2025年3月6日木曜日

伝 阿弖流為 母禮之塚 – 由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承 – 特異点紀行

伝 阿弖流為 母禮之塚 – 由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承 – 特異点紀行

伝 阿弖流為 母禮之塚 – 由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承

伝 阿弖流為 母禮之塚 – 由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承

阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)とは

阿弖流為(アテルイ)とは、8世紀末から9世紀初頭に、陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長である。母禮(モレ)は、アテルイと同時期に蝦夷の族長の一人であったとみられている。
蝦夷とは、本州東部や以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指す。

蝦夷は、時の朝廷の国土統治にあたり派遣された征討部隊に、激しい抵抗を繰り返していた。しかし、朝廷の戦力に圧され、いよいよ進退窮まった蝦夷は(諸説あるが)、802年、アテルイとモレが同族5百余人を引き連れ、征夷大将軍坂上田村麻呂の下に降伏した。その後坂上田村麻呂は朝廷に報告し、2人を伴って帰京する。2人の処遇について坂上田村麻呂は、助命を朝廷に嘆願したが聞き入れられず、河内国(現在の大阪府東部)で処刑された。

『伝 阿弖流為 母禮之塚』(アテルイの首塚)とは

『伝 阿弖流為 母禮之塚』(以下アテルイの首塚)とは、大阪府枚方市にある片埜神社隣の元境内だった牧野公園に存在する。ここは、「アテルイとモレの処刑地」という伝承があり、公園にはその慰霊碑が建立されている。

牧野公園入口。
手ごろな広さが丁度よい。
遊具やベンチもある。
慰霊碑と記念植樹。

慰霊碑は、没後1200年を機に岩手県奥州市(当時水沢市)と枚方市との交流の一環としてできた「牧野歴史懇話会」のメンバーらが2006年、建立の実行委員会を結成。アテルイ、モレ終焉の地として地域の人たちに認識してほしいと、2007年建立にこぎ着けた。

「処刑地不詳」という史実

このような慰霊碑がある以上、牧野公園が処刑地であるかに思える。しかし実は、アテルイの処刑地は河内国であること以外、具体的な場所は特定されていない。『日本紀略』には「河内國□山」と書かれてあるだけで、□山の部分は後世の写本によっては「杜山」「植山」「椙山」などと謎が多い。その中でも1900年に発行された、歴史学者・吉田東伍氏の著書『大日本地名辞書』で記述された植山=宇山説は、その後『大阪府全志』や『枚方市史』といった地誌等にも引用された。だが、当時その説は一般には広がらなかったと、歴史学者の馬部隆弘氏は述べている。また宇山説について馬部氏は、『河内国禁野交野供御所定文』にある記述から、宇山は桓武天皇の狩猟地である「禁野」であり、朝廷が自ら禁野を穢すとは考えられないとの見解を示している。

牧野阪古墳の所在

牧野公園の周辺は、遺跡地図では牧野阪古墳と記されており、一帯が牧野阪遺跡と呼ばれていた。そして、石碑が整備される以前は、「首塚」と称される塚状の小丘があったとされている。しかし、1953年の台風13号による被害復旧のため破壊されている。

馬部氏は2019年に牧野阪古墳の所在地の調査で、1954年に発掘調査報告書を書いた宮川徏氏を尋ねた。その結果、古墳は「首塚」のある牧野公園西側敷地ではなく、道路を挟んだ東側敷地の可能性が濃厚とみている(リンクのP3~4を参照)。加えて、自身の著書『由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に(勉誠出版、2019年)』にて、枚方市史資料室が所蔵する枚方市広報課旧蔵アルバムの1952年造成直前と造成直後の、石碑周辺から片埜神社・清岸寺方向を見渡した写真を掲載し、「造成前の牧野公園はもともと片埜神社境内の荒れ地で、塚らしいものは見あたらない」と述べている。

では、なぜこの場所がアテルイの首塚と「されるようなもの」になり、石碑まで建てられるようにまでなったのか。

首塚の発祥について

ある女性が一人で祀り始めた

枚方市で勤務していた馬部氏は、元市史編纂室担当者であった田宮久史氏が1990年に記したメモを発見し紹介している。それによると、1979年頃に牧野地区のある女性が、「独自に祀り始めた」のが首塚の発祥という。
女性曰く、夢に長い白髪で白いあご髭の人が何かを訴えかけてきた。気になった女性は、昔この辺りで何があったかを市史編纂室に電話し問い合わせた。窓口となった田宮氏は冗談として対応しつつも、蝦夷の族長が処刑された逸話があることを話す。その話を聞いた女性は、夢の人物がその族長に違いないと考え、市に祀ることを要望。しかし受け入れられなかったため個人で祀った。

市は最初、一市民の物好きな行為と放置した。しかし、木は徐々に繁茂し、柵が強化されるにつれて、一帯は妙に存在感をもち出し、どこか聖域の雰囲気をただよわせるようになった。その後、取材で訪れた河北新報大阪支社の記者が田宮氏から女性の存在を聞き、そしてアテルイの墓を発見したと報道したことで徐々に広まっていった。

首塚のある小丘。
首塚には今もお供え物がされている。
戦いの中で、坂上田村麻呂とアテルイとの間には「友情が芽生えていた」という説があり、助命の陳情はそれによるものともされている。そして、その説に基づいたお守りが、近くの片埜神社で販売されている。
お守りの裏側。

