2024年10月4日金曜日

籠神社 - Wikipedia

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籠神社

籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社式内社名神大社)、丹後国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社

元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏(あまべうじ)が宮司世襲している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。

2017年(平成29年)4月、文化庁により、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー「日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定された[1][2]

祭神

祭神は次の5柱。

主祭神

  • 彦火明命 (ひこほあかりのみこと)
    天火明命」、「天照御魂神」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命」ともいうとする。社家海部氏の祖神。

相殿神

  • 豊受大神(とようけのおおかみ) - 「御饌津神」ともいうとする。
  • 天照大神(あまてらすおおかみ)
  • 海神(わたつみのかみ) - 社家海部氏の氏神。
  • 天水分神(あめのみくまりのかみ)

祭神については古くより諸説があり[3]、『丹後国式社證実考』では伊弉諾尊[注 1]、『神社明細帳』では天水分神としている。

歴史

創建

社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、元々は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。この地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし[4]、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている[4]。そして白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)[注 2] が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという[4]。その後養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える[4]

伊勢神宮外宮の祭神である豊受大神の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承は古く、その比定地には諸説がある[3]延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』では「比治乃真名井」から伊勢に移されたとし、『神道五部書』以来の伊勢神道では旧地を丹波国与佐宮としている[3]。『倭姫命世記』の元となったと推定される古代の文献『大同本記』には、垂仁天皇の御代に四道将軍の一人として丹波国に派遣された道主命の娘である八乎止女(やをとめ)が「比治乃真井」で「御饌都神」を奉斎したと伝える[5]。籠神社をその地にあてたものとしては、建武2年(1335年)の文書の「豊受太神宮之本宮籠大明神」という記載[6]天和年間(1681年-1684年)の籠神社縁起秘伝の「当社籠大明神ハ即豊受大神也」とし「与謝宮ハ則是籠大明神也」とする記載がある[6]

概史

国史での初見は嘉祥2年(849年)に「籠神」が従五位下に叙せられたという記事で、その後六国史での神階元慶元年(877年)の従四位上まで昇進した。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では丹後国与謝郡に「篭神社(籠神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭新嘗祭幣帛に預かった旨が記載されている。籠神社の西方には丹後国分寺跡もあり、当地一帯が丹後国の中心地であったことがうかがわれる。

中世の籠神社境内の様子は雪舟の「天橋立図」(国宝、京都国立博物館蔵)に描かれている[6]。また『丹後国田数帳』には籠神社の神領について、籠宮田46町210歩や朔弊料田12町等、計59町3段210歩が記載されている[6]。しかし近世には社領を失い、わずか8斗4升4合であった[3]

明治に入り、1871年 (明治4年)には近代社格制度において国幣中社に列した。1945年には官幣大社への昇格が進められたが、第二次世界大戦の終戦により実現しなかった。戦後は神社本庁別表神社となっている。

神階

  • 嘉祥2年(849年)2月25日、従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「篭神(籠神)」。
  • 貞観6年(864年)12月21日、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「篭神(籠神)」。
  • 貞観13年(871年)6月8日、正五位下から従四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「篭神(籠神)」。
  • 元慶元年(877年)12月14日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』) - 表記は「篭神(籠神)」。

神職

籠神社の神職(社家)は、古くより海部氏(あまべうじ)の一族が担っている。海部氏とは海人部を統括した伴造氏族で[7]、全国に分布が見られ、籠神社社家はそれらのうち「海部直」姓を称して丹後に拠点を持った一族である。

一族には、現存では日本最古の系図「海部氏系図」(国宝、平安時代の書写)が残されており、彦火明命を始祖(初代)として82代の現宮司までの名が伝えられている[8]。また海部氏一族が丹波国造を担ったとも伝えているが[注 3]、丹波国造について『先代旧事本紀』の「国造本紀」では尾張国造と同祖で建稲種命四世孫の大倉岐命を祖と記し、同書「天孫本紀」では饒速日尊(天火明命)六世孫の建田背命を祖と記すように[9]、天火明命を祖とする尾張氏系と彦火明命を祖とする当一族との関連性が見られる[注 4]

境内

「上宮」の奥宮(真名井神社)に対して、本宮は「下宮」に位置づけられる[10]。本殿は、桁行三間、梁行二間の神明造で、檜皮葺弘化2年(1845年)の再建で、京都府の有形文化財に指定されている[11]。なお、欄干の擬宝珠は赤、黄、緑に彩色された「五色の座玉」で、格式の高い神社を表すと伝えられる[12]

