2025年4月10日木曜日

古代史の旅3:讃岐の古墳時代の王族、神櫛王と鷲住王 – 青海波@tokyoblog

古代史の旅3:讃岐の古墳時代の王族、神櫛王と鷲住王 – 青海波@tokyoblog

古代史の旅3:讃岐の古墳時代の王族、神櫛王と鷲住王

鷲住王は、讃岐と阿波の海部の祖であり、相撲の神ともいわれる力持ちの自由人であった。
鯽魚礒別王(フナシワケ)の子供と言われ、妹の二人「太姫朗姫(フトヒメノイラツメ)」と「高鶴(タカツル)朗姫」は履中天皇の妻となっている。鷲住王が「恆に住吉邑に居り」とあるが、履中天皇は鷲住王を召したが行方が分からず、召すのを諦めたとある。行動的で、讃岐、阿波、土佐方面の海部の村々で活躍している。
景行天皇と五十河媛の間の子、神櫛皇子が讃岐國造の始祖なり(書紀巻7)その三世、須売保礼命の子が魚即魚磯別王とされる。


脚咋別は、阿波國海部郡の肉咋(徳島県海部郡宍喰町)であるが、鷲住王は、宍喰川の流域を開拓し、農耕をはじめ、そこにはじめて邑をつくったとされる。『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている。鷲住王は阿波の却咋より、鵜足郡富隈村に移り住み、讃岐で薨玉し、飯山に葬ったと三代実録に記述がある。
履仲紀に「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見える伝説上の人物であるが、香川県の讃岐富士の麓の坂本町に、面白い伝承がある。
高木神社,香川県丸亀市土居町2-,(主神)鷲住王
大山神社,徳島県海部郡宍喰町塩深字尾鼻,(主神)鷲住王命
城山の西方約2km西坂元の国持地区に居館を構えた。西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。
輝く星の氏子われ-坂本神社由緒-
秋風そよぐ夕まぐれ、飯野の山は神さびて、星のまたたく宵なりき。 国持の里 鵜殿の越し、五の坪・倉前・馬倒し古き地名は今もなおここなしここに残れども、世の盛衰はいちじるしく。高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。
南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。摂津・住吉また阿波内喰にあり。一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。
薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。飯山大権現また力山大明神とも称す。その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。
初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。
鷲住王もその跡も、遠い遙かの昔より、今に輝く天の星。小さいながら私らも、これにつながり生きる星。
飯野の山を仰ぐ時、輝く星の氏子われ、氏子のわれらここに輝く。(昭和六十年六月吉日)
略系図は、以下のようになる。
景行天皇─ー神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鮒魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君
景行天皇以降の讃岐の王族
景行天皇の時代に、その命により、日本武尊は、東国を平定しその帰途に鈴鹿で亡くなられた。
東国の平定は、日本武尊に従ったのが稚武彦命(吉備武彦)と大伴武日であり、日本武尊の死を天皇に報告する役回りとなったのも吉備武彦であった。
景行天皇の皇子、皇女はたくさんいて、日本武尊と稚足彦尊と五十城入彦皇子を除いた御子はそれぞれ国や群に封じたという。あまりに、たくさんですが、母系で見れば、地域との関係が判りやすい。
東国遠征により、その後の美濃の八坂入媛の氏族が東国で反映する基盤となった。
主な景行天皇の皇子:日本書記
景行天皇(美濃の八坂入媛)—稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦、五十狭城入彦など
景行天皇(妃、播磨稻日大郎姫)—双子の男子:大碓皇子と日本武尊(小碓皇子)
景行天皇(妃、五十河媛)—-神櫛皇子(讃岐の国造の祖)と稲背入彦皇子(播磨別の祖)
景行天皇(妃 阿部氏木事の娘の高田媛)—武国凝別皇子(伊予国御村別の祖)
日本武尊の系譜
吉備と播磨の発展も、播磨稻日大郎姫や吉備武彦一族によるところが大きい。
日本武尊(妃 穂積忍山宿禰の娘の弟橘媛)—稚武彦王
日本武尊(妃 両道入姫皇女)—稲依別王(犬上・武部君の祖)、足仲彦尊、布忍入姫命、稚武王
日本武尊(妃 吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛)—武卵王(讃岐綾君の祖)と十城別王(伊予別君の祖)
景行43年;景行天皇は日本武尊の功績を伝えようと思い武部を定めた。
景行51年:日本武尊が神宮に献上した蝦夷を遠くに置くことにした。播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五つの国の佐伯部(さえきべ)の先祖。
景行52年:皇后の播磨大郎女が亡くなり、八坂入媛命を立てて皇后とした。
景行55年:彦狭島王を東山道十五国の都督に任じたが、春日で亡くなり、子の御諸別王に任じる。
景行60年:冬に天皇は高穴穂宮で崩御
以上が、日本書記に書かれた主な出来事です。
讃岐の神櫛王
『神櫛王』は讃岐国造の祖といわれ、その墓は、『牟礼の王墓』にあり毎年十月二十日には宮内庁からも来讃されちるようです。宮内庁所管で守部を置き、毎年王の命日(10月20日)を正辰祭と称し例祭を行うとある。
ずいぶん、人気のある王であり、広く讃岐の神社に祀られている。陵墓は、讃岐の城山と櫛梨と王墓(木田郡牟礼)の三説がある。寒川・三木・山田三郡の戸主であった讃岐氏は、王の子孫で、後の寒川・高松・植田・三木・十河・三谷・神内・山田・由良の諸氏は皆その後裔という。阿波脚咋・宇陀酒部・凡・神内・木国酒部・酒部・讃岐・紗抜大押・十河・星・三谷・益甲・和気なども同族とのことである。
神櫛王は宇陀酒部等の祖
宮道氏(みやじし)は、日本武尊の子である武卵王(たけかいこのみこ)の子孫と伝える宮道別の後裔氏族と推察される。山城国宇治郡(京都府京都市及び宇治市)を本拠とした宿禰姓の宮道氏が最も知られた。宇治郡大領だったと伝えられる宮道弥益の娘(一説には妹)宮道列子は、内大臣藤原高藤との間に藤原胤子(宇多天皇女御)らを産み、醍醐天皇の外祖母となった。宮道神社(みやじじんじゃ):宇治郡を本拠としていた宮道氏が、祖神である日本武尊・稚武王を祀ったことに始まる。また、山科神社立札によると「日本武尊・ 稚武王を祀る。社伝によれば寛平九年(897)宇多天皇の勅令により創建されたと伝え、以後、この地の豪族宮 道氏の祖神として、また山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の崇敬を受けて栄えてきた。
櫛梨神社 神櫛王命
社伝によれば、「景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚(海賊の比喩か)を討つために土佐から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神(磐船大明神)を祀った。また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神についてたずね、大麻神・大歳神、更に、山下明神・諏訪明神を祀った。さらに、船装束する時に、経津主神・武甕槌神(赤坂大明神)を祀った。その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、国造となった。仲哀天皇8年(199)9月15日。120歳で亡くなった皇子を
櫛梨山に葬り廟を建てて祀ったのが当社の起源。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という」とある。
大麻神社 善通寺市大麻町
穂積忍山彦根は、景行天皇の御代、その皇子・神櫛皇子命の勅により、当社を祭祀したという。穂積忍山彦根は、穂積忍山宿禰(物部氏の祖とも言われる穂積家)は、弟橘姫と忍山彦根の父である。神櫛皇子とともに、讃岐に定着したようです。(穂積忍山彦根は、現宮司白玖氏の遠祖)父親の穂積忍山宿禰は相模の国の西側の磯長の国の領主になった。
物部の系図では、
饒速日尊-宇麻志麻治命-彦湯支命-大禰命-出石心大臣命-大綜杵命-伊香色雄命-大水口宿禰命-建忍山宿禰→弟橘媛
皇子神社 丸亀市綾歌町岡田上 神櫛王命
香川県神社誌によると「祭神は景行天皇の皇子にして當国国造の始祖たるを以て里人其の徳を慕ひて奉祀すといふ」とある。
富隈神社 香川県仲多度郡満濃町
祭紳は吉備武彦命で、命は神櫛王の悪魚退治に従軍した部将で、仲多度郡の海岸に近い、多くの神社の祭紳として祀られいる神である。
皇美屋神社 善通寺市与北町 大己貴命 神櫛皇子 大伴武日連命

