2025年3月9日日曜日

【伝説の首都】日本最初の〝首都〟は『橿原宮』でも『藤原京』でもなかった|小名木善行

信じていただけないとは思いますが難波宮=四国(香川県)説なるものがあります。


【日本書紀 応神紀二十二年】

夏四月に、兄媛、 大津より発船して往りぬ。天皇、高台に居しまして、 兄媛が船を望して、 歌して日はく、


『淡路嶋 いや二並び 小豆嶋

いや二並び寄ろしき嶋嶋 誰かた去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの』


【現代語訳】

淡路島は小豆島と二つ並んでいる。 私が立ち寄りたいような島には、皆二つ並んでいるのに、 私はひとりにされてしまった。 誰が遠くへ行き去らせてしまったのだ。 吉備の兄媛を折角親しんでいたのに。

(宇治谷孟全現代語訳 「日本書紀 (上)」 講談社学術文庫参照)


 通説では、 応神天皇の「難波の大隅宮」を大阪市東淀川区の大道南(淀川河ロ寄り北岸)に比定しているが、この淀川河口寄り北岸から淡路島と小豆島がどのようにしたら二つ並んで見えるというのであろうか。

 そもそもこの応神天皇が活躍されたとみられている4世紀末から5世紀前半頃の時代、 大阪平野は淀川河口の東南部に河内湖が形成されており、 淀川河ロ寄り北岸に大隅宮を想定することなどどだい無理なのである。

 その点、阿波説 (笹田氏) が 「難波の大隅宮」と比定している香川県さぬき市津田町一帯は、『和名抄』 に 「讃岐国寒川郡難波郷」とあるとおり古代 「難波」 の地であり、この津田町の辺りからであれば淡路島と小豆島がきれいに二つ並んで見えるのである。


以上、藤井榮『古代史入門』179~180頁 kindle版あり

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