解説
ー封禅書と郊祀志
本清は『漢書』巻二十五、郊祀志五(上・下)の全訳であり、同じく巻二十二、礼楽志二
のなかにのせられている、李延年の「郊祀歌」十九首の訳を付録としてつけ加えた。
郊祀志は『史記』封禅書を受けたもので、一般に『漢書』の記述がそうであるように、郊
祀志も武帝の時代を終るまでは(本書郊祀志下一五二真まで)、ほぼ封禅書の文章を採用している。なお両者に異同ある場合は注記した。
一体、封禅とは天命を受けた天子が、熱山の酢に担をきついて天を祭り(という、蔵の薬処で地を平らにして地を祭り(禅という)、天下太平の功の成ったことを報告し、国家の永統を祈ることである。また郊祀とは、帝王が国都の南郊および北郊に壇をきついて、
3解説
天地を祀る儀式である。封禅はあまりにも重要かつ秘密な祀りであったため、継続して行われなくなり、一方郊祀は、夏至に地を祭り、冬至に天を祭るというように定例化され、天子”以外のものは教り行うことができぬ国家の盛典となった。したがって封禅と郊祀とはともに、
皇帝が天地を祀るという点では共通の要素を有するが、後世、皇帝の行祭能としてのありかたや、祭祀を行う場所など、種々の点で両者は異った面も持っているのである。
さて郊祀志(以下郊祀志という場合、武帝までは封禅害をも意味していると理解願いたい)
は皇帝が行う天地を祀る祭祀の起源を、伝承の時代にさかのぼって記述し、もともとは民間において行われていたであろう祭りが、黄帝以下の五帝・夏殿周三代の時代を経る間に、帝王あるいは封建の諸侯といった権力者の執行するところとなったことに及び、さらに奉の始皇帝の統一、漢の武帝による偶数の国教化によって、皇帝のみが行う、国家の典礼と化してゆくことを述べる。その間に、皇帝が封禅を行い、神と通じ、不老長生を得ようとの願望を抱いていることを知って、方士と呼ばれる連中が、皇帝に近づこうとして、方術を説き、いつぼう価者も封禅の礼を皇帝に講ずることに言及するのである。
『史記』が封禅書というのは、司馬選自身がそれに居欲した武帝の封禅を重視するからであり、後漢の光武帝も封禅を行っているにもかかわらず、班固が郊龍志と名づけたのは、漢代に郊祀の典礼化が進行していったとの認識に立ったからであろう。史・漢両書の成立時期の違いは、封禅・郊龍の命名(換言すれば両者の祭祀をとらえる視点の置き方)にもあらわれている。
ちなみに『後漢書』では、後漢一代の祭祀は、祭祀志の名でまとめられるが、それ以後の
正史には、『元史』に祭祀志が設けられているのを除いて、この種の志を見ることがない。
この種の祭祀は礼儀志といった名称の中に取り入れられてしまった。蛇足ながらつけ加えれ
ば、『史記』は礼書・楽書・封禅書の三本立て、『漢書』はそれが礼楽志・郊記志の二つにまとめられ、『後漢書』は礼儀志と祭祀志に名が改められる。
以下封禅、郷祀、古代中国での一般的な祭祀などについて簡単に述べてみたい。
二封禅
郊祀志によれば(四九夏)、斉の相公が始めて封禅を行おうとした君主である。これに対して管仲は桓公以前にすでに七十二人の王が封禅を行ったが、じつはその中で十二人の名を記録しているに過ぎないと述べる始末である。しかも管仲の記録する十二人の名をみても、ほとんど歴史事実とは考えられないものばかりである。ただ斉の桓公という名前と泰山・楽
父(南)が、ともに斉の地にあることは、注目されてよいのではないだろうか。封禅はあるいは斉、すなわち山東の地の伝統的な祭りから出発したのかもしれない。この地には古くから八神の祀りがあり、その一つに地主があり、泰山・梁父を祀っていた(六四真)。
さて斉の桓公以前の七十二人の話が伝承に過ぎず、桓公もけっきょく管仲から反対されて、
"封禅を行えなかった(五〇真)となると、『史記』が書かれた段階では、来の始皇帝と漢の
ある。もしこれを用いるならば、八百万の神霊で祀られないものはない。自分は幸いにも武帝封禅の機にめぐりあったので、諸神・名山・大川の礼の根原を研究しようとして、封禅書を作った、
