2024年11月9日土曜日

「三種の神器」の由来 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

「三種の神器」の由来 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

「三種の神器」の由来

アジア大陸の文化に結びつく神器の原点

日本古来の宗教の原点に潜む大陸文化

「三種の神器」はユダヤルーツではないかと、古くからうわさがくすぶっています。そもそも古代の日本列島において、突如として高度な文明が誕生し国家が発展したとは想定しづらく、そのような島国の環境下で、「神器」なるものが日本史に登場するということは、常識ではなかなか考えられないことです。日本の宗教文化は世界でも類をみないほど歴史が古く、かつ、きめ細かな儀式的行事と結びついています。このような繊細かつ周到に考えられた宗教文化が古代、日本の国土でふと展開しはじめ、「三種の神器」という不可思議な神宝が歴史の舞台にお目見えすること自体、何らかの外部からの関与があったと考えてしかるべきではないでしょうか。

それ故、日本書紀や古事記に書かれている古代日本の宗教文化は、何かしら外来文化に結び付いているものであり、それらがアジア大陸より日本に持ち込まれたか、もしくは大陸からの渡来者によって日本で培われたと想定することが、古代史の流れを理解するために不可欠と考えられます。中でも西アジアのイスラエルと日本は、宗教文化や風習において類似点が多いことから、歴史の接点を見極めるうえでも注目に値します。特に宗教儀式や、祭祀、神官が執り行う祭事、暦の類似点、そして神宝の在り方など、話題はあまりに豊富であり、日本とイスラエルに関する様々な憶測が飛び交っても不思議ではありません。

「契約の箱」と日本の神輿の類似点

イスラエル神宝は「三種の神器」というくくりで呼ばれることはないものの、契約の箱と共に保存された神宝は、「十戒が刻まれた2枚の石板」と、「マナのつぼ」、そして芽がふいた「アロンの杖」の3種であり、3つの神宝という意味において、数値は一致します。また、これらイスラエル3種の神宝は、日本の「三種の神器」の形状と類似点が多いことから、何等かの因果関係があるのではないかという憶測は、いつの日にも飛び交ってきました。いずれにしても、古代イスラエルと日本史の接点に着眼することが、古代史の謎を解明する手掛かりとなるかもしれません。

聖書の歴史書に明記されているイスラエル神宝のうち、「アロンの杖」と「マナのつぼ」の2つは、ダビデの子ソロモン王の時代までに、いつの間にか神殿から消え去ってしまい、紛失してしまったことが分かっています。そして北イスラエル王国が崩壊し、南ユダ王国も滅亡する危機を迎えていた紀元前7世紀前後、聖櫃とも呼ばれる「契約の箱」と共に、十戒が刻まれた2枚の石板も歴史から姿を消してしまったのです。これらの神宝の行方に関する記述は、歴史書のどこにも見出せません。こうして3つのイスラエル神宝は全て紛失してしまい、今日までそれらの行方は謎に包まれたままになっています。

紀元前722年、北イスラエル王国が滅びてから間もなくして、日本列島では新たなる歴史が刻まれました。どこからともなく国生みの神々が列島を訪れ、天孫降臨という名目のもとに新しい国造りが始まったのです。そして早くから神威をもつとされる「三種の神器」が大切にされ、その後も皇室によって古来より継承されることになります。さらにはイスラエルの「契約の箱」に酷似した形をもつ神輿なるものが列島各地の祭りに姿を現し、「契約の箱」と同様に移動する際は2本の棒に載せられて担がれたのです。こうして古代、日本では神輿を担ぎながら、大勢の民が神を祝う風習がはじまり、今日まで受け継がれてきています。その姿は、「契約の箱」がダビデ王の指示の元、ダビデの町、エルサレムに移動する際に大勢の民がダビデ王と共に歌い踊り、神を祀った状況と同じであったようです。

日本とイスラエルの宗教文化を見つめ直すと、神輿の担ぎ方をはじめ、三種の神器の存在、衣装や暦の類似点、その他宗教儀式の数々において、多くの類似点がみられます。また、ユダヤ王朝が系図を大切にしながら長年にわたり王系一族の血統を大事にしてきたように、日本でも皇室の家系と血統を大切にする文化が古くから存在します。だからこそ、皇族の血統は長い歴史の中でしっかりと記録され、今日まで継承されてくることができました。これら日本とイスラエルの文化的共通点は、すべては偶然の一致でしょうか。