神門前の左右に立つ凝灰岩製の石造狛犬は、安土桃山時代の作で国の重要文化財に指定されている[13]。なお、神社側では鎌倉時代の作と伝える[12]。阿形の狛犬の右前足は割れて鉄輪が嵌められているが、昔この狛犬が橋立に現れて悪さをしたので、天正年間(1573年-1592年)に岩見重太郎が斬ったことによると伝えられている[14]

  • 本殿(京都府指定文化財)

  • 大和さざれ石(2015年9月10日撮影)

  • 狛犬吽形(重要文化財)

  • 狛犬阿形(重要文化財)

  • 神門

  • 二之鳥居

摂末社

奥宮(境外摂社)

「下宮」とする本宮に対して、奥宮の主座は「上宮」に位置づけられる。社殿は桁行一間、梁行二間の神明造で、檜皮葺。天保3年(1831年)の造営で、京都府の有形文化財に指定されている[16]。社殿裏に2つの磐座がある。

摂社

  • 蛭子神社(恵比寿神社)
    祭神の彦火火出見命は、大化以前の本宮主祭神。社殿は一間社流造銅板葺で、京都府の有形文化財に指定されている(真名井神社の附)。
  • 天照皇大神社
  • 真名井稲荷神社
    明治末期まで奥宮真名井神社に鎮座したが、1991年に本宮境内に移転再建。
  • 蛭子神社(恵比寿神社、京都府指定文化財附)

  • 天照皇大神社

  • 真名井稲荷神社

末社

いずれも境内社。

また、海の奥宮として冠島沓島を神域とし、天火明命と市杵島姫命を祀る。傘松公園には冠島・沓島の遥拝所がある。

祭事

年間祭事

年間祭事一覧[表示]

葵祭(例祭)

例祭は4月24日に行われ、「葵祭」と通称される。古くは4月2の午の日に行われており、『宮津府志』には大きな祭であった様子が記されている[6]。祭事では近隣の集落から笹ばやし、太刀振[17]神楽が奉納される[6]。京都府の無形民俗文化財指定。

文化財

国宝

  • 海部氏系図(附 海部氏勘注系図)(古文書)
    宮司家の海部氏系図。神社側では「籠名神社祝部海部直等之氏系図」と呼称[12]平安時代初期の書写で、現存では日本最古の系図とされる。1976年昭和51年)6月5日指定。なお、系図の所有者は籠神社ではなく宮司家である[18]

重要文化財(国指定)

  • 木造扁額(工芸品)
    室町時代[13] の「籠之大明神」と記載された扁額。神社側では、976年貞元元年)の勅額の「藤原佐理卿筆額面」と呼称[12]京都府立丹後郷土資料館に寄託。1926年大正15年)4月19日指定。
  • 石造狛犬 1対(彫刻)
    1942年(昭和17年)12月22日指定。
  • 丹後国府中籠神社経塚出土品(銅経筒2口、菊花双雀鏡、線刻如来鏡像)(考古資料)
    鎌倉時代、文治四年(1188年)在銘の経筒2口と伴出品[13]。京都府立丹後郷土資料館に寄託。1961年(昭和36年)2月17日指定。

京都府指定文化財

  • 有形文化財
    • 本殿(附 棟札3枚)(建造物) - 1990年平成2年)4月17日指定[11]
    • 摂社真名井神社本殿(附 拝所1棟、棟札3枚、末社恵比寿神社本殿)(建造物) - 1990年(平成2年)4月17日指定[16]
    • 籠神社文書(附 慶長七年丹後国検地帳19冊)(古文書) - 籠神社に伝わる鎌倉時代・室町時代・江戸時代の古文書。2003年(平成15年)3月14日指定[19]
    • 籠神社経塚出土品(考古資料) - 1989年(平成元年)4月14日指定[20]
  • 無形民俗文化財
    • 籠神社の祭礼芸能 - 1985年(昭和60年)5月15日指定[21]

その他

指定文化財以外の宝物[22]

