古代阿波"倭"人全国進出の足跡
古代「倭(やまと)」と「大倭(おおやまと)」
魏志倭人伝に次のような記述があります。
『国々に市ありて、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。』
(国々には市があって余剰品と不足品を交換し合って交易をしており、大倭という役職の者にこれを監督させています。)
この「大倭」は、倭の官吏の名称、役職名で、現代で言えば局長、部長といったところでしょうか。女王卑弥呼の名代として国々の市を監督する権限を持っていたのです。
まさに大いなる倭の意味で使用されていたと思われますが、特にこの「大倭」の役職を担ったのが阿波鳴門の「宇豆彦(珍彦)」とその一族であったのです。
紀元3世紀前半卑弥呼の時代、阿波は「倭(邪馬臺:やまと)」と呼ばれていました。阿波鳴門の海人族(あまぞく)の大人(うし)「宇豆彦(珍彦)」一族が中心となって「大倭(おおやまと)」として全国を移動して国々の市を監督し、列島における東西の市の交易拠点を奈良纏向に置いて彼らの駐留本部としたことで纏向が東西の人々の集まる都市的形態を整えていったと考えられます。
奈良纏向が「宇豆彦」一族大倭氏の開拓地と目され、これが時とともに地名「大倭」の由来になったものと考えられます。阿波「倭」が開拓した "大いなる倭" 、副都の誕生です。これが開拓氏族(宇豆彦の子孫)によって伝承され、やがて律令制の「大倭国」となりました。
新撰姓氏録(※1)にはこのことがはっきりと分かる記述があります。「大和宿禰(やまとのすくね)」の説明で、神武天皇が速吸門(はやすひのと)で出逢った国つ神「宇豆彦(珍彦)」を「神知津彦(かむしりつひこ):別名椎根津彦(しひねつひこ)」と名付け、その軍功により「大倭国造(やまとのくにのみやつこ)」に任じていますが、この大倭国造は「大倭直(やまとのあたひ)」の始祖であると書かれているのです。つまり、古代「大倭」の地を治めたのが鳴門の宇豆彦であるということです。新撰姓氏録研究の第一人者佐伯有清氏も、また黛弘道氏も鳴門の大人(うし)だとは言っておられませんが(※2)、どうか新撰姓氏録・日本書紀・古事記の件の箇所を素直に読んでみて下さい。速吸門の宇豆彦とあれば、海水が大きく渦巻きのように吸い込まれるあの天下に名高い渦潮のある阿波鳴門以外には考えられないではありませんか、如何でしょうか。
※1 平安時代初期、弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑
※2 佐伯有清著『新撰姓氏録の研究 本文篇』251頁、『同 考證篇 第四』85~95頁:吉川弘文館
魏志倭人伝にまた曰く、『女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり。』
阿波の "倭" 人が海を越えて奈良纏向で拓いた地「大倭」であったからこそ倭人伝に記されているように阿波と奈良纏向が同じ倭種であったということが言えるのです。
この鳴門の「宇豆彦(珍彦)」をご祭神とする「宇志比古神社」と、すぐ裏山の宇志比古が葬られた「西山谷2号墳」をご紹介致します。
「宇志比古神社」(社殿によれば創立年代は太古)
県道12号線(通称:鳴池線)沿い、JR阿波大谷駅の北、「阿波神社」のすぐ東に鎮座しています。
鳥居前の信号のすぐ真北に「宇志比古神社」と彫り込まれた石柱があるのですぐ分かります(車も通行できます)。
「西山谷2号墳」
その北側の山にあったのが「宇豆彦(珍彦)」のお墓、「西山谷2号墳」です。平成12年の高松自動車道の整備に伴って取り壊され、現在は県立埋蔵文化財センターの敷地内に移築復元されています。その様子と説明表示写真をご覧頂きましょう。
紀元3世紀半ばに築造された、直径約20mの竪穴式石室を有する円墳です。
平成12年の発掘調査時には、畿内等の学者が大挙してやって来て現地を見て絶句するほどの驚きだったそうです。
畿内説の第一人者の1人、かつて徳島文理大学香川校の教授であった石野博信氏の新聞解説(※)によれば、『平石を積み、狭くて長い石室を作るのは四世紀の大和政権の葬法である。それと同タイプが三世紀中ごろの徳島にあるとは何ごとか、と学会は騒然とした。』と同氏に言わしめたほどの古墳です。
(※ 平成12年5月20日(土)付、徳島新聞朝刊)
要するに諸学者が一致して認めざるを得なかった事実は、この古墳が奈良盆地の初期王墓とされる「箸墓古墳」など畿内の数多くの巨大前方後円墳のルーツであることが明らかになったということです。この古墳一つ取っても阿波と奈良との関係がよくご理解頂けるものと思います。
石室内部からは「斜縁上方乍銘獣帯鏡」が出土しています。
この鏡は中国製の青銅鏡で、あの有名な三角縁神獣鏡よりも20~30年古く、ここから1.5kmほど西の「萩原1号墓」や奈良「ホケノ山古墳」で出土した「画文帯神獣鏡」とほぼ同時期の鏡です。
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