2024年11月4日月曜日

第350回活動記録 河村哲夫 邪馬台国

第350回活動記録

第350回 邪馬台国の会 奴国の滅亡(河村哲夫先生) 奴国の鏡(安本美典先生)

1.1.邪馬台国へのアプローチ
一昨年、神功皇后の話をした。
次に昨年、景行天皇の話をした。知られていないが、九州には神八井耳(かみやいみみ)の伝承が残っている。直接には残っていないが息子の伝承として、残っている。
更に神武天皇、饒速日命、日向三代、宗像三女神の伝承がある。
これらの伝承と、奴国の考古学・神々が、安本先生の説を支えようとするものである。

1.2.奴国に関する中国文献
(1)『後漢書』東夷伝・・范曄(はんよう)[398~445年]
「建武中元二年(西暦57年) 倭の奴国、貢を奉げて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。(倭の奴国は)倭国の極南界なり。 光武は賜うに印綬を以てす。安帝永初元年(西暦107年) 倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、願いて見えんことを請う」とある。
この印綬が志賀島の金印である。

(2)『翰苑』・・唐の張楚金(ちょうそきん)[後に雍公叡(ようこうえい)が注]
「中元の際、紫綬の栄えあり」
『漢書』によれば、金印は紫綬、銀印は青綬、銅印は黒(墨)綬・とされている。

1.3.奴国の所在地
・奴国の中枢部は那珂川・御笠川流域
那珂川と御笠川とに挟まれた地域が奴国の地域であり、更に御笠川の支流の諸岡川と牛頸川の間に背振山地からから張り出した台地がある。

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この辺は「弥生銀座」と称される弥生遺跡の密集地であり、多くの遺跡がある。

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『和名抄』『延喜式』の那珂郡である。
現存する地名は那珂川、那の津、仲、東那珂、那珂八幡神社などである。

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1.4.奴国の代表的な遺跡
(1)須玖岡本遺跡(春日市)
①発見の経緯
1899年(明治32年)、家屋建築の際、花崗岩の大石を動かしたところ、合口甕棺から大量の遺物が出土。その後、九州大学の中山平次郎などが調査。

②確認された出土品
前漢鏡     30面前後
銅矛       5 (細形 4、中細形 1)
中細銅戈    1
銅剣       2 以上(多樋式 1、中細形 1)
ガラス璧片   2
ガラス勾玉   1
ガラス管玉   12

③須玖岡本遺跡の鏡はすべて前漢時代の鏡
草葉文鏡         3面  (前2世紀第3四半期)
星雲文鏡         6面  (前1世紀第2四半期)
重圏銘帯鏡        6面  (前1世紀第2四半期)
連弧文銘帯鏡      6面  (前1世紀第2四半期)
単圏銘帯鏡(日光鏡)  5面  (前1世紀第2四半期)

④須玖岡本遺跡の王墓の年代
紀元前1世紀の終わりごろか、その前後とみられている。したがって、西暦57年に金印を下賜された奴の国王ではなく、その数世代前の国王(『倭人伝の国々』小田富士雄ほか・学生社)。

⑤再調査
1962年(昭和37年)福岡県教育委員会の調査が行われ、周辺から甕棺19基、土壙墓3基が確認され、甕棺からは細形銅剣1本、細形銅戈1本が出土し、土壙墓からは銅釧、鉄刀、ガラス勾玉各1、ガラス小玉38個が出土した。

⑥甕棺の密集地
春日丘陵全体では、1500基以上の甕棺が出土している。総数では5000基を超えるのではないかとみられている。民有地や民間家屋が密集しているため、全体的・包括的な調査はきわめて困難。
なお、弥生時代後期になると甕棺はほとんど絶え、福岡平野全体でも同様の傾向である。弥生時代後期には、墓制の変化が生じ、邪馬台国時代へと移行する。

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(2)注目されつつある安徳台遺跡
①神功皇后の伝承地
那珂川の上流にある「安徳台」(筑紫郡那珂川町)の地名は安徳天皇し、『日本書紀』神功紀に見える「とどろきの岡」であり、神功皇后ゆかりの場所である。江戸時代は「御所ケ原」あるいは「上の原」と呼ばれていた。
周囲を急峻な崖で囲まれた高さ約10m、裾野まで入れると約25万㎡の台地で、西側に那珂川が流れ、東に神功皇后が開いたとされる「裂田溝(さくたのうなで)」が流れている。

