樋口清之 「日本古典の信憑性」(『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)<1965年11月> [抜粋]
日本の地帯構造線の動きは第三期末から活溌で、洪積期を終え沖積期に入っても絶えず隆起・沈降を繰り返し、地形が変動しております。それは大体万を単位にして変動しますが、大和に関する限り次のようなことがわかる。地質学の立場から行なわれた詳細な地下地質の研究でわかったのでありますが、ほぼ長方形をしている現在の大和平野は、今から約一万年余り前、即ち洪積期の最終末の頃、山城平野に口を開いている海湾であった。海の塩水は大阪湾を満し、山城平野を満し、現在の奈良市の北にある奈良山の丘陵はなくて、それを越えて大和湾に北から南へ湾入していた。後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。同時に紀伊半島が今の淀川・宇治川・琵琶湖を通り若狭湾に出る地帯構造線(淀川地帯構造線)に向って傾斜した。そこで大和湾中に孤立した海水は、先ず北に向って排出され、その時に押し流された土砂が堆積し現在の奈良山丘陵をつくったのです。かくて大和湾の海水は北への出口を防がれて湖となりますが、周囲の山から流れ込む天水はこの大和湖の水面を一層高め、やがて水は西の方を切って大阪湾に排出し始めます。この頃より、大和湖は海水湖より淡水湖に変って行く。この時に運ばれて堆積したものが、現在二上火山の麓を埋めている砂傑層です。更にここがつまると、今度はその北側に水路を移すが、これが竜田川の渓谷を通って大阪湾に流れ出る現在の大和川ということになるわけです。つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上って浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。
0 件のコメント:
コメントを投稿