5 秦朝のユダヤ人 2/2

秦とイスラエル
漢字の真相
中国における字は殷(いん、商、しょうともいう 紀元前1700年ごろ‐紀元前1046年)の時代の甲骨文字にさかのぼります。
基本となる字は象形文字として作られました。
「秦」の字の場合、具体的に「舂」(シュ、ショウ 〔意味〕 うすづく、うすでアワなどの穀物をつく。ものをつく)と「禾」([音] カ [訓] いね のぎ 意味 いね わら 穀物の総称)を合わせた会意文字で、稲がすくすくと成長するさまを意味します。
秦王家の先祖で、「嬴(えい)」の姓を賜った柏翳(はくえい)の子孫が与えられた秦州の地を示し、ここが作物を育てるのに適していた土地であることに由来するといいます。
つまり秦とは地名です。
「秦」の字、普通名詞やほかの氏族が使用する字ではなく、秦王家のシンボル的な意味があります。
歴代中国の秦という国があります。
紀元前、秦の名を冠した国は紀元前770年~紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一するまでの時代である春秋戦国時代の秦国、始皇帝の秦朝です。
紀元後は、秦の名を採用した国が少なくとも3つ存在します。
それらは紀元前の秦と区別するために、歴史学では「前秦」(ぜんしん 紀元351年‐紀元394年)「西秦」(せいしん 紀元385年‐紀元431年)「後秦」(こうしん 紀元384年‐紀元417年)と表記されます。
前秦は、紀元350年、東晋という国から「氐族(ていぞく)」が中心となって独立した国です。
テイ族は、アメリカのユタ州のグレートソルト湖に次いで世界で2番目に大きな内陸塩湖である中華人民共和国の西部に位置する青海省(せいかいしょう)にある青海湖(せいかいこ)を拠点としていましたが、春秋戦国時代には秦と同様、甘粛省に住んでいました。
民族的にチベット系の民族の1つで牧畜を生業とする遊牧民で、使用言語は漢民族とは明らかに違い「羌族(きょうぞく)」の言葉に近いです。
羌族は、今日でも河南省を中心に存在していて、先祖は西戎(せいじゅう)とされた非漢民族であり羌族と同族であると考えられています。
前秦は紀元394年に滅びますが、代わって台頭したのが後秦と西秦です。
後秦は384年に成立した国で支配層は羌族でした。
一方の西秦は385年に前秦から独立した国で王家は「鮮卑族(せんぴぞく)」でした。
鮮卑族は遊牧騎馬民族で、のちに北魏(ほくぎ 紀元386年‐紀元534年)を建国します。
民族の系統としてはモンゴル、もしくはチュルク系であるといわれています。
氐族と羌族、鮮卑族は遊牧民です。
秦は広い意味で羌族です。
「羌」とは羊に由来する文字で、これは彼らが発祥以来、遊牧民であったことを示しています。

イスラエル共和国の調査機関アミシャーブの所長であったラビ・エリヤフ・アビハイルによれば、古代の羌(きょうぞく)族の末裔とされている「チャン族」は、行方の知れないイスラエル10部族の末裔であると科学的に判明していると述べています。 (3 古代アメリカからの日本の先住民 4/4)
羌族は、イスラエルと同様に唯一神を信仰しており、神を「アバチ(霊の父)」などとよびます。
固有名詞としては、その唯一神を「ユイワ」とよび「ヤハウェ」が長年かけて変化していったのでしょう。
そして、イスラエルと同様に山も神聖視していて「山の神」ともよびます。
チベット系の民族の1つの羌族の歴史はイスラエル10部族よりもはるかに古くパレスチナに古代イスラエル王国が誕生する紀元前11世紀よりはるか以前にさかのぼります。
羌族の歴史は古く、紀元前16世紀~前11世紀までの殷(いん)の時代にまでさかのぼる民族です。
羌族はすでに甲骨文に記されていて、ヤレド人とも交流していた「殷」と激しく対立していたようです。
そのため殷に追われた羌族は、テイ族の拠点だった青海省をへて四川省に南下し、その移動過程で中国古代の伝説的な帝の禹(う)の神話も運び、四川省西北の岷江(ミンジャン)上流域において「禹は母の胸を剖(さ)いて生まれた」とする二次神話をできました。
夏王朝の始祖である禹は、黄河の治水に成功したとされます。
紀元前1900年ごろ、地震によって起きた土砂崩れで山峡を通る黄河が半年から9か月の間せき止められたのち、ダムのように水をせき止めていた土砂が崩れ大量の水が下流の低地帯に流れ込んだと考えられています。
現在の青海省にある黄河がせき止められた場所の沈殿物や、何kmも離れた下流まで流れた堆積物が発見されています。
南京師範大学・地理科学部の呉慶竜教授は、2007年に現地を調査した際にダムになっていた場所で、放射性炭素年代測定で紀元前1900年くらいの堆積物を発見しました。
アメリカ、パデュー大学のダリル・グレンジャー教授は、「洪水は現在の川の水面より38mも高くなった」と述べています。
預言者であるノアの息子であるセムは、長じて大祭司メルキゼデクとよばれることになります。(Times and Seasons 6:746 ジョン・テーラー編集)
メルキゼデクの子孫のセムの子孫は、主にアジア全域に広まりました。
メルキゼデクの子孫の紀元前2000から紀元前1900年ごろの預言者アブラハムの子孫もまた遠く東アジアへとやって来ました。
紀元前17世紀から始まる殷の時代は、アブラハムの孫ヤコブが生きていたころです。
アブラハムの子孫の集団を率いたのは神の教会の指導者たちです。
神の教会の指導者たちは預言者集団であり、真理をアジア全域に広めたのです。
そして、その本流はヘブル(ヘブライ)人で同族であり神に従うイスラエルゆえに、後世にイスラエル10部族と合流したのです。
紀元前16世紀~前11世紀までの殷の時代からの羌族に、紀元前5世紀ごろに東アジアに来たイスラエル10部族が合流したのでしょう。
古代の羌族は、紀元前2100年ごろのアブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派なので、イスラエル10部族と同化したのでしょう。
古代中国文明

2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らは、約2500年前の春秋時代、約2000年前の漢代の中国山東省中部の北寄りにある小都市臨淄(りんし)、黄河下流にある紀元前770年~紀元前221年の春秋戦国時代の斉(せい)の都の遺跡から出土した人骨、および現代の臨?住民から得たミトコンドリアDNA(細胞小器官であるミトコンドリア内にあるDNA)の比較研究の結果を発表しました。
それによると、3つの時代の臨シ人類集団が、異なる遺伝的構成をもつと明らかになりました。
約2500年前の紀元前500年ごろの春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は、白人の遺伝子でした。
アケメネスペルシャ(紀元前550年‐紀元前330年)は、白人の国です。
そして、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は、現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近かったのです。
紀元500前ごろの臨シの人々は、ミトコンドリアDNAから、ペルシャ人がいてペルシャ人と混血した人々もいたのです。

斉では、ペルシャでよく見られる樹木双獣文のデザインの瓦が見つかっています。
現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないです。
そして、さらに古い時代にも中国には白人がいました。
長江文明 (紀元前2000年ごろ? ‐ 紀元前1000年ごろ)の殷(いん、商、しょうともいう 紀元前1700年ごろ‐紀元前1046年)の遺跡に白人の死体が発見されています。
1980年、タクラマカン砂漠の東にある楼蘭鉄板河遺跡で、放射性炭素年代測定で紀元前1800年のコーカソイド(白人)の約40歳の女性のミイラが発掘されました。
2002年、タクラマカン砂漠地下から、大量の遺骸が出土しました。
放射性炭素年代測定で紀元前2000~紀元前1700年のミイラは、DNA鑑定によってモンゴロイドとコーカソイド(白人)の混血と分かりました。
紀元前18~16世紀ごろ、インド・ヨーロッパ語族の移動がありました。
彼らは中央アジアから南ロシアの辺りにいたのですが大移動を開始し、ユーラシア大陸全域に大きな変動を起こしたのです。
南東に向かったアーリア人とよばれる一派はインド北部を征服し定住しました。
南にむかった一派はペルシャ人やソグド人となり、イラン高原に定着しました。
また、西方に移動した人々はケルト系・ラテン系・ゲルマン系・スラブ系などのヨーロッパ人となりました。
長江文明の担い手の「ミャオ族(苗族)」の先祖は、ノアの息子のヤペテの子白人のゴメル(創世記 10:2)であるという伝説があります。
長江文明は、初期段階より稲作が中心であり畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したと見られています。
ミャオ族は自称ではなく漢民族による呼称です。
ミャオ族自身は、モン族を自称し中にはミャオの呼称を嫌う者もいます。
このため中国などのミャオ族居住諸国以外では、ミャオ(東南アジアで概ねは「メオ」とよぶ)を蔑称として、公式の場では自称であるモン族という呼称を使う傾向があるのです。
ただし、ミャオもモンも語源は同じと考えられています。
ミャオ族にも、古来から同様のヤハウェ信仰があります。
ミャオ族にもまた、天地を創造し、あらゆる生物と人類を創造された創造主なる神に関する言い伝えがあります。
またその言い伝えは、大昔の大洪水と人類の絶滅、箱船によって一家族が助かったこと、またバベルの塔、民族の起源などに関するものも含まれ内容は『聖書』に酷似しています。
天地創造と地球のバプテスマ
ヤレド人(バベルの塔)
ミャオ族の言い伝えは、キリスト教の宣教師によるものではなく先祖の言い伝えを忠実に保持してきたにすぎないのです。
ミャオ族は長江流域で稲作を営み、太陽・鳥・蛇を信仰し、太陽族・鳥族・蛇族の三苗(さんびょう)とよばれました。
紀元前2000年前ごろの気候変動(寒冷化)にともない、北方の部族が南下しミャオ族と戦いにミャオ族が敗れ、あるいは移動せざるを得なくなり長江文明も滅んだとされています。
中国の伝説は、アブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派の羌族の黄帝がミャオ族を倒したときに彼らの歴史における初の戦争が起こったとされます。
ミャオ族は、黄帝や神農と合戦したり講和した蚩尤を祖先としています。
紀元前2000年ごろ、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人の神農(炎帝神農)の時代、伝説では神農と異母兄弟であり古代中国の伝説上の君主の黄帝が神農の子孫の蚩尤(『路史』によると、羌が姓とされる)民族の討伐作戦を行い、タク鹿(たくろく、河北省)で破りました。
この戦いは黄河の台地で行われ、蚩尤は濃霧を起こして黄帝の軍を苦しめましたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、蚩尤民族を破りました。
蚩尤に味方したのは勇敢な九黎(きゅうれい)族、巨体の夸父(こほ)族でした。
夸父(こほ)は中国神話に登場する巨人族で、成都載天(せいとさいてん)という山に住み、2匹の蛇を耳飾りにして2匹の蛇を手に持っていたといいます。
ある話では、夸父は太陽を追いかけて原野を走り、太陽が沈む谷まで追い詰めることができたが、夸父は喉が渇いていたので黄河と渭水の水をすべて飲み干しました。
それでも渇きが癒されなかったので、さらに北にある大沢(だいたく)という千里四方もある湖に行こうとしたが、その途中で死んでしまったといいます。
巨体の夸父(こほ)族は、ヤレド人と同じように2m~3mくらいの巨人だったのかもしれません。
敗れた蚩尤民族はミャオ族(苗族)と黎(リー)族に分裂し、苗族は四散しました。
先秦時代、ミャオ族は、苗民、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)とよばれ、揚子江流域に住んでいました。
長江文明に属すると見られる三苗は屈家嶺文化および石家河文化付近を本拠地としていたと見られます。
三苗は母系集団であり、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化と対立しました。
この龍山文化集団が夏王朝につながる遊牧民族的な父系集団と見られます。
中原地域は黄帝と神農の活躍した地域で、炎黄集団は仰韶文化後期に一度衰退し、龍山文化期に復興し三苗民族を征服した後、夏王朝を興します。
長江中流域の屈家嶺文化・下流域の良渚文化の時代を最盛期として、のちに衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されています。
これらは黄河流域の人々により征服された結果と考えられ、黄帝の三苗征服伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものと考えられます。

神農(炎帝神農)は、モーセと同じく120歳まで生きたといわれています。(申命 34:7)
神農の神話には、モーセが投影されているようです。
古代アメリカから来たニーファイ人の少彦名命とともに神農はまつられている場合があります。(少彦名神社、大阪市中央区) (詳細参照 スクナビコナ)
中国甘粛省蘭州大学生命科学学院の謝小東教授は「DNA調査の結果、現代の中国人はさまざまな民族の特質が混ざっていて、いかなる特定民族の特質も顕著には表れなかった」と説明しています。
また「かなり以前から『漢民族は中原に暮らしている』と考えられてきましたが、これは特定時代の漢民族を周辺の他の種族と区別するために作った地域的区分にすぎない」とし「漢民族をこのように地域的に特定して定義することはできない」と指摘しました。
紀元前12世紀の陝西省西安を首都とした西周は漢民族政権に属しますが、そののちの春秋戦国時代に同じ地域に建てられた秦は少数民族の「西戎」が主流だったということです。
また中国の歴史に表れる中原の範囲に居住する人々を漢民族だと規定するのも歴史的事実とは合わないという主張です。
さらに、中国人は自らを「炎帝(神農)と黄帝の子孫(炎黄子孫)」と主張しますが、研究の結果、黄帝と炎帝の発源地も北狄(ほくてき)地域だったと分かりました。
黄帝と炎帝の発源地はともに黄土高原地域で、ともに漢民族の本拠地ではなく居住地域でもなかったのです。
謝教授は「研究の結果、むしろ中国北部から南部に移住した『客家』が古代中原人の文化伝統を継承したことが分かった」とし「彼らの古語、風俗および習慣からして、客家こそが本当の中原人」と強調しました。
謝教授は中国に純粋な血統の漢民族がもはや存在しないのは大規模な民族移動と関係があるとし、長い歴史の中で周辺少数民族、さらには周辺国家が漢民族と融合してきた結果でもあると付け加えました。
バベルの塔崩壊後の紀元前2000年ごろ、アブラハムはシュメール文化の中心地である首都ウルで生まれました。
両親と住みながら、そこで彼はシュメール人のサラを妻に迎えます。
アブラハムはヤハウェの指示で家族や使用人とともに多数の家畜を連れて各地を転々とします
羌族はアブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派と考えられます。
預言者ノアの息子であるセムは長じて大祭司メルキゼデクとよばれます。
セムの子孫は主にアジア全域に広まりました。
メルキゼデクを祖とする預言者アブラハムの子孫も遠く東アジアへと移動しました。
紀元前1900年ごろからと考えられている夏王朝の存在自体は考古学的にも最近の発掘調査で確認されました。
漢字学者の藤堂明保は「夏」の字を甲骨文字や金文からの形成の変遷を分析し「大きい人」の美称ではないかと述べています。
ヤレド人と同様にバベルの塔崩壊後に東へ移動した人々かもしれません。
シュメール語において「エン」とは「主人・神」を意味します。
「エンシ」とは祭司王から都市の王の意味になった記録が確認できます。
シュメール語の「エン」の絵文字は宗教的な分野での統率者を意味し、中国神話の創世の始祖である三皇の1人「炎(えん)帝」(神農)の名と同じ「エン」があります。
炎帝の発祥の地は陜西省宝鶏市の南30kmにある天台山であるとされています。
伝説によると母の女登は神龍に感じて炎帝を生み、人身にして牛首であったといいます。
火徳の王であったので「炎帝」と称したとあります。
エン・リル神もシュメールでは「野生の雄牛」とよばれ共通しています。
牛は旧約時代のイエス・キリストの贖いの犠牲の象徴の動物の犠牲です。
「人身にして牛首であった」とは、神殿で牛を犠牲として儀式に用いていたり牛の角を模した道具のことを表しているのかもしれません。
つまり、「炎帝(神農)」の「炎」は、モーセが見たヤハウェの炎である燃える芝を象徴しているかもしれません。

神はまた、燃えるしばの中からわたしを呼ばれたとき、わたしに戒めを与えて、『わたしの独り子の名によって神に呼び求め、わたしを礼拝しなさい』とも言われた。」 (モーセ 1:17)
ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。
彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。 (出エジプト 3:2)
ジョセフ・スミス訳では、主の霊気がモーセに現れたとなっています。 (聖霊の影響力 1/2)
中国書体の初めの10文字「十干(じっかん)」は、夏王朝後の黄帝の時代のものでしょう。
十干は、甲・乙・丙・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛・壬(じん)・癸(き)の総称で、五行(万物を組成する五つのもとになる気)の木・火・土・金・水と結びつけて、それぞれ兄(え)(陽)、弟(と)(陰)をあて、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)とも読みます。
十二支と組み合わせて年・日の表示などに用います。
甲骨文字の形はシュメール文字の形に似ている字がいくつもあります。
十干の甲骨文字の形はシュメール文字の形に似ています。

1年を12か月とすることや、60進法で1度を60分、1分を60秒、1時間を60分と定めたのもシュメール人でした。
十干十二支が一巡する60年が還暦です。
客家はY染色体ハプログループO2で、ミャオ族(苗族)はO2が約61%です。
日本に来たミャオ族(苗族)

ミャオ族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていました。
味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ漆(うるし)や絹を利用します。
主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われています。
ミャオ族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていました。
ミャオ族の伝承では、呉(ご 紀元前585年ごろ‐紀元前473年)はミャオ族の国で、その国が紀元前473年に越(えつ)に滅ぼされたとき、一部のミャオ族は日本に逃げたしています。
熱湯に手を入れて正しき者は焼けないが不正な者は焼けてしまうというクガタチの風習について、ミャオ族が伝えたといいます。
吉野の国主(クズ)とよばれる先住民が応神天皇とその太子の前で歌う場面が『古事記』にありますが、それに続いて国主が低く横に平たい臼の横臼を横たえて酒を造る記述が見えます。
横臼はミャオ族ももっています。
またベトナムに住むミャオ族に、畑を開墾する老人がどうしても切り倒せない大木があり困っていると、1匹の蛇が現われ老人の3人娘のうちの1人をもらう約束で木を焼き払い、3番目の娘をもらって水の宮に連れて行く伝承が伝わっています。
岐阜県の有名な夜叉ヶ池の伝説は、日照りで困っている長者の前に1匹の蛇が現われ老人の3人娘のうちの1人をもらう約束で田に大雨を降らせ、3番目の娘をもらって山の中の沼に連れて行く物語です。


