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山田奨治『禅という名の日本丸』読了。衝撃的な本だった。「弓道は禅と似ている」とか「竜安寺の石庭は禅の世界を表現したものだ」というのは最近までほとんど存在しなかった思想であり、戦後に創作されていった新しい神話であることを証明するのに成功している。
まず、明治以降の日本では、体育のため、あるいは楽しみのために弓道をするのが主流だった。実際、戦前の弓術書には、弓と禅を強く結びつけたものは(全くないわけではないが)ほとんど存在しない。
弓道がことさらに禅と結びつけられるようになったのは、ドイツ人のオイゲン・ヘリゲル(1884-1955)が書いた『弓と禅』が出版されたあとに見られるようになった特異な現象である(日本では1956年に翻訳・出版されている)。
ヘリゲルは1924年に来日し、1926年から阿波研造(1880-1939)のもとで弓を学び、1929年に帰国した人物である(ただし、稽古は一週間に一回だけだった)。だが阿波は、「伝統流派」の傍流を学んだ人物だったうえに、大正のはじめごろから自分の弓術に疑問を持つようになって、独自の弓術をこしらえた人だった。弓術を「一種の技巧的試練能とした遺伝病」だとして、「人間学を修める」ための「射道」なるものを説き始めたのである。そのため阿波は弓術界から変人扱いされ、「伝統弓術」が強いところに出向くと、後ろから石を投げられたこともあったという。
阿波は本多利実に師事しているのだが、利実の孫で、のちに本多流宗家を継いだ本多利時は、阿波の射風を酷評し、気分だけで引いていると言った。同じく本多門下の大平善蔵は、阿波が説いた「一射絶命」の教えを、「ただ死ぬまで頑張れなどというのはばかげたことだ」と言った。本多流の人々による阿波に対する評価は散々だった。また、阿波は第二高等学校弓術部の師範だったのだが、1927年にはニ高生の反対を押し切って「大射道教」という団体を設立し、「宗教家」のように振る舞っていた。
さて、阿波は禅寺に通ったり、禅の老師に参禅したりしたことは一度もなかったという。阿波は「射裡見性」ということばを用いたし、仏法や禅を思わせるような表現で教えを説いたのは確かなのだが、阿波の教えそのものには禅の香りはあまりなかった。ところが、阿波に学んだヘリゲルは、阿波の教えを禅と結びつけた。ヘリゲルは、『弓と禅』で弓道と禅を結びつけて、弓は自分が射るのではなくて、「それ」が射るのだとしており、「それ」という概念の解釈はこの本の核心部である。
ところが、流派弓術の成立以降の600年に及ぶ弓術の歴史を眺めても、「"それ"が射る」などという教えはどこにも存在しない(!)。しかも、「"それ"が射る」という教えを阿波が説いたと言っている人物はヘリゲルだけ(!)であり、阿波がヘリゲル以外の弟子にそんなことを教えた痕跡はどこにも見つからない。それにもかかわらず、「"それ"が射る」というのが日本の弓術の中心的な教えであるかのように海外に広く喧伝されてしまったのである。
なぜこんなことが起きたのか。そもそも、阿波とヘリゲルは稽古の際に、ドイツ語に堪能な小町谷操三の通訳を介して意思疎通をしていた。山田奨治氏はこの問題を検証し、ヘリゲルがよい射をしたときに、阿波が「それです」と言ったのが、「"それ"が射る」と伝えられたがために意味が変化したと結論している。
というのも、ドイツ語のEs(英語で言うit)には独特の言い回しがある。例えば、日本語で「私には我慢できない」と言うようなときに、「それが私をして混乱させる」(Es wird mir zu bunt.)と言ったり、「すみません」と言うときに「それが私を申し訳なく思わせる」(Es tut mir Leid.)と言ったりする。ドイツ語のEsは、人々がある行為をするのは、人を超えた力に動かされた結果だという考え方があるというわけだ。
阿波の言ったことがEsを主語にして通訳され、「"それ"が射る」と伝えられたがために、「自分」を超えた何かが射るのだという風に意味が変化したのではないかというわけだ。実際のところ、ミもフタもないようだが、小町谷は阿波のことばを正確に訳すことにこだわってはいなかった(画像1枚目)。小町谷によれば、阿波は「(ヘリゲル君は)丹田に力を入れて無我の境に入り、宇宙と一体になるべきものである」などとも教えたそうで、阿波の難解な教えをその場で厳密に通訳するのは困難だった。
そういうわけで、「"それ"が射る」というのが日本の弓術の中心的な教えだという「物語」は、「誤訳」によって新しく創作されたのである。『弓と禅』の日本語版は、「日本語→ドイツ語→日本語」という翻訳の過程で、阿波のことばの原型をとどめないほどに形を変えたものだった。そして、ヘリゲルが描いた日本像が、日本人にとってあまりにも都合がよく自尊心をくすぐるものであったがために、ヘリゲルを批判する論調は日本側からほとんど出てこなかった。かくして、新しい「伝統」が創作されたのである。
1953年に出版された『弓と禅』の英語版には、この本を高く評価した鈴木大拙の序文が添えられている(これは日本語版には載っていない)。ちょうど欧米で禅がブームになっていく時代に、『弓と禅』は鈴木大拙のお墨つきを得る形で英語圏に登場したのである。かくして、その信頼性を誰も疑うことなく、『弓と禅』は禅ブームに溶け込んでいった。
しかもその後、山田無文(1900-1988)や大森曹玄(1904-1994)などの臨済宗の高僧たちも、『弓と禅』を高く評価してしまった(!)のである。山田無文は、外国人相手に禅について語る際には『弓と禅』を用いていた。『剣と禅』(1966年)という著書があり、禅や武道を論じた大森も、「専門の禅の立場から見て、阿波範士の指導ぶりやヘリゲル博士の体験はまことに立派」と書いてしまったのである(大森曹玄『現代弓道講座 第六巻 第二版』雄山閣、1968年)。
また、山田氏によれば、竜安寺の石庭は禅の「覚り」を表現したものだという言説が世界に広まるのは戦後のことにすぎず、竜安寺の石庭と禅を結びつける言説は戦前には非常に少数だったという。
そもそも竜安寺は、今でこそ世界中から観光客が押し寄せる有名な寺院だが、1950年ごろまでは、訪れる人もまれな貧乏寺だった。江戸時代から明治の中ごろまでは決まった住職もおらず、妙心寺が寺を管理していた。明治維新の際には、境内の土地や宝物を打って寺を維持するありさまだったという。
1907年には、大崎龍淵が住職になっているが、その前の住職は桃山時代の人(!)で、大崎は約300年ぶりの常任の住職だった。大崎の次の住職である松倉紹英によれば、戦時中はいつ空襲があるかわからないということで雨漏りの修理も行われず、境内も荒れ放題で草ぼうぼうだった。
また、日本庭園を研究しているウィーベ・カウテルトによれば、風景式庭園が禅哲学を表現しているという言い方は、20世紀にならないと見られないものであり、英語の文献ではロレイン・カックという人物がその先駆けだという。カックは1936年に出した『京都百名園』で竜安寺の石庭を禅と結びつけているのだが、そうしたカックの見解に影響を与えたのも鈴木大拙だった。
戦後に、禅・石庭・弓道はセットで世界中に紹介され、これらを一体のものとして捉える「物語」が反復され、拡大再生産されていくのである。
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