2025年3月8日土曜日

和多都美神社は大和国の玄関 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

和多都美神社は大和国の玄関 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

「ワタツミ」をヘブライ語の文字で並べると、右から左にבוטאצמה (vatatsumi、ヴァタツミ)と書くことができます。בの文字は英語のアルファベットではBとなりますが、実際の発音はVに近く、「ブ」「ヴァ」と聞こえます。ヘブライ語は右から読みますが、日本語と同様に左から右に逆読みすることもできます。すると一見意味がないように見えた言葉も逆読みすることにより、文字に秘められた意味を理解できることがあります。

そこで「ワタヅミ」「ヴァタツミ」の文字列を逆さにして並べ変えて、ヘブライ語で表記するとהמצא טובとなります。その文字列の中間に「神」の頭文字であるי(y)の子音を付加するだけで、המציא טוב左から読むと「ヴァタイズミ」となり、右から読むとהמציא טוב(himtsi tuv、ヒムチトゥヴ)となります。「トゥヴ」というヘブライ語は「良いこと」、「ヒムチ」は「運ぶ」「発明する」「与える」を意味します。これら2つの言葉を合わせた「ヒムチトゥヴ」とは直訳すれば、「良いことがおきる」「良き知らせが与えられる」となります。つまり、人々を幸せにする「福音」のような意味を持つ言葉として解釈できるのです。

https://www.historyjp.com/article/225/

和多都美神社は大和国の玄関

古代海路の指標となる「5連の鳥居」の意味

和多津美神社

重要な位置を占めていた対馬の式内社

10世紀初頭、式内社延喜式神名帳と呼ばれる国内の神社一覧が編纂され、格が高く由緒ある2861社と神々3132座が式内社として朝廷から認知されました。その結果、西海道の式内社107座の内、九州では最大数となる29座が対馬から選別されたのです。これは大宰府管内9国2島の中で最も多く、重要な祭祀が多く存在する拠点として、対馬が早くから認知されていたことを意味します。島内に同名の神社が多数存在することにも注目です。また、対馬に数多く存在する古墳には、その村落周辺に式内社または論社が存在することからしても、式内社は対馬の古代史において重要な位置を占めていたと言えます。

その延喜式によると、卜部(うらべ)と呼ばれ、主に亀卜(亀甲を用いて吉凶を占う法)による国占いをする職務については、対馬から10名、壱岐および伊豆から5名ずつ、都合20名が任命されることが定められていました。古代から日本の祀りごとに対馬が深く関わり、卜部の半数が対馬の出であることが決められていたのです。

国を占う祭司が、大陸からの文化の入口である対馬、壱岐だけでなく、日本列島の太平洋側にあたる伊豆諸島からも招集されていたことは驚異に値します。これは古代の日本社会における宗教文化が、まず日本列島周辺の島々から土着化したことを示唆しているようです。対馬、壱岐、伊豆諸島だけでなく、淡路島や沖縄などの多くの島々が、アジア大陸からの移民の拠点として古代史に布石を残しています。

渡来者の指標となる和多都美神社

対馬に存在する数多くの式内社の中でも、圧倒的な存在感を誇るのが、仁位の和多津美神社木坂の海神神社です。その風格と歴史の重み、美しい境内のレイアウトは、訪れる人を魅了します。

和多津美神社は「ワタツミノ」と呼ばれ、837年に授位されて以来、国史にはすべて「和多津美神」と記載されているとおりです。また、対州神社誌(1685年)には、和多津美神社は「渡海宮」と記されており、中世からは頻繁に「渡海」と記載されていることから、「ワタツミ」とも呼ばれていたことがわかります。現在では、土地の人たちから「ワタヅミ」の発音で、呼称されています。

木坂の海神神社の「海神」も元来、「ワタツミ」と読まれることに注目です。今日では「カイジン」と読まれることが多くなりましたが、本来は、和多津見と同様の読みです。古語では「ワタ」は「海」、「ツ」は「の」、「ミ」は「神」を意味すると考えられ、「ワタツミ」は「海の神」、「海神」となります。また、海神神社は対馬国一宮として由緒ある栄光の歴史を誇り、対馬の神社の中でも最高位に位置付けられ、海神伝説と八幡伝説の宝庫として八幡宮、八幡宮本宮とも呼ばれています。「和多津美」と「海神」、いずれの「ワタツミ」も、その言葉の背景には海を旅する民に関する思いが込められているようです。

記紀に綴られている海幸山幸伝説

和多津美神社の御祭神は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、ホオリ)別名、山幸彦と、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。山幸彦は神武天皇の祖父にあたります。そして海幸彦と山幸彦の神話の中に、海神と山幸彦との関係を垣間見ることができます。