画像は、上、ミャオ族がいた雲南省、滇(テン)国(紀元前3世紀ごろ)出土の青銅器に彫刻された図と、下、鳥取県淀江、角田遺跡の弥生土器の線刻。

越では銅の生成技術に優れており、『荘子』逍遥遊篇によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたといいます。
『墨子』公孟篇や『史記』越王勾践世家などにも同様の記事が見られます。
越族または百越は、主に江南とよばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称です。
越族は、ハプログループO1b系統に属していたとされます。
O1b1a1とO1b2は長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退にともない、O1b1a1および一部のO1b2は南下し百越とよばれ、残りのO1b2は西方および北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本へ渡ったとされます。
O1b1a1aはオーストロアジア語族と関連しています。
O1b1a1系統と姉妹関係のO1b2系統(倭人)が日本に多く見られることは、日本語とオーストロアジア系クメール語の語彙類似性が高いとするデータとも符合します。 (安本美典 1991 『日本人と日本語の起源』)
呉と越は、ともに中国の南西部にあった国で、漁民は文身断髪をしていたことが中国、明(みん、紀元1368年‐1644年)の参考図書『事物起源』に記されています。
呉と越の漁民は皆南方系の人々で倭人と非常に近かったと考えられ、とくに越は倭と同じく「ヲ」と発音します。
小倉貞男は著書『物語 ベトナムの歴史』(中公新書 1997年)で、「ベトナム人はどこから来たか」という問題に関して、中国の史書によると、ベトナム人は中国南部から移住した民族との説を紹介しています。
「ベトナム人は紀元前6世紀に、現在の中国浙江省の北部を占めていた越から出た。
この国の住民は、原始ベトナム人と同じように身体に刺青を施し、頭髪を刈る習慣があった。」
4 沖縄の線刻石板と海底遺跡 2/2
『魏志倭人伝』では倭人は、古代アメリカのレーマン人やマオリなど太平洋の島々の人々と同様に入れ墨をしていました。
・ 好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても皆潜って採る。
・ 倭の水人は、好んで潜って魚やハマグリを捕え、体に入れ墨して大魚や水鳥の危害を払う。
ここで倭の水人(倭水人)と書かれていて、当時の中国では明らかに倭人のことを海洋民族としてとらえています。
そして、倭人の男性は、顔や体に入れ墨をしていて最初は大魚や水鳥よけでしたが、のちに飾りになり所属や身分により違いがある入れ墨になったとあります。
紀元3世紀末に原始キリスト教徒が集団渡来し、邪馬台国(ヤマト国)がヤマト王権に移行してからは、入れ墨は廃れていきました。
入れ墨は、皮膚に刺し穴をあけ刺し穴に消えない墨を入れることによって作るしるしや図柄です。
この行為は神聖な人間の体を汚すことであり、目立たない所に血液型や認識番号を.書き込むことを除いて、容認されるべきではありません。
死人のために身を傷つけてはならない。
また身に入墨をしてはならない。
わたしは主である。 (レビ 19:28)
入れ墨をした人は、神殿の儀式や祝福を否定されることはありません。
中国やモンゴルに入れ墨文化はありませんが、太平洋の台湾や南のボルネオ、ニューギニア付近一帯には、現在も入れ墨文化が残されています。
その海域の島々だけでなく、バリ島、インドネシア、マレーシアにかけた一帯にも昔から入れ墨文化がありました。
さらに、アイヌや沖縄でも最近まで行われていた風習です。
南太平洋にあるマルケキーズ諸島の入れ墨をした戦士ですが、ここでは顔、胸、背、腹、手、脚、のほか、唇、瞼、歯茎までも入れ墨をするので有名でした。
南洋文化圏に属する国や島には、入れ墨の風習があったのです。
ニュージーランド(マオリ語で翡翠の水の意)には先住民のマオリの入れ墨の複雑さは飛び抜けており、とくに特徴的なのは渦巻き模様で酋長の入れ墨は手が込んでいました。

マオリの女性は、口の周りに入れ墨をしていました。
マオリにとっての入れ墨は神話に基づく彼らの過去とのつながりや、彼らの祖先の特徴を物語るものといわれています。
そのデザインは各地域の神の像に施されたカービング(渦巻き)のパターンを模倣しているといわれ、入れ墨が自分の家族の起源、強いては地域上、歴史上の一族の情報を記録しているとされます。
入れ墨のパターンは渦巻きが主流で、男性は顔や臀部からももにかけて、女性はあご、唇、鼻孔と限られた体の部分に施されるのが普通でした。
『魏志倭人伝』にも入れ墨をしていたと記されていて、アイヌも入れ墨をしておりアイヌの女性も最近まで口もとに入れ墨をしていました。

東日本の縄文人
アイヌの入れ墨は、カリフォルニアのインディアン独特のパターンと同じで、とくに北部ユキ族の入れ墨のパターンと一緒です。
ユキ族の入れ墨は、頬部を中心に文様を描き、そのほかの地域のインディアンは口許から顎にかけての部分だけに入れ墨がされています。
そのユキ族の入れ墨の仕方が、縄文土偶の入れ墨と共通点が多数認められます。
アイヌの女性
画像は、左上 アイヌ 右上 台湾 左下 アメリカ・インディオ 右下 インカ
アイヌや琉球民族は、当時は海洋民族でした。
大きな文化集団を単純に「海の民」「山の民」と分けることはできませんが、これまで「山の民」としての縄文人の側面のみが強調されてきました。
しかし、実際の縄文人は海の民で海洋とのかかわり合いが深い文化を備えていました。
1.香川県善通寺市の仙遊遺跡出土 2.愛知県安城市の亀塚遺跡出土 3.茨城県下館市の女方遺跡出土
マヤ人、琉球諸島の人々、アイヌたち、台湾の高砂族、東南アジアの少数民族の女性たちは、どの民族も結婚の前に入れ墨をする習慣があり、その場所も指先から手の甲にかけて同じ箇所に彫られ文様もよく似ています。

アイヌの女性は、手の甲だけでなく口の周りにもかなり派手な入れ墨をしていました。
アイヌでは結婚する前12から16歳くらいに入れ墨をするのが風習となっており、入れ墨をしないと周囲から一人前の女性とみなされず結婚することも儀式へ参加することも許されなかったようです。
沖縄や琉球諸島でも「針突き」とよぶ同じ風習がありました。
呼び方は島によって異なり、奄美大島ではハズキ、沖縄本島ではハジチなどとよんでいました。
1719年に沖縄を訪れた徐葆光(じょほこう)の『中山伝信録(ちゅうざんでんしんろく)』には、この地の女性は15歳で針突き模様を完成すると記されているので入れ墨をする年齢もアイヌとよく似ていたことが分かります。
また入れ墨をする理由については 、琉球諸島では入れ墨をもたない女性は次の世に行けないという信仰があったようですが、アイヌも同様な来世観をもっていてほとんどすべての女性が入れ墨をしていたようです。
なお琉球諸島の針突きは1899年(明治32年)に「入れ墨禁止令」が出されたのち、風俗改良運動が進展する中で次第にその習性が消えていきました。

秦の始皇帝
秦(紀元前778年‐紀元前206年)は、中国の王朝です。
紀元前221年に中国を統一しましたが、紀元前206年に滅亡しました。
統一から滅亡までの期間(紀元前221年‐紀元前206年)を秦朝とよびます。
史上初めて中国全土を統一した始皇帝が行ったのは世界標準の制定でした。
それまでの中国では諸国によって貨幣の種類や素材、単位が異なっており、ほかの国と交易するにあたってとても不便でした。
貨幣だけではなく長さや重さの単位も異なっていたため何を作るにしても国外には通用せず、そのため国境を越えると道路や馬車の轍の幅が変わり、少なからず通行が困難でした。
さらに問題は文字でそれぞれの国が勝手に文字を作っていたため、せっかく文章を書いても他国の人間には読めないのです。
そうした状況を踏まえ、始皇帝は貨幣や度旦里衡、言語、文字を統一し、秦朝内においては統一した物事を必ず使用するように徹底させました。
各国のアイデンティティや民族の個性、独自文化の否定の側面はありますが新しく統一された物事が産業や文化の発展に大いに寄与しました。
行政においては、まず秦朝の領域をはっきりとさせました。
すなわち北方の異民族の侵入を阻止するために、それまで各国独自に築いていた長城をつなぎ合わせました。


秦の始皇帝の構築した長城が認識されていますが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に造られた物です。
こうして自国の領土を明確にした始皇帝は、帝国を合理的に支配するために新たに郡県制を採用し統一以前の秦は全国を31ないし41の県に分けて支配していましたが統一後は県の上に郡を設置します。
秦の始皇帝が行ったとされる書を燃やし儒学者を坑する(儒学者を生き埋めにする意味)「焚書坑儒」は、最近の研究では秦を滅ぼした楚の項羽が行っていたことが分かっています。

始皇帝が否定的に描かれるのは、始皇帝が漢民族ではなかったからです。
漢王朝が自らの正統性を強調するために前王朝の始祖を暴君として吹聴し、それを基にして『史記』が書かれた可能性があるのです。
始皇帝が前王、荘襄王(そうじょうおう)の実子ではないらしいことは、司馬遷(しばせん)も認めており、幼くして王位に就いた始皇帝を後ろで操った君主を補佐した最高位の役人の呂不韋(りょふい)の子供ではないかと疑っているのです。

呂不韋は始皇帝の父といわれている荘襄王に仕えた豪商で、王妃である趙姫(ちょうき)は愛人であったと噂されています。
呂不韋は、荘嚢王に巧みに取り入り、自らの愛入であった趙姫を妾(めかけ)として差し出し政治の中枢へ入り込み荘嚢王亡きあと、幼い始皇帝をバックアップし大きな権力を手にしました。
秦は戦国時代の諸国にあって、最も西に位置しており西域に接していました。
シルクロード商人は多くの民族と接し混血も起こります。
古代においてシルクロードの交易は、中央アジアに住んでいたペルシャ系のオアシス灌漑農耕民族ソグド人とにユダヤ人が担ってきました。
今日でもユダヤ商人という言葉があるほど、彼らの経済力は強く政治にも多分に影響を与えるほどです。
統一を果たす前の秦国は、戦国時代の諸国の中で最も西に位置しました。
非漢民族が支配する西域に接して、そこにはシルクロードを通じて、さまざまな民族が往来していたのです。
呂不韋がユダヤ人だった可能性があります。
秦朝のもととなった秦国の王家は西戎(せいじゅう)、羌(きょう)族の流れをくむ人々でした。
とくに秦の始皇帝の実父と噂される呂不韋は商人で羌族でした。
王家の血は長い歴史の中で秦国の住民の中に広まっていたでしょう。
少なくとも秦朝の貴族や支配層は事実上、羌族が占めていました。
イスラエル共和国の調査機関アミシャーブの所長であったラビ・エリヤフ・アビハイルによれば、古代の羌(きょうぞく)族の末裔とされている「チャン族」は、行方の知れないイスラエル10部族の末裔であると科学的に判明していると述べています。 (詳細参照)
呂不韋は中国語で「リュブウェイ」であり、祭司のレビ(レヴィ)の音写だったという指摘もあります。
また「呂不韋」を日本語の音読で「ロフイ」と読めば、ヘブル語(ヘブライ語)の「ロフィ」は「癒やし手」となります。
これは中国語読みでは絶対に分かりません。
「呂不韋」の字を日本語読みすれば正体が分かるのは、日本人の祖の一部の秦氏が秦にいたころに漢字を編纂した証拠といえます。
漢字の真相

五胡十六国時代の後趙の創建者である「石勒(せきろく)」の先祖には「シモン族」がいますが、「シモン」とは、ヘブライ語「シメオン」の短縮形で「石」です。
シモン族の伝承によると、秦の始皇帝は、ユダヤ人の影響から、秦王朝以外の12人の父祖を敬い、神を信じていたとされています。 (石勒皇帝与羯胡人之谜)
この12人の父祖は、ヤコブ(イスラエル)の12人の息子(イスラエル12部族)のことでしょう。
始皇帝は純粋な漢民族ではないという噂がかねてからあり、その容貌も鷲鼻で眼光が鋭く、目は切れ長で瞳は青かったという伝承もあります。
始皇帝の墓のすぐ近くでは、始皇帝の皇子と妃と考えられる頭蓋骨が見つかっています。
西北大学では、現代人2000人の頭蓋骨のデータを活用したAIによる画面分析の結果を利用して、発掘された頭蓋骨から3D出力で顔を復元し、現在の中国人よりも極端に鼻が高いという特徴があるということが分かりました。
中国にとって始皇帝は漢民族の象徴で漢民族の優位性を世界に発信する格好の大王です。
群雄割拠の春秋戦国時代、ほかの漢民族国家を数年で全中国の統一を果たした英雄が他民族だった場合、漢民族の優位性どころか世界の中心とする「中華思想」の根幹までが崩壊します。
中国共産党にとってそれだけはあってはならないし、仮にそうだった場合は隠蔽する必要があるのです。
徐福と始皇帝の出会いは紀元前219年で、当時、中国全土を統一した始皇帝は自らの名声と権威を確固とするため全国を巡行し各地に業績を記した石碑を建立させていました。
巡行は生涯で5回にわたって行われましたが、その2回目に秦の始皇帝は斉に来ます。
海を見るのは初めてであった始皇帝が渤海(ぼっかい)に面した山東省竜口りゅうこう)を訪れた際、徐福が面会を求めたのだと思われます。
徐福と始皇帝の会見の状況についてはくわしく記されていませんが、始皇帝が語った内容が『史記』に簡潔に記されています。
「斉の人、徐市らは上書して曰く。
海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)といい、そこに僊人(せんにん)がいる。
斎戒して、童男童女とともに求めてきましょう。
これにより、徐市は童男童女数千人をともなって渡海し、仙人を捜し求めた」 (『史記』 「秦始皇本紀」 第6 秦始皇28年)
東の海の向こうに、仙人が住むという三神山があり、名を蓬莱、方丈、瀛洲というとあり、そこに不老不死の仙薬があるので、心身を清めた童男童女たちを連れて徐福が取ってくるというのです。
始皇帝はこれを許可し、長旅に必要な食料や資材、財宝などももたせたと思われ、徐福は約束どおり数千人の童男童女たちとともに船出したといいます。
覇権を握った始皇帝は生涯に5度の大巡幸を行うのですが、2度目に斉に滞在した際に徐福と出会っていて、『史記』の記す所によれば偶然でした。
徐福と始皇帝とは他人だったということになっていますが、2人のルーツをさかのぼるとある事実が浮かんできます。
始皇帝の秦王家の血統は伝説の「黄帝」に端を発します。
「黄帝」はアブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派の羌族です。
「黄帝」は本来は「皇帝」と表記されましたが、戦国時代末期に五行思想の影響で「黄帝」と表記されるようになった。
黄帝は漢代の歴史書『史記』の五帝本紀や『国語』晋語によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅(けんえん)氏、または帝鴻氏ともよばれました。
本来は雷神であり、「軒轅」が龍蛇形の星座を指す場合があります。
戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀-3世紀ごろ)にかけて付加執筆されて成立したものと考えられている地理書『山海経』に登場する(黄帝の子孫が住む)軒轅国の住民が人面蛇身であり、伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられています。
ヤハウェはシナイ山で雷や稲妻とともに現れました。(出エジ 19:16)
ブリガム・ヤングは、霊体の状態について、こう述べています。
「彼らは、容易に稲妻のように移動します。
もし私たちがエルサレム、あるいは、ここ、そこ、そしてどこへ行きたいと願うのであっても、その望みが許されるならば、私たちはその場所へ即座に行って、通りを眺めることができます。
救い主の時代のエルサレムを見たいと思うならば、あるいは創造されたときのエデンの園を見たいと思うならば、私たちはそこにいます。
霊的に存在するその場所を見ます。
なぜならば、それは最初に霊として創造され、次にこの世のものとして創造されました。
それは霊として今なお存在しているからです。
私たちはそこで、地球の初めを見ることができるでしょうし、地上に存在するどの都市でも望む都市を訪れることができるでしょう。
これら西欧の島々、あるいは中国で、人々がどのような生活をしているかを知りたいと望むならば、私たちはそこへ行くことができます。
事実、私たちは朝の光のような存在です。……
神は神の働きと力についてわずかばかりのことを明らかにしてこられました。
しかし、この稲妻は、全能者の力をはっきりと写し出すことができます。」 (『ブリガム・ヤング説教集』 p.380)
ブリガム・ヤングは、霊体は容易に稲妻のように移動し、私たちは朝の光に似ていて、この稲妻は、全能者の力をはっきりと写し出すことができると述べています。
稲妻の正体は、プラズマです。
そして、霊体はプラズマ状態をもちます。
旧約時代に預言者のモーセは竿に青銅製の蛇を掲げ、十字架にかかるイエス・キリストの予型にしました。
モーセの旧約時代には、ヤハウェは蛇として予型にされたのです。
蛇は悪魔を表すこともありますが、ヤハウェを表すこともあります。

モーセがT字の十字架に青銅製の蛇を掲げました。
民数記ではエジプトを離れたイスラエル人の一行が葦の海の途中まで来たときに、苦しみに耐えかねて不平を言いました。
そこで神は火の蛇を送ったので、かまれた人々の中から死者が出ました。 (蛇 参照)

古代アメリカの著述は、「天から降りてきた白く輝き髭を蓄えた神」について頻繁に述べています。
多くの名前でよばれているこの神は、伝説的人物でしばしば「ケツァルコアトル」とよばれています。
メキシコの中央部チョルラ地方のアステカ族やトルテカ族では「ケツァルコアトル」とよばれ、メキシコの南東チヤパス州では「ボタン」、メキシコ南部のオアクサカでは「ウィクシペチョチャ」、グァテマラのマヤでは「グクマッツ」、「ククルカン」です。
「グクマッツ」は、「グク」が「緑色の羽根」で、マヤの神鳥ケツァルを意味し「マッツ」が「蛇」です。
「ククルカン」は、ククルが「羽根」 、カンが「蛇」を意味します。
ヤハウェは、蛇に表現されました。

古代アメリカの先住民に伝わるケツァルコアトルの正体は、イエス・キリストです。 (詳細参照)
チャイニーズ・ドラゴンは、伝説上の龍のような2本の長い角が頭部にあるのが特徴で、顎の周囲に体毛が生えています。
そして、貴州省安順市の「興偉古生物化石博物館」が、同種の角が生えた恐竜化石を公開しました。
その姿はまさに中国伝説の龍そっくりです。







このショッキングな化石は、1996年に安順市で発見され、全長7,6mもあるとされています。
発掘以来、専門家が最新の注意を払って剥離作業を行って、頭部に2本の角がありました。
少し曲がった角が頭上に伸びているその姿は龍です。


1934年の夏、黄河で体長10m以上を越える同種の怪物の骨が流れ着き、その画像も公開されています。
中国遼寧省営口市の「歴史資料館」の、チャイニーズ・ドラゴンの画像です。

