きいという信仰のために物質的に犠牲を払うほどキリスト教徒である国を、私たちはまだ待っている、と彼は宣言した。そして、彼のことを高く評価する同胞の一人が私に語ったように、「非現実的で、無謀にも率直に言うが、徹底的に誠実で経験豊富な」人物であるため、私たちは「日本のカーライル」に別れを告げる。遠い日本で調査を始めた当初、誰ともっと挑発的に物事の根幹に向かって進むことができたでしょうか?
脚注: [100] この発言は中傷だ、と彼は私に言った。同氏は、肖像画ではなく、学校で読まれることになっているあの有名な教育勅語に添えられた天皇の署名に頭を下げることを拒否したために失職したと説明した。内村選手は非常に意欲的だ、と彼は言った。忠実な日本人が常に天皇に対して表明する敬意を示すためであり、天皇は間違いなく陛下の肖像画の前に頭を下げるであろう。しかし、皇室のサインに敬意を払うべきだという提案の中に、彼は「カイザー主義」――彼の言葉によれば、彼は精力的な英語を話す――の要求を見たと思った。それは日本の主権者に対する概念とは異質であり、それは日本にとって敵意であろう。天皇の影響力は国家に悪影響を及ぼします。
[101] しかし、ジャーナリズムは善のために最も強力な影響力を持つものの一つであり、ジャーナリズムにはこの国の最高の頭脳の一部が代表されている。時事、朝日、日日、そしてそれらと併刊する大阪新聞などの発行部数は合わせて200万部に迫る。[102] 森林の統計については、付録 XXXII を参照してください。[103] 激しい揺れは平均して約 6 年ごとに発生します。著名な地震学者の大森教授は、危険な種類の地震は一世代も起こらないと私に言いました。[104] 日本の出版物である『オリエンタル・エコノミスト』は1921年秋、帝国への拡張が日本にとって利益にならず、また帝国がそれらに全く依存していないという理由で、帝国への拡張をすべて放棄することを示唆した。付録 XXXIII も参照してください。[105] 付録 XXXIV を参照。[106] 私が内村やその他のフォルモサの首狩りたちに対する儒教の宣教師から聞いた古い話についてはどうですか。彼らは長年の労働の末、あと1頭でも首を奪ってくれるなら首狩りをやめると約束した。ついに善良な男は屈服し、翌日赤いローブを着た中国人が村に向かって来るので首が取られるかもしれないと告げました。翌朝、男たちは見知らぬ人を待ち伏せし、飛びかかって首を切り落としましたが、それが彼らの最愛の宣教師の首であることがわかりました。自責の念に駆られ、首狩りの悪さを悟った部族は、首狩りを永久にやめた。第 11 章 ギャップの考え方 1921 年の秋、帝国への延長は日本にとって利益にならず、彼女は決してそれに依存していないという理由で、すべての延長を放棄することを示唆した。付録 XXXIII も参照してください。[105] 付録 XXXIV を参照。[106] 私が内村やその他のフォルモサの首狩りたちへの儒教宣教師から聞いた古い話についてはどうですか? 彼らは長年の労働の末、あと1頭でも首を奪ってくれるなら首狩りをやめると約束した。ついに善良な男は屈服し、翌日赤いローブを着た中国人が村に向かって来るので首が取られるかもしれないと告げました。翌朝、男たちは見知らぬ人を待ち伏せし、飛びかかって首を切り落としましたが、それが彼らの最愛の宣教師の首であることがわかりました。自責の念に駆られ、首狩りの悪さを悟った部族は、首狩りを永久にやめた。第 11 章 ギャップの考え方 1921 年の秋、帝国への延長は日本にとって利益にならず、彼女は決してそれに依存していないという理由で、すべての延長を放棄することを示唆した。付録 XXXIII も参照してください。[105] 付録 XXXIV を参照。[106] 私が内村やその他のフォルモサの首狩りたちへの儒教宣教師から聞いた古い話についてはどうですか? 彼らは長年の労働の末、あと1頭でも首を奪ってくれるなら首狩りをやめると約束した。ついに善良な男は屈服し、翌日赤いローブを着た中国人が村に向かって来るので首が取られるかもしれないと告げました。翌朝、男たちは見知らぬ人を待ち伏せし、飛びかかって首を切り落としましたが、それが彼らの最愛の宣教師の首であることがわかりました。自責の念に駆られ、首狩りの悪さを悟った部族は、首狩りを永久にやめた。第 11 章 ギャップの考え方
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