  • 海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」
    息津鏡(おきつ-)は後漢代の作と伝えられ直径175mmの長宜子孫内行花文八葉鏡、辺津鏡(へつ-)は前漢代の作と伝えられ直径95mmの内行花文昭明鏡。「海部氏系図」の勘注系図にも記載があり、天祖が火明命に授けたという。出土品でない伝世鏡では日本最古という。なお、鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は明らかでない。
  • 小野道風筆額面
    鎌倉時代の「籠之大明神」と記載された扁額。神社側では、平安時代の929年延長7年)の勅額で小野道風の筆と伝える。
  • 羅龍王古面 - 室町時代(伝鎌倉時代)。
  • 丹後国一宮深秘 - 南北朝時代から室町時代に書写された籠神社由緒記。
  • 内宮所伝本倭姫命世紀 - 室町時代(伝南北朝時代)。
  • 有栖川宮幟仁親王殿下御染筆額面 - 明治2年の有栖川宮幟仁親王筆の額。

現地情報

所在地

交通アクセス

  • WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)宮豊線 天橋立駅から
    • 徒歩:天橋立を通って約45分 - 天橋立観光船、レンタサイクルでも移動可能。

周辺

脚注

注釈

  1. 伊弉諾尊が天から通うための梯子が倒れ、天橋立になったという『丹後国風土記』逸文(釈日本紀所収)の伝承に基づく。
  2. 代数は彦火明命を初代とした『元伊勢籠神社御由緒略記』に基づくもので、「海部氏系図」では代数から1を減じた「○世」と記している。
  3. 丹後国は、和銅6年(713年)の分立まで丹波に含まれている。
  4. 『国造制の研究 -史料編・論考編-』(八木書店、2013年)p. 222では、丹波国造の氏姓を「丹波直・海部直」とし、「アメノホアカリ・尾張国造系」に分類する。

出典

  1. 文化庁. "日本遺産認定ストーリー一覧". 「日本遺産(Japan Heritage)」について. 2020年11月11日閲覧。normal
  2. 文化庁. "300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊". 日本遺産ポータルサイト. 2020年11月11日閲覧。normal
  3. ^ a b c d 『日本の神々』籠神社項。
  4. ^ a b c d 『元伊勢籠神社御由緒略記』p. 4。
  5. 御巫清直『豊受神霊由来或問』(『大神宮叢書 神宮神事考証 前編』所収)神宮司庁(1935)402頁
  6. ^ a b c d e f 『京都府の地名』籠神社項。
  7. 『日本古代氏族人名辞典 普及版』(吉川弘文館、2010年)海部氏項。
  8. 『元伊勢籠神社御由緒略記』p. 8。
  9. 『日本古代氏族人名辞典 普及版』(吉川弘文館、2010年)丹波氏項。
  10. 『元伊勢籠神社御由緒略記』p. 1。
  11. ^ a b 籠神社 本殿(京都府生涯学習・スポーツ情報)。
  12. ^ a b c d 『元伊勢籠神社御由緒略記』p. 7。
  13. ^ a b c 国指定文化財データベース による。
  14. 『元伊勢籠神社御由緒略記』p. 15。
  15. 摂末社は『元伊勢籠神社御由緒略記』p. 2による。
  16. ^ a b 籠神社 摂社真名井神社本殿(京都府生涯学習・スポーツ情報)。
  17. 平安時代から続く神事で、長く女人禁制とされてきた。少子高齢化で振り手を担える男性が減り、2014年から女性も振り手を務めるようになった。【ぷらすアルファ】「女人禁制」伝統に変化『毎日新聞』朝刊2018年4月14日(くらしナビ面)
  18. 文化庁『国指定文化財等データベース』ほか諸資料
  19. 籠神社文書(京都府生涯学習・スポーツ情報)。
  20. 籠神社経塚出土品(京都府生涯学習・スポーツ情報)。
  21. 籠神社の祭礼芸能(京都府生涯学習・スポーツ情報)。
  22. いずれも『元伊勢籠神社御由緒略記』・神社由緒書に基づき、文化財評価は 平成21年の籠神社の至宝展 出陳一覧(京都府教育委員会)を参照して記載。

参考文献

  • 神社由緒書
  • 『元伊勢籠神社御由緒略記』(元伊勢籠神社社務所、2009年)
  • 『日本歴史地名体系 京都府の地名』(平凡社)宮津市 籠神社項
  • 山路興造「籠神社」(谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』(白水社))

関連図書

関連項目

外部リンク

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出雲大神宮 - Wikipedia

出雲大神宮 - Wikipedia

出雲大神宮

出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は、京都府亀岡市にある神社式内社名神大社)、丹波国一宮旧社格国幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社