天池は中国吉林省にある長白山の山頂付近にある湖で、2003年8月23日には、40人ほどの観光客が国境警備隊員とともに怪物を目撃しました。
『人民網日本語版』によると、 目撃された2003年8月23日11時ごろ、天池上空の空は晴れて湖の視界も良好だったといいます。
国境警備隊の1人が怪物を目撃し、観光客らが大騒ぎになったのです。
観光客らの証言だと、水中に得体の知れない黒くて巨大な怪物が泳いでいたといいます。
その大きさは3mを越え、怪物は最初は天池の中心付近に姿を見せましたが、そののち南側からも同様の怪物が現れて、そのまま北に向けて泳いでいったといいます。


天池の水深は373mもあって、中国では最も深いカルデラ湖ですが、この付近では昔から怪物が何度も目撃されていました。
それも一頭や二頭ではなく、一度に四頭もの怪物が目撃されました。
怪物の特徴は、巨大で体色が黒っぽく、アヒルのようなくちばしがあって、牛のような顔をしているといいます。
2003年7月11日には、吉林省政府関係者が甘粛省の林業関係者ら10人とともに、50分の間に5度も目撃しています。
怪物の数は出現のたびに数頭ずつ増え、最終的には20頭余りにたっしました。
怪物は観光地化した1960年ごろから頻繁に目撃され続け、今まで30件以上の目撃情報が記録され、目撃者は千人を超えました。
さらに天池は、標高2750mもの長白山(北朝鮮では白頭山)にできた火山湖で、1700~2000年前の火山の大爆発で誕生した湖とされています。
これらのことからいくつもの事実が読み取れます。
標高の面で考えられるのは、怪物は間違いなく恒温動物です。
変温動物の爬虫類では生存できません。
まして巨大な爬虫類となると、体の表面積の上からも変温動物として活動には相当な無理があります。
次に、カルデラ湖に住んでいることから、怪物は閉じ込められたのです。
それも約2000年前です。
朝鮮半島は大昔は陸塊でした。
それがユーラシア大陸と大衝突して盛り上がったのが朝鮮国境に存在する長白山脈です。
大衝突によって火山活動が起きて長白山が誕生しました。
そののち、カルデラ湖が誕生しユーラシア大陸の海岸線か朝鮮陸塊に生息していた怪物が移動してすみついたのてす。
黄帝は「本来は雷神で龍蛇形の神」ということは、ヤハウェの預言者だったということになります。
史実かどうかは別にして、黄帝の系図に登場する「大費(だいひ)」別名「伯翳(はくえい)」「伯益(はくえき)」は、その功績により、伯舜帝(はくしゅんてい)から「嬴(えい(えい)」という姓を授かっています。
一方の徐福は『史記』によると「斉の国、琅邪(ろうや)の人なり」と記され、山東半島周辺の生まれです。
近年、中国人による詳細な調査の結果、徐福の系図は「伯翳」にいたることが判明しました。
つまり徐福もまた姓は「嬴」なのです。
秦の始皇帝と徐福は、2人とも姓は「嬴」で同じ血統の同族ゆえにほかの方士を相手にせず、徐福だけを信用したのではないのでしょうか。
嬴民という民族がいます
『山海経(せんがいきょう)』とは紀元前400年ごろの戦国時代から秦・漢期にかけて徐々に付加執筆されて3世紀に成立した中国最古の地理書です。
この書は、古代中国人の伝説的地理認識を示し奇書扱いされています。
各地の動植物、鉱物などの産物を記しますが、その中には空想的な物や妖怪、神々の記述も多く含まれ、そこに古い時代の中国各地の神話が伝えられていると考えられています。
そのため後世失われたものの多い中国神話の重要な基礎資料となっています。

『山海経』には嬴民が登場し、鳥の足をもっていたというのです。
これは、鳥のトーテム(自分たちの「部族」や「血縁(血統)」に野生の動物や植物などが特別に関連していると信じていること)をもつ一族です。
始皇帝が掲げた軍旗は黒色で、伯翳が舜帝から授かった軍旗色です。
鳥の名をもち黒をまとう一族とは、烏(からす)です。

太陽の中に住むといわれる3本足の金烏(きんう)で、日本では「八咫烏(やたがらす)」といいます。

『山海経』の「海外東経」には、次のようにあります。
湯谷(ようこく)には扶桑(ふそう)の木が伸びていて、10個の太陽が沐浴するところ。
そこは黒歯国の北にある。
水の中から大木が生えていて、その下の枝には9個の太陽が、上の枝には1個の太陽がいる。 (詳細参照 黒歯国)
「扶桑」の「扶」は「助ける」、「力を添える」という意味です。
「木」は「十字架」にかかった「人」で「ハ」はヘブル語のヤハウェの 「 ה (ヘー)」で、「木」は霊体の「ヤハウェ」が地球に生まれて「人」として生きて贖いのために「十字架」の「木」にかかって死んでくださったことを暗示しているとも考えられます。
主に西日本の先住民のニーファイ人と同様のマヤ語で、創造主のことを「teol(テオル)」といいますが、この語は「木」を意味する「te(テ)」と、「霊」を意味する「ol(オル)」を組み合わせた言葉です。
マヤ人は木の象徴として、英語の「T」と同じ形を使ってきました。
これは、イエス・キリストの架かったT字形の十字架です。 (詳細参照)
イエス・キリストが話した「10人のおとめ」のたとえ話にあるように、「夫」とは「イエス・キリスト」のことで、夫が助けするのはイエス・キリストの完全な福音 に従い、イエス・キリストと一致しようと努める教会員です。 (詳細参照 10人のおとめ)
天の御父は私たちが御自身のようになれるように、計画を備えてくださいました。
この計画のおかげで、私たちは贖いを通して完全な者となって、満ちみちる喜びを得、永遠に生きることができるようになりました。 (詳細参照 救いの計画)
リーハイは「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである」と宣言しました。(2ニフ 2:25)
最も偉大な喜びは、永遠の命です。
主は「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である(モーセ 1:39)」と宣言されました。
ブリガム・ヤング大管長は、こう説いています。
「現世に私たちが存在しているのは、父なる神のもとに戻って昇栄するという唯一の目的のためだけである。」 (『ブリガム・ヤング説教集』 p.37)
預言者ジョセフ・スミスは、次のように述べています。
「幸福は、私たちが存在する目的であり、計画である。
また、そこへと続く道を歩み続けるならば、私たちの存在理由となる。
この道は、徳、高潔さ、忠実さ、神聖さ、そして神のすべての戒めを守ることである。」 (Teachings of the Prophet Joseph Smith p.255-256)
救いの計画を理解するとき、私たちは永遠の観点を得て、聖さ、神のすべての戒めや儀式、聖約、そして試練を尊ぶことができます。 (詳細参照 福音)
「桑」は木の上に三つの「又」があり「三叉の木」で「命の木」を示しています。
「桑」の旧字は「桒」で、「又」が「十」と「草冠」になっています。
草冠の元は「艸」であり、三叉が一致している三神の神会になっています。
「艸」は命の木と善悪を知る木を象徴していて、イエス・キリストの贖いによって、昇栄と復活が得られるようになりました。 (詳細参照)

「命の木」の象徴図形の基本構造は真ん中が高い3本柱があり、10個と隠された1個の球体(数を意味するヘブル語セフィラ、複数形セフィロト)と球体をつなぐ22本のパス(小径)からなっています。
三本の柱は「均衡の柱」「慈悲の柱」「峻厳の柱」といいます。
真中の一段高い柱は三本柱の中心であるため、最も格の高い天父に対応します。
この柱は「均衡の柱」とよばれます。
向かって右の「慈悲の柱」は、イエス・キリストに対応します。 (詳細参照)
「茨(いばら)」と同義の「荊(いばら)」の場合は、下に「刑」とあり「荊の冠」をかぶせた処刑であることを表しています。
草冠とは文字どおり草の冠を示し、イエス・キリストがかぶらされた「いばらの冠」を象徴しています。
そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、ばんざい」と言って敬礼をしはじめた。
また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。
こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。
それから、彼らはイエスを十字架につけるために引き出した。 (マルコ 15:16-20)
しかし、よこしまな人は、いばらのようで、手をもって取ることができないゆえ、みな共に捨てられるであろう。 (サムエル下 23:6)
いばらは、正しくなく道にはずれているよこしまな人を表し、捨てられるとされました。

通説では「苦」の字は「にがな」という草の名前で、古い植物は苦いという意味があるといいます。
「古」は「頭蓋骨」を表すとも、「硬い兜」を表すともいわれています。
十字架刑が行われたのは「ゴルゴダ」日本語で「頭蓋骨」という場所でした。


「苦」の下部の「口」は「さい」という字で、「さい」は「神への祈りをささげる祝詞を入れる器」であり、契約の箱を表し、契約の箱の蓋の部分は旧約時代の贖罪所です。
契約の箱の上に十字架が立っています。
苦しんで贖罪をなされ、十字架で死なれたイエス・キリスト。
イエス・キリストは、古い契約(旧約)のヤハウェです。
「苦」の字は、いばらの冠をかぶったイエス・キリストが十字架で苦しんで死に全人類を贖われた、旧約のヤハウェであると表現しているのです。
十字架刑の苦痛を和らげるために、当時の人々は麻酔薬を受刑者に飲ませました。
イエスも苦いぶどう酒を飲まされましたが、少し口にしただけで飲みませんでした。
そして、ゴルゴダ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。 (マタイ 27:33-34)
また、私たちの罪からの苦さを取り除くために、イエス・キリストは苦い杯を飲み贖罪を成しとげられました。
しかし見よ、悪人には恐ろしい死が及ぶ。
彼らは清くないので、義にかかわることに関して死んだ状態になるからである。
清くない者は決して神の王国を受け継ぐことができず、彼らは追い出されて、自分の働きの成果、すなわち自分の悪い行いの結果を受けるように定められる。
そして、苦い杯のかすを飲むのである。」 (アルマ 40:26)
見よ、わたしは世の光であり命である。
わたしは、父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み、世の罪を自分に負うことによって父に栄光をささげた。
わたしは世の罪を負うことによって、初めから、すべてのことについて父の御心に従ってきた。」 (3ニフ 11:11)
イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。
いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。
そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。
イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。
そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。 (ルカ 22:39-46)
それゆえ、わたしは悔い改めるようにあなたに命じる。
わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。
これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。
いかに激しいか、あなたは知らない。
まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。
見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。
そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。
しかしながら、父に栄光があるように。
わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。
それゆえ、わたしは再びあなたに命じる。
悔い改めなさい。
そうしなければ、わたしは全能の力によってあなたをへりくだらせよう。
また、あなたの罪を告白しなさい。
そうしなければ、あなたはわたしが語ったこれらの罰を受けて苦しむであろう。
わたしが御霊を取り去った時に、あなたはその最も小さなもの、まことにその最も軽度なものを味わったことがある。 (教義 19:15-20)
イエス・キリストは、人が心からの悔い改めを条件として罪から赦されるように、人に代わって罪の代価を払うために苦しまれました。
イエス・キリストを信じて、日々悔い改めて、イエス・キリストの教えに従う生活をするときに、イエス・キリストが私たちの力だけでは克服しきれない罪を贖ってくださいます。
この贖罪は、イエス・キリストが罪の行いに対する罰を引き受け、それによって悔い改める人から罪がもたらす影響を除き、神の赦しを可能にすることです。
世界の歴史の中で最も重要な出来事である贖罪の完全な意味を言葉で述べることは不可能です。
イエス・キリストはゲツセマネの園と十字架上で苦しまれたことによって、私たちの罪を贖われました。
イエスは私たちが心から悔い改めるならば、赦しを受けられるようにするため、ゲツセマネの園と十字架上で私たちの罪のために苦しみを受けられました。
イエス・キリストが私たちの罪のためにどれほど苦しまれたのか、私たちは完全には理解できません。
しかし、ゲツセマネの園で私たちの罪の重さのためにイエス・キリストがあらゆる毛穴から血を流すほどの苦しみを感じられたことを、私たちは知っています。
そののちイエス・キリストは十字架にかけられ、かつて知られていた最も残忍な方法の1つで自発的に苦しみを身に受け亡くなられました。
わたしはアルパでありオメガであり、主なるキリストである。
すなわち、わたしは初めであり終わりである者、世の贖い主である。
わたしは、わたしの属する御方、すなわち父の、わたしについての御心をなし終えた。
わたしは万物をわたし自身に従わせようと、このことを行ってきた。
わたしは、世の終わりに、最後の大いなる裁きの日に、サタンと彼の業を滅ぼすほどの一切の権威を保持している。
その日に、わたしはすべての人をそのなした行いと業に応じて裁き、世に住む者に宣告を下すであろう。
人は皆必ず悔い改めなければならない。
そうしなければ苦しみを受ける。
神であるわたしは無窮である。
それゆえ、わたしは宣告する裁きを取り消さない。
まことに、わたしの左にいる者たちには、涙を流し、泣きわめき、歯ぎしりをするほどの災いが下るであろう。
それでも、この苦痛には終わりがないとは記されておらず、無窮の苦痛と記されている。
また、永遠の罰の定めとも記されている。
それゆえ、これはほかの聖句よりも明確であって、人の子らの心に十分に訴え、わたしの名の栄光を表す。
わたしはこの奥義をあなたがたに説明しよう。
わたしの使徒たちのように、これを知るのはあなたがたにふさわしいからである。
わたしはこのことのために選ばれているあなたがたに、まさに一人に語るように語って、あなたがたがわたしの安息に入れるようにしよう。
見よ、神性の奥義は何と深いことか。
見よ、わたしは無窮であり、わたしの手から与えられる罰は無窮の罰である。
無窮とはわたしの名である。
それゆえ、永遠の罰とは、神の罰である。
無窮の罰とは、神の罰である。
わたしはあなたに命じる。悔い改めなさい。
また、あなたがわたしの名によってわたしの僕ジョセフ・スミス・ジュニアの手より受けた戒めを守りなさい。
あなたがそれらを受けたのは、わたしの全能の力による。
それゆえ、わたしは、悔い改めるようにあなたに命じる。
わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。
これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。
いかに激しいか、あなたは知らない。
まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。
見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。
そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。
しかしながら、父に栄光があるように。
わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。 (教義 19:1-19)
そして神の御子は、あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。
これは、神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉が成就するためである。
また神の御子は、御自分の民を束縛している死の縄目を解くために、御自身に死を受けられる。
また神の御子は、肉において御自分の心が憐れみで満たされるように、また御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知ることができるように、彼らの弱さを御自分に受けられる。
さて、御霊はすべてのことを御存じである。
にもかかわらず、神の御子は御自分の民の罪を負い、御自分の解放の力によって彼らの背きを取り消すために、肉において苦しみを受けられる。
さて見よ、これがわたしの内にある証である。
さて、わたしはあなたがたに言う。
あなたがたは悔い改め、再び生まれなければならない。
再び生まれなければ天の王国を受け継ぐことができない、と御霊が言われるからである。
したがって、自分の罪から洗い清められ、神の小羊を信じる信仰を持てるように、やって来て、悔い改めのためのバプテスマを受けなさい。
神の小羊は世の罪を取り除く御方であり、人々を救い、すべての不義から清める力を持つ御方である。 (アルマ 7:11-14)
イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られました。
天使ミカエル(アダム)の導きに助けられながら、ますます強まる信仰をもって祈られたのです。
イエスが、すべての人の罪を一身に受けどんなに苦しんでも、彼らのために贖罪の業を行わなければなりませんでした。
全宇宙の何世代にもわたる罪の重荷と苦痛が一度に主にのしかかったのです。
この筆舌に尽くし難い苦痛は、イエスの偉大な贖いの犠牲と切り離すことのできないものでした。
その苦しみは毛穴から血がわき出るほどのものだったのです。
このイエスの苦悶は、その大きさにしても原因にしても、人間の心では計り知れないものです。
イエスが死を恐れて苦しんでおられたのではなく、イエスはこれまでこの世に生を受けた人が、考えつくこともないような重荷のもとに苦悶し、うめかれました。
イエスに、あらゆる毛穴から血が吹き出るほどの苦痛を与えたのは、肉体の苦しみでもなければ、心の苦しみでもなく、それは神だけが経験することのできる、身と霊の両方にかかわる霊的な苦悩でした。
肉体的に精神的にどれほど耐えられる人であっても、イエスのほかにはそのような苦しみに耐えられなかったでしょう。
その肉体は苦しみに屈してしまい、仮死の状態で無意識と忘却に陥ったことでしょう。
見よ、この御方は数々の試練に耐え、肉体の苦痛や飢え、渇き、疲労に耐えられるが、それは、人にとっては死ぬ以外に耐えようのないものである。
見よ、御自分の民の悪事と忌まわしい行いのためにこの御方が受けられる苦しみは非常に激しく、あらゆる毛穴から血が流れ出るほどだからである。 (モーサヤ 3:7)
十二使徒定員会会長のボイド・K・パッカーは、こう説明しています。
「救い主には、支払うべき負債はまったくありませんでした。
何一つ間違いを犯されませんでした。
にもかかわらず、人に知られている罪悪感、嘆きと悲しみ、苦痛、また屈辱のすべて、さらに知的、情緒的、肉体的苦痛のすべてを合わせて、救い主はそのすべてを経験されたのです。」 ( 「救い主の私心のない神聖な犠牲」 『リアホナ』 2015年4月 p.38)
スペンサー・W・キンボール大管長は、こう教えています。
「人は忍耐、辛抱、自制を学ぶとき、苦しみを通じて〔忠実な教会員の〕聖徒となります。
救い主が味わった苦しみは、その教育の一部でした。」 (「悲劇か運命か」 ブリガム・ヤング大学年度講話 1955年12月6日 p.5)
七十人のブルース・C・ヘーフェン長老は、こう述べています。
「イエス・キリストの贖いによって、〔私たちは〕自分の経験によって罪あるとことなく、そこから学べるようにされたのです。」 (“Eve Heard All These Things and Was Glad” Women in the Covenant of Grace ドーン・ホール・フレッチャー、スセット・フレッチャー・グリーン編 p.32)
「主が人々のためにお受けになった苦しみを多少なりとも味あわなければ、キリストの愛である慈愛を心から感じることはできません。
愛と苦難は表裏一体だからです。
人の苦難を自分のものとして苦しむとき『その苦難にあずかって』(ピリピ 3:10) キリストと共同の相続人になることができます。」 (『リアホナ』 2004年5月 p.99)
前漢の宗室の1人である淮南(わいなん)の王であった劉安(りゅう あん 紀元前179年‐紀元前122年)が学者を集めて編纂させた書物『准南子(えなんじ)』による神話では、はるか東方の海の彼方に巨大な2本の樹木「扶桑」があって、10羽の巨大な鳥がおり、毎日1羽ずつ太陽を背負って天空へ昇ってったとあります。
ところが、堯帝(ぎょうてい)の時代、10個の太陽が一斉に昇り、地上にはかんばつが続いていました。
これを見た堯(ぎょう)は弓矢の名手である羿(げい)に命じて、9つの太陽を撃ち落とさせました。
すると地上に9羽の烏が落ちて、その足は3本だったといいます。
10個あった太陽の内9個が撃ち落とされました。
残ったのは、最後の1個の太陽の名前は「日癸」です。
癸(き、みずのと)は、十干の10番目です。
葵祭
「癸」に草冠をつければ「葵」です。
「葵(あおい)」とは、葵祭の葵であり、賀茂神社の社紋でもあります。
京都の上賀茂神社で5月15日に行われる葵祭は、京都三大祭の1つです。
平安朝の優雅な古典行列は平安貴族の姿で列をなし、京都御所を出発し総勢500名以上の風雅な行列が下鴨神社(賀茂御祖神社)をへて上賀茂神社へ向かいます。
葵は「鴨斧草(おうきんそう)といって鴨(かも)が好んで食べます。
賀茂氏が創建した下鴨神社、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の神紋は双葉葵です。
双葉葵は賀茂葵ともいいます。

