日下
日下姓の由来
日下( くさか )の姓は数は多くございませんが、日本全国で見られます。ただし、まとまって多いのは数ヵ所だけでございます。同じ日下姓でも、いくつかの流れがございます。日下の由来について考察いたします。
似た姓に「日下部」があり、日下姓と関連している場合もございます。
聖徳太子
小野妹子の子を起源
当家伝承の「日下姓」は、聖徳太子様からの賜姓(しせい)でございます。今からおよそ1400年位前に、小野妹子の子である小野義持(おののよしもち)は、聖徳太子様より賞として「日下の姓」を称えるよう命じられました。この時代の慣わしからいうと、この姓は「かばね」であると考えられます。
聖徳太子様に対する功績の賞として頂いた姓でございますので、その時代既に、格式の高い名であったと考えられます。
地域としては木津村(現在の大阪市浪速区)が発祥の地でございます。また、小野妹子の代より、聖徳太子様にお仕えしておりましたので、四天王寺周辺が、日下家発祥の地とも考えられます。
右写真:日下家始祖 小野義持(小野日下義持) 「願泉寺史伝 木の津の遺蹟」より
- 河内国の日下(現在の東大阪市)に由来いたします。
- 賜った姓が「日下」であった理由があるはずですが、今はわからなくなっています。
- 聖徳太子様よりの賜姓を起源にする日下姓の数は、現在極めて少ないと推測されます。
聖徳太子様の御意志を、現在に引き継ぐ「日下家」
聖徳太子様は、小野義持に大和の国にとってとても重要な名、「ひのもと」を名乗ることを命じられました。その聖徳太子様の御意志を、現在の世まで引き継いでいるのが「日下家」でございます。
この聖徳太子様の御意志を子孫代々、未来永劫に引き継いでいくことが、「日下家」の者の責務でございます。
日下の意味
よみは「くさか」ですが、日下の意味は、そのよみではなく文字の方にあると考えれます。つまり「ひのもと」です。また「くさか」という読みは、枕詞(まくらことば)であると、専門家は分析しています。
この時代、小野家は「臣」の姓を賜っていました。当家の始祖が、他の名ではなく、「ひのもと」の姓を賜ったのには、何か理由があったと考えられます。また逆も然りで、「ひのもと」を名乗るに相応しい家であった考えられます。
日下の読み方としては、他に「にちげ」や「ひした」というものもあるようです。
他の日下姓のルーツ
日下の由来は、いくつか有ると思われます。
阿波国
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られます。また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がございます。現在西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県か香川県等、四国地方を起源にしているのではないでしょうか。
越前国
越前国(えちぜんのくに)の丹波氏族日下部氏の流れから、日下家が出ております。
宮城県白石市
日本一日下姓の多いのが宮城県で、特に白石市に集中しておりますが、この地の日下姓の起源は、調査中でございます。
東大阪市日下
古代より古い歴史のある大阪府東大阪市日下の地でございますが、この日下の地からも、日下姓が出ております。聖徳太子様賜姓の日下家(小野氏)が、この日下の地に領地を所有しておりましたので、このお家の末裔である可能性もございます。また比較的近代になってから、日下の地に住まうお家が、地名から付けたことを起源にする可能性もございます。
日下の起源
先の理由により、聖徳太子様の時代には存在していた名前でございます。更に、「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場いたしますので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在した名前でございます。即ち、古事記によるところ、人代の時代の始めから存在していた名前ということになります。勿論、日本書紀にも出て参ります。
また、このように大昔から存在した名前にもかかわらず、当家の御先祖が、聖徳太子様から賞として賜わったということから、「日下」の名前は、誰でもが使用を許されていた訳では無いことが判ります。また、古代から現代までの歴史上にも、多く存在した名前ではございません。
「日下」に関しては、谷川健一氏の著書「隠された物部大国「日本」」に、とても興味深い考察がございます。
日本の国号
