丹生の道
上一宮大粟(おほあは)神社の社伝に
八神を率いて粟に降臨したとあります。
そして「大粟八神」として次の八社が列挙されていました。
1. 腰宮 葛倉神社 (こしのみや くずくらじんじゃ)
2. 須佐宮 八坂神社 (すさのみや やさかじんじゃ)
6. 開宮 皇道神社 (ひらくのみや こうどうじんじゃ)
大宜都比売大神の夫とされることもあるそうです。
神話を信じたり目くじらを立てたりしてもはじまりませんが。
前々からチェックしていて、やっと今日足を運べました。

腰宮神社が水銀鉱山近くの加茂谷川の支流に鎮座しているのは単なる偶然でしょうか?

このとき既に17:14。日没は16:53でした。
私が興味をひかれるのは
水銀を検出したとあり、朱=水銀に深い関わりを持った人物とされています。
「朱丹を以ってその身体に塗る」との表現には伊勢白粉が含まれているでしょうか?
軽粉=白粉の製造が盛んだった時代とはズレがあるようですが?
わが国では紀元前後に幾つかの国内辰砂鉱山の存在が知られていたそうです。
古代中国では紀元前5世紀頃すでに墳墓の埋葬物に朱が使用されていましたが、
全国各地の墳墓に広く伝わったようです。
衰退、勤操ら渡来系氏族が再開して774年に神宮寺を建てたとも言われます。

車一台がやっと通れる道を走っていたら「水銀精錬所跡」を特定できました。

ここだけが台地で、人家が建っていたのです。上の図とも合致します。

道路の反対側の「寒谷」沿いを進むと、かつての水井水銀鉱山まで到達できそうでした。

この坂の左手が「寒谷」ですね。水量はかなり少ないものの水が流れています。

こうした巨石が道を守るための石組みに利用されているようです。
先ほどの坂を登ってゆくと、右手に苔むした石組みが↓

この先もずっと、段ごとに採掘したらしい痕跡が見られますが、
今となると果樹などを植えるために作った段々畑のようにも見えます。

採掘跡を段々畑として利用しているのは若杉山遺跡も同じです。
今日の目的の一つ『はるかなる水銀の旅』所収の手書きの地図の位置関係を
探すと言っても一本道を進んだだけですが…ありました!


そうですが、演奏が終わった16:35には青空が見えていました。

ずうっと眺めていたいところでしたが、この先の分岐から南下して
冒頭の腰宮神社へ行き、今日の予定は終了。

海人族の神社かと思われますが、創建はさほど古くないように感じました。

それよりも、こちらが大変です。

あの位置は今回の目的地の一つ加茂宮ノ前遺跡じゃありませんか!?
近くまで行っても、工事関係者しか入れないよう覆われていて中の様子が
全くわかりませんでしたが、壊滅的な状況でないことを祈るばかりです。
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単純に年代だけを追ってゆくと、
その沙門が勤操だったかどうかについては諸説ありますが、
だからこそ、勤操開基と伝わる神宮寺が、のちに「女人高野=丹生大師」と
呼ばれるようになったのでしょう。
なお、松田壽男氏は『丹生の研究』で
ニホ系を仁保・丹保・邇保・丹穂・仁尾・荷尾、
ニフ系を丹生以下、二布・仁宇・仁歩とし、
丹生氏から分かれた集団として大丹生・小丹生(=遠敷)、
さらに丹生→入の転訛により読みが「シホ」となり、
入谷・入野・大塩・小塩・塩荘といった塩の表記もあるとされています。
ほかに、ニヰ系として仁井田・仁井野・仁井山・仁田があり、
その転訛として新山・新田を挙げています。
新田が「丹生田」なら、全国に展開されている「新田神社」の中には
単に"新たに開墾された田"という意味ではなく、
"丹生を産出する地場"であった可能性を示唆する場合もあるでしょう。
日本中の丹生地名を検証するためには気が遠くなるような時間と作業が
必要であり、それは私の仕事ではありませんので、取り敢えず
有名な遺跡をまわるにとどめようと思います。
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