「三種の神器」の詳細をひとつずつ検証していくと、意外にも様々なユダヤ関連の痕跡が残されていることがわかってきました。

モーゼの石板と「八咫鏡」の共通点

イスラエルの契約の箱に秘蔵された2枚の石板は、シナイ山で神ご自身が十戒の文字を彫られたとされ、それをモーセが山から持ち帰ったと聖書には記録されています。石の板、ということからして薄い形状であり、重たいことに違いありません。また、十戒が彫られたということからしても、1枚あたり、30-40㎝ほどの大きさはあり、おそらく長方形に近い形状をしていたと考えられます。薄い板状であること、そして大きさの想定からしても、「八咫鏡」と石板には共通点がありそうです。

石の板に文字を刻み、文字が読めるようにするためには、まず石板の表面が平らに磨かれていなければならなかったはずです。表面がごつごつしていては、文字を彫っても読むことができないからです。よって、神が彫られた石の板は、おそらく大理石のように表面が綺麗に磨かれ、鏡のようになっていたことでしょう。よって、その大きさと薄い板状の形だけでなく、表面の仕上げ具合においても、イスラエル神宝である2枚の石板は「八咫鏡」と類似していたと考えられます。

神の教えである十戒を彫った石の板は人々の心の指針となりました。「八咫鏡」も同様に自らの姿を省みて、心さえも映すものであると考えられていたことから、信仰の側面においても、十戒の石板と八咫鏡には類似点があるようです。これら2つの神宝は、アジア大陸と日本列島という距離と時代を超えて、何等かの関係が古来、存在したのでしょうか。

伊勢神宮に秘蔵される「八咫鏡」の裏文字

「八咫鏡」がユダヤルーツであるという噂が絶えない最も大きな理由は、鏡の裏にヘブライ語が記されているという証言が昔からささやかれてきたからです。その大きな円形の鏡の裏に、ヘブライ語の文字が書かれていたというのです。明治時代、当時の文部大臣 (現在の文部科学省) である森有礼 (ありのり) 氏は、旧約聖書の出エジプト記、3章14節の一文、אהיה אשר אהיה(ehyer asher ehyer、エイェ・アシェル・エイェ) 、「私は有って有る者」という意味のヘブライ語が、八咫鏡の裏に刻まれていると証言しました。

その後、元海軍将校の矢野裕太郎氏も八咫鏡を拝見する機会に恵まれ、鏡形状のスケッチや、そこに刻まれている文字の詳細までも書き残したとされています。ラビ・M・トケイヤー氏は、日ユ同祖論の教本ともいえる「日本・ユダヤ封印の古代史」の中で、矢野氏が写し取ったという八咫鏡の裏の文字を画像にして公表しました。そこには鏡の中心に、上段3文字、下段4文字、合わせて2列のヘブライ語のような文字が並んでいます。この画像に記された文字は、矢野氏が「見ることのできた八咫鏡の裏面の模様を、自分の手で丁寧に書き写した」結果とトケイヤ-氏は記しています。([ラビ・M・トケイヤー, 日本・ユダヤ封印の古代史] p.287) しかしながらトケイヤー氏自身が書写の実物を見た訳ではなく、あくまで「その写しのコピー」と言われたものを参照したにすぎません。([ラビ・M・トケイヤー, 日本・ユダヤ封印の古代史] p.288)

そのスケッチが本当に「八咫鏡」の裏に書かれている文字どおりに書き写されたかどうかは定かではありません、いずれにしても、それらの「見た!」というデータをもって公に名乗り出るものは誰ひとりいなかった為、内容を検証するまでに至らず、信憑性は定かではありません。それでも貴重なデータであることに変わりなく、検証の余地は十分にあります。

矢野氏の書き残したスケッチにて注目すべきは、八咫鏡の中央に書かれている2行の文字列です。はたしてそれらの文字はヘブライ語のアルファベットで綴られていたのでしょうか。また、森文部大臣が見たと文字は、「エイェ・アシェル・エイェ」、すなわち「私は有って有る者」というヘブライ語だったのでしょうか。ヘブライ語の文字も時代流れと共に書き方が大きく変化してきたことから、古アラム文字や、ヘブライ語オストラコンなど、イスラエルの民が古代、使っていた文字形状も参考にしながら考察する必要があるでしょう。