兄の釣針をなくしてしまい、途方に暮れていた山幸彦が、ある日、塩椎神(しおつちのかみ)の導きにより船に乗って辿り着いたのが、綿津見神(海神)の宮です。日本書紀には綿津見神が海神豊玉彦と記載されていることから、この宮の建立は豊玉彦によるものと考えられます。そこで山幸彦は豊玉彦命の二女である豊玉姫命をめとった後、その海宮に3年も滞在します。その後、赤鯛の喉に釣針が見つかり、兄の海幸彦に返却することとなり、それに纏わる主権争いの詳細が古事記、日本書紀に記されています。そこには山幸彦と海神との関わりが明記され、和多津見神社の御社殿裏には磐座だけでなく、豊玉姫命の墳墓もあります。日本神話の海幸山幸伝説は、和多津美神社が発祥ではないかと言われる所以がここにあります。

和多津美神社の境内周辺にある旧跡

海幸山幸の伝説のみならず、和多津美神社境内周辺には多くの旧跡が存在します。5基の鳥居と磯良恵比須の磐座をはじめとし、御社殿後方にある2つの岩からなる夫婦岩,豊玉姫命の墳墓(御陵)、山幸彦と豊玉姫命の出会いに纏わる玉の井の遺跡、そして満珠瀬(みつたませ)、干珠瀬(ひるたませ)の岩礁が、実に美しく自然の環境と調和しています。

満潮時に社殿近くまで満ちる海水を眺めながら、龍宮城を連想する人も少なくないはずです。この和多津美神社こそ、朝鮮半島から渡来する民が目指す最初の指標となるランドマークであり、しかも、邪馬台国へ旅立つ起点となる狗邪韓国の港が巨済島に存在することを証していたのです。

5連の鳥居が意味すること

浅茅湾の入江奥に佇む和多津美神社には、御社殿前から海に向かって一直線に5基の鳥居が並んでいます。その内、海側から数えて一ノ鳥居と二ノ鳥居は浅瀬の海中に造られていますが、潮が引くたびに浜が浮かび上がり、二ノ鳥居までは歩いていくことができます。そして潮が満ちると、今度は海水が参道沿いに御社殿の両側まで満ち、周囲一帯が海で囲まれます。海の中に建てられた鳥居が浮き沈みし、周囲の自然と調和するその幻想的な光景は、訪れる人々を魅了してきたに違いありません。何故、このような海中の鳥居が造られ、潮の満ち引きを目の当たりにする場所に、御社殿が造営されたのでしょうか。しかも鳥居は一直線に北西、310度を向いているのです。

鳥居の起源については諸説がありますが、そのルーツをイスラエル、ユダヤ教の「過越」として、「贖いと救いの象徴」に捉えることが有力視されています。旧約聖書によれば、出エジプトの時代、エジプトのすべての初子を撃つという神の怒りから逃れるために、古代イスラエルの民は、神の命令に従って其々の家の戸口を、ほふられた動物の血で赤く塗りました。その印をもって神の災いから逃れたのです。その後、イスラエルでは神の災いが通り過ぎていくことを祝し、「過越の祭り」が始まりました。そして血で染められた赤い戸口は、いつしか救いの象徴となり、それが赤い門、鳥居のルーツとなり、後世においては石造の鳥居も造られるようになったと考えられます。

また、イスラエルの民がエジプトを脱出する際のクライマックスでは、モーセが手をかざすことによって海が分かれて地が乾き、その海底をイスラエルの民が渡り、後を追って来るエジプトの軍団から逃れたことが記載されています。イスラエルの救いに関するテーマには、贖いの血で染められた戸口や、地表に露出する海底が含まれているのです。

船旅の指標となる和多津美神社の鳥居

和多津美神社が造営されたそのデザインの背景には、「神の救い」というモチーフが潜んでいるのではないでしょうか。まず、5基の鳥居は御社殿を参拝し、神の恩寵を受けるための戸口となりますが、その鳥居の一部が海の中に存在するということは、和多津美神社の御神殿に集う民が海から訪れることを意味すると考えられます。実際、対馬に存在する他の神社でも、海に向けて海岸沿いの浜辺に建てられている鳥居が少なくありません。また、鳥居の足がときには海の下に沈み、ときには地表に姿を表し、しかも人がそこを歩くことができること自体、出エジプト記においてイスラエルの民が海底を歩いて渡り、約束の地へと向かったことを連想せずにはいられません。

また、鳥居の向きや位置も無作為に作られたのではなく、すべてが計算ずくめで設計されたと考えられます。つまるところ、鳥居の向きは、その方角から参拝者が訪れることが想定される大変重要な指標です。和多津見神社の5基の鳥居は北西方向310度を指し、その角度に重大な意味が秘められています。