②奴国の王墓か
安徳台からは、おびただしい弥生時代中期~後期の遺跡が発見され、奈良時代の大建築物群や室町時代の館跡なども発見されている。
日本最古の製鉄工房跡や130軒を超える竪穴住居址はすべて円形で、弥生時代最大級の14メートルを筆頭に、直径10m程度の大型のものばかりで、鋳型や勾玉、漢式鏃、鉄器類などが出土している。
ただし、全体の約2割弱の発掘にとどまっており、今後の発掘調査によっては日本の古代史を一変させる可能性を秘めている。

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③出土遺物
甕棺墓が10基あり、なかでも大きな墓穴に並べて埋葬された王墓とみられる2つの巨大な甕棺(5号・2号)からは、髪飾りに使われていたとみられる塞杆(さいかん)状ガラス製品が、頭骨近くに2本ずつ置かれていた。塞杆状ガラス製品は、これまで須玖岡本と飯塚市の立岩遺跡からしか出土した例はない。
男性を埋葬した甕棺からは権威の象徴とされるゴホウラ貝輪43点が右腕の骨にはめられた状態で見つかり、また鉄剣・鉄弋など大形の鉄製武器はじめ、ガラス製管玉なども副葬されていた。女性を埋葬した甕棺の内部は朱に覆われ、遺骸には丹(に)が堆積していた。

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1.5.奴国の時代の国々
(1)甕棺文化圏の形成――政策としての墓制
韓国西南部地域・北部九州地域・中九州地域

(2)銅鏡・銅剣・玉の珍重――三種の神器の起源
墓への埋葬→邪馬台国・古墳時代へ継承
三種の神器→天皇家へ継承

(3)小国家群の形成
100余国の形成→邪馬台国時代は30国余国

(4)王の登場
奴国の時代の王→女王卑弥呼登場の基盤→天皇制への発展

(5)前漢鏡は奴国の時代の首長のシンボル
首長の墓は下図参照

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この番号は下表の番号参照。
(下図はクリックすると大きくなります)350-09

1.6.『新唐書』日本伝の冒頭の記事
(1)中国唐代の正史。北宋の欧陽脩(おうよう しゅう)らが編纂。嘉祐6年(1060年)成立

(2)『魏志倭人伝』など中国側の過去の情報と遣隋使・遣唐使の情報を統合
・遣隋使・・600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に6回派遣
・遣唐使・・630年(舒明2年)~894年(寛平6)までの264年間に13回派遣

(3)『新唐書』日本伝から読み取れること
①日本のルーツは、「古の倭の奴」という認識
奴国は博多湾岸・那珂川流域にあり
②初代の王は「天御中主(あめのみなかぬし)」という認識
③九州の「筑紫城」を拠点としていたという認識
④神武天皇が九州から「大和州に徒(うつ)した」という認識

1.7.『古事記』の冒頭の記事
(1)『古事記』から読み取れること
①高天原の初代の神は、「天御中主命」という認識
・伊耶那岐神(イザナギノミコト)は天御中主命の末裔である。
②神々の故郷は「高天原」という認識
・イザナギや天照大神がいた場所
・イザナギが天照大神に高天原を治めよと命じた。
③奴国の記憶
奴(nag)の王→那珂(なか)の王→中(なか)の王→天御中主(なかぬし)神

1.8.古代神話の舞台
(1)古代神話は筑紫と出雲を中心に展開する。
(2)両者とも、大陸に近い裏日本に立地している。
(3)筑紫と出雲の友好的交流とその後に続く緊張関係がテーマとなっている。
(4)奴国の時代(BC2世紀~AD2世紀)が反映している。
(5)日本の古代史・神話は奴国から始まる。
(6)天御中主命は奴国の王であり、イザナギノミコトは奴国王の系譜に連なる王である。