そもそも日本において単に「祭り」といえば葵祭のことでした。
平安時代中期にはかなりの規模で当時の様子を『源氏物語』や『今昔物語』が細かく描いています。
見物客だけでも相当の数だったらしいです。
車や服、牛馬などすべて葵の葉と桂の小枝で飾ったので葵祭の名があります。
紀元535年~536年の寒冷期
ヨーロッパ、アメリカ、チリ、オーストラリアなど世界各地の樹木の年輪調査から紀元535年から約20年間にわたって年輪幅が非常に狭いと判明しています。
年輪幅が狭い場合、太陽の光が弱く気温も低めで、木の生長がほとんどなかったことを示しています。
ベルファストのクイーンズ大学の年輪年代学者 マイク・ベイリーによる年輪分析では、536年にアイリッシュオークの成長が異常にわずかで、部分的に回復したのち、542年にさらに急激に減少したことが示されています。 (Baillie, M. G. L. (1994). "Dendrochronology Raises Questions About the Nature of the AD 536 Dust-Veil Event." The Holocene, fig. 3, p.215)
文献や考古資料によると、世界各地で紀元535~536年に突発的な寒冷化と荒天などの異常気象が発生したと推定され、原因としては火山の噴火や隕石の衝突があげられています。
1978年、デンマークとアメリカ、スイスの研究機関がグリーンランドで氷床コアのボーリング調査からコペンハーゲン大学での分析の結果、535年ごろの氷床に大量の硫酸塩や火山堆積物などの火山噴火の起きた兆候が見つかりました。
1989年、南極でも氷床コアのボーリング調査が行われ、535年ごろに大量の硫酸塩や火山堆積物が含まれていて、最低でも4年以上、酸性雨が降り続けていた可能性が高いと考えられています。
メイン大学の気候変動研究所(Climate Change Institute)が2013年に掘削されたスイスの氷河の分析から、535年ごろにアイスランドの火山噴火で火山灰が北半球中にばらまかれたと2018年11月のハーバード大学でワークショップで報告しました。

紀元500年ごろ、巨大な小惑星か彗星の破片が地球上空で分裂し、オーストラリア沖に落下した可能性があり現地でクレーターとみられる痕跡が見つかりました。
アメリカのコロンビア大学ラモント地球研究所(LDEO)の海洋地球物理学者ダラス・アボットが、オーストラリア北部カーペンタリア湾を衛星から測定したところ、海面の水位にわずかな変化があると分かりました。
これは海底に衝突クレーターがある証拠だといいます。
衛星データによるとクレーターは2つあり、それぞれの直径は18kmと12kmと推定されます。
この湾ぞいにある複数のV字型砂丘は衝突で発生した津波によって形成され、衝突地点を指し示す矢のような形をしています。
砂丘は湾内の1点に向けて収束しており、その地点は2か所の海面低下が確認された位置と一致しています。
紀元536から545年に、地球の気候が冷却化して作物の収穫に影響を与えました。
火山噴火時の火山灰や隕石衝突によって吹き上げられた物質が大気上層部をおおい冷却化が始まりました。
その時期は、アジアとヨーロッパの樹木の年輪データから年輪年代測定法により特定されました。
当時、欧州ではローマ帝国が崩壊しつつあり、 オーストラリアでは先住民アボリジニが2つの衝突の目撃情報を残しています。
海底に2つのクレーターを残した天体は、もとは1つでしたが地球接近中に分裂したのでしょう。
柔らかな堆積地に直径10km以上のクレーターを刻んだとすると、分裂前の天体の直径は約600mだったと推定されます。
そして、アボリジニの美術様式である岩壁画(ロックアート)にそれらしき記録が残っていると見られています。
シドニーにあるマッコーリー大学の博士課程大学院生デュアン・ハマチャーは、岩絵の調査には関与していませんが、アボリジニの民話を分析すれば隕石クレーターの場所を特定できるかもしれないと提案しています。
オーストラリア各地のアボリジニ・ドリーミングとよばれる宗教的民話には、 炎のような星が空から降って地球に衝突し、死や破壊を引き起こす話が多くあります。
民話の描写から考えると単なる作り話ではなく目撃記録だったのです。
オーストラリア北部 カーペンタリア湾地域で採取したコアサンプルも、そのような衝突の可能性を裏付けています。
サンプルに磁気を帯びた滑らかな小球体は、天体が衝突して爆発した時に溶けた物質が空中に吹き上げられた物と考えられます。
紀元535年~536年にかけて東ローマ帝国の歴史家であるプロコピオスの記述です。
「昼の太陽は暗くなり、そして夜の月も暗くなった。
太陽はいつもの光を失い、青っぽくなっている。
我々は、正午になっても自分の影ができないので驚愕している。
太陽の熱は次第に弱まり、普段なら一時的な日食のときにしか起こらないような現象が、ほぼ丸一年続いてしまった。
月も同様で、たとえ満月でもいつもの輝きはない」
書かれたのは536年の夏で、すでにこの状態を1年経験し続けていたのです。
紀元500年ごろの欧州は寒冷化がありました。
この時期の欧州はローマ帝国の末期に当たります。
ローマ帝国はこの寒冷気候のために、植民地からの食料確保が困難となります。
また、2004年に『Astronomy and Geophysics』誌に掲載されたある論文は、紀元500年ごろの地球冷却化の原因は衝突によって発生した「ちり」であると述べています。
『南史(なんし)』は、中国の南朝について書かれた歴史書です。
中国史における南北朝時代は、北魏が華北を統一した紀元439年から始まり、隋が中国を再び統一する紀元589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指します。
紀元5世紀に中国の北半分を統一したのが北魏で、北魏は鮮卑族という異民族が建てた国です。
北魏は内乱をへて、紀元534年に東魏、西魏に分裂しました。
東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられました。
577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一します。
この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡しました。
こちらを南朝とよびます。
『南史』の梁本紀(りょうほんぎ)第七には高祖の武帝の治下の出来事として、「紀元534年閏12月丙午、西南方で雷鳴が二度響いた。」(南史 1:7,3:6)と記録されています。
雷が落ちただけとも解釈できますが、このような記録は中国の史書ではかなり珍しい記述で、この雷鳴とは火山噴火の轟音だったと考えられます。
南朝の首都建康(南京)から西南には、マレー半島、スマトラ島、 ジャワ島などの地域です。
さらに西南方向に進んでも見渡すかぎり大海原が広がるだけですから『南史』のいう雷鳴はこの辺りが発生地です。

クラカタウ(インドネシア語)とは、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の中間、スンダ海峡にある火山島の総称です。
紀元535年のクラカタウ噴火で、それまで1つの島だったジャワ島とスマトラ島を噴火によって吹き飛ばし、大きなスンダ海峡を造り出しました。
紀元19世紀、シュロの葉の写本に書かれた古文献を基に当時の王ラングガワシルタ3世の手で編纂されたインドネシアの年代記『古代諸王の書』には以下のようにあります。
「地元の山(パトゥワラ山)から桁外れの轟音が聞こえてきた。……
辺りは真っ暗になり雷が轟き稲妻が走った。……
次いで、猛烈な強風が吹いて、それとともに滝のような雨が降ってきた。
大嵐が世界中を真っ暗にしてしまった。……
そしてパトゥワラ山から大洪水が押し寄せてきて、東方のカムラ山のほうへ流れていった。……
水が引きかけたあとを見てみるとジャワ島は2つに割れ、こうしてスマトラ島が生まれた。」
また、次のような記述もあります。
「世の中全体が大きく振動し鳴り渡る轟音とともに豪雨が降ってきた。
暴風雨が何度も起こった。……
しかしその豪雨も噴炎を消せないどころか事態はいっそう惨憺(さんたん)たる様相を呈した。
その音は恐ろしかった。
結局、山はぞっとするような唸りとともに2つに割れ地中深く沈んだ。……
パトゥワラ山およびにカムラ山の東方、そしてラジャバサ山の西方にあった陸地は海面下に沈んだ。……
スンダ地方からラジャバサ山までの地域に住んでいた人は溺死しその遺体は財産もろとも押し流された。……
水が引いたのち、その山と周囲の陸地は海になり今まで1つだった島が2つになった。
こうしてスマトラ島とジャワ島ができた。」
第1に、火山噴火の際の雷鳴が直線距離にして約4500kmも離れた建康まで聞こえることはありうるでしょうか。
第2に、ジャワ島は2つに割れてスマトラ島が生まれたというのは一度の噴火で起こるのでしょうか。
第1の問いについては、1883年のクラカトア火山噴火の際、約5600km離れたマダガスカルまでその噴火音が聞こえたことや1815年のタンボラ火山噴火の音が3000km以上先まで届いたことからも『南史』の記述は信憑性が高いです。
続いて第2の問いは、確かに地質学者は従来「スンダ海峡における陸地の陥没は地殻変動によって徐々に引き起こされた」と認識を共有しています。
しかし、火山学者アラン・グールゴウの最近の調査によると「スンダ海峡は部分的ないし全面的に火山カルデラ(大きな凹地)の陥没によって生じた可能性がある」としています。

紀元6世紀、第29代欽明天皇のころに、国中が凶作に見舞われ飢謹や疫病が発生しました。
紀元535年のクラカタウ噴火の影響で中国・朝鮮で事態が悪化していたころ、日本も536年5月1日にはひどい飢餓に陥っていました。
第29代欽明天皇の御代にも天変地異は続き『日本書紀』によると国々に大水が出て飢える者多く人が人を喰うこともあったとされます。
そののち626年ごろから再び異常気象がピークを迎え、1月に桃やスモモの花が咲いたかと思えば、一転して寒くなり3月に霜が降り6月に雪が降りました。
この極端な冷夏の上、この年は3月~7月まで長雨が降り多くの人々が飢えに苦しみました。
翌年の627年には4月の10日と11日に続けて桃や李の実ほどもある雹が降りました。
そして春から夏までかんばつが続きました。
そして『日本書紀』には「国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。それが長く続いて、手だてがなかった」と書いています。
ひどい伝染病は、おそらく天然痘でしょう。
伝染病が流行した地域は、人口密度の高い地域だったのでしょう。
そうした地域では、人口の6割が死亡したと推定されます。
まずインフルエンザに似た徴候が現れ(高熱、腰痛、頭痛)、次にしばしば咳と下痢の症状が出ます。
次いで、猩紅熱にも似た発疹が現れ、患者は体を焼かれるような感じになります。
『日本書紀』はのちに、患者たちがこう言ったと記しています。
「体が焼かれる……ように苦しい」
そののち、発疹に変化が現れます。
そして発疹は顔面を中心に始まって、体の下のほうへ広がっていきます。
とくに多く出現するのは手足で、皮膚に多数の水疱が現れ、最後には直径7~8mmの大きめの膿疱になります。
患者の5%は、内出血のため数日で死亡しました。
別の5%の患者は発疹が広がり、熱が40℃まで上がりました。
患者の大半は天然痘で死ぬことはなく、結局は肺炎と敗血症でおのおの3割が亡くなったと思われます。
天然痘ウイルスが鼻腔、口腔、目の保護粘膜を剥ぎ取ったのち、次のバクテリアが侵入したのです。
とくに被害に大きかった地域では、住民の9割が病気になり、生き残れたのは3割だけだったと思われます。
悲惨でパニックの状況では、天皇が仏教崇拝を許したことが伝染病流行の原因とみなされても不思議はありません。
飢謹や疫病は神示だと考えた天皇は、勅使(ちょくし)を遣わし、鴨の神に祭礼を行わせましたのが葵祭の始まりです。
それゆえ、今日の葵祭でも天皇陛下の命令を受けた勅使が御所から下上の賀茂神社へと出向き、神殿において祝詞や東遊などを奉納する儀式が祭りの目的なのです。
葵祭は天皇陛下が行う祭りです。
葵は京都に自生するフタバアオイで、古くから魔除けの護符とされ使用されました。

しかし、葵を使用するのには、もう1つ理由があります。
フタバアオイの葉を社紋としている大きな神社が京都御所の北方に位置する「賀茂神社」です。
葵祭を主催しているのは、賀茂神社なのです。
祭りの起源は紀元6世紀にさかのぼり、第29代欽明天皇のころです。
欽明天皇の時代、天候が荒れ飢饒が続いたので、賀茂の大神をまつったのが始まりとされますが、それ以前祭礼はありました。
ただし名称は、葵祭ではなく「藤祭」といいました。
そして、藤祭を行ってきたのが籠神社です。
葵祭では祭員の冠に葵の葉をつけるのに対して、籠神社の藤祭では藤の花をつけます。
藤は不死を意味し、不死不滅になったことを意味しています。
葵祭の中心は葵祭の3日前に行われる下鴨神社の「御蔭祭(みかげまつり)」、上賀茂神社の「御阿礼神事(みあれしんじ)」です。
「蔭」とは日蔭であり光が隠れたこと意味し、神道では隠れるとは死ぬことです。
「御阿礼」は、神または貴人の誕生を意味します。
意図的に「草冠」のある「蔭」の字を使っているのは、イエス・キリストの死を示しているのです。
したがって、光であるイエス・キリストが死んで復活したことを記念する祭礼が葵祭なのです。
葵祭が光である天照大神=イエス・キリストの復活の祭りであることを考えると、大祭司がいる賀茂氏は葵に意味をもたせたのです。
葵祭と天照大神の復活
一般に葵祭というと5月15日に行われる勅使の行列、それに続く賀茂神社における神事だけと思われがちですが、葵祭に先立つこと3日前の毎年5月12日、下上賀茂神社にて行われる儀式があります。
それが葵祭における最も重要な儀式で、下鴨神社で行われる儀式(秘祭)を「御蔭祭(みかげまつり)」といいます。
当日の昼、下鴨神社で儀式を行った宮司一行は近くにそびえる御蔭山の御蔭神社で祝詞奏上などを行い、榊を聖別し榊を下鴨神社の本殿へと持ち帰ります。
一方、上賀茂神社で行われる儀式(秘祭)は「御阿礼神事(みあれしんじ)」といいます。
こちらは当日の夜に背後にある丸山へ宮司らが登り、そこに四方を常緑樹の枝で囲んだ神籬(ひもろぎ)を設置し中心に榊を立て神の御魂を榊に降臨させるとされます。
これらの神事は、原始神道儀式の形態を保っており、天皇陛下になるための儀式である大嘗祭に通じる儀式であると研究家によって指摘されています。
御蔭祭の「御蔭」とは、影や陰ではなく光を意味する古語です。
一方の御阿礼神事の「御阿礼」とは、「御生まれ」のことで復活を意味します。
つまり下上賀茂神社の一連の秘祭は、「光が復活する」ことを表現しているのです。
葵は「太陽に身を向ける花」という意味があり、太陽に向かって傾くことを古語で「葵傾(きけい)」といいます。
向日葵(ひまわり)にも葵の字があります。
つまり、葵とは太陽の花、神道で言えば天照大神の花なのです。
「御蔭祭・御阿礼神事・葵祭」は、一連の祭り、儀式で、「御蔭・御阿礼・葵」は「光・復活・太陽に向く花」の暗号であり、天照大神の復活という意味が隠されているのです。 (詳細参照 8 天照大神の正体)
葵祭とは天岩戸開き神話において、隠れていた天照大神が復活しこの世に光が戻ってきたことを喜び祝う祭りであると下鴨神社の関係者は断言しました。
神道の最高神である天照大神の復活を秘祭として継承しているのは賀茂神社だけです。
葵祭は天皇陛下が行う祭りで、天皇陛下が行う天照大神の復活祭を取り仕切っているのが、下上賀茂神社なのです。
日本における「八咫烏」とは、神道の真の指導者組織です。
紀元3世紀末にイスラエル10部族と原始キリスト教徒たちが日本に来て、旧約の神道を新約の神道に更新しました。
なぜ原始キリスト教徒の指導者組織の八咫烏は、始皇帝や徐福のトーテムの烏と同じトーテムにしたのでしょうか。
原始キリスト教徒の秦氏の八咫烏は、始皇帝や徐福集団の子孫たちと同族になったのです。
徐福のの民たちが、原始キリスト教に改宗したのです。
そして、原始キリスト教徒になった海部氏の一部の人々は指導者の八咫烏にもなったのです。
神武東征のときの八咫烏も原始キリスト教徒になった海部氏です。
そして、八咫烏をトーテムとし同族とすることは人種は別かもしれませんが始皇帝や徐福もまたユダヤ教徒のユダヤ人だったのです。
秦の始皇帝の時代には、すでにユダヤ教の燔祭を公式行事として中国皇帝が行っていたと思われます。
燔祭とは、神への供物として動物を祭壇で丸焼きにして供えることや、またその焼いた供え物です。
燔祭の儀式は、アダムからの代々の族長が行ってきたささげ物をともなう儀式です。
具体的な内容はモーセの時代に明らかになっており、これには後世に犠牲になるイエス・キリストの雛形とする意味があります。
北京の天壇にある歴史博物館では、冬至の日にユダヤ教による正式な燔祭を行うときの33段階の手順が記されています。
賀茂氏は「鴨族」と称します。
「鳥」の称号は祭司の暗号であり、「鴨」は「甲+鳥」、甲は十干の第一位で、五行で「木」に配します。
「甲」は「きのえ」は「陰陽五行思想」では「木の兄」と表記し、これは「木の陽」を意味します。
つまり、これはモーセの兄アロンの象徴であると考えられます。
神道の真の指導者組織「八咫烏」
5 秦朝のユダヤ人 2/2
5 秦朝のユダヤ人 1/2
秦とイスラエル
漢字の真相
中国における字は殷(いん、商、しょうともいう 紀元前1700年ごろ‐紀元前1046年)の時代の甲骨文字にさかのぼります。
基本となる字は象形文字として作られました。
「秦」の字の場合、具体的に「舂」(シュ、ショウ 〔意味〕 うすづく、うすでアワなどの穀物をつく。ものをつく)と「禾」([音] カ [訓] いね のぎ 意味 いね わら 穀物の総称)を合わせた会意文字で、稲がすくすくと成長するさまを意味します。
秦王家の先祖で、「嬴(えい)」の姓を賜った柏翳(はくえい)の子孫が与えられた秦州の地を示し、ここが作物を育てるのに適していた土地であることに由来するといいます。
つまり秦とは地名です。
「秦」の字、普通名詞やほかの氏族が使用する字ではなく、秦王家のシンボル的な意味があります。
歴代中国の秦という国があります。
紀元前、秦の名を冠した国は紀元前770年~紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一するまでの時代である春秋戦国時代の秦国、始皇帝の秦朝です。
紀元後は、秦の名を採用した国が少なくとも3つ存在します。
それらは紀元前の秦と区別するために、歴史学では「前秦」(ぜんしん 紀元351年‐紀元394年)「西秦」(せいしん 紀元385年‐紀元431年)「後秦」(こうしん 紀元384年‐紀元417年)と表記されます。
前秦は、紀元350年、東晋という国から「氐族(ていぞく)」が中心となって独立した国です。
テイ族は、アメリカのユタ州のグレートソルト湖に次いで世界で2番目に大きな内陸塩湖である中華人民共和国の西部に位置する青海省(せいかいしょう)にある青海湖(せいかいこ)を拠点としていましたが、春秋戦国時代には秦と同様、甘粛省に住んでいました。
民族的にチベット系の民族の1つで牧畜を生業とする遊牧民で、使用言語は漢民族とは明らかに違い「羌族(きょうぞく)」の言葉に近いです。
羌族は、今日でも河南省を中心に存在していて、先祖は西戎(せいじゅう)とされた非漢民族であり羌族と同族であると考えられています。
前秦は紀元394年に滅びますが、代わって台頭したのが後秦と西秦です。
後秦は384年に成立した国で支配層は羌族でした。
一方の西秦は385年に前秦から独立した国で王家は「鮮卑族(せんぴぞく)」でした。
鮮卑族は遊牧騎馬民族で、のちに北魏(ほくぎ 紀元386年‐紀元534年)を建国します。
民族の系統としてはモンゴル、もしくはチュルク系であるといわれています。
氐族と羌族、鮮卑族は遊牧民です。
秦は広い意味で羌族です。
「羌」とは羊に由来する文字で、これは彼らが発祥以来、遊牧民であったことを示しています。