と述べ、その目的を明らかにしたが、その結果はどうであったか。封禅書を書き終えて、司馬遷は決のように述べる。
太史公がいう。余は天子が巡幸して、天地諸神、名山、〔大]川を祭られ、封禅を行われるのに従いましたし、寿宮に入り、神の御言葉を聞くことにも待りました。方土・洞官の意をとことんまで観察しました。そこで古より以来の、鬼神に事えるものを順序だてて論じ、つぶさにその表裏を見ました。後世、君子が出れば、このことを見抜くことができるでしょう。雑豆地紫といった礼に必要な器の詳しいことや、臓器すなわちお盛りものやお神酒のすすめ方といったことについては、〔子も言っているように]係りの役人がいるのだから、かれらにまかせればよい、
と。この中で司馬遷が使った「表裏」の二文字こそ、武帝の封禅の性格をきわめて適確に言い表しているといえよう。
封禅の祭りをすることができるのは、天命を受けた帝王であり、天下太平の功のなったことを報告し、国家の永久なることを天に祈る。これは、いわば経書などの古典に見えており、
司馬遷のいう表の部分、今日流に言えば「たてまえ」である。それでは表に対する裏、「はんね」は何か。それは司馬遷が「太史公いう」の中にふれている。「方士・同官の意」のことである。方術の土たちは、武帝に向い封禅を行うことにより、不老不死にいたることができると、さかんに吹き込んだ。たとえば丁公は「封は不死の名と合するものでございます」と武帝に説いている(一二七頁)。武帝も黄帝が封禅を行いながら、その墓があることに疑問を抱きながらも、しだいに方士の言うことに引き入れられてしまう(一二七頁)。
そして封禅を行った時、「天にささげた玉書が秘密にされて、公表されなかったし、深
山で禅をし終えた後、武帝は本車都尉の電子候だけを連れて泰山に上り、封事を行ったが、その内容は秘密である。その上にどういうわけか、電子候はにわかに病んで、死んでしまったのである」(一三四頁)。こうした秘法めいた事柄も、司馬には「裏」として感じ取られたに違いない。
封禅と方士の結びつきは武帝に先立つ始皇帝の時の封禅にもあり、始皇帝の行った封禅の儀式も秘密にされて、後世に伝えられなかったし、徐市(福)の三神山探索の旅も、泰山封
説
解
禅とほぼ時を同じうして行われている(六七真および六九真(5))。
このように封禅があまりにも神仙と結びつき、また神秘化されていったのと、秦の始皇帝
®や漢の武帝の例からも分るように真大な費用を要したので、かえって後世には唐の玄宗や朱
https://japanknowledge.com/psnl/display/?lid=80010V0474P0010#SP017010
10
山の神は「泰山府君」として、道教の神統譜の第一におされ、篤い倍を受けている。
三 郊祀
旧北京城の城壁は取り壊されてしまったが四つほど残っている城門の一つに、内城南壁の中央にあった正陽門、いわゆる前門がある。この正陽門外の東南に位置するのが、二・七三平方キロメートルの広さを持つ天地公園である。この天壇公園と対称的に、旧永定門外北西に、規模こそ小さいが地公園がある。この二つの場所こそ、明の永楽帝が北京に遷都して以来、約五百年間、明から清へと王朝は代っても、歴代の皇帝が夏至には地を(地壇)、冬至には天を(天地)祀った場所である。
天壇公園に入ると、北に青色の瓦でいた三層の屋根を持つ円形の建物があるが、これは祈年殿であって、天理の本体ではない。天壇の本体は祈年殿から真直ぐ南に行ったところにある、露天の石造三層の園(円)丘である。この丘は天を祀る場所なので、直径のスケー
ルはすべて陽を示す奇数で表わされる。すなわち上層は直径九丈、高さ五尺七寸、中層は十五丈に五尺二寸、下層は二十一丈に五尺、各層への階段は九段となっている。
解説
いっぽう地壇の方は方(正方形)沢をなし、沢中に二層の方墳を設けるが、上層は方六丈、