1.9.イザナギの禊によって生まれた神々
(1)『古事記』の要約
①イザナギノミコトは、妻のイザナミノミコトを追って黄泉の国へ行く。
②そして、見てはいけない蛆のわいたイザナミノミコトの死体を見たために、イザナミノミコトに恨まれ、追いかけられる。
③イザナギノミコトは筑紫に逃げ帰ったあと、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊を行った。
④「上つ瀬は速い。下つ瀬は弱い」といって、中つ瀬で水にもぐって身をすすいだ。
⑤すると、水の底で「底津綿津見の神」と「底筒の男の命」が生まれた。
⑥次に、水の中ほどで身を洗い清めたとき「中津綿津見の神」と「中筒の男の命」が生まれた。
⑦さらに、水の上で身を洗い清めたとき、「上津綿津見の神」と「上筒の男の命」が生まれた。
⑧「底津綿津見の神」「中津綿津見の神」「上津綿津見の神」のいわゆるワタツミ三神は「阿曇の連(むらじ)」らが祖先神として仕える神である。
⑨「底筒の男の命」「中筒の男の命」「上筒の男の命」のいわゆる住吉三神は「墨江(すみのえ)」(住吉)の大神である。

(2)いずれも博多湾岸で祭られている
①ワタツミ三神
博多湾の志賀島を拠点とする阿曇一族の祖先神であり、志賀島の志賀海神社に祭られている。
『古事記』には、「この三柱の綿津見神は阿曇連等がもちいつく神なり」すなわち、「阿曇のムラジらの氏神である」と書かれている。
志賀島といえば、「漢委奴国王」の金印が出土したことでも有名である。
②住吉三神
住吉三神は、ワタツミ三神とセットで生まれている。博多には、住吉三神を祭神とする「住吉神社」(福岡市博多区住吉)がある。もとは那珂川河口の博多湾に面し、入江に突き出た岬にあった神社である。古い時代から航海安全・船舶守護の神として信仰されてきた。奴国の大動脈ともいえる那珂川の河口にあり、まさしく奴国を守護する場所に位置している。
③警固三神
もと福崎(現在の福岡城本丸跡周辺)の地に祭られていたが、慶長六年(1601)年、福岡城築城の際に下警固村(現在の福岡市中央区長浜あたり)に移され、慶長十三(1608)年に福岡城主黒田長政によって現在地(福岡市中央区天神二丁目)に警固神社の社殿が造営された。
警固神社の祭神は、イザナギの禊によって生まれた警固三神-----神直毘神・大直毘神・八十禍津日神の三神とされている。

結論:ワタツミ三神、住吉三神、警固三神-----これらの神々がそろって祭られているのは、全国では唯一博多湾岸のみである。
よって、イザナギの禊の舞台は、博多湾岸・奴国の地が最も有力である。

(3)天照大神もイザナギから生まれる
①『古事記』の要約
イザナギが禊をした際、左目を洗ったときに天照大神が生まれ、右目から月読命が生まれ、鼻からスサノオが生まれた。このときイザナギは天照大御神に高天原を治めるように指示した。
海原を委任されたスサノオは、イザナミのいる根の国に行きたいと言って泣き続けたためイザナギによって追放された。スサノヲは根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に上り、乱暴狼藉を働いたため、天照大神は天の岩戸に隠れ、その後スサノオは出雲に追放された。
 
結論:天照大神が生まれたのも、博多湾岸・奴国の地である。

(4)住吉神社に残された「博多古図」(下の左図)と博多湾岸の地形(下の右図)
(下図はクリックすると大きくなります)350-10

1.10.イザナギが禊をした「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」について
(1)筑紫
「筑紫」と記して九州全体のことをさすこともあるが、もともとは御笠川・宝満川の上流域一帯をさしていた。
基山の北東部、宝満川右岸の御笠郡筑紫村(筑紫野市)に、筑紫神(白日別)を祭神とする筑紫神社(筑紫野市原田字森本)があり、このあたりが筑紫という名の発祥の地である。御笠郡、那珂郡、筵田郡の一部を包含した地域で、筑紫とよばれた。「筑紫」の本来の意味は、九州全体という意味ではなくて、この狭い意味での筑紫ということになる。

(2)日向
「日向」と記して、日向国をさすことが多いが、もともとはその字義のとおり日に向かうことを意味し、したがって古代人は東のことを「ひむか(日向)・し」といった。それが平安時代以降になると「ひむが・し」というようになり、現代の「ひがし」につながった。「し」は、「西(に・し)」とおなじ用法で、「嵐(あら・し)」は「荒い・風」という意味になるように、もともとは風という意味であったが、転じて方位をあらわす語になった(白川静著『字訓』)。このように、「日向」には端的に日に向かうという意味もあり、かならずしもすべての場合において日向国のことをさすわけではない。したがって、「筑紫の日向」は「日向国」と限定して解釈する必要はなく、「筑紫の東の方向」あるいは「筑紫から日に向かった方向」というような意味に解釈することも十分に可能である。