文部大臣である森氏が見たとされる「私は有って有る者」というヘブライ語は、原文では最初と最後が同じ文字列の3つの言葉から成り立っています。ところが矢野氏が書いたとされるスケッチでは、鏡中央の文字が上段3文字、下段4文字の2行からなる2つの言葉しかなく、文字数が合致しません。もしスケッチの内容が正しいとするならば、下段の文字はヘブライ語でאהיה(エーイェ) と読めないこともないことから、まず下から上に読んで、再び下段を繰り返して読むことにより、「私は有って有る者」の言葉と捉えることができます。しかし、繰り返して前の文字を読むということも考えづらいことです。

この2行の文字列を、ヘブライ語で「光の神」を意味する「オール・ヤーウェー」と理解する説もあります。下段の文字は、יהוה(yhwh、ヤーウェ-) 、すなわち「神」を意味する4文字に酷似しています。יי(ヨッド)とו(ヴァウ)は、文字をはねる長さが違うだけで形状は同一であることから、無理なく「ヤーウェー」と読めます。そして上段の3文字は、ヘブライ語で「光」を意味するאור(or、オー、オール)と読む訳です。すると「八咫鏡」に記載されている文字は「オール・ヤーウェー」、すなわち「光の神」を意味します。天岩戸や天照大神のキャラクターと絡めても、八咫鏡の存在とその意義を自然に理解することができますが、上段に記載されている文字の解釈に課題が残されています。文字の形状が「光」のאורとは違っているように見受けられるからです。

最も適格な上段3文字の読み方は、「声」を意味するקול(kol、コル) です。ヘブライ語は右から左へ読よみます。まず、右側の文字は縦線がק(コフ) の書き方と同じです。左側3番目、最後の文字はל(ラメッド) の文字形に酷似しています。そして中間文字のוは母音の「オ」になると、文字の上に点がつく (וֹ) になることから、まさに書き写された文字と同じです。矢野氏が書き写した文字列が、実物と同一であると仮定するならば、この2列のヘブライ語は、קוֹל יהוה(kol yhwh、コル・ヤーウェー) 、すなわち「神の声」を意味する言葉であったに違いありません。

これまで八咫鏡の文字を見たという証言は複数存在しましたが、誰もが公に名乗り出て説明をすることがなかったため、それらの内容を検証する術もなく、時代が過ぎ去ってきました。また、半世紀程前の「東京イブニングニュース」紙には、「八咫鏡」とヘブライ文字の実態について三笠宮殿下が調査すると報じられましたが、その後、殿下からは何ら音沙汰がなく、真相は謎に包まれたままとなったのです。

はたして「八咫鏡」の裏には旧約聖書の出エジプト記に書かれている「エヘイェ・アシェル・エヘイェ (私は有って有る者) というヘブライ語が刻まれているのでしょうか。それらの文字は「コル・ヤーウェー」、「神の声」を意味しているのでしょうか。いつか真実は明るみに出ることでしょう。火のない所に煙は立たずと言われるとおり、「八咫鏡」は何かしらユダヤルーツの文字が書かれているからこそ、これまで国家レベルでは公にすることができず、噂だけがくすぶってきたのです。

八尺瓊(ヤサカニ)と「金のつぼ」の類似点

次に天岩戸の物語において三種の神器の一つに数えられている「八尺瓊の五百箇御統」 (ヤサカニノイオツミスマル) の意味を検証し、イスラエルの民が40年もの間、荒野で旅をしていた時に、神が天から与えたマナという食べ物を入れた「金のつぼ」とを比較検討してみましょう。

「金のつぼ」はマナを収納する容器です。イスラエルの民は、神からマナを与えられることにより、飢えから救われ、生き延びることができました。よって、マナは神の救い、そのものであり、それを収納する「金のつぼ」は、神の御加護を象徴します。

「八尺瓊曲玉」も、神の守護と救い、奇跡の体験に結び付く神宝でした。曲玉を紐で結び、身にまとうことにより、敵から守られると信じられていたのです。よって、神から守られる、神の守護がある、という意味において、曲玉を連ねた「八尺瓊曲玉」は、イスラエルの「金のつぼ」と同様の役目を果たしたと考えられます。どちらも神の救いが実現する御守りの象徴だったのです。

