2025年3月8日土曜日

禅という名の日本丸 | 山田 奨治 |本 | 通販 | Amazon


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2011年3月6日に日本でレビュー済み
 オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」が関わる前半の部分のみを評したい。著者はドイツで資料を発掘して、ヘリゲルの再婚のことやナチス党員であったことなど、これまで知られていなかった興味ある事実を報告している。しかしヘリゲルの弓道を手段としての禅の修行に関しては、気ままな推論に終始している。例えば、「それが射る」などということは伝統的な弓術家は言わないと断定しているが、著者の弓の師匠の稲垣源四郎範士さえ、弓射の離れは「あるものX」の命令によって意識を越えて行うべきであると、ほぼ同等なことを言っておられる。著者の弓道の修業はそこまで行っていないのか?また、禅の立場からヘリゲルを指導したことについて、阿波範士自身が「半箇の射聖を得たり」と「碧巌録」中の言葉を踏まえて明言していることも見過ごしている。
 ヘリゲルの矢が的まで届かなかった時に、阿波範士が「精神的に十分でない」からだと指摘している個所について、「まさか精神力で矢を飛ばすわけでもあるまい。矢が的に届かないのは精神がじゅうぶんでないからではなく、矢の初速に比して発射角度がじゅうぶんでないからである。」と評しているが、これは例えば、学校に遅刻した生徒が、「お前の心がけが悪いのだ。」と先生から言われた時に、「心がけで遅刻するのではありません。家を出る時間と歩く速度が遅いからです。」と口答えをしているようなものである。このような調子で、禅に無関心な著者の批判は、「弓と禅」の内容とレベルが合っていない。

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