思想の言葉(『思想』2020年2月号)
三年半のあいだ、私は職場の院生たちと一冊の本の翻訳にそれ相応の時間と労力を注いだ。昨年一一月に岩波書店から刊行された『アーレント=ショーレム往復書簡』(原著二〇一〇年)である。そこには、ハンナ・アーレントとゲルショム・ショーレムが交わしていた、現存している一四一通にわたる書簡、はがき、電報がすべて収録されているとともに、ヨーロッパでの調査を踏まえてアーレントがユダヤ文化再興財団(JCR)の事務局長として一九五〇年前後にJCRに宛てて書いていた五本の「調査報告Field Report」が収録されている。いずれにも、いささか詳細すぎるほどの原注が施されている。
アーレントとショーレムの関係では、アーレントの『エルサレムのアイヒマン』(原著一九六三年)をめぐる論争がよく知られているが、あの論争に関わってすでに公表されていた二通の「公開書簡」もそこには収められている。その後の往復書簡を読むと、ショーレムが元来は私的なものであったたがいの書簡を公開するのにかなり強引であったこと、それに比べてアーレントがきわめて消極的であったことがよく分かる(たがいの書簡で用いられている言葉も論理も、とうてい公開するに足るだけの水準ではなされていない、というのがアーレントの判断だったようだ)。くわえて、ショーレムの手厳しい批判の手紙にアーレントが書き込んでいた注記やメモも、丁寧に原注で指示されている。
しかし、両者の往復書簡で重要なのはそこにいたる二人の関係である。アーレントの論考「シオニズム再考」(執筆一九四四年、掲載一九四五年一〇月)をめぐって、すでに一九四六年一月二八日付の手紙でショーレムがアーレントへ長い批判を綴り、約三カ月後の同年四月二一日付の手紙でアーレントが反批判を送っている。その応酬で、二人はそうとう踏み込んだ激しい論争を交わす。アイヒマン論争で語られる、アーレントの冷淡でシニカルな「口調」にたいするあの印象的なショーレムの嫌悪も、ここですでに登場する。さらに重要なのは、ホロコースト以降の世界で、ユダヤ文化を再興させるために、ナチスによって略奪された書籍、手稿、アーカイヴ、祭具などを取り戻そうと、強い協力関係のもとで両者が驚くほど精力的に努力していた事実である。
その詳細にここでふれることはできないが、両者の手紙の往復は、まだ第二次世界大戦が勃発する以前の一九三九年五月二九日付の亡命地パリからのアーレントの書簡にはじまる。そして、アイヒマン論争から間もない一九六四年七月二七日付のエルサレムからニューヨークのアーレントに宛てられたショーレムの(再会を期した!)短い手紙で、ふつりと途絶える。その間、たがいの発信地はアーレントの場合は主としてニューヨーク、ショーレムの場合は主としてエルサレムだが、双方ともヨーロッパ各地への短期・長期の滞在を行っているため、それぞれの手紙の発信地と着信地がめまぐるしく交替する局面も登場する。どこでなら手紙が相手に確実に届くかをあらかじめ確認し合っておく必要も生じる。
さて、ここからが本題だが、ドイツ語と英語を基調にしながら、ときにフランス語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、イディッシュ語、イタリア語、スペイン語等々が埋め込まれた、そういうやっかいな原文の翻訳に取り組みながら、私があらためて感じたのは、私たちがいままぎれもないひとつの文化の終焉、すなわち書簡文化と呼ぶべきものの終焉に立ち会っているのではないか、ということである。
書簡というありかたそのものは、文字が発明された時代にまで遡っておそらく確認することができるに違いない。しかし、それが郵便制度として整えられるのは「近代」にいたって、ということになるだろう。『アーレント=ショーレム往復書簡』に収められているショーレム宛のアーレントの二番目の手紙は、二人の共通の友人ヴァルター・ベンヤミンの自死を伝えたものだが、その後も二人の書簡にたびたび登場するベンヤミンは、ドイツ語で書かれた二七通の手紙を集めて、それぞれに印象的な解説を添えて『ドイツの人びと』(原著一九三六年)という書物としてペンネームで刊行した。彼がそこに収録したのは、一七八三年から一八八三年までの、ちょうど百年のあいだに記された手紙だった。その百年のうちにベンヤミンは「市民階級」の勃興と終焉を見定めていた。そのとき、自ら優れた手紙の書き手でもあったベンヤミンは、いつか訪れるかもしれない書簡文化の終焉までは視野に収めていなかったに違いない。それにたいして私たちは、ベンヤミンがドイツ語で書かれた手紙を抽出した百年を核として、さらに大きなサイクルで、書簡文化の勃興と終焉を捉えることができるのであって、『アーレント=ショーレム往復書簡』はその後期の局面を代表するドキュメント、と位置づけることができるように思えるのだ。