(3)橘
「橘(たちばな)」とは、古くから日本に自生していた柑橘類のことである。『魏志倭人伝』には、「倭国に、薑(ショウガ)、橘(たちばな)、椒(サンショウ)、蘘(ミョウガ)はあるが、滋味を知らない」と書かれている。
福岡市東区と糟屋郡新宮町・久山町の境界に、立花山(標高367.1㍍)山がある。古くは二神山とよばれ、伊邪那岐命と伊邪那美命を祀る霊山とされてきた。福岡平野における戦略上の重要な拠点であり、海陸交通の目標とされてきた山であった。貝原益軒は、「筑前の国のなかで、立花(橘)は糟屋郡および怡土郡にある」と書いているが、住吉三神を祀る住吉神社の東方にあり、ワタツミ三神を祀る志賀島を見下ろす位置にある立花山こそ「橘」の位置にふさわしい。立花山は、現在でも立花みかんの産地として知られ、古い時代には多くの橘が自生していたために「橘山」とよばれ、のちに「立花山」と表記されるようになった。

(4)「小門」あるいは「小戸」
「水門」は「みなと」と読まれ、湊あるいは港をさす。「と(門・戸)」について、白川静氏の『字訓』には、「内外の間や区画相互の間を遮断し、その出入りのために設けた施設をいう。門を構え、戸を設ける。また川や海などの両方がせまって、地勢的に出入口のようになっているところをもいう」とある。したがって、「小門」「小戸」といえば、小さな出入口、すなわち小さな港というような意味である。香椎宮の西側に海岸があり、古い時代には香椎の浦とよばれた。香椎宮浜ともよばれる。そこにある鳥居の前面四百㍍のところに御島とよばれる岩礁があり、御島大明神が祀られている。『日本書紀』によれば、朝鮮出兵の吉凶を占うため、香椎宮に滞在していた神功皇后が海で髪すすぎの占いをおこなったが、貝原益軒は、「この地こそ、すなわち神功皇后が髪をすすがれた所である」と断言している。
黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命もまたみそぎ祓いをおこなったが、神功皇后は香椎浦の御島において、海に入って髪すすぎの儀式をおこなった。イザナギノミコトのみそぎ祓いにあやかって、御島においてみそぎ祓いをおこなった可能性も考えられる。

(5)「阿波岐原」あるいは「檍原」
貝原益軒は「阿波岐原という地名が志摩郡と筵田郡にある」とし、「青木」という村のことであるとする。『和名抄』には、檍(あわき)は、樫(かし)のことであるとされている。古代人にとって、樫から取れるどんぐりの実は貴重な食糧として珍重され、樫の幹は建材や船材などに利用された。香椎は、樫日や橿日とも書かれるとおり、樫に由来する地名である。樫の密生する場所として、古代人の崇拝を集めたのが香椎という地名のおこりであったろう。
神武天皇が大和において即位した場所も橿原とよばれ、これまた樫にかかわりのある地名である。古代人にとって樫には格別の思いがあったことがわかる。香椎の地こそ「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」の有力な候補地ということになる。

1.11.宮崎県日向説・・宮崎市大字塩路の住吉神社付近
(1)『日本書紀』の「神功皇后紀」の「摂政前紀」
「日向国(ひむかのくに)の橘(たちばなの)小門(をど)の水底(みなそこ)に所居(い)て、水葉(みなは)も雅(わかやか)に出で居(い)る神、名は表筒男(うはつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのを)の神有(ま)す」
・この記事には、明確に「日向国」とされている。
・日向国は『続日本紀』大宝二(702)年四月の条によれば、筑紫は七か国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向)とあり、日向国のなかに薩摩・大隅を含んでいた。なお、大宝二(702)年十月ごろ唱更国(薩摩)が分離され、和銅六(713)年大隅国が分離された。

(2)日向の成り立ち
日向はニニギノミコトの高千穂への天降りとして出てくる。

(3)『日本書紀』景行天皇紀には、景行天皇が日向と命名したとされている。「統計的年代論」によれば、景行天皇の活躍年代は、370年~385年ごろ。日向国は、もともとは豊の国に属していたと考えられる。