旧称は「出雲神社」。別称として「元出雲」や「千年宮」とも。

概要

亀岡盆地東部に立つ御蔭山(みかげやま。御陰山、御影山、千年山とも)の山麓に鎮座。古くは御蔭山を神体山として祀る信仰があったとされ、社殿は和銅2年(709年)に創建されたと伝える。

「元出雲」の別称は、出雲大社が出雲大神宮からの分霊とする社伝(後述)に由来する。いわゆる出雲大社明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたとされる。

現在の本殿は重要文化財に指定されている。

祭神

主祭神
  • 大国主神(おおくにぬしのかみ)
    出雲大神宮では、別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」とする。
  • 三穂津姫尊(みほつひめのみこと)
    高産霊尊の子で、大国主の国譲りの際に大国主の妻となったと伝える。
配祀神

祭神に関しては、天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の3柱とする説や、元々は三穂津姫尊1柱のみであるという説もある。

出雲大社との関係

出雲大神宮は「出雲」を社名としているが、島根県の出雲大社や同じ亀岡市内にある出雲大社京都分院(亀岡市下矢田町)とは別法人の神社である。

祭神の大国主神については、一般には出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされている[1]。ただし社伝では逆に、出雲大社の方が出雲大神宮より勧請を受けたとし、「元出雲」の通称がある。社伝では、『丹波国風土記逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるとする[2](ただし、社伝で主張するのみでその逸文も不詳)。

出雲大社との関係も2009年(平成21年)の社殿創建1300年を境に一層の交流が始まっている。参道に立つ「国幣中社 出雲神社」の社名標は出雲大社の元宮司・千家尊福の筆によるものである。また2014年(平成26年)に造られた正面の石碑「丹波國一之宮 出雲大神宮」の揮毫は出雲大社現宮司・千家尊祐の筆である。

歴史

創建

創建の年代は不詳。前述のように社伝では、『丹波国風土記逸文として「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」の記述があるという[2]

社伝では、和銅2年(709年)10月21日に社殿が建てられたとする[3][4]。『古事記』・『日本書紀』には国譲りの神事が記載されるが、丹波国は出雲大和の両勢力の接点にあり、国譲りの所由によって祀られたとされる[3]

境内には横穴式石室を持つ後期古墳があるほか、西南には口丹波最大の前方後円墳である千歳車塚古墳があり、古くから御蔭山を神体として祀る氏族がいたと推測されている[5]

概史

国史の初見は『日本紀略』の弘仁8年(818年)12月16日条「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」という記述であり、この時代にはすでに有力な神社になっていたことがわかる。

平安時代中期の『延喜式神名帳』では「丹波国桑田郡 出雲神社」と記載され、名神大社に列している[6]正応5年(1292年)には、雨乞いの功を示したことから神階が最高位の正一位まで昇った。

鎌倉時代兼好法師徒然草』第236段「丹波に出雲と云ふ所あり」(後述参照)の「出雲」はこの神社であり、それによればこの時期には志田氏によって立派な社殿が建てられ、京都の都人の崇敬を集めていたことがうかがえる。

貞和元年(1345年)、足利尊氏により現在の社殿が造営されたとされる。

明治4年(1871年)5月14日に近代社格制度において国幣中社に列した。また、神宮寺を現在の極楽寺に借地移転した。極楽寺所蔵で重要文化財に指定されている十一面観世音菩薩像は、神宮寺時代に安置していたものとされる。

戦後、現在の「出雲大神宮」に改称した。

神階

境内

山麓

本殿は室町時代前期、足利尊氏による元徳年間または貞和元年(1345年)の改修と伝える。三間社流造で、前室を有し、屋根は檜皮葺である。装飾は蟇股手挟程度にとどめたうえ、太い木割を使用した豪壮な社殿になる。国の重要文化財に指定されている[8][9]

拝殿は入母屋造妻入、檜皮葺で舞殿形式。1878年明治11年)造営。

境内には「真名井の水」と呼ばれる湧き水がある。マグマ接触変成岩層から湧き出している。古来より御神水と崇められてきたという[10]