「日下」の名は「ひのもと」であり、日本の国号の元になったのではとも考えられています。聖徳太子様は「日下」の名を、天下泰平を守った特別な功労者に対する賞として与えました。つまりそのことは、その他の者が好き勝手に「日下」の名を名乗ることができなかったことを意味します。それだけ大切にされた名であると言えます。「日本」という国号が文書に残る記録は、この出来事からだいぶん後のことであり、また、「日下」「日本」はともに「ひのもと」であることから、「日下」が「日本」の国号の元になった可能性は十分に考えられます。
古事記
古事記は和銅5年に、太安万侶によって献上されたと伝わる、日本最古の歴史書でございます。その古事記に日下( くさか )の名がたくさん見られます。
上つ巻 序文
~ 亦姓の日下を玖沙訶と謂ひ、名の帯の字を多羅斯を謂ふ、此の如き類は本に随ひて改めず。
中つ巻 五瀬の命の戦死
~ かれ、そこを号けて楯津といひき。今者に、日下の楯津といふ。~
中つ巻 垂仁天皇記
~ 次印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。~
下つ巻 仁徳天皇 皇統譜
~ また、上に云へる日向の諸県の君牛諸が女、髪長比売を娶りて生みたまへる御子、波多眦能大郎子(はたびのおほいらつこ)、亦の名は大日下の王(おほくさかのおおきみ)。次に波多眦能若郎女(はたびのわきいらつめ)、亦の名は長目比売の命(ながめひめのみこと)、亦の名は若日下部の命(わかくさかべのみこと)(二柱)。~
下つ巻 御名代の設置
~ この天皇の御世に、大后石之日売命(おほきさきいはのひめのみこと)の御名代として、葛城部を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部(みぶへ)を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下の王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の王の御名代として、若日下部を定めたまひき。~
下つ巻 安康天皇 大日下王を殺害
御子、穴穂の御子、石上の穴穂の宮に坐して、天の下治めたまひき。天皇、いろ弟大長谷の王子の為に、坂本の臣等が祖、根の臣を大日下王の王の許に遺はして、詔らしめたまひしく、「いまし命の妹、若日下の王を、大長谷の王子に婚はせむとおもふ。かれ、貢るべし」。しかして、大日下の王、四たび拝みて白ししく、「もし、かかる大命もあらむかと疑へり、かれ、外にも出でずて置きつ。これ恐し。大命のまにまに奉進らむ」。しかれども、言もちて白す事、それ礼なしと思ひて、すなはち、その妹の礼物として、押木の玉鬘を持たしめて貢献りき。根の臣、すなはちその礼物の玉鬘を盗み取りて、大日下の王を讒しまつりて曰ししく、「大日下の王は、勅命を受けたまはらずて曰らししく、『おのが妹や、等し族の下席に為らむ』とのらして、横刀の手上を取りて怒りたまひき」。かれ、天皇いたく怨みたまひて、大日下の王を殺して、その王の嫡妻、長田の大郎女を取り持ち来て、皇后としたまひき。
下つ巻 雄略天皇 皇統譜
大長谷若建の命は、長谷朝倉の宮に坐まして、天の下治めたまひき。天皇、大日下の王の妹、若日下部の王を娶りたまひき(子なし)。また、都夫良意富美が女、韓比売を娶りて生みたまへる御子、白髪の命(しらかのみこと)。次に妹若帯比売の命(わかたらしひめ)(二柱)。かれ、白髪の太子の御名代として、白髪部を定め、また、長谷部の舎人を定め、また、河瀬の舎人を定めたまひき。この時に、呉人参渡り来ぬ。その呉人を、呉原に安置きたまひき。かれ、そこを号けて呉原といふ。
下つ巻 若日下部王を妻問う
初め、大后、日下に坐しし時に、日下の直越の道より、河内に幸行しき。しかして、山の上に登りて、国内を望けたまへば、鰹魚を上げて舎屋を作れる家あり。天皇、その家を問はしめて云らししく、「その鰹魚を上げて舎を作れるは、誰が家ぞ」答え白ししく、「志機の大県主が家ぞ」しかして、天皇の詔らししく、「奴や、おのが家を天皇の御舎に似て造れり」とのらして、すなはち人を遣わしてその家を焼かしめたまふ時に、その大県主 懼畏みて稽首み白ししく、「奴にしあれば、奴ながら覚らずして、過ち作れるは、いと畏し。かれ、のみの御幣の物を献らむ」布を白き犬にかけ、鈴を著けて、おのが族、名は腰佩(こしはき)といふ人に、犬の縄を取らしめて献上りき。かれ、その、火を著くることを止めしめたまひき。すなはち、その若日下部の王の許に幸行して、その犬を賜ひ入れて、詔らしめたまひしく。「この物は、今日道に得つる奇しき物ぞ。かれ、つまどひの物」と云ひて、賜ひ入れたまひき。ここに、若日下部の王、天皇に奏さしめたまひしく、「日を背にして幸行しし事、いと恐し。かれ、おのれ、直に参上りて仕えまつらむ」ここをもちて、宮に還り上ります時に、その山の坂の上に行き立たして、歌ひたまひしく、