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1.12.天孫降臨の地をめぐる高千穂論争における「日向」
「霧島山説」と「宮崎県西臼杵郡説」が戦前まで対立していたが、戦後においては高千穂論争に対する関心もほとんど薄れてしまい、現在に至っている。

(1)「高千穂=霧島山説」
・「襲」は鹿児島県を指す。
・「韓国」は「韓国岳」のことである。
・「吾田」は鹿児島県にある。
・「笠沙の御前」は鹿児島県の野間岬である。

(2)「高千穂=宮崎県西臼杵郡説」
・北部旧勢力が日向へ南進したときの前進・中継基地であり、宮崎県の高千穂が地勢的にふさわしい。
・「韓国」は海路、韓国と直結していることをいう。
・「吾田」は宮崎県の吾平=油津のことである。

1.13.「奴国」の位置づけ → 古代史における定点→金印(文献と遺物の一致)
(1)小国家群の盟主的地位
・奴国王=筑紫の王=天御中主神?
・奴国王は博多湾岸、那珂川流域=筑紫を支配する王
・中国に倭国の代表者と認定された最初の王
奴(nag)の王→那珂(なか)の王→中(なか)の王→天御中主(なかぬし)神
・現存する河川名・地名→那珂川、那の津、那珂、仲など

(2)奴国の時代
・紀元前2世紀ごろ~紀元後2世紀(倭国大乱)まで

(3)邪馬台国(2世紀末~3世紀後半)の先駆的地位
・邪馬台国との構造的類似
・奴国は倭国大乱(おおむね170~180年)の一方の当事者
・そして、邪馬台国に盟主的地位を奪取される。
・邪馬台国所在地論争への大きな手がかり

(4)神々の年譜
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○論点
1、高天原は、奴国か邪馬台国か?
  『古事記』は「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天御中主神」とあるとおり、もともと高天原=奴国の拠点をさしたが、天照大神=卑弥呼の時代にもその拠点の邪馬台国は高天原と呼ばれた。

2、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」はどこか?
  イザナギの禊によって生まれたワタツミ三神・住吉三神・警固三神がセットで残されているのは博多湾岸のみである。よって奴国の地である。

3、ニニギが天降った「高千穂」はどこか?
  北部九州勢力の南進であり、従ってその途上にある宮崎県西臼杵郡の高千穂である。

4、山幸彦が訪れたワタツミの宮はどこか?
ワタツミ三神を氏神とする阿曇一族の拠点である志賀島である。
豊玉姫と玉依姫は阿曇一族に属し、玉依姫の御陵は大野城市に伝承され、宝満山のご神体は玉依姫とされている。糸島・脊振山南麓には豊玉姫の伝承が残されている。志賀海神社の阿曇家の家伝でも豊玉姫と玉依姫を遠祖としている。

5、倭国大乱の時期は?
『魏志倭人伝』は「その国は、もとまた男子をもって王となす。とどまること七、八十年、倭国乱れて攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という」と記す。すなわち、「倭国大乱」を鎮めるために卑弥呼が擁立されたとしている。
『後漢書』・・「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごもあい攻伐して歴年主なし」
『晋書』 ・・「漢末、倭人乱れ」
『梁書』 ・・「漢の光和中、倭国乱れ、あい攻伐して年を経る」
『隋書』 ・・「桓霊の間其の国大いに乱れ、逓(たがい)に相攻伐」
『北史』 ・・「霊帝光和中、其の国乱れ、逓に相攻伐」
『太平御覧』・・「霊帝光和中」
これらのことからみて、「倭国大乱」は170年代に勃発し、180年ごろ収束したとみられる。そして、卑弥呼が女王に共立された。

6、倭国大乱の当事者は?
  奴国と新興の邪馬台国勢力との争いである。
『古事記』『日本書紀』では、筑紫のイザナギと出雲のイザナミの対立に端を発しているようにみえるところから、周辺諸国を巻き込んだ動乱であったと考えられるが、戦いの場所は大野城市・太宰府市・筑紫野市・小郡市など福岡平野と筑紫平野の境界付近であったと考えられる。

7、卑弥呼共立の時期は?
  倭国大乱が収束した180年ごろと考える。
・「その国は、もとまた男子をもって王としていた」
  その国はそれ以前とおなじく、男子をもって王としていた。
・男子の王が王位について以来、70~80年の間
・107年の倭国王師升等のことをさす。

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