高さ六尺、下層は方十丈六尺、高さ六尺であり、階段は八段である。その数が偶数であるのは、地が陰を象徴するからである。そして天理が円をなし、地壇が方をなすのは、陰陽相互
のバランスを取ってのことである。なお地壇の二層目南左右に五裁・五嶺・五陵山の石座、
北左右に四海・四の石座を設ける。
ところでこのように、首都の南郊・北郊に天・地を祀る聖域を設けることは、前三二年(建始元年)、永相国、衝らの提言にもとづいたもので、完全にその制度が定着したのは紀元五年(元始五)のことであった。これには王葬が大きな役割をはたしている。その詳細は本
書郊祀志下一九七真以下に見える通りである。郷祀志上篇が武帝の最初の封禅で終り、下篇はこの南北郊の定着にいたるまでの経過を述べることに、一篇の中心があるといってよいであろう。それは言い換えれば、漢の武帝に始まる信教国家の完成を意味する。不幸にして前
漢は、ほかならぬ王茶によって、南北郊の定着後わずか三年でほろぼされた。そしてその王
茶もまた十五年で倒れ、劉秀が漢朝を復興し、新しく洛陽に都を定めると、洛陽城南七里の地に天地を郊祭する聖域を設けた。紀元二六年(建武二年)のことである。二層の円を築
き、内壇には天地を祀った。後漢初めは天地を合祀しており、北郊が洛陽城北四里の地に作られ、天地が分祀されるのは、紀元五七年(建武中元二)のことである。また外壇には五帝
16
郊祀の中心となり、その後、何回か都が行われ、さらには漢代に新都長安の建設があったにもかかわらず、祭祀の中心でありつづけた。
徳公の子宣公は密時を作り青帝を祭ったが、その後、紀元前五世紀の末までは、新しく祭壇を築くことはなかった。霊公の時になって具山に上下両時が、紀元前四世紀には時が作られた。以上秦によって作られた祭壇の中で、畦時のみが関中の東にあり、他はすべて関中の西である。
秦の始皇帝は天下を統一すると、種々の祭りを理し(七一貫)、の四時の上帝を一番尊いものとした。この時に白帝、青帝、黄帝、赤帝といった名が与えられたのではなかろう
か。なお雍の四時は浅家山・岐山・具山・岳山の四大山の祭りであった。始皇帝がこのの四時を重視したのは、素の伝統を受けついでいこうとしたからである。しかし一方で彼は歳
首の十月に、都成陽のかたわらで、郊祀の礼を行った。首都の近くで郊を行ことは、始皇帝の時にその芽生えがあるとも言えよう。
漢の高祖劉邦は雍の四時に黒帯の時を加えて五時とし、五帝を祭ることになった。と首都長安とはかなりの距離があるので、文帝の時には、潤陽に五帝のを作った。潤陽というから、長安の北郊にあたるわけで、ただ成陽のかたわらとあった秦の始皇帝の時より北郊に一歩近づいたものといえよう。
なお高祖の時に、関中と斉の地以外の各地の神が祭られることになったこと八一頁に見える通りであるし、何奴や南越を征服すると、かれらの祭祀も漢に取り入れられていく。
先にも述べたように、現在の北京市に残っている、天壇・地壇はただ闘丘・方沢が露天に築かれているだけだが、漢の甘泉などには壮大な宮殿が作られ「中に高台のある部屋を設け、神々の像を描いたり」「柏楽台の銅柱や仙人学を作らせた」(一〇三)とある。こうした建築物を作ることは後に道数の方に受けつがれていく。
四 その他の中国の祭祀
郊祀志は皇帝の祭天についての記述が中心であるので、それ以外の祭について触れることがほとんどないし、時代的には殿代、地域的には関中と斉以外の地方の祭祀についてもまた同様である。以下そのことについて若干ふれておこうと思う。
中国では祖崇拝が盛んであったこと、個人も国家もかわる所がなかった。「左祖右社一宮殿の左に祖先を右に社を祭る」とか、「天子七」などと言われるように、祖先のために宗を設け、これを祭ることは天子の重要な仕事であった。祖先が血のしたたる犠牲をうけることを血食といい、血食せずというのは国家の滅亡を意味することになった。漢代にあっては、毎年八月、皇帝は親しく犠牲の牛を殺して宗顔にすすめ、酢をささげて祭るが、この
0 件のコメント:
コメントを投稿