生成され始める伝承

牧野公園内には、昔から「戦いに負けた大物武将の首塚がある」という伝承があったという。なお、ここではまだアテルイとは断定されていない。そして、1993年の枚方市議会議事録では20年程前から(すなわち1970年代初め)牧野地区にて、一部の間でアテルイの首塚があると言われ始めていたという(これは河北新報の報道前である)。だが馬部氏は、この伝承の発生起源について、先の吉田氏の学説が発端となっており、所謂先祖代々といったものではないと指摘している。

アテルイが当地近くで殺害されたという言説は、明治33年(1900)に刊行された吉田東伍氏の著書に始まり、昭和47年(1972)に刊行された『枚方市史』などにも引用されている。これらは、『日本紀略』の解釈から提示された仮説・学説で、当然ながら伝承ではない。 一方で、枚方市には蝦夷が殺害されたという「伝承」があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという「伝承」は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。

馬部隆弘『アテルイの「首塚」と牧野阪古墳』志学第考古

しかし、そのような素地の上に河北新報の報道がなされたことで、アテルイと何らかの繋がりを求める機運が地元で高まっていった。加えて、少し離れた宇山地区にある古墳にも「蝦夷の統領が処刑された場所」という伝承があることから、「蝦夷の統領→アテルイ→首塚もアテルイのもの」と推定されていく。

官民一体で創った「虚構」

「枚方の歴史」となったアテルイ

1989年から関西岩手県人会・関西アテルイ顕彰会は、枚方市に慰霊碑建立を陳情している。また、歴史教育者協議会は1990年発行の『歴史地理教育』で、歴史学者の瀧浪貞子氏は1991年以降に発行したいくつかの著書の中で、アテルイ処刑地が枚方市であることを記述し広く周知している。しかし当時、これらについて枚方市は、アテルイである確証がないため陳情の却下や、市発行の地誌等でアテルイの伝承を否定している。

だが、時を経て2005年。枚方市が発行した小学校副読本『わたしたちのまち枚方 小学校3・4年』に一転して、牧野公園内の首塚をアテルイの墓といわれるものとして、写真とともに掲載する。さらに2006年、市が発行した子供向け郷土史『楽しく学ぶ枚方の歴史』でも、牧野公園内の首塚をアテルイのものとして掲載する。その後も複数年に渡り、同様の記述が教科書に掲載される(馬部氏の指摘で現在は削除された模様)。さらに当時の枚方市長、中司宏氏は、アテルイ・モレの慰霊碑建立実現に向けた支援を行うと方針転換。2007年3月に、牧野公園内に『伝 阿弖流為 母禮之塚』と記された石碑が建立されることとなった。 

こうして官民一体となり、アテルイの処刑地は「枚方の歴史」として成立。慰霊碑はその伝承を象徴する存在となった。

「この地がアテルイとモレのゆかりの地」と書かれている。
慰霊碑の裏には建立に関わった者の名前が記されている。

アテルイ・モレ慰霊祭

慰霊碑建立後、例年9月に『アテルイ・モレ慰霊祭』と称した行事が牧野公園内で開催されている。内容は主に、片埜神社の宮司による神事や、中司宏氏(現・衆議院議員)をはじめとする議員、清水寺学芸員、関西アテルイ・モレの会による挨拶などが行われている。詳しくは、私が撮影したこちらの記事をご覧頂きたい。

終わりに

史実と神話の狭間で揺れ続ける伝承

日本には、地域ならではの伝承が多数ある。その中には史実というよりは神話的なものも多くあるが、それらは地域住民の心の支え、誇りであったり、または町おこしとして地域経済を支える柱となっていることもある。この『アテルイの首塚』も、きっかけとなった女性の弔いは、善意のつもりで誰かを騙そうなどという感情はきっとなかっただろう。そして、それが一部の間で民間信仰的に盛り上がることも、日本の伝承ではよくあることだ。一方で、それらに対して行政・自治体側が一方向なお墨付き(ここでは公教育に取り入れるなど)を与えてしまうと、我々は史実であると認識しかねない。そのバランスは難しい。

「一人の女性の夢」が慰霊碑として具現化し、枚方の歴史と"成った"『アテルイの首塚』。ここは現代に、史実と神話の狭間を垣間見ることができる興味深い伝承地なのかもしれない。

昔は首塚のたたりがあるため牧野公園には近づいてはいけないとの伝承があったそうだが、子どもたちに聞くと今は聞いたことがないという。

主な参考資料

  1. アテルイを顕彰する会"蝦夷の首長アテルイと枚方市"情報201 論文, 2024年7月9日閲覧。
  2. 公益財団法人大阪府文化財センター"船橋遺跡現地公開資料",2018年7月28日
  3. 馬部隆弘"由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に", 勉誠出版, 2019年.
  4. 馬部隆弘"椿井文書―日本最大級の偽文書", 中央公論新社, 2020年
  5. 馬部隆弘"アテルイの「首塚」と牧野阪古墳", 志學臺考古,20号, p. 1-6, 2020年3月.
  6. MBS毎日放送"史実と神話~戦後75年目の教科書と歴史" 2020年8月30日放送

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