地図上にこれら5基の鳥居をプロットし、その方向に合わせて線引きをしてみました。すると、310度の線は対馬海峡を越えたその向こう側の巨済島、南東にある岬の頂点にあたり、その岬の北側には、港に適した入江が存在します。その場所は東アジア、中国側から釜山に向かう海路の途中に在り、双方向からのアクセスに優れているだけでなく、対馬にも近いという絶好のロケーションです。その港から岬を経由し、対馬の中心、浅茅湾入江奥の和多津美神社を目指して大勢の民が、海を旅したのではないでしょうか。和多津美神社の鳥居は、狗邪韓国から民が対馬に向けて船で海峡を渡ってくる方向を、ピンポイントで示していたと考えられます。

浅茅湾の奥に佇む和多津美神社の鳥居は、実は、巨済島の岬から大和の国の玄関となる最初の離島、対馬に向けて海を渡ってくる旅人の指標として、海上航海の安全を願うべく建立されたと推測されます。アジア大陸を渡り歩き、ときには船に乗り、最終的に朝鮮半島の最南端に位置する狗邪韓国に辿り着いた大勢の人々にとって、そこから未知の海原を渡り、対馬へと旅立つには、神の守護と勇気が必要であったに違いありません。救いの象徴である5重の鳥居を誇示する対馬の和多津美神社は、邪馬台国へ向けて更なる旅を続ける大勢の渡来者に、きっと力と勇気、信仰を与えたことでしょう。和多津美神社の優雅な鳥居の姿は、今日もその歴史の面影を対馬に残しています。

和多津美の意味は「良き知らせ」

和多津美神社と東アジアからの渡来人との関わりを証するのは、5連の鳥居の存在だけではありません。実は「ワタツミ」という言葉にも外来語の意味が込められていたのです。「ワタツミ」には「和多津美」という漢字があてられていますが、そのままでは日本語での意味が不透明です。「渡海」とあてることにより、海を渡る旅路に関連させるか、「海神」として「海の神」と解釈することはできますが、「和多津美」自体は考慮のしようがありません。

「ワタツミ」をヘブライ語の文字で並べると、右から左にבוטאצמה (vatatsumi、ヴァタツミ)と書くことができます。בの文字は英語のアルファベットではBとなりますが、実際の発音はVに近く、「ブ」「ヴァ」と聞こえます。ヘブライ語は右から読みますが、日本語と同様に左から右に逆読みすることもできます。すると一見意味がないように見えた言葉も逆読みすることにより、文字に秘められた意味を理解できることがあります。

そこで「ワタヅミ」「ヴァタツミ」の文字列を逆さにして並べ変えて、ヘブライ語で表記するとהמצא טובとなります。その文字列の中間に「神」の頭文字である י(y)の子音を付加するだけで、המציא טוב左から読むと「ヴァタイズミ」となり、右から読むとהמציא טוב(himtsi tuv、ヒムチトゥヴ)となります。「トゥヴ」というヘブライ語は「良いこと」、「ヒムチ」は「運ぶ」「発明する」「与える」を意味します。これら2つの言葉を合わせた「ヒムチトゥヴ」とは直訳すれば、「良いことがおきる」「良き知らせが与えられる」となります。つまり、人々を幸せにする「福音」のような意味を持つ言葉として解釈できるのです。

日本人にはあまり馴染みのない「福音」という言葉ですが、新約聖書では「エウアンゲリオン」というギリシャ語の言葉が何度も用いられ、古代ギリシャでは紀元前から詩人らによっても使われていました。この言葉には、国家が戦争に勝利し、その勝鬨の知らせを待ちわびている群衆に、自国の軍隊が勝利したことを伝えて皆が喜ぶ、という歴史的背景があります。すなわち、「エウアンゲリオン」とは「戦勝の良き知らせ」を宣言する言葉としてギリシャ・ローマ時代を通じて使われ、それがいつしか、「良い知らせ」「良き訪れ」、そして日本語では宗教的概念を含む「福音」という言葉で表現されるようになったのです。「和多津美」と言う言葉は、まさに「エウアンゲリオン」と同等の「福音」を意味するヘブライ語の言葉だったのです。

狗邪韓国から海を渡り、大和の国へ向けて航海してくる民は、まず、最初の拠点となる和多津美神社に佇む5連の鳥居を救いの指標として目指したことでしょう。対馬の「ワタツミ」は「福音」、「良き知らせ」の象徴として、旅立つ者に勇気と力を与えたに違いありません。大和の国に約束された神の救いこそが「和多津美」による「福音」の意味であり、その「良き知らせ」を信じた大勢の群衆が、命をかけて海を渡り、日本列島へ渡来してきたのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

【伝説の首都】日本最初の〝首都〟は『橿原宮』でも『藤原京』でもなかった|小名木善行

【伝説の首都】日本最初の〝首都〟は『橿原宮』でも『藤原京』でもなかった|小名木善行 youtu.be 信じていただけないとは思いますが難波宮=四国(香川県)説なるものがあります。 【日本書紀 応神紀二十二年】 夏四月に、兄媛、 大津より発船して往りぬ。天皇、高台に居しまして、 兄...