イスラエル共和国の調査機関アミシャーブの所長であったラビ・エリヤフ・アビハイルによれば、古代の羌(きょうぞく)族の末裔とされている「チャン族」は、行方の知れないイスラエル10部族の末裔であると科学的に判明していると述べています。 (3 古代アメリカからの日本の先住民 4/4)
羌族は、イスラエルと同様に唯一神を信仰しており、神を「アバチ(霊の父)」などとよびます。
固有名詞としては、その唯一神を「ユイワ」とよび「ヤハウェ」が長年かけて変化していったのでしょう。
そして、イスラエルと同様に山も神聖視していて「山の神」ともよびます。
チベット系の民族の1つの羌族の歴史はイスラエル10部族よりもはるかに古くパレスチナに古代イスラエル王国が誕生する紀元前11世紀よりはるか以前にさかのぼります。
羌族の歴史は古く、紀元前16世紀~前11世紀までの殷(いん)の時代にまでさかのぼる民族です。
羌族はすでに甲骨文に記されていて、ヤレド人とも交流していた「殷」と激しく対立していたようです。
そのため殷に追われた羌族は、テイ族の拠点だった青海省をへて四川省に南下し、その移動過程で中国古代の伝説的な帝の禹(う)の神話も運び、四川省西北の岷江(ミンジャン)上流域において「禹は母の胸を剖(さ)いて生まれた」とする二次神話をできました。
夏王朝の始祖である禹は、黄河の治水に成功したとされます。
紀元前1900年ごろ、地震によって起きた土砂崩れで山峡を通る黄河が半年から9か月の間せき止められたのち、ダムのように水をせき止めていた土砂が崩れ大量の水が下流の低地帯に流れ込んだと考えられています。
現在の青海省にある黄河がせき止められた場所の沈殿物や、何kmも離れた下流まで流れた堆積物が発見されています。
南京師範大学・地理科学部の呉慶竜教授は、2007年に現地を調査した際にダムになっていた場所で、放射性炭素年代測定で紀元前1900年くらいの堆積物を発見しました。
アメリカ、パデュー大学のダリル・グレンジャー教授は、「洪水は現在の川の水面より38mも高くなった」と述べています。
預言者であるノアの息子であるセムは、長じて大祭司メルキゼデクとよばれることになります。(Times and Seasons 6:746 ジョン・テーラー編集)
メルキゼデクの子孫のセムの子孫は、主にアジア全域に広まりました。
メルキゼデクの子孫の紀元前2000から紀元前1900年ごろの預言者アブラハムの子孫もまた遠く東アジアへとやって来ました。
紀元前17世紀から始まる殷の時代は、アブラハムの孫ヤコブが生きていたころです。
アブラハムの子孫の集団を率いたのは神の教会の指導者たちです。
神の教会の指導者たちは預言者集団であり、真理をアジア全域に広めたのです。
そして、その本流はヘブル(ヘブライ)人で同族であり神に従うイスラエルゆえに、後世にイスラエル10部族と合流したのです。
紀元前16世紀~前11世紀までの殷の時代からの羌族に、紀元前5世紀ごろに東アジアに来たイスラエル10部族が合流したのでしょう。
古代の羌族は、紀元前2100年ごろのアブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派なので、イスラエル10部族と同化したのでしょう。
古代中国文明

2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らは、約2500年前の春秋時代、約2000年前の漢代の中国山東省中部の北寄りにある小都市臨淄(りんし)、黄河下流にある紀元前770年~紀元前221年の春秋戦国時代の斉(せい)の都の遺跡から出土した人骨、および現代の臨?住民から得たミトコンドリアDNA(細胞小器官であるミトコンドリア内にあるDNA)の比較研究の結果を発表しました。
それによると、3つの時代の臨シ人類集団が、異なる遺伝的構成をもつと明らかになりました。
約2500年前の紀元前500年ごろの春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は、白人の遺伝子でした。
アケメネスペルシャ(紀元前550年‐紀元前330年)は、白人の国です。
そして、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は、現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近かったのです。
紀元500前ごろの臨シの人々は、ミトコンドリアDNAから、ペルシャ人がいてペルシャ人と混血した人々もいたのです。

斉では、ペルシャでよく見られる樹木双獣文のデザインの瓦が見つかっています。
現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないです。
そして、さらに古い時代にも中国には白人がいました。
長江文明 (紀元前2000年ごろ? ‐ 紀元前1000年ごろ)の殷(いん、商、しょうともいう 紀元前1700年ごろ‐紀元前1046年)の遺跡に白人の死体が発見されています。
1980年、タクラマカン砂漠の東にある楼蘭鉄板河遺跡で、放射性炭素年代測定で紀元前1800年のコーカソイド(白人)の約40歳の女性のミイラが発掘されました。
2002年、タクラマカン砂漠地下から、大量の遺骸が出土しました。
放射性炭素年代測定で紀元前2000~紀元前1700年のミイラは、DNA鑑定によってモンゴロイドとコーカソイド(白人)の混血と分かりました。
紀元前18~16世紀ごろ、インド・ヨーロッパ語族の移動がありました。
彼らは中央アジアから南ロシアの辺りにいたのですが大移動を開始し、ユーラシア大陸全域に大きな変動を起こしたのです。
南東に向かったアーリア人とよばれる一派はインド北部を征服し定住しました。
南にむかった一派はペルシャ人やソグド人となり、イラン高原に定着しました。
また、西方に移動した人々はケルト系・ラテン系・ゲルマン系・スラブ系などのヨーロッパ人となりました。
長江文明の担い手の「ミャオ族(苗族)」の先祖は、ノアの息子のヤペテの子白人のゴメル(創世記 10:2)であるという伝説があります。
長江文明は、初期段階より稲作が中心であり畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したと見られています。
ミャオ族は自称ではなく漢民族による呼称です。
ミャオ族自身は、モン族を自称し中にはミャオの呼称を嫌う者もいます。
このため中国などのミャオ族居住諸国以外では、ミャオ(東南アジアで概ねは「メオ」とよぶ)を蔑称として、公式の場では自称であるモン族という呼称を使う傾向があるのです。
ただし、ミャオもモンも語源は同じと考えられています。
ミャオ族にも、古来から同様のヤハウェ信仰があります。
ミャオ族にもまた、天地を創造し、あらゆる生物と人類を創造された創造主なる神に関する言い伝えがあります。
またその言い伝えは、大昔の大洪水と人類の絶滅、箱船によって一家族が助かったこと、またバベルの塔、民族の起源などに関するものも含まれ内容は『聖書』に酷似しています。
天地創造と地球のバプテスマ
ヤレド人(バベルの塔)
ミャオ族の言い伝えは、キリスト教の宣教師によるものではなく先祖の言い伝えを忠実に保持してきたにすぎないのです。
ミャオ族は長江流域で稲作を営み、太陽・鳥・蛇を信仰し、太陽族・鳥族・蛇族の三苗(さんびょう)とよばれました。
紀元前2000年前ごろの気候変動(寒冷化)にともない、北方の部族が南下しミャオ族と戦いにミャオ族が敗れ、あるいは移動せざるを得なくなり長江文明も滅んだとされています。
中国の伝説は、アブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派の羌族の黄帝がミャオ族を倒したときに彼らの歴史における初の戦争が起こったとされます。
ミャオ族は、黄帝や神農と合戦したり講和した蚩尤を祖先としています。
紀元前2000年ごろ、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人の神農(炎帝神農)の時代、伝説では神農と異母兄弟であり古代中国の伝説上の君主の黄帝が神農の子孫の蚩尤(『路史』によると、羌が姓とされる)民族の討伐作戦を行い、タク鹿(たくろく、河北省)で破りました。
この戦いは黄河の台地で行われ、蚩尤は濃霧を起こして黄帝の軍を苦しめましたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、蚩尤民族を破りました。
蚩尤に味方したのは勇敢な九黎(きゅうれい)族、巨体の夸父(こほ)族でした。
夸父(こほ)は中国神話に登場する巨人族で、成都載天(せいとさいてん)という山に住み、2匹の蛇を耳飾りにして2匹の蛇を手に持っていたといいます。
ある話では、夸父は太陽を追いかけて原野を走り、太陽が沈む谷まで追い詰めることができたが、夸父は喉が渇いていたので黄河と渭水の水をすべて飲み干しました。
それでも渇きが癒されなかったので、さらに北にある大沢(だいたく)という千里四方もある湖に行こうとしたが、その途中で死んでしまったといいます。
巨体の夸父(こほ)族は、ヤレド人と同じように2m~3mくらいの巨人だったのかもしれません。
敗れた蚩尤民族はミャオ族(苗族)と黎(リー)族に分裂し、苗族は四散しました。
先秦時代、ミャオ族は、苗民、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)とよばれ、揚子江流域に住んでいました。
長江文明に属すると見られる三苗は屈家嶺文化および石家河文化付近を本拠地としていたと見られます。
三苗は母系集団であり、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化と対立しました。
この龍山文化集団が夏王朝につながる遊牧民族的な父系集団と見られます。
中原地域は黄帝と神農の活躍した地域で、炎黄集団は仰韶文化後期に一度衰退し、龍山文化期に復興し三苗民族を征服した後、夏王朝を興します。
長江中流域の屈家嶺文化・下流域の良渚文化の時代を最盛期として、のちに衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されています。
これらは黄河流域の人々により征服された結果と考えられ、黄帝の三苗征服伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものと考えられます。

神農(炎帝神農)は、モーセと同じく120歳まで生きたといわれています。(申命 34:7)
神農の神話には、モーセが投影されているようです。
古代アメリカから来たニーファイ人の少彦名命とともに神農はまつられている場合があります。(少彦名神社、大阪市中央区) (詳細参照 スクナビコナ)
中国甘粛省蘭州大学生命科学学院の謝小東教授は「DNA調査の結果、現代の中国人はさまざまな民族の特質が混ざっていて、いかなる特定民族の特質も顕著には表れなかった」と説明しています。
また「かなり以前から『漢民族は中原に暮らしている』と考えられてきましたが、これは特定時代の漢民族を周辺の他の種族と区別するために作った地域的区分にすぎない」とし「漢民族をこのように地域的に特定して定義することはできない」と指摘しました。
紀元前12世紀の陝西省西安を首都とした西周は漢民族政権に属しますが、そののちの春秋戦国時代に同じ地域に建てられた秦は少数民族の「西戎」が主流だったということです。
また中国の歴史に表れる中原の範囲に居住する人々を漢民族だと規定するのも歴史的事実とは合わないという主張です。
さらに、中国人は自らを「炎帝(神農)と黄帝の子孫(炎黄子孫)」と主張しますが、研究の結果、黄帝と炎帝の発源地も北狄(ほくてき)地域だったと分かりました。
黄帝と炎帝の発源地はともに黄土高原地域で、ともに漢民族の本拠地ではなく居住地域でもなかったのです。
謝教授は「研究の結果、むしろ中国北部から南部に移住した『客家』が古代中原人の文化伝統を継承したことが分かった」とし「彼らの古語、風俗および習慣からして、客家こそが本当の中原人」と強調しました。
謝教授は中国に純粋な血統の漢民族がもはや存在しないのは大規模な民族移動と関係があるとし、長い歴史の中で周辺少数民族、さらには周辺国家が漢民族と融合してきた結果でもあると付け加えました。
バベルの塔崩壊後の紀元前2000年ごろ、アブラハムはシュメール文化の中心地である首都ウルで生まれました。
両親と住みながら、そこで彼はシュメール人のサラを妻に迎えます。
アブラハムはヤハウェの指示で家族や使用人とともに多数の家畜を連れて各地を転々とします
羌族はアブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派と考えられます。
預言者ノアの息子であるセムは長じて大祭司メルキゼデクとよばれます。
セムの子孫は主にアジア全域に広まりました。
メルキゼデクを祖とする預言者アブラハムの子孫も遠く東アジアへと移動しました。
紀元前1900年ごろからと考えられている夏王朝の存在自体は考古学的にも最近の発掘調査で確認されました。
漢字学者の藤堂明保は「夏」の字を甲骨文字や金文からの形成の変遷を分析し「大きい人」の美称ではないかと述べています。
ヤレド人と同様にバベルの塔崩壊後に東へ移動した人々かもしれません。
シュメール語において「エン」とは「主人・神」を意味します。
「エンシ」とは祭司王から都市の王の意味になった記録が確認できます。
シュメール語の「エン」の絵文字は宗教的な分野での統率者を意味し、中国神話の創世の始祖である三皇の1人「炎(えん)帝」(神農)の名と同じ「エン」があります。
炎帝の発祥の地は陜西省宝鶏市の南30kmにある天台山であるとされています。
伝説によると母の女登は神龍に感じて炎帝を生み、人身にして牛首であったといいます。
火徳の王であったので「炎帝」と称したとあります。
エン・リル神もシュメールでは「野生の雄牛」とよばれ共通しています。
牛は旧約時代のイエス・キリストの贖いの犠牲の象徴の動物の犠牲です。
「人身にして牛首であった」とは、神殿で牛を犠牲として儀式に用いていたり牛の角を模した道具のことを表しているのかもしれません。
つまり、「炎帝(神農)」の「炎」は、モーセが見たヤハウェの炎である燃える芝を象徴しているかもしれません。

神はまた、燃えるしばの中からわたしを呼ばれたとき、わたしに戒めを与えて、『わたしの独り子の名によって神に呼び求め、わたしを礼拝しなさい』とも言われた。」 (モーセ 1:17)
ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。
彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。 (出エジプト 3:2)
ジョセフ・スミス訳では、主の霊気がモーセに現れたとなっています。 (聖霊の影響力 1/2)
中国書体の初めの10文字「十干(じっかん)」は、夏王朝後の黄帝の時代のものでしょう。
十干は、甲・乙・丙・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛・壬(じん)・癸(き)の総称で、五行(万物を組成する五つのもとになる気)の木・火・土・金・水と結びつけて、それぞれ兄(え)(陽)、弟(と)(陰)をあて、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)とも読みます。
十二支と組み合わせて年・日の表示などに用います。
甲骨文字の形はシュメール文字の形に似ている字がいくつもあります。
十干の甲骨文字の形はシュメール文字の形に似ています。

1年を12か月とすることや、60進法で1度を60分、1分を60秒、1時間を60分と定めたのもシュメール人でした。
十干十二支が一巡する60年が還暦です。
客家はY染色体ハプログループO2で、ミャオ族(苗族)はO2が約61%です。
日本に来たミャオ族(苗族)

ミャオ族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていました。
味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ漆(うるし)や絹を利用します。
主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われています。
ミャオ族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていました。
ミャオ族の伝承では、呉(ご 紀元前585年ごろ‐紀元前473年)はミャオ族の国で、その国が紀元前473年に越(えつ)に滅ぼされたとき、一部のミャオ族は日本に逃げたしています。
熱湯に手を入れて正しき者は焼けないが不正な者は焼けてしまうというクガタチの風習について、ミャオ族が伝えたといいます。
吉野の国主(クズ)とよばれる先住民が応神天皇とその太子の前で歌う場面が『古事記』にありますが、それに続いて国主が低く横に平たい臼の横臼を横たえて酒を造る記述が見えます。
横臼はミャオ族ももっています。
またベトナムに住むミャオ族に、畑を開墾する老人がどうしても切り倒せない大木があり困っていると、1匹の蛇が現われ老人の3人娘のうちの1人をもらう約束で木を焼き払い、3番目の娘をもらって水の宮に連れて行く伝承が伝わっています。
岐阜県の有名な夜叉ヶ池の伝説は、日照りで困っている長者の前に1匹の蛇が現われ老人の3人娘のうちの1人をもらう約束で田に大雨を降らせ、3番目の娘をもらって山の中の沼に連れて行く物語です。