書簡文化というようなものが果たしてほんとうに存在したのか、と問うむきもあるかもしれない。「書簡文化」という言葉自体、おそらく私のここでの造語であるだろう。日々の細々とした事柄から、ときにはきわめて重い思想的なテーマにわたるまで、特定の相手に記された長短の手紙が、海を越え、山を越え、最後はひとりの配達人によってその当の相手に届けられる。そして、それにたいしてしばしば返信がしたためられ、今度は逆のルートをたどって海を越え、山を越え、ふたたび最後はひとりの配達人によって元の特定の相手に届けられる……。
もちろん、その際、発信人と受取人は、まさしくニューヨークのアーレントとエルサレムのショーレムのように、日常的に出会うことが困難な状態に置かれている。そのうえ、たがいの手紙が確実に相手に届く保証も存在しないのだ。アーレントをふくめ知人からの手紙が数カ月も届かない場合に、エルサレムのショーレムは何通もの手紙が海に沈んでいるのではないかと憂慮し、アーレントはたがいの手紙のやり取りを「細いけれどもしっかりとした糸」とショーレム宛の手紙で呼んでいる。まさしくそのような「細いけれどもしっかりとした糸」によって紡がれた文化、いや、そういう糸によってしか紡がれない文化というものがやはり存在していたのではなかったか。私の場合には、たがいの亡命期間中に交わされたものを中心とした『アドルノ=ベンヤミン往復書簡』がすぐに思い浮かぶが、アーレント自身を当事者とする『アーレント=ヤスパース往復書簡』、あるいは『フロイト=ユング往復書簡』など、それぞれの分野・関心に応じて貴重な往復書簡をいくつもあげることができるだろう。
いや、そういう書簡文化の本質を継承したものこそが電子メールである、と考えることもできるだろうか。海や山を船や飛行機で越えたり、最後はひとりの配達人に託されたりといった、七面倒で不確かなありかたをぐっと圧縮して、まさしく瞬時にして特定の相手に届けられる電子メール……。実際、私たちが毎日交わしている電子メールの数は、書簡文化の時代(書簡が通信の中心であった時代)に交わされていた手紙の数をはるかに凌駕しているに違いない。長いメールが相手から届いたときに私たちが感じることになるプレッシャーも、手紙の場合とよく似ているように思われる。しかし、特定の相手との電子メールのやり取りが「往復書簡」として成立する可能性はきわめて薄いのではないだろうか。端的にいって、わざわざ「往復書簡」として残すに足るようなものがそこには存在しにくいように思われる。ありうるとすれば、最初から「往復書簡」としてまとめることを前提にした意識的なメールのやり取りの場合だろう。そこからはしかし、『アーレント=ショーレム往復書簡』をはじめ、多くの往復書簡がまとっている偶然性が最初から排除されている。それはむしろ、往復書簡というよりは、企画された連続対談の、電子メール版である。
企画された対談と往復書簡の決定的な差異―。ここにも「書簡文化」を特徴づける大切な要素が存在しているに違いない。すでに記したとおり、なんといっても「書簡」はたがいが差し当たり直接には出会えないことを前提にしているものだからだ。いまは不在の、したがってすぐには言葉が返ってこない特定の相手にたいして、日々の出来事や自分の思いを継続的に綴った手紙―。そういう手紙の宛先となっている特定の相手は、やはり書き手にとって文字どおりかけがえのない存在である。書簡文化を支えていたもの、あるいは書簡文化が育んでいたものとは、発信人と受取人の、おそらくはそういう特異な関係そのものだったのだ。そのことからすれば、私たちが書簡文化の終焉とともに失おうとしているものも、自ずと明らかであるに違いない。
0 件のコメント:
コメントを投稿