「ウリムとトンミム」と「曲玉」

「八尺瓊曲玉」の形状については、「マナのつぼ」に想定される滑らかな曲線に類似点を見出すことができます。さらに「曲玉」の使い勝手に関しては、モーセがアロンに胸掛けを羽織らせた際、その中に入れた「ウリムとトムミム」という小さな石にも酷似しているようです。

古代、イスラエルの祭司は、神に近づき、神の答えを必要とする時、「ウリムとトンミム」という石を身に纏いました。日本においても、古くから曲玉を身に纏う、という宗教文化が存在しました。どちらも神を求める際に、石を身に纏うという行為が、同じだったのです。

ところが北イスラエル王国が滅びた後、南ユダ王国も追って、前607年にはエルサレムが包囲され、582年には滅亡しますが、イスラエルの伝承によると、ちょうど時を同じくしてウリムとトンミムも用いられなくなりました。もしかして、それらは国外に持ち出され、遠く日本にまで運ばれて「八尺瓊曲玉」の基になったとは考えられないでしょうか。なぜなら「八尺瓊曲玉」とは身にまとう神宝だったからです。「八尺瓊曲玉」のルーツは、はたしてイスラエルの歴史に絡んでいたのでしょうか。

「八尺瓊の五百箇御統」の意味を解明!

三種の神器のひとつである「八尺瓊の五百箇御統」という名称の意味を理解することは、これまで極めて困難なことと考えられてきました。定説がある訳でもなく、解釈の鍵となるキーワードも見当たりません。「八尺瓊曲玉」がユダヤルーツであるという決定的な理由は、その正式な名称である「八尺瓊の五百箇御統」の意味を、ヘブライ語で明確に理解することができるからです。

「八尺瓊曲玉」の「八尺」は、その漢字の当て字から、長さの単位を意味する「咫」 (あた、さか) が語源ではないかという説があります。すると「八尺」とは、およそ144cmもの長さになり、首飾りや手首周りにつける装飾品とは成り得ない大きさになってしまいます。「八咫鏡」の場合では、鏡の円周が144cmであると理解することはできますが、「曲玉」ではそのような解釈ができません。辻褄を合わせるため、「八尺瓊曲玉」の「八尺」を、曲玉を結び付けるための紐や緒の長さであるとか、単に大きい曲玉という意味に捉える説などが浮上しました。さらに、ますます栄えることを意味する弥栄 (いやさか) が転じた言葉とも提言されましたが、どれも納得のいく説明ではありません。

「八坂瓊」の「ヤサカ」は「八尺」と書くこともあり、「八坂」と同等の意味を持つ言葉です。「ヤサカ」はヘブライ語で綴られており、元来の意味と由来を知るだけで、神宝の大切な働きを理解することができます。ヘブライ語で「ヤサカ」とは、「神が見張る」、「神が守ってくださる」ことを意味し、ישכה(yasakah、ヤサカ) と書きます。その語源となるשכה(Sakah、サカ) は、「見張る」を意味し、誰かが周りを見張り、守ってくださることを表現する際に使われる言葉です。よって「八尺」「八坂」 (yasakah) は日本語では意味が不透明であっても、ヘブライ語では明確に、言葉の意味を理解することができます。

また、八尺の名称を用いて曲玉を形容する場合は、「八坂」の後に、「瓊」 (に) という一文字を語尾に付加して、「ヤサカニ」と読むことがあります。「瓊」は曲玉に付随することから「美しい玉」を意味すると考えられていますが、難解な言葉です。

この漢字は神代の神である瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) の名前にも用いられています。一見、不可解な文字ですが、ヘブライ語で「ひ孫」を意味するנין(nin、ニン) が、その語源となっている可能性があります。は天照大神の孫であり、伊耶那岐神の「ひ孫」にあたります。それ故、「瓊」の文字が名前に用いられ、天照大神の「ひ孫」であることがわかる名前が考えられたと想定されます。

瓊瓊杵尊がひ孫として神々から守られたことを象徴する漢字が、「瓊」です。それは、ひ孫を意味するだけでなく、子孫代々までも指すようになったのではないでしょうか。すると、神が見張ってくださる「ヤサカニ」という言葉は、ひ孫の代まで神がお守りくださり、周囲を見張ってくださることを意味すると考えられます。「八尺瓊」「ヤサカニ」とは、神が私達をひ孫の代まで守護してくださることを象徴する、曲玉のお守りを指す名前だったのです。

「イオツミスマル」の意味とは!