画像は、上、ミャオ族がいた雲南省、滇(テン)国(紀元前3世紀ごろ)出土の青銅器に彫刻された図と、下、鳥取県淀江、角田遺跡の弥生土器の線刻。

越では銅の生成技術に優れており、『荘子』逍遥遊篇によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたといいます。
『墨子』公孟篇や『史記』越王勾践世家などにも同様の記事が見られます。
越族または百越は、主に江南とよばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称です。
越族は、ハプログループO1b系統に属していたとされます。
O1b1a1とO1b2は長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退にともない、O1b1a1および一部のO1b2は南下し百越とよばれ、残りのO1b2は西方および北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本へ渡ったとされます。
O1b1a1aはオーストロアジア語族と関連しています。
O1b1a1系統と姉妹関係のO1b2系統(倭人)が日本に多く見られることは、日本語とオーストロアジア系クメール語の語彙類似性が高いとするデータとも符合します。 (安本美典 1991 『日本人と日本語の起源』)
呉と越は、ともに中国の南西部にあった国で、漁民は文身断髪をしていたことが中国、明(みん、紀元1368年‐1644年)の参考図書『事物起源』に記されています。
呉と越の漁民は皆南方系の人々で倭人と非常に近かったと考えられ、とくに越は倭と同じく「ヲ」と発音します。
小倉貞男は著書『物語 ベトナムの歴史』(中公新書 1997年)で、「ベトナム人はどこから来たか」という問題に関して、中国の史書によると、ベトナム人は中国南部から移住した民族との説を紹介しています。
「ベトナム人は紀元前6世紀に、現在の中国浙江省の北部を占めていた越から出た。
この国の住民は、原始ベトナム人と同じように身体に刺青を施し、頭髪を刈る習慣があった。」
4 沖縄の線刻石板と海底遺跡 2/2
『魏志倭人伝』では倭人は、古代アメリカのレーマン人やマオリなど太平洋の島々の人々と同様に入れ墨をしていました。
・ 好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても皆潜って採る。
・ 倭の水人は、好んで潜って魚やハマグリを捕え、体に入れ墨して大魚や水鳥の危害を払う。
ここで倭の水人(倭水人)と書かれていて、当時の中国では明らかに倭人のことを海洋民族としてとらえています。
そして、倭人の男性は、顔や体に入れ墨をしていて最初は大魚や水鳥よけでしたが、のちに飾りになり所属や身分により違いがある入れ墨になったとあります。
紀元3世紀末に原始キリスト教徒が集団渡来し、邪馬台国(ヤマト国)がヤマト王権に移行してからは、入れ墨は廃れていきました。
入れ墨は、皮膚に刺し穴をあけ刺し穴に消えない墨を入れることによって作るしるしや図柄です。
この行為は神聖な人間の体を汚すことであり、目立たない所に血液型や認識番号を.書き込むことを除いて、容認されるべきではありません。
死人のために身を傷つけてはならない。
また身に入墨をしてはならない。
わたしは主である。 (レビ 19:28)
入れ墨をした人は、神殿の儀式や祝福を否定されることはありません。
中国やモンゴルに入れ墨文化はありませんが、太平洋の台湾や南のボルネオ、ニューギニア付近一帯には、現在も入れ墨文化が残されています。
その海域の島々だけでなく、バリ島、インドネシア、マレーシアにかけた一帯にも昔から入れ墨文化がありました。
さらに、アイヌや沖縄でも最近まで行われていた風習です。
南太平洋にあるマルケキーズ諸島の入れ墨をした戦士ですが、ここでは顔、胸、背、腹、手、脚、のほか、唇、瞼、歯茎までも入れ墨をするので有名でした。
南洋文化圏に属する国や島には、入れ墨の風習があったのです。
ニュージーランド(マオリ語で翡翠の水の意)には先住民のマオリの入れ墨の複雑さは飛び抜けており、とくに特徴的なのは渦巻き模様で酋長の入れ墨は手が込んでいました。

マオリの女性は、口の周りに入れ墨をしていました。
マオリにとっての入れ墨は神話に基づく彼らの過去とのつながりや、彼らの祖先の特徴を物語るものといわれています。
そのデザインは各地域の神の像に施されたカービング(渦巻き)のパターンを模倣しているといわれ、入れ墨が自分の家族の起源、強いては地域上、歴史上の一族の情報を記録しているとされます。
入れ墨のパターンは渦巻きが主流で、男性は顔や臀部からももにかけて、女性はあご、唇、鼻孔と限られた体の部分に施されるのが普通でした。
『魏志倭人伝』にも入れ墨をしていたと記されていて、アイヌも入れ墨をしておりアイヌの女性も最近まで口もとに入れ墨をしていました。

東日本の縄文人アイヌの入れ墨は、カリフォルニアのインディアン独特のパターンと同じで、とくに北部ユキ族の入れ墨のパターンと一緒です。
ユキ族の入れ墨は、頬部を中心に文様を描き、そのほかの地域のインディアンは口許から顎にかけての部分だけに入れ墨がされています。
そのユキ族の入れ墨の仕方が、縄文土偶の入れ墨と共通点が多数認められます。
アイヌの女性
画像は、左上 アイヌ 右上 台湾 左下 アメリカ・インディオ 右下 インカアイヌや琉球民族は、当時は海洋民族でした。
大きな文化集団を単純に「海の民」「山の民」と分けることはできませんが、これまで「山の民」としての縄文人の側面のみが強調されてきました。
しかし、実際の縄文人は海の民で海洋とのかかわり合いが深い文化を備えていました。
1.香川県善通寺市の仙遊遺跡出土 2.愛知県安城市の亀塚遺跡出土 3.茨城県下館市の女方遺跡出土
マヤ人、琉球諸島の人々、アイヌたち、台湾の高砂族、東南アジアの少数民族の女性たちは、どの民族も結婚の前に入れ墨をする習慣があり、その場所も指先から手の甲にかけて同じ箇所に彫られ文様もよく似ています。

アイヌの女性は、手の甲だけでなく口の周りにもかなり派手な入れ墨をしていました。
アイヌでは結婚する前12から16歳くらいに入れ墨をするのが風習となっており、入れ墨をしないと周囲から一人前の女性とみなされず結婚することも儀式へ参加することも許されなかったようです。
沖縄や琉球諸島でも「針突き」とよぶ同じ風習がありました。
呼び方は島によって異なり、奄美大島ではハズキ、沖縄本島ではハジチなどとよんでいました。
1719年に沖縄を訪れた徐葆光(じょほこう)の『中山伝信録(ちゅうざんでんしんろく)』には、この地の女性は15歳で針突き模様を完成すると記されているので入れ墨をする年齢もアイヌとよく似ていたことが分かります。
また入れ墨をする理由については 、琉球諸島では入れ墨をもたない女性は次の世に行けないという信仰があったようですが、アイヌも同様な来世観をもっていてほとんどすべての女性が入れ墨をしていたようです。
なお琉球諸島の針突きは1899年(明治32年)に「入れ墨禁止令」が出されたのち、風俗改良運動が進展する中で次第にその習性が消えていきました。

秦の始皇帝
秦(紀元前778年‐紀元前206年)は、中国の王朝です。
紀元前221年に中国を統一しましたが、紀元前206年に滅亡しました。
統一から滅亡までの期間(紀元前221年‐紀元前206年)を秦朝とよびます。
史上初めて中国全土を統一した始皇帝が行ったのは世界標準の制定でした。
それまでの中国では諸国によって貨幣の種類や素材、単位が異なっており、ほかの国と交易するにあたってとても不便でした。
貨幣だけではなく長さや重さの単位も異なっていたため何を作るにしても国外には通用せず、そのため国境を越えると道路や馬車の轍の幅が変わり、少なからず通行が困難でした。
さらに問題は文字でそれぞれの国が勝手に文字を作っていたため、せっかく文章を書いても他国の人間には読めないのです。
そうした状況を踏まえ、始皇帝は貨幣や度旦里衡、言語、文字を統一し、秦朝内においては統一した物事を必ず使用するように徹底させました。
各国のアイデンティティや民族の個性、独自文化の否定の側面はありますが新しく統一された物事が産業や文化の発展に大いに寄与しました。
行政においては、まず秦朝の領域をはっきりとさせました。
すなわち北方の異民族の侵入を阻止するために、それまで各国独自に築いていた長城をつなぎ合わせました。


秦の始皇帝の構築した長城が認識されていますが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に造られた物です。
こうして自国の領土を明確にした始皇帝は、帝国を合理的に支配するために新たに郡県制を採用し統一以前の秦は全国を31ないし41の県に分けて支配していましたが統一後は県の上に郡を設置します。
秦の始皇帝が行ったとされる書を燃やし儒学者を坑する(儒学者を生き埋めにする意味)「焚書坑儒」は、最近の研究では秦を滅ぼした楚の項羽が行っていたことが分かっています。

始皇帝が否定的に描かれるのは、始皇帝が漢民族ではなかったからです。
漢王朝が自らの正統性を強調するために前王朝の始祖を暴君として吹聴し、それを基にして『史記』が書かれた可能性があるのです。
始皇帝が前王、荘襄王(そうじょうおう)の実子ではないらしいことは、司馬遷(しばせん)も認めており、幼くして王位に就いた始皇帝を後ろで操った君主を補佐した最高位の役人の呂不韋(りょふい)の子供ではないかと疑っているのです。

呂不韋は始皇帝の父といわれている荘襄王に仕えた豪商で、王妃である趙姫(ちょうき)は愛人であったと噂されています。
呂不韋は、荘嚢王に巧みに取り入り、自らの愛入であった趙姫を妾(めかけ)として差し出し政治の中枢へ入り込み荘嚢王亡きあと、幼い始皇帝をバックアップし大きな権力を手にしました。
秦は戦国時代の諸国にあって、最も西に位置しており西域に接していました。
シルクロード商人は多くの民族と接し混血も起こります。
古代においてシルクロードの交易は、中央アジアに住んでいたペルシャ系のオアシス灌漑農耕民族ソグド人とにユダヤ人が担ってきました。
今日でもユダヤ商人という言葉があるほど、彼らの経済力は強く政治にも多分に影響を与えるほどです。
統一を果たす前の秦国は、戦国時代の諸国の中で最も西に位置しました。
非漢民族が支配する西域に接して、そこにはシルクロードを通じて、さまざまな民族が往来していたのです。
呂不韋がユダヤ人だった可能性があります。
秦朝のもととなった秦国の王家は西戎(せいじゅう)、羌(きょう)族の流れをくむ人々でした。
とくに秦の始皇帝の実父と噂される呂不韋は商人で羌族でした。
王家の血は長い歴史の中で秦国の住民の中に広まっていたでしょう。
少なくとも秦朝の貴族や支配層は事実上、羌族が占めていました。
イスラエル共和国の調査機関アミシャーブの所長であったラビ・エリヤフ・アビハイルによれば、古代の羌(きょうぞく)族の末裔とされている「チャン族」は、行方の知れないイスラエル10部族の末裔であると科学的に判明していると述べています。 (詳細参照)
呂不韋は中国語で「リュブウェイ」であり、祭司のレビ(レヴィ)の音写だったという指摘もあります。
また「呂不韋」を日本語の音読で「ロフイ」と読めば、ヘブル語(ヘブライ語)の「ロフィ」は「癒やし手」となります。
これは中国語読みでは絶対に分かりません。
「呂不韋」の字を日本語読みすれば正体が分かるのは、日本人の祖の一部の秦氏が秦にいたころに漢字を編纂した証拠といえます。
漢字の真相

五胡十六国時代の後趙の創建者である「石勒(せきろく)」の先祖には「シモン族」がいますが、「シモン」とは、ヘブライ語「シメオン」の短縮形で「石」です。
シモン族の伝承によると、秦の始皇帝は、ユダヤ人の影響から、秦王朝以外の12人の父祖を敬い、神を信じていたとされています。 (石勒皇帝与羯胡人之谜)
この12人の父祖は、ヤコブ(イスラエル)の12人の息子(イスラエル12部族)のことでしょう。
始皇帝は純粋な漢民族ではないという噂がかねてからあり、その容貌も鷲鼻で眼光が鋭く、目は切れ長で瞳は青かったという伝承もあります。
始皇帝の墓のすぐ近くでは、始皇帝の皇子と妃と考えられる頭蓋骨が見つかっています。
西北大学では、現代人2000人の頭蓋骨のデータを活用したAIによる画面分析の結果を利用して、発掘された頭蓋骨から3D出力で顔を復元し、現在の中国人よりも極端に鼻が高いという特徴があるということが分かりました。
中国にとって始皇帝は漢民族の象徴で漢民族の優位性を世界に発信する格好の大王です。
群雄割拠の春秋戦国時代、ほかの漢民族国家を数年で全中国の統一を果たした英雄が他民族だった場合、漢民族の優位性どころか世界の中心とする「中華思想」の根幹までが崩壊します。
中国共産党にとってそれだけはあってはならないし、仮にそうだった場合は隠蔽する必要があるのです。
徐福と始皇帝の出会いは紀元前219年で、当時、中国全土を統一した始皇帝は自らの名声と権威を確固とするため全国を巡行し各地に業績を記した石碑を建立させていました。
巡行は生涯で5回にわたって行われましたが、その2回目に秦の始皇帝は斉に来ます。
海を見るのは初めてであった始皇帝が渤海(ぼっかい)に面した山東省竜口りゅうこう)を訪れた際、徐福が面会を求めたのだと思われます。
徐福と始皇帝の会見の状況についてはくわしく記されていませんが、始皇帝が語った内容が『史記』に簡潔に記されています。
「斉の人、徐市らは上書して曰く。
海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)といい、そこに僊人(せんにん)がいる。
斎戒して、童男童女とともに求めてきましょう。
これにより、徐市は童男童女数千人をともなって渡海し、仙人を捜し求めた」 (『史記』 「秦始皇本紀」 第6 秦始皇28年)
東の海の向こうに、仙人が住むという三神山があり、名を蓬莱、方丈、瀛洲というとあり、そこに不老不死の仙薬があるので、心身を清めた童男童女たちを連れて徐福が取ってくるというのです。
始皇帝はこれを許可し、長旅に必要な食料や資材、財宝などももたせたと思われ、徐福は約束どおり数千人の童男童女たちとともに船出したといいます。
覇権を握った始皇帝は生涯に5度の大巡幸を行うのですが、2度目に斉に滞在した際に徐福と出会っていて、『史記』の記す所によれば偶然でした。
徐福と始皇帝とは他人だったということになっていますが、2人のルーツをさかのぼるとある事実が浮かんできます。
始皇帝の秦王家の血統は伝説の「黄帝」に端を発します。
「黄帝」はアブラハムの時代に東へと移動したヘブル人の一派の羌族です。
「黄帝」は本来は「皇帝」と表記されましたが、戦国時代末期に五行思想の影響で「黄帝」と表記されるようになった。
黄帝は漢代の歴史書『史記』の五帝本紀や『国語』晋語によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅(けんえん)氏、または帝鴻氏ともよばれました。
本来は雷神であり、「軒轅」が龍蛇形の星座を指す場合があります。
戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀-3世紀ごろ)にかけて付加執筆されて成立したものと考えられている地理書『山海経』に登場する(黄帝の子孫が住む)軒轅国の住民が人面蛇身であり、伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられています。
ヤハウェはシナイ山で雷や稲妻とともに現れました。(出エジ 19:16)
ブリガム・ヤングは、霊体の状態について、こう述べています。
「彼らは、容易に稲妻のように移動します。
もし私たちがエルサレム、あるいは、ここ、そこ、そしてどこへ行きたいと願うのであっても、その望みが許されるならば、私たちはその場所へ即座に行って、通りを眺めることができます。
救い主の時代のエルサレムを見たいと思うならば、あるいは創造されたときのエデンの園を見たいと思うならば、私たちはそこにいます。
霊的に存在するその場所を見ます。
なぜならば、それは最初に霊として創造され、次にこの世のものとして創造されました。
それは霊として今なお存在しているからです。
私たちはそこで、地球の初めを見ることができるでしょうし、地上に存在するどの都市でも望む都市を訪れることができるでしょう。
これら西欧の島々、あるいは中国で、人々がどのような生活をしているかを知りたいと望むならば、私たちはそこへ行くことができます。
事実、私たちは朝の光のような存在です。……
神は神の働きと力についてわずかばかりのことを明らかにしてこられました。
しかし、この稲妻は、全能者の力をはっきりと写し出すことができます。」 (『ブリガム・ヤング説教集』 p.380)
ブリガム・ヤングは、霊体は容易に稲妻のように移動し、私たちは朝の光に似ていて、この稲妻は、全能者の力をはっきりと写し出すことができると述べています。
稲妻の正体は、プラズマです。
そして、霊体はプラズマ状態をもちます。
旧約時代に預言者のモーセは竿に青銅製の蛇を掲げ、十字架にかかるイエス・キリストの予型にしました。
モーセの旧約時代には、ヤハウェは蛇として予型にされたのです。
蛇は悪魔を表すこともありますが、ヤハウェを表すこともあります。

モーセがT字の十字架に青銅製の蛇を掲げました。
民数記ではエジプトを離れたイスラエル人の一行が葦の海の途中まで来たときに、苦しみに耐えかねて不平を言いました。
そこで神は火の蛇を送ったので、かまれた人々の中から死者が出ました。 (蛇 参照)

古代アメリカの著述は、「天から降りてきた白く輝き髭を蓄えた神」について頻繁に述べています。
多くの名前でよばれているこの神は、伝説的人物でしばしば「ケツァルコアトル」とよばれています。
メキシコの中央部チョルラ地方のアステカ族やトルテカ族では「ケツァルコアトル」とよばれ、メキシコの南東チヤパス州では「ボタン」、メキシコ南部のオアクサカでは「ウィクシペチョチャ」、グァテマラのマヤでは「グクマッツ」、「ククルカン」です。
「グクマッツ」は、「グク」が「緑色の羽根」で、マヤの神鳥ケツァルを意味し「マッツ」が「蛇」です。
「ククルカン」は、ククルが「羽根」 、カンが「蛇」を意味します。
ヤハウェは、蛇に表現されました。

古代アメリカの先住民に伝わるケツァルコアトルの正体は、イエス・キリストです。 (詳細参照)
チャイニーズ・ドラゴンは、伝説上の龍のような2本の長い角が頭部にあるのが特徴で、顎の周囲に体毛が生えています。
そして、貴州省安順市の「興偉古生物化石博物館」が、同種の角が生えた恐竜化石を公開しました。
その姿はまさに中国伝説の龍そっくりです。







このショッキングな化石は、1996年に安順市で発見され、全長7,6mもあるとされています。
発掘以来、専門家が最新の注意を払って剥離作業を行って、頭部に2本の角がありました。
少し曲がった角が頭上に伸びているその姿は龍です。


1934年の夏、黄河で体長10m以上を越える同種の怪物の骨が流れ着き、その画像も公開されています。
中国遼寧省営口市の「歴史資料館」の、チャイニーズ・ドラゴンの画像です。