  • 境内 背景に御蔭山。

    境内
    背景に御蔭山。

  • 拝殿

    拝殿

  • 境内鳥居

    境内鳥居

山中

古来より御蔭山は国常立尊の鎮座する地として禁足地とされた。現在も立ち入り可能なのは、国常立尊を祀る磐座までの参道のみである。

  • 磐座 本殿後方に鎮座(御蔭山中腹の磐座とは別)。

    磐座
    本殿後方に鎮座(御蔭山中腹の磐座とは別)。

  • 古墳

    古墳

摂末社

かつては36社の摂末社を有していたと伝わる。現在は下記の8社が残る。

摂社

  • 上ノ社
    祭神は大国主神の祖先にあたる。社殿は文化10年(1813年)の造営とされる。大型の一間社流造で、一間社としては珍しく前室を有する[8]
  • 黒太夫社(下ノ社)
    西鳥居を出た突き当たりに鎮座。黒太夫社は当地の氏子・祖先神を祀ると伝える。そのため、本殿の参拝前に黒太夫社に参拝するのが正しい順番とする。

末社

  • 笑殿社

    笑殿社

  • 春日社(磐座)

    春日社(磐座)

  • 稲荷社

    稲荷社

  • 崇神天皇社

    崇神天皇社

  • 弁財天社

    弁財天社

  • 祖霊社

    祖霊社

主な祭事

年間祭事

年間祭事一覧[表示]

鎮花祭

4月18日に行われる大祭。出雲風流花踊(京都府登録無形民俗文化財)が奉納される。本来は雨乞いの踊りだったとされる。

一時断絶していたが1924年大正13年)に再開された。

文化財

重要文化財(国指定)

  • 本殿(建造物)
    室町時代前期。1906年(明治39年)4月14日指定[9]
  • 木造男神坐像 2躯(附 木造男神坐像 1躯)(彫刻)
    平安時代(附は鎌倉時代)の作。本殿内陣の三間に神体として祀られている男神像3躯。主神像は大国主命像と伝え、カヤ材を使用し、9世紀末から10世紀初め頃の作風を示す。1996年(平成8年)6月27日指定[11]

京都府登録文化財

  • 無形民俗文化財
    • 出雲風流花踊 - 1984年(昭和59年)4月14日登録。

亀岡市指定文化財

  • 有形文化財
    • 出雲神社牓示図並びに関係文書(絵画)
      鎌倉時代の作。神体山の御影山とその周辺を描いた古絵図。鑑賞画としてではなく、出雲大神宮の社域を示す目的で描かれたといわれる。絵図には現在のような大規模な社殿はなく、御影山の山麓に鳥居と質素な建物3棟があるのみで、社殿造営以前の風景を描いたものと見られている[8]。1970年(昭和45年)3月31日指定[12]

その他

  • 京都の自然200選 「出雲大神宮」
  • 亀岡の自然100選 「出雲大神宮」

登場作品

  • 徒然草』 第236段「丹波に出雲と云ふ処あり」
    聖海上人が参拝した際、獅子・狛犬が後ろ向きに立っていた。これは他に例を見ないことできっと由緒のあることに違いないと思っていると、実は子供のいたずらだったという話。教科書で教えられることも多い文である。
    なお、現在の獅子・狛犬は、当時とは異なるものである。

現地情報

所在地

交通アクセス

脚注

  1. 『京都府の地名』・『国史大辞典』等の百科事典の記載に拠る。『徒然草』 第236段においても出雲大神宮について「大社をうつして、めでたく造れり。」と記している。
  2. ^ a b 「御祭神」 Archived 2010年3月16日, at the Wayback Machine.(出雲大神宮公式サイト)。
  3. ^ a b 「由緒」 Archived 2010年7月21日, at the Wayback Machine.(出雲大神宮公式サイト)。
  4. 天福2年(1234年)3月23日付『関東御教書』ならびに『社領傍示絵図』にもとづく(『日本の神々』出雲大神宮項)。
  5. 『日本の神々』出雲大神宮項。
  6. ただし、亀岡市本梅町の出雲神社もその論社とされている。
  7. 近世の地誌『桑下漫録』に記載されるが、西園寺家にこの伝本はない(『日本の神々』出雲大神宮項)。
  8. ^ a b c 『ふるさとの名品 -指定文化財の世界-』亀岡市文化資料館(第56会企画展図録)、2014年、p. 10。
  9. ^ a b 出雲大神宮本殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  10. 「真名井の水」 Archived 2010年7月21日, at the Wayback Machine.(出雲大神宮公式サイト)。
  11. 木造男神坐像(伝大国主命) - 国指定文化財等データベース(文化庁
    木造男神坐像 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  12. 『ふるさとの名品 -指定文化財の世界-』亀岡市文化資料館(第56会企画展図録)、2014年、p. 37。

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

外部リンク

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籠神社 - Wikipedia

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