次に「五百箇御統」 (イオツミスマル) の意味を検証してみましょう。「五百箇」 (イオツ) は数の多いことを意味し、「御統」 (ミスマル) は、それらを緒に貫き、まとめて紐で環状に繋いで首や腕に巻くことができるようにしたものであるというのが、ごく一般的な見解のようです。どちらも読み方は当て字と考えられます。また、首飾り状のように統一することから「スマル」と呼ぶようになり、そこに神宝としての敬語、「御」をつけて、「ミスマル」と呼ぶようになったと解釈する説もあります。

「五百箇御統」「イオツミスマル」という言葉は、実はヘブライ語の名称であり、その意味を明確に解読することができるだけでなく、漢字で「五百箇御統」という文字が当てられた理由まで知ることができます。

ヘブライ語で「イオツミスマル」を綴ると、האות משמרו(he-ot-mishmaru、ヘオッミシュマル) となります。ה(he、へ) ヘブライ語のアルファベットで5番目の文字であることから、数字の5を表します。

אות(ot、オッ) は、装飾やサイン、印を意味する言葉です。その頭にמを付けて、מאות(meot、メオット) とすると、何百の「100」 (百) を意味します。つまり、何百、を意味する言葉のルーツには、「装飾」の意味も込められていることがわかります。すると500はヘブライ語で、המאות(hemeot、ヘメオッ) となります。この言葉から装飾を強調するため、מの発音が脱落し、האות(heot、ヘオッ) とするば、500を意味しながら、しかも500の装飾という輝かしいイメージが込められた言葉になります。500もの装飾、という思いが「ヘオッ」「イオツ」の言葉に秘められていたのです。

続くמשמרו(mishmaru、ミシュマル)は、守る、ガードすることを意味する言葉です。管理や守護することに関する名詞として、「守り主」のような意味合いで使われています。ヘブライ語の語源はמשמר(mishmar、ミシュマー)であり、語尾にוを足すことにより、「彼のガード」「彼を守る」という意味の言葉になります。

すると「五百箇御統」 (イオツミスマル) という一見、日本語では全く不可解な言葉の意味が、ヘブライ語を用いて明確に浮き上がってくるのがわかります。「ヘオッ‐ミシュマル」の「ヘオッ」は、「5,500の装飾」であり、そこに「彼をガードする」守り主の言葉、「ミシュマル」が合わさり、「500の装飾による彼の守り主!」という「お守り」の意味になります。多くの曲玉を身に纏い、それが神の守護の象徴となったことから、「五百箇」の漢字が選ばれ、しかも装飾、サイン、つまり輝かしいお守りのような意味合いも含まれていたのです。

「八尺瓊の五百箇御統」の意味とは!

ふと気が付くと、日本書紀に記載されている「五百箇御統」の漢字の意味と、ほぼ同じ意味の言葉となっていることがわかります。つまり、元来ヘブライ語である「イオツミスマル」という言葉を漢字で書き表すために、その言葉の意味を伝えることができる字を厳選し、「五百箇御統」という表記ができあがったと推測されます。そこには500の装飾に加え、「統」の文字が厳選されました。何故なら「統」には「おさめる」「統括する」という意味だけでなく、「つづきになっている」「つながっている」という意味が含まれているからです。それはまさに、「五百箇御統」が紐で繋がっていることを言い表しています。

さらには接頭語の「御」 (み) を、「統」 (すまる) に加えることにより、大切なお方を「しっかりと警護」し、「お守り申し上げる」という意味が「ミスマル」込められていたことがわかります。「御統」は、ヘブライ語で「彼の守り主」を意味する、お守りの言葉だったのです。何百もの数珠繋ぎになった曲玉を身に着けることにより、彼は守られる、という信仰の思いが「五百箇御統」「ヘオッミシュマル」に込められていたのです。