天池は中国吉林省にある長白山の山頂付近にある湖で、2003年8月23日には、40人ほどの観光客が国境警備隊員とともに怪物を目撃しました。
『人民網日本語版』によると、 目撃された2003年8月23日11時ごろ、天池上空の空は晴れて湖の視界も良好だったといいます。
国境警備隊の1人が怪物を目撃し、観光客らが大騒ぎになったのです。
観光客らの証言だと、水中に得体の知れない黒くて巨大な怪物が泳いでいたといいます。
その大きさは3mを越え、怪物は最初は天池の中心付近に姿を見せましたが、そののち南側からも同様の怪物が現れて、そのまま北に向けて泳いでいったといいます。


天池の水深は373mもあって、中国では最も深いカルデラ湖ですが、この付近では昔から怪物が何度も目撃されていました。
それも一頭や二頭ではなく、一度に四頭もの怪物が目撃されました。
怪物の特徴は、巨大で体色が黒っぽく、アヒルのようなくちばしがあって、牛のような顔をしているといいます。
2003年7月11日には、吉林省政府関係者が甘粛省の林業関係者ら10人とともに、50分の間に5度も目撃しています。
怪物の数は出現のたびに数頭ずつ増え、最終的には20頭余りにたっしました。
怪物は観光地化した1960年ごろから頻繁に目撃され続け、今まで30件以上の目撃情報が記録され、目撃者は千人を超えました。
さらに天池は、標高2750mもの長白山(北朝鮮では白頭山)にできた火山湖で、1700~2000年前の火山の大爆発で誕生した湖とされています。
これらのことからいくつもの事実が読み取れます。
標高の面で考えられるのは、怪物は間違いなく恒温動物です。
変温動物の爬虫類では生存できません。
まして巨大な爬虫類となると、体の表面積の上からも変温動物として活動には相当な無理があります。
次に、カルデラ湖に住んでいることから、怪物は閉じ込められたのです。
それも約2000年前です。
朝鮮半島は大昔は陸塊でした。
それがユーラシア大陸と大衝突して盛り上がったのが朝鮮国境に存在する長白山脈です。
大衝突によって火山活動が起きて長白山が誕生しました。
そののち、カルデラ湖が誕生しユーラシア大陸の海岸線か朝鮮陸塊に生息していた怪物が移動してすみついたのてす。
黄帝は「本来は雷神で龍蛇形の神」ということは、ヤハウェの預言者だったということになります。
史実かどうかは別にして、黄帝の系図に登場する「大費(だいひ)」別名「伯翳(はくえい)」「伯益(はくえき)」は、その功績により、伯舜帝(はくしゅんてい)から「嬴(えい(えい)」という姓を授かっています。
一方の徐福は『史記』によると「斉の国、琅邪(ろうや)の人なり」と記され、山東半島周辺の生まれです。
近年、中国人による詳細な調査の結果、徐福の系図は「伯翳」にいたることが判明しました。
つまり徐福もまた姓は「嬴」なのです。
秦の始皇帝と徐福は、2人とも姓は「嬴」で同じ血統の同族ゆえにほかの方士を相手にせず、徐福だけを信用したのではないのでしょうか。
嬴民という民族がいます
『山海経(せんがいきょう)』とは紀元前400年ごろの戦国時代から秦・漢期にかけて徐々に付加執筆されて3世紀に成立した中国最古の地理書です。
この書は、古代中国人の伝説的地理認識を示し奇書扱いされています。
各地の動植物、鉱物などの産物を記しますが、その中には空想的な物や妖怪、神々の記述も多く含まれ、そこに古い時代の中国各地の神話が伝えられていると考えられています。
そのため後世失われたものの多い中国神話の重要な基礎資料となっています。

『山海経』には嬴民が登場し、鳥の足をもっていたというのです。
これは、鳥のトーテム(自分たちの「部族」や「血縁(血統)」に野生の動物や植物などが特別に関連していると信じていること)をもつ一族です。
始皇帝が掲げた軍旗は黒色で、伯翳が舜帝から授かった軍旗色です。
鳥の名をもち黒をまとう一族とは、烏(からす)です。

太陽の中に住むといわれる3本足の金烏(きんう)で、日本では「八咫烏(やたがらす)」といいます。

『山海経』の「海外東経」には、次のようにあります。
湯谷(ようこく)には扶桑(ふそう)の木が伸びていて、10個の太陽が沐浴するところ。
そこは黒歯国の北にある。
水の中から大木が生えていて、その下の枝には9個の太陽が、上の枝には1個の太陽がいる。 (詳細参照 黒歯国)
「扶桑」の「扶」は「助ける」、「力を添える」という意味です。
「木」は「十字架」にかかった「人」で「ハ」はヘブル語のヤハウェの 「 ה (ヘー)」で、「木」は霊体の「ヤハウェ」が地球に生まれて「人」として生きて贖いのために「十字架」の「木」にかかって死んでくださったことを暗示しているとも考えられます。
主に西日本の先住民のニーファイ人と同様のマヤ語で、創造主のことを「teol(テオル)」といいますが、この語は「木」を意味する「te(テ)」と、「霊」を意味する「ol(オル)」を組み合わせた言葉です。
マヤ人は木の象徴として、英語の「T」と同じ形を使ってきました。
これは、イエス・キリストの架かったT字形の十字架です。 (詳細参照)
イエス・キリストが話した「10人のおとめ」のたとえ話にあるように、「夫」とは「イエス・キリスト」のことで、夫が助けするのはイエス・キリストの完全な福音 に従い、イエス・キリストと一致しようと努める教会員です。 (詳細参照 10人のおとめ)
天の御父は私たちが御自身のようになれるように、計画を備えてくださいました。
この計画のおかげで、私たちは贖いを通して完全な者となって、満ちみちる喜びを得、永遠に生きることができるようになりました。 (詳細参照 救いの計画)
リーハイは「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである」と宣言しました。(2ニフ 2:25)
最も偉大な喜びは、永遠の命です。
主は「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である(モーセ 1:39)」と宣言されました。
ブリガム・ヤング大管長は、こう説いています。
「現世に私たちが存在しているのは、父なる神のもとに戻って昇栄するという唯一の目的のためだけである。」 (『ブリガム・ヤング説教集』 p.37)
預言者ジョセフ・スミスは、次のように述べています。
「幸福は、私たちが存在する目的であり、計画である。
また、そこへと続く道を歩み続けるならば、私たちの存在理由となる。
この道は、徳、高潔さ、忠実さ、神聖さ、そして神のすべての戒めを守ることである。」 (Teachings of the Prophet Joseph Smith p.255-256)
救いの計画を理解するとき、私たちは永遠の観点を得て、聖さ、神のすべての戒めや儀式、聖約、そして試練を尊ぶことができます。 (詳細参照 福音)
「桑」は木の上に三つの「又」があり「三叉の木」で「命の木」を示しています。
「桑」の旧字は「桒」で、「又」が「十」と「草冠」になっています。
草冠の元は「艸」であり、三叉が一致している三神の神会になっています。
「艸」は命の木と善悪を知る木を象徴していて、イエス・キリストの贖いによって、昇栄と復活が得られるようになりました。 (詳細参照)

「命の木」の象徴図形の基本構造は真ん中が高い3本柱があり、10個と隠された1個の球体(数を意味するヘブル語セフィラ、複数形セフィロト)と球体をつなぐ22本のパス(小径)からなっています。
三本の柱は「均衡の柱」「慈悲の柱」「峻厳の柱」といいます。
真中の一段高い柱は三本柱の中心であるため、最も格の高い天父に対応します。
この柱は「均衡の柱」とよばれます。
向かって右の「慈悲の柱」は、イエス・キリストに対応します。 (詳細参照)
「茨(いばら)」と同義の「荊(いばら)」の場合は、下に「刑」とあり「荊の冠」をかぶせた処刑であることを表しています。
草冠とは文字どおり草の冠を示し、イエス・キリストがかぶらされた「いばらの冠」を象徴しています。
そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 「ユダヤ人の王、ばんざい」と言って敬礼をしはじめた。
また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。
こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。
それから、彼らはイエスを十字架につけるために引き出した。 (マルコ 15:16-20)
しかし、よこしまな人は、いばらのようで、手をもって取ることができないゆえ、みな共に捨てられるであろう。 (サムエル下 23:6)
いばらは、正しくなく道にはずれているよこしまな人を表し、捨てられるとされました。

通説では「苦」の字は「にがな」という草の名前で、古い植物は苦いという意味があるといいます。
「古」は「頭蓋骨」を表すとも、「硬い兜」を表すともいわれています。
十字架刑が行われたのは「ゴルゴダ」日本語で「頭蓋骨」という場所でした。


「苦」の下部の「口」は「さい」という字で、「さい」は「神への祈りをささげる祝詞を入れる器」であり、契約の箱を表し、契約の箱の蓋の部分は旧約時代の贖罪所です。
契約の箱の上に十字架が立っています。
苦しんで贖罪をなされ、十字架で死なれたイエス・キリスト。
イエス・キリストは、古い契約(旧約)のヤハウェです。
「苦」の字は、いばらの冠をかぶったイエス・キリストが十字架で苦しんで死に全人類を贖われた、旧約のヤハウェであると表現しているのです。
十字架刑の苦痛を和らげるために、当時の人々は麻酔薬を受刑者に飲ませました。
イエスも苦いぶどう酒を飲まされましたが、少し口にしただけで飲みませんでした。
そして、ゴルゴダ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。 (マタイ 27:33-34)
また、私たちの罪からの苦さを取り除くために、イエス・キリストは苦い杯を飲み贖罪を成しとげられました。
しかし見よ、悪人には恐ろしい死が及ぶ。
彼らは清くないので、義にかかわることに関して死んだ状態になるからである。
清くない者は決して神の王国を受け継ぐことができず、彼らは追い出されて、自分の働きの成果、すなわち自分の悪い行いの結果を受けるように定められる。
そして、苦い杯のかすを飲むのである。」 (アルマ 40:26)
見よ、わたしは世の光であり命である。
わたしは、父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み、世の罪を自分に負うことによって父に栄光をささげた。
わたしは世の罪を負うことによって、初めから、すべてのことについて父の御心に従ってきた。」 (3ニフ 11:11)
イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。
いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。
そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。
そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。
イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。
そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。
祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。 (ルカ 22:39-46)
それゆえ、わたしは悔い改めるようにあなたに命じる。
わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。
これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。
いかに激しいか、あなたは知らない。
まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。
見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。
そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。
しかしながら、父に栄光があるように。
わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。
それゆえ、わたしは再びあなたに命じる。
悔い改めなさい。
そうしなければ、わたしは全能の力によってあなたをへりくだらせよう。
また、あなたの罪を告白しなさい。
そうしなければ、あなたはわたしが語ったこれらの罰を受けて苦しむであろう。
わたしが御霊を取り去った時に、あなたはその最も小さなもの、まことにその最も軽度なものを味わったことがある。 (教義 19:15-20)
イエス・キリストは、人が心からの悔い改めを条件として罪から赦されるように、人に代わって罪の代価を払うために苦しまれました。
イエス・キリストを信じて、日々悔い改めて、イエス・キリストの教えに従う生活をするときに、イエス・キリストが私たちの力だけでは克服しきれない罪を贖ってくださいます。
この贖罪は、イエス・キリストが罪の行いに対する罰を引き受け、それによって悔い改める人から罪がもたらす影響を除き、神の赦しを可能にすることです。
世界の歴史の中で最も重要な出来事である贖罪の完全な意味を言葉で述べることは不可能です。
イエス・キリストはゲツセマネの園と十字架上で苦しまれたことによって、私たちの罪を贖われました。
イエスは私たちが心から悔い改めるならば、赦しを受けられるようにするため、ゲツセマネの園と十字架上で私たちの罪のために苦しみを受けられました。
イエス・キリストが私たちの罪のためにどれほど苦しまれたのか、私たちは完全には理解できません。
しかし、ゲツセマネの園で私たちの罪の重さのためにイエス・キリストがあらゆる毛穴から血を流すほどの苦しみを感じられたことを、私たちは知っています。
そののちイエス・キリストは十字架にかけられ、かつて知られていた最も残忍な方法の1つで自発的に苦しみを身に受け亡くなられました。
わたしはアルパでありオメガであり、主なるキリストである。
すなわち、わたしは初めであり終わりである者、世の贖い主である。
わたしは、わたしの属する御方、すなわち父の、わたしについての御心をなし終えた。
わたしは万物をわたし自身に従わせようと、このことを行ってきた。
わたしは、世の終わりに、最後の大いなる裁きの日に、サタンと彼の業を滅ぼすほどの一切の権威を保持している。
その日に、わたしはすべての人をそのなした行いと業に応じて裁き、世に住む者に宣告を下すであろう。
人は皆必ず悔い改めなければならない。
そうしなければ苦しみを受ける。
神であるわたしは無窮である。
それゆえ、わたしは宣告する裁きを取り消さない。
まことに、わたしの左にいる者たちには、涙を流し、泣きわめき、歯ぎしりをするほどの災いが下るであろう。
それでも、この苦痛には終わりがないとは記されておらず、無窮の苦痛と記されている。
また、永遠の罰の定めとも記されている。
それゆえ、これはほかの聖句よりも明確であって、人の子らの心に十分に訴え、わたしの名の栄光を表す。
わたしはこの奥義をあなたがたに説明しよう。
わたしの使徒たちのように、これを知るのはあなたがたにふさわしいからである。
わたしはこのことのために選ばれているあなたがたに、まさに一人に語るように語って、あなたがたがわたしの安息に入れるようにしよう。
見よ、神性の奥義は何と深いことか。
見よ、わたしは無窮であり、わたしの手から与えられる罰は無窮の罰である。
無窮とはわたしの名である。
それゆえ、永遠の罰とは、神の罰である。
無窮の罰とは、神の罰である。
わたしはあなたに命じる。悔い改めなさい。
また、あなたがわたしの名によってわたしの僕ジョセフ・スミス・ジュニアの手より受けた戒めを守りなさい。
あなたがそれらを受けたのは、わたしの全能の力による。
それゆえ、わたしは、悔い改めるようにあなたに命じる。
わたしの口の鞭によって、わたしの憤りによって、またわたしの怒りによって打たれて、つらい苦しみを被ることのないように、悔い改めなさい。
これらの苦しみがいかにつらいか、あなたは知らない。
いかに激しいか、あなたは知らない。
まことに、いかに堪え難いか、あなたは知らない。
見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、あらゆる毛穴から血を流し、体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。
そしてわたしは、その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。
しかしながら、父に栄光があるように。
わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。 (教義 19:1-19)
そして神の御子は、あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。
これは、神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉が成就するためである。
また神の御子は、御自分の民を束縛している死の縄目を解くために、御自身に死を受けられる。
また神の御子は、肉において御自分の心が憐れみで満たされるように、また御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知ることができるように、彼らの弱さを御自分に受けられる。
さて、御霊はすべてのことを御存じである。
にもかかわらず、神の御子は御自分の民の罪を負い、御自分の解放の力によって彼らの背きを取り消すために、肉において苦しみを受けられる。
さて見よ、これがわたしの内にある証である。
さて、わたしはあなたがたに言う。
あなたがたは悔い改め、再び生まれなければならない。
再び生まれなければ天の王国を受け継ぐことができない、と御霊が言われるからである。
したがって、自分の罪から洗い清められ、神の小羊を信じる信仰を持てるように、やって来て、悔い改めのためのバプテスマを受けなさい。
神の小羊は世の罪を取り除く御方であり、人々を救い、すべての不義から清める力を持つ御方である。 (アルマ 7:11-14)
イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られました。
天使ミカエル(アダム)の導きに助けられながら、ますます強まる信仰をもって祈られたのです。
イエスが、すべての人の罪を一身に受けどんなに苦しんでも、彼らのために贖罪の業を行わなければなりませんでした。
全宇宙の何世代にもわたる罪の重荷と苦痛が一度に主にのしかかったのです。
この筆舌に尽くし難い苦痛は、イエスの偉大な贖いの犠牲と切り離すことのできないものでした。
その苦しみは毛穴から血がわき出るほどのものだったのです。
このイエスの苦悶は、その大きさにしても原因にしても、人間の心では計り知れないものです。
イエスが死を恐れて苦しんでおられたのではなく、イエスはこれまでこの世に生を受けた人が、考えつくこともないような重荷のもとに苦悶し、うめかれました。
イエスに、あらゆる毛穴から血が吹き出るほどの苦痛を与えたのは、肉体の苦しみでもなければ、心の苦しみでもなく、それは神だけが経験することのできる、身と霊の両方にかかわる霊的な苦悩でした。
肉体的に精神的にどれほど耐えられる人であっても、イエスのほかにはそのような苦しみに耐えられなかったでしょう。
その肉体は苦しみに屈してしまい、仮死の状態で無意識と忘却に陥ったことでしょう。
見よ、この御方は数々の試練に耐え、肉体の苦痛や飢え、渇き、疲労に耐えられるが、それは、人にとっては死ぬ以外に耐えようのないものである。
見よ、御自分の民の悪事と忌まわしい行いのためにこの御方が受けられる苦しみは非常に激しく、あらゆる毛穴から血が流れ出るほどだからである。 (モーサヤ 3:7)
十二使徒定員会会長のボイド・K・パッカーは、こう説明しています。
「救い主には、支払うべき負債はまったくありませんでした。
何一つ間違いを犯されませんでした。
にもかかわらず、人に知られている罪悪感、嘆きと悲しみ、苦痛、また屈辱のすべて、さらに知的、情緒的、肉体的苦痛のすべてを合わせて、救い主はそのすべてを経験されたのです。」 ( 「救い主の私心のない神聖な犠牲」 『リアホナ』 2015年4月 p.38)
スペンサー・W・キンボール大管長は、こう教えています。
「人は忍耐、辛抱、自制を学ぶとき、苦しみを通じて〔忠実な教会員の〕聖徒となります。
救い主が味わった苦しみは、その教育の一部でした。」 (「悲劇か運命か」 ブリガム・ヤング大学年度講話 1955年12月6日 p.5)
七十人のブルース・C・ヘーフェン長老は、こう述べています。
「イエス・キリストの贖いによって、〔私たちは〕自分の経験によって罪あるとことなく、そこから学べるようにされたのです。」 (“Eve Heard All These Things and Was Glad” Women in the Covenant of Grace ドーン・ホール・フレッチャー、スセット・フレッチャー・グリーン編 p.32)
「主が人々のためにお受けになった苦しみを多少なりとも味あわなければ、キリストの愛である慈愛を心から感じることはできません。
愛と苦難は表裏一体だからです。
人の苦難を自分のものとして苦しむとき『その苦難にあずかって』(ピリピ 3:10) キリストと共同の相続人になることができます。」 (『リアホナ』 2004年5月 p.99)
前漢の宗室の1人である淮南(わいなん)の王であった劉安(りゅう あん 紀元前179年‐紀元前122年)が学者を集めて編纂させた書物『准南子(えなんじ)』による神話では、はるか東方の海の彼方に巨大な2本の樹木「扶桑」があって、10羽の巨大な鳥がおり、毎日1羽ずつ太陽を背負って天空へ昇ってったとあります。
ところが、堯帝(ぎょうてい)の時代、10個の太陽が一斉に昇り、地上にはかんばつが続いていました。
これを見た堯(ぎょう)は弓矢の名手である羿(げい)に命じて、9つの太陽を撃ち落とさせました。
すると地上に9羽の烏が落ちて、その足は3本だったといいます。
10個あった太陽の内9個が撃ち落とされました。
残ったのは、最後の1個の太陽の名前は「日癸」です。
癸(き、みずのと)は、十干の10番目です。
葵祭
「癸」に草冠をつければ「葵」です。
「葵(あおい)」とは、葵祭の葵であり、賀茂神社の社紋でもあります。
京都の上賀茂神社で5月15日に行われる葵祭は、京都三大祭の1つです。
平安朝の優雅な古典行列は平安貴族の姿で列をなし、京都御所を出発し総勢500名以上の風雅な行列が下鴨神社(賀茂御祖神社)をへて上賀茂神社へ向かいます。
葵は「鴨斧草(おうきんそう)といって鴨(かも)が好んで食べます。
賀茂氏が創建した下鴨神社、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の神紋は双葉葵です。
双葉葵は賀茂葵ともいいます。