日下部の こちの山と たたみこも 平群の山の こちごちの 山の峡に 立ち栄ゆる 葉広熊白檮 本には いくみ竹生ひ 末辺には たしみ竹生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしには率寝ず 後もくみ寝む その思ひ妻 あはれ
すなはち、この歌を持たしめて、返し使はしたまひき。
下つ巻 引田部の赤猪子
~ また歌ひていはく、「日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかもとうたひき」ここにその老女に多の禄を給ひて返し遣りたまひき。かれ、この四歌は志都歌なり。
( くさかえの いりえのはちす はなはちす みのさかりびと ともしきろかも )
日下の戦い
神武東征において、神武軍がはじめに草香に上陸した時の戦いであるが、これも古事記に記されています。
東大阪市日下町
日下神社
日下神社( くさかじんじゃ )
御祭神 : 若日下部王( わかくさかべのみこ )
若日下部王は、仁徳天皇の子
とても小さなお社ですが、解明されていないこともたくさんあり、歴史的にとても重要なものであると思います。
日下の観音さん
大龍禅寺( たいりゅうじ )
十一面観音様をおまつりしており、「 日下の観音さん 」と呼ばれています。
日下不動尊
大龍禅寺不動院
日下不動尊(くさかふどうそん)
日下山
日下山(くさかやま) 正式名称、饒速日山(ニギハヤヒヤマ)
かみんぐす~ん
日下江
古代、大阪の生駒山近くまで海がありました。難波江と呼ばれていましたが、時代が下がると、三島江、日下江、難波江と呼ばれました。
各地方の日下姓
【 徳島市 】
徳島県としてはそこそこなのですが、徳島市に集中しており、日本で最も日下姓が多い町です。
【 高松市 】
香川県としてはそこそこなのですが、高松市に集中しており、徳島市に続いて日下姓が多い町です。
【 白石市 】
宮城県は、都道府県別では日本で最も日下姓が多く、中でも白石市(しろいしし)は突出して多い町です。
【 東大阪市 】
大阪府は都会ということもあり、日下姓の数も多いです。全体に散らばって分布しておりますが、東大阪市は突出して多くいらっしゃいます。日下という町も有り、地名が起源の可能性もございます。また、平野区も同じくらいの数でございます。
【 出雲市 】
日下町という町があります。
久佐加神社
平民苗字必称令
明治八年(1875年)、「平民苗字必称令」が制定されました。地域差はございますが、その時までに苗字を持たなかった者が、それまでに存在した由緒ある名を、自らの苗字に選んだ例がございます。よって、「日下姓」に於いても、そのようなルーツがある可能性もあり、研究には、そういった考慮も必要であるをと思われます。
日下という言葉
日下開山
大相撲の横綱力士は、日下開山( ひのしたかいさん )と呼ばれております。
日下(くさか)という名との関連は、調査研究中でございます。
合字
ほとんど見かけない文字ですが、合字 (ごうじ)というものがございます。
仏教で使われることが多いようですが、「日下」という文字の合字もあります。
「日」と「下」が上下に合わさって一つの文字になっています。
日下姓の研究
日下姓について調査・研究しております。日下姓の方で、お詳しい方がいらっしゃいましたら、お連絡頂ければ幸いでございます。また、木津村、難波村(大阪市浪速区周辺)にルーツをお持ちの方のお連絡は、特に歓迎でございます。心より、お連絡お待ちしております。
日下友の会
全国の日下さんの情報交換や交流を目的とする、「日下友の会」にご加入下さい。まだ活発な活動は行われていませんが、会員様の意見を元に、有意義な活動をしていきます。
メールに「入会希望」の旨と、住所、氏名、年齢、電話番号などをお知らせ下さい。
facebookでも、全国の日下さんとつながっています。よろしければメッセージとともにご申請ください。 facebook
【 日下友の会 】
- 会費 : 今のところ、会費は設けておりません
- 入会資格 : 日下姓、もしくはご先祖・親族などに日下姓の方がおられる人
- 運営者 : 日下治郎兵衛(仮)
- 問い合わせ : お店の案内
その他、日下について語り合いたい方は、木の津の集いにお越し下さい。
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