「八坂瓊五百箇御統」 (ヤサカニノイオツミスマル) は、ヘブライ語で読むと、その名前の由来が明確に浮かび上がってきます。神の救いに大きな期待を込め、神の御加護を信じた結果、「ヤサカ」という「神が見張ってくださる」というヘブライ語は、「八坂」「八尺」と書かれました。そして伊耶那岐神のひ孫であるスサノオを守るため、「八坂瓊」、「ひ孫を守る!」としたのでしょう。そのために、500の曲玉を数珠つなぎにした「お守り」ができあがり、それを身につけることにより、守護の象徴としたのです。それが「五百箇御統」です。ヘブライ語では、同じ意味の言葉が「ヘオッミシュマル」になり、神の御加護に期待する神宝の象徴となるべく、「八尺瓊の五百箇御統」という名称が生まれました。

敵から身を守るために神の守護を期待しつつ、身に纏うお守りが、「八尺瓊の五百箇御統」です。古代、そのお守りを天照大神自らも護身用として身に纏い、神の守護を期待しました。天照大神にとっても、「八尺瓊の五百箇御統」は、心のよりどころとなる大切な神宝であったことを、ヘブライ語の意味から察することができます。

「草薙剣」は大陸に由来する神宝?

スサノオ神話に登場する草薙剣の由来に関しては、多くの謎に包まれています。八岐大蛇の神話は有名ですが、その物語が書かれた背景には、大陸から航海してくる海賊船の来襲が存在したのでしょうか。古代、日本列島には海賊船が到来することがあり、人々が誘拐され、モノが略奪される事件が度々生じたことでしょう。その外敵に毅然と立ち向かったのがスサノオであり、その戦いの結末がいつしか神話化された可能性があります。

日本の有史は、大陸からの渡来者によって始まり、多くの人々が船に乗って海を渡り、日本に住み着き、歴史を動かしてきました。皇族の祖となるスサノオとその一族も、元来、西アジア方面からアジア大陸沿いに航海し、南西諸島を経由して日本列島に渡来してきたことでしょう。そして一族は、大陸で培われた優れた天文学と航海術を携えてきたことから、海原での戦いにおいては抜きんでた力を発揮できたに違いありません。その結果、スサノオは自らの軍船を率いて海賊船との戦いに勝利し、相手方の船内より後世において草薙剣とも呼ばれる不思議な刀を分捕ることができたのではないでしょうか。

「アロンの杖」が「草薙の剣」の真相?

この霊力のある刀剣こそ、もしかすると「アロンの杖」だったのかもしれません。「アロンの杖」のような由緒ある外来の神宝でもなければ、刀剣が海賊船内から見つかっただけで、ここまで神話化される理由が考えられないからです。この刀剣には、神威が備わっていると語り継がれてきたことから、大陸で培われた何かしらの不思議な力が宿っていたのでしょうか。はたして、スサノオが日本列島の海原を船で行き来したと考えられる紀元前7世紀において、そのような神威ある不思議な刀剣が「アロンの杖」以外に存在したとも考えられません。いずれにしても、何かしら大陸文化の歴史に繋がる大事な刀剣が、日本に持ち込まれる結果となったことに違いありません。

古代イスラエルの時代、モーセやアロンが用いた神の不思議を実現する「アロンの杖」は、いつの間にか、その所在がわからなくなったとされています。イスラエル神宝の驚異的な神威は歴史的にも名高く、旧約聖書にも随所に明記されているだけに、簡単に消滅したり紛失するとは考えづらく、必ずや世界のどこかに今日でもその威光を放ち続けていると想定できないでしょうか。よって、その行先が日本という新天地であったとしても、何ら不思議はないのです。

「アロンの杖」は神威に満ちた杖であり、イスラエル伝説によると、敵を倒す神剣の役割だけでなく、奇跡を起こす杖には羊飼いの杖をはじめとし、人々を導く様々な働きが兼ね備わっていました。「アロンの杖」が特殊である一番の理由は、芽がふきでたことです。1日にして「アロンの杖」に奇跡の芽がふき、人々への証のために契約の箱の前に保存されることになったことが旧約聖書に記されています。もし草薙剣が、その芽がふいた杖を象るような形状であるとするならば、ユダヤルーツであるという根拠のひとつになるかもしれません。