そもそも日本において単に「祭り」といえば葵祭のことでした。
平安時代中期にはかなりの規模で当時の様子を『源氏物語』や『今昔物語』が細かく描いています。
見物客だけでも相当の数だったらしいです。
車や服、牛馬などすべて葵の葉と桂の小枝で飾ったので葵祭の名があります。
紀元535年~536年の寒冷期
ヨーロッパ、アメリカ、チリ、オーストラリアなど世界各地の樹木の年輪調査から紀元535年から約20年間にわたって年輪幅が非常に狭いと判明しています。
年輪幅が狭い場合、太陽の光が弱く気温も低めで、木の生長がほとんどなかったことを示しています。
ベルファストのクイーンズ大学の年輪年代学者 マイク・ベイリーによる年輪分析では、536年にアイリッシュオークの成長が異常にわずかで、部分的に回復したのち、542年にさらに急激に減少したことが示されています。 (Baillie, M. G. L. (1994). "Dendrochronology Raises Questions About the Nature of the AD 536 Dust-Veil Event." The Holocene, fig. 3, p.215)
文献や考古資料によると、世界各地で紀元535~536年に突発的な寒冷化と荒天などの異常気象が発生したと推定され、原因としては火山の噴火や隕石の衝突があげられています。
1978年、デンマークとアメリカ、スイスの研究機関がグリーンランドで氷床コアのボーリング調査からコペンハーゲン大学での分析の結果、535年ごろの氷床に大量の硫酸塩や火山堆積物などの火山噴火の起きた兆候が見つかりました。
1989年、南極でも氷床コアのボーリング調査が行われ、535年ごろに大量の硫酸塩や火山堆積物が含まれていて、最低でも4年以上、酸性雨が降り続けていた可能性が高いと考えられています。
メイン大学の気候変動研究所(Climate Change Institute)が2013年に掘削されたスイスの氷河の分析から、535年ごろにアイスランドの火山噴火で火山灰が北半球中にばらまかれたと2018年11月のハーバード大学でワークショップで報告しました。

紀元500年ごろ、巨大な小惑星か彗星の破片が地球上空で分裂し、オーストラリア沖に落下した可能性があり現地でクレーターとみられる痕跡が見つかりました。
アメリカのコロンビア大学ラモント地球研究所(LDEO)の海洋地球物理学者ダラス・アボットが、オーストラリア北部カーペンタリア湾を衛星から測定したところ、海面の水位にわずかな変化があると分かりました。
これは海底に衝突クレーターがある証拠だといいます。
衛星データによるとクレーターは2つあり、それぞれの直径は18kmと12kmと推定されます。
この湾ぞいにある複数のV字型砂丘は衝突で発生した津波によって形成され、衝突地点を指し示す矢のような形をしています。
砂丘は湾内の1点に向けて収束しており、その地点は2か所の海面低下が確認された位置と一致しています。
紀元536から545年に、地球の気候が冷却化して作物の収穫に影響を与えました。
火山噴火時の火山灰や隕石衝突によって吹き上げられた物質が大気上層部をおおい冷却化が始まりました。
その時期は、アジアとヨーロッパの樹木の年輪データから年輪年代測定法により特定されました。
当時、欧州ではローマ帝国が崩壊しつつあり、 オーストラリアでは先住民アボリジニが2つの衝突の目撃情報を残しています。
海底に2つのクレーターを残した天体は、もとは1つでしたが地球接近中に分裂したのでしょう。
柔らかな堆積地に直径10km以上のクレーターを刻んだとすると、分裂前の天体の直径は約600mだったと推定されます。
そして、アボリジニの美術様式である岩壁画(ロックアート)にそれらしき記録が残っていると見られています。
シドニーにあるマッコーリー大学の博士課程大学院生デュアン・ハマチャーは、岩絵の調査には関与していませんが、アボリジニの民話を分析すれば隕石クレーターの場所を特定できるかもしれないと提案しています。
オーストラリア各地のアボリジニ・ドリーミングとよばれる宗教的民話には、 炎のような星が空から降って地球に衝突し、死や破壊を引き起こす話が多くあります。
民話の描写から考えると単なる作り話ではなく目撃記録だったのです。
オーストラリア北部 カーペンタリア湾地域で採取したコアサンプルも、そのような衝突の可能性を裏付けています。
サンプルに磁気を帯びた滑らかな小球体は、天体が衝突して爆発した時に溶けた物質が空中に吹き上げられた物と考えられます。
紀元535年~536年にかけて東ローマ帝国の歴史家であるプロコピオスの記述です。
「昼の太陽は暗くなり、そして夜の月も暗くなった。
太陽はいつもの光を失い、青っぽくなっている。
我々は、正午になっても自分の影ができないので驚愕している。
太陽の熱は次第に弱まり、普段なら一時的な日食のときにしか起こらないような現象が、ほぼ丸一年続いてしまった。
月も同様で、たとえ満月でもいつもの輝きはない」
書かれたのは536年の夏で、すでにこの状態を1年経験し続けていたのです。
紀元500年ごろの欧州は寒冷化がありました。
この時期の欧州はローマ帝国の末期に当たります。
ローマ帝国はこの寒冷気候のために、植民地からの食料確保が困難となります。
また、2004年に『Astronomy and Geophysics』誌に掲載されたある論文は、紀元500年ごろの地球冷却化の原因は衝突によって発生した「ちり」であると述べています。
『南史(なんし)』は、中国の南朝について書かれた歴史書です。
中国史における南北朝時代は、北魏が華北を統一した紀元439年から始まり、隋が中国を再び統一する紀元589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指します。
紀元5世紀に中国の北半分を統一したのが北魏で、北魏は鮮卑族という異民族が建てた国です。
北魏は内乱をへて、紀元534年に東魏、西魏に分裂しました。
東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられました。
577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一します。
この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡しました。
こちらを南朝とよびます。
『南史』の梁本紀(りょうほんぎ)第七には高祖の武帝の治下の出来事として、「紀元534年閏12月丙午、西南方で雷鳴が二度響いた。」(南史 1:7,3:6)と記録されています。
雷が落ちただけとも解釈できますが、このような記録は中国の史書ではかなり珍しい記述で、この雷鳴とは火山噴火の轟音だったと考えられます。
南朝の首都建康(南京)から西南には、マレー半島、スマトラ島、 ジャワ島などの地域です。
さらに西南方向に進んでも見渡すかぎり大海原が広がるだけですから『南史』のいう雷鳴はこの辺りが発生地です。

クラカタウ(インドネシア語)とは、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の中間、スンダ海峡にある火山島の総称です。
紀元535年のクラカタウ噴火で、それまで1つの島だったジャワ島とスマトラ島を噴火によって吹き飛ばし、大きなスンダ海峡を造り出しました。
紀元19世紀、シュロの葉の写本に書かれた古文献を基に当時の王ラングガワシルタ3世の手で編纂されたインドネシアの年代記『古代諸王の書』には以下のようにあります。
「地元の山(パトゥワラ山)から桁外れの轟音が聞こえてきた。……
辺りは真っ暗になり雷が轟き稲妻が走った。……
次いで、猛烈な強風が吹いて、それとともに滝のような雨が降ってきた。
大嵐が世界中を真っ暗にしてしまった。……
そしてパトゥワラ山から大洪水が押し寄せてきて、東方のカムラ山のほうへ流れていった。……
水が引きかけたあとを見てみるとジャワ島は2つに割れ、こうしてスマトラ島が生まれた。」
また、次のような記述もあります。
「世の中全体が大きく振動し鳴り渡る轟音とともに豪雨が降ってきた。
暴風雨が何度も起こった。……
しかしその豪雨も噴炎を消せないどころか事態はいっそう惨憺(さんたん)たる様相を呈した。
その音は恐ろしかった。
結局、山はぞっとするような唸りとともに2つに割れ地中深く沈んだ。……
パトゥワラ山およびにカムラ山の東方、そしてラジャバサ山の西方にあった陸地は海面下に沈んだ。……
スンダ地方からラジャバサ山までの地域に住んでいた人は溺死しその遺体は財産もろとも押し流された。……
水が引いたのち、その山と周囲の陸地は海になり今まで1つだった島が2つになった。
こうしてスマトラ島とジャワ島ができた。」
第1に、火山噴火の際の雷鳴が直線距離にして約4500kmも離れた建康まで聞こえることはありうるでしょうか。
第2に、ジャワ島は2つに割れてスマトラ島が生まれたというのは一度の噴火で起こるのでしょうか。
第1の問いについては、1883年のクラカトア火山噴火の際、約5600km離れたマダガスカルまでその噴火音が聞こえたことや1815年のタンボラ火山噴火の音が3000km以上先まで届いたことからも『南史』の記述は信憑性が高いです。
続いて第2の問いは、確かに地質学者は従来「スンダ海峡における陸地の陥没は地殻変動によって徐々に引き起こされた」と認識を共有しています。
しかし、火山学者アラン・グールゴウの最近の調査によると「スンダ海峡は部分的ないし全面的に火山カルデラ(大きな凹地)の陥没によって生じた可能性がある」としています。

紀元6世紀、第29代欽明天皇のころに、国中が凶作に見舞われ飢謹や疫病が発生しました。
紀元535年のクラカタウ噴火の影響で中国・朝鮮で事態が悪化していたころ、日本も536年5月1日にはひどい飢餓に陥っていました。
第29代欽明天皇の御代にも天変地異は続き『日本書紀』によると国々に大水が出て飢える者多く人が人を喰うこともあったとされます。
そののち626年ごろから再び異常気象がピークを迎え、1月に桃やスモモの花が咲いたかと思えば、一転して寒くなり3月に霜が降り6月に雪が降りました。
この極端な冷夏の上、この年は3月~7月まで長雨が降り多くの人々が飢えに苦しみました。
翌年の627年には4月の10日と11日に続けて桃や李の実ほどもある雹が降りました。
そして春から夏までかんばつが続きました。
そして『日本書紀』には「国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。それが長く続いて、手だてがなかった」と書いています。
ひどい伝染病は、おそらく天然痘でしょう。
伝染病が流行した地域は、人口密度の高い地域だったのでしょう。
そうした地域では、人口の6割が死亡したと推定されます。
まずインフルエンザに似た徴候が現れ(高熱、腰痛、頭痛)、次にしばしば咳と下痢の症状が出ます。
次いで、猩紅熱にも似た発疹が現れ、患者は体を焼かれるような感じになります。
『日本書紀』はのちに、患者たちがこう言ったと記しています。
「体が焼かれる……ように苦しい」
そののち、発疹に変化が現れます。
そして発疹は顔面を中心に始まって、体の下のほうへ広がっていきます。
とくに多く出現するのは手足で、皮膚に多数の水疱が現れ、最後には直径7~8mmの大きめの膿疱になります。
患者の5%は、内出血のため数日で死亡しました。
別の5%の患者は発疹が広がり、熱が40℃まで上がりました。
患者の大半は天然痘で死ぬことはなく、結局は肺炎と敗血症でおのおの3割が亡くなったと思われます。
天然痘ウイルスが鼻腔、口腔、目の保護粘膜を剥ぎ取ったのち、次のバクテリアが侵入したのです。
とくに被害に大きかった地域では、住民の9割が病気になり、生き残れたのは3割だけだったと思われます。
悲惨でパニックの状況では、天皇が仏教崇拝を許したことが伝染病流行の原因とみなされても不思議はありません。
飢謹や疫病は神示だと考えた天皇は、勅使(ちょくし)を遣わし、鴨の神に祭礼を行わせましたのが葵祭の始まりです。
それゆえ、今日の葵祭でも天皇陛下の命令を受けた勅使が御所から下上の賀茂神社へと出向き、神殿において祝詞や東遊などを奉納する儀式が祭りの目的なのです。
葵祭は天皇陛下が行う祭りです。
葵は京都に自生するフタバアオイで、古くから魔除けの護符とされ使用されました。

しかし、葵を使用するのには、もう1つ理由があります。
フタバアオイの葉を社紋としている大きな神社が京都御所の北方に位置する「賀茂神社」です。
葵祭を主催しているのは、賀茂神社なのです。
祭りの起源は紀元6世紀にさかのぼり、第29代欽明天皇のころです。
欽明天皇の時代、天候が荒れ飢饒が続いたので、賀茂の大神をまつったのが始まりとされますが、それ以前祭礼はありました。
ただし名称は、葵祭ではなく「藤祭」といいました。
そして、藤祭を行ってきたのが籠神社です。
葵祭では祭員の冠に葵の葉をつけるのに対して、籠神社の藤祭では藤の花をつけます。
藤は不死を意味し、不死不滅になったことを意味しています。
葵祭の中心は葵祭の3日前に行われる下鴨神社の「御蔭祭(みかげまつり)」、上賀茂神社の「御阿礼神事(みあれしんじ)」です。
「蔭」とは日蔭であり光が隠れたこと意味し、神道では隠れるとは死ぬことです。
「御阿礼」は、神または貴人の誕生を意味します。
意図的に「草冠」のある「蔭」の字を使っているのは、イエス・キリストの死を示しているのです。
したがって、光であるイエス・キリストが死んで復活したことを記念する祭礼が葵祭なのです。
葵祭が光である天照大神=イエス・キリストの復活の祭りであることを考えると、大祭司がいる賀茂氏は葵に意味をもたせたのです。
葵祭と天照大神の復活
一般に葵祭というと5月15日に行われる勅使の行列、それに続く賀茂神社における神事だけと思われがちですが、葵祭に先立つこと3日前の毎年5月12日、下上賀茂神社にて行われる儀式があります。
それが葵祭における最も重要な儀式で、下鴨神社で行われる儀式(秘祭)を「御蔭祭(みかげまつり)」といいます。
当日の昼、下鴨神社で儀式を行った宮司一行は近くにそびえる御蔭山の御蔭神社で祝詞奏上などを行い、榊を聖別し榊を下鴨神社の本殿へと持ち帰ります。
一方、上賀茂神社で行われる儀式(秘祭)は「御阿礼神事(みあれしんじ)」といいます。
こちらは当日の夜に背後にある丸山へ宮司らが登り、そこに四方を常緑樹の枝で囲んだ神籬(ひもろぎ)を設置し中心に榊を立て神の御魂を榊に降臨させるとされます。
これらの神事は、原始神道儀式の形態を保っており、天皇陛下になるための儀式である大嘗祭に通じる儀式であると研究家によって指摘されています。
御蔭祭の「御蔭」とは、影や陰ではなく光を意味する古語です。
一方の御阿礼神事の「御阿礼」とは、「御生まれ」のことで復活を意味します。
つまり下上賀茂神社の一連の秘祭は、「光が復活する」ことを表現しているのです。
葵は「太陽に身を向ける花」という意味があり、太陽に向かって傾くことを古語で「葵傾(きけい)」といいます。
向日葵(ひまわり)にも葵の字があります。
つまり、葵とは太陽の花、神道で言えば天照大神の花なのです。
「御蔭祭・御阿礼神事・葵祭」は、一連の祭り、儀式で、「御蔭・御阿礼・葵」は「光・復活・太陽に向く花」の暗号であり、天照大神の復活という意味が隠されているのです。 (詳細参照 8 天照大神の正体)
葵祭とは天岩戸開き神話において、隠れていた天照大神が復活しこの世に光が戻ってきたことを喜び祝う祭りであると下鴨神社の関係者は断言しました。
神道の最高神である天照大神の復活を秘祭として継承しているのは賀茂神社だけです。
葵祭は天皇陛下が行う祭りで、天皇陛下が行う天照大神の復活祭を取り仕切っているのが、下上賀茂神社なのです。
日本における「八咫烏」とは、神道の真の指導者組織です。
紀元3世紀末にイスラエル10部族と原始キリスト教徒たちが日本に来て、旧約の神道を新約の神道に更新しました。
なぜ原始キリスト教徒の指導者組織の八咫烏は、始皇帝や徐福のトーテムの烏と同じトーテムにしたのでしょうか。
原始キリスト教徒の秦氏の八咫烏は、始皇帝や徐福集団の子孫たちと同族になったのです。
徐福のの民たちが、原始キリスト教に改宗したのです。
そして、原始キリスト教徒になった海部氏の一部の人々は指導者の八咫烏にもなったのです。
神武東征のときの八咫烏も原始キリスト教徒になった海部氏です。
そして、八咫烏をトーテムとし同族とすることは人種は別かもしれませんが始皇帝や徐福もまたユダヤ教徒のユダヤ人だったのです。
秦の始皇帝の時代には、すでにユダヤ教の燔祭を公式行事として中国皇帝が行っていたと思われます。
燔祭とは、神への供物として動物を祭壇で丸焼きにして供えることや、またその焼いた供え物です。
燔祭の儀式は、アダムからの代々の族長が行ってきたささげ物をともなう儀式です。
具体的な内容はモーセの時代に明らかになっており、これには後世に犠牲になるイエス・キリストの雛形とする意味があります。
北京の天壇にある歴史博物館では、冬至の日にユダヤ教による正式な燔祭を行うときの33段階の手順が記されています。
賀茂氏は「鴨族」と称します。
「鳥」の称号は祭司の暗号であり、「鴨」は「甲+鳥」、甲は十干の第一位で、五行で「木」に配します。
「甲」は「きのえ」は「陰陽五行思想」では「木の兄」と表記し、これは「木の陽」を意味します。
つまり、これはモーセの兄アロンの象徴であると考えられます。
神道の真の指導者組織「八咫烏」
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