2019年4月17日に日本でレビュー済み
『魏志倭人伝』の「伊都国」と目されている福岡県糸島市。その糸島市にある平原遺跡(年代は、紀元後100年前後と紀元後200年前後の2つの説があるようです)の発掘調査(ちなみに公的な支援をあまり得られず多額の自費をつぎ込んだらしいとのこと)後わずか1年少しで発表された(1966年刊)、この遺跡(特に1号墓)に関する原田大六の論考です。
(なお、本書は1998年に學生社から再刊されたもの。また正式な調査報告書『平原弥生古墳 大日貴尊(おおひるめのむち)の墓(上下巻)』が原田没後の1991年に刊行された。)
第1章から第5章が生い立ちや考古学的遍歴(戦後復員後に当時の九州考古学界のリーダーといわれる中山平次郎博士に師事)、第6章から第12章が発掘結果の詳細、第13章から第15章と「むすび」がその結果と記紀神話との関係の論考です。また、第15章では、同じく弥生時代の重要な遺跡の、すぐ近くにある三雲南小路遺跡と井原鑓溝遺跡、および福岡県春日市にある須玖岡本遺跡との関係なども考察されています。
刊行から既に50年以上も経っていますが、弥生時代から古墳時代に興味がある私としては、今でも十分いろいろと面白い刺激的な内容でした(平原遺跡1号墓の被葬者の血縁?の王が「大和を征服」したという説など今ではかなり否定的にみなされていると思われるものもありますが(といっても、この当時、まだ纏向遺跡も西谷墳墓群も楯築遺跡も発見または発掘されていない)、弥生時代後半における平原遺跡の重要性は、寺沢薫など現在の考古学者にも依然受け継がれていると思います)。特に興味深かった点を簡単に列挙すると、
・1号墓の被葬者の体の向きと鳥居状に並ぶ2本の柱跡(一の鳥居)の話(2年前に伊都国歴史博物館に行ったときに購入した『常設展示図録』に少しだけ記述があったが詳しくは分からなかった。)
・別の2本の柱跡(二の鳥居)の話
・出土した大型内行花文鏡(直径46.5センチ)についての推測
・副葬品からの被葬者の推測
などです。
日本古代の歴史学者とは違い、日本古代の考古学者は、普通記紀神話についてはあまり語りませんが、原田は出土遺物とともに、記紀神話や万葉集に出てくる語などをフルに活用して考察していきます。そういう意味では梅原猛的な感じもあるんですが、基本はやはり考古学者で、この点、森浩一に近いかもしれませんね。
(なお、本書は1998年に學生社から再刊されたもの。また正式な調査報告書『平原弥生古墳 大日貴尊(おおひるめのむち)の墓(上下巻)』が原田没後の1991年に刊行された。)
第1章から第5章が生い立ちや考古学的遍歴(戦後復員後に当時の九州考古学界のリーダーといわれる中山平次郎博士に師事)、第6章から第12章が発掘結果の詳細、第13章から第15章と「むすび」がその結果と記紀神話との関係の論考です。また、第15章では、同じく弥生時代の重要な遺跡の、すぐ近くにある三雲南小路遺跡と井原鑓溝遺跡、および福岡県春日市にある須玖岡本遺跡との関係なども考察されています。
刊行から既に50年以上も経っていますが、弥生時代から古墳時代に興味がある私としては、今でも十分いろいろと面白い刺激的な内容でした(平原遺跡1号墓の被葬者の血縁?の王が「大和を征服」したという説など今ではかなり否定的にみなされていると思われるものもありますが(といっても、この当時、まだ纏向遺跡も西谷墳墓群も楯築遺跡も発見または発掘されていない)、弥生時代後半における平原遺跡の重要性は、寺沢薫など現在の考古学者にも依然受け継がれていると思います)。特に興味深かった点を簡単に列挙すると、
・1号墓の被葬者の体の向きと鳥居状に並ぶ2本の柱跡(一の鳥居)の話(2年前に伊都国歴史博物館に行ったときに購入した『常設展示図録』に少しだけ記述があったが詳しくは分からなかった。)
・別の2本の柱跡(二の鳥居)の話
・出土した大型内行花文鏡(直径46.5センチ)についての推測
・副葬品からの被葬者の推測
などです。
日本古代の歴史学者とは違い、日本古代の考古学者は、普通記紀神話についてはあまり語りませんが、原田は出土遺物とともに、記紀神話や万葉集に出てくる語などをフルに活用して考察していきます。そういう意味では梅原猛的な感じもあるんですが、基本はやはり考古学者で、この点、森浩一に近いかもしれませんね。
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