奇跡のアロンの杖

「アロンの杖」に芽がふいた状態がどのようなものであったかは定かではありません。旧約聖書の記述から察するに、おそらく杖全体から芽がふいたと考えるのが一般的な理解のようです。よって、これまで描かれてきた「アロンの杖」のスケッチ画像は、杖全体から芽がでてきたことを想定したものが多数存在します。果たして、日本の刀剣に芽がふいているような形状のものが存在するでしょうか。残念ながら、熱田神宮に宝蔵されている草薙剣だけでなく、宮中に保存されている形代さえも今日、実際に見ることができないために、詳細を検証できないまま時が過ぎています。

過去、草薙剣を目にしたという伝承がないわけではありません。平安時代では、陽成天皇が草薙の剣を一瞬目にしましたが、剣が光り輝いたため、恐れをなして投げ出した、と語り継がれています。また、江戸時代、五代将軍徳川綱吉の時代では熱田神宮の神官が神剣の櫃を改修しようとした際に草薙剣を目にした人がいて、祟りにあったとも伝えられています。また、同時代、梅宮大社の神職、玉木氏が書いたとされる草薙剣の形状に関する記述が、明治時代では、神宝に関する学術的研究の書にて紹介されています。

詳細の信ぴょう性については定かではないものの、その記述によると草薙剣は長さが約2尺78寸(85㎝)、刃先は菖蒲の葉のようで、中程はあつみを帯びており、全体的に白っぽい色とされています。もし白色であるならば、草薙剣は銅剣であった可能性が高くなります。また、熱田の尾張連家の伝承としては、長さは1尺8寸(54㎝)、柄には5つの節があり、刃と柄の接点は深くくびれ、剣を収納する箱の長さは4尺(1.2m)という内容の話も残されています。

上記2つの証言においては長さも大きく異なり、いずれも「アロンの杖」を想像できるような形状とは言えません。むしろ石上神宮に宝蔵されている全長75㎝の七支刀(ななつさやのたち)のように、長い剣の刃渡り全体から芽がでるかのごとく剣の先が左右に伸び、装飾系の形状をもつ刀剣のほうが、「アロンの杖」に近い形状ではないでしょうか。また、古墳時代においては蛇行剣とも呼ばれる、うねり曲がった形の剣も存在し、祭祀や儀式用の剣として用いられました。もし、草薙剣がこれらの形状に類似しているとするならば、「アロンの杖」との関連性がある可能性が見えてきます。

イスラエル神宝は日本にもたらされたか?

イスラエルと日本の神器に関する共通点は、その用途、主旨だけでなく、それらを収納するために用いられた「契約の箱」にも見出すことができます。イスラエルの神器の中でも、2枚の石板は契約の箱に収納され、その他2つの神器も中に収蔵されたか、もしくは「契約の箱」のそばに置かれていました。しかし、北イスラエル王国と南ユダ王国が崩壊し、国民が世界各地へと離散したことを機に、2600年以上、行方がわからないままになっています。イスラエルの10部族からなる北の王国が紀元前722年に、そして2部族からなる南朝のユダ王国が紀元前587年に滅亡するまでの間、国家が崩壊していく過程において、契約の箱はいつの間にか歴史から姿を消してしまったのです。

ちょうど時を同じくして紀元前7世紀ごろ、日本列島においては神武天皇を初代天皇とする新しい時代が始まりました。そして天孫降臨とともにもたらされた3種の神器をもって、それらが皇位継承を保証する御神体となったのです。また「契約の箱」は、ヘブライ語の原語において「船」という意味を持っていますが、日本でも神器を収める御器も「御船代」と呼ばれています。そしていつしか日本の島々では神を祀る際、イスラエルにて「契約の箱」が2本の棒によって担がれたように神輿が担がれ、群集が大声で「ヨイショ」と掛け声をかけながら、力の限り大地を巡り回る風習が根付いていたのです。

北イスラエル王国が崩壊し、南ユダ王国が消滅する危機に直面したちょうどその頃、突如として神宝を携え、神を祀ることを常とする信心深い人々による新しい国の歴史が、アジア大陸の東のはずれに浮かぶ島々で始まりました。そして列島で培われた文化は、いつしか他のアジアの島々とは異なり、古代イスラエルの宗教文化に類似するきめ細かな儀式と仕来りに満ちていたのです。後に、その日本列島にて、イスラエル神殿が存在するエルサレムと同じ意味をもつ「平安の都」が造営されることになります。古代よりイスラエルの文化が日本列島に息吹いていた、とういのは幻ではなかったようです。

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