景行天皇の御宇南海の悪魚討伐の為め神櫛王、大伴武日、吉備津武彦と共に當地に下り給ひし時、大己貴命および國魂神を祀りて皇美和の社と称し悪魚討伐を祈り給ひしに始まり、悪魚平定の後里人其の徳を欽慕して皇子及び大伴武日連命を配祀せりといふ」とある
城山神社
「城山神社由緒略記」には、「 … 景行天皇はこうした勇気ある神櫛王を「讃岐の国造」としました。神櫛王は城山に城を築き讃岐の国を治めた。」とある。
清水神社 高松市川島町
三谷神社 綾歌郡飯山町
海部を統括した凡直氏と讃岐公
寒川氏は讃岐国造の始祖である神櫛王(景行天王皇子)の流をを汲むものである。
神櫛王の子孫は東讃で栄え、敏達天皇の代に国造であった星直(ほしのあたえ)は、国を押し統べるという意味で大押直(おおしあたえ)の姓(かばね)を賜い、のち凡直と改めたが、延暦10年(791)願い出て讃岐公の姓を許され、任明天皇の承和3年(836)にはその一族二十八家に讃岐朝臣の姓を賜った。寒川氏は讃岐氏の一族で、代々寒川郡司をしていたので、寒川をもって氏とした。
凡直(のべのあたい)氏が寒川郡山田郡三木郡を管轄し、後に敏達天皇より紗抜大押直(さぬきおおしのあたい)の姓を賜り讃岐公となったのである。讃岐公の遠祖は景行天皇の第十王子神櫛王とされ、後の国造橘の公成、公業らは平安末期讃岐東部を支配していたようであり、大川郡長尾町内の真鍋(真部)一族が今も神櫛王の墓のお祭りをしている。
安岐・周防・淡道・伊余・都佐などの諸国造は凡直の姓を持つ。 讃岐も凡直を称することがあるが、大押直の意で、所部の地域を統率するいわゆる大国造であったことを示す。
建貝児王は、神櫛王とは、別人
日本武尊が『神櫛王』の兄で、讃岐綾氏の祖といわれる『讃留霊王(武殻王)』の父です
建貝児王のまたの名前を武殻王・武卵王・武皷王・武養蚕命・多祁比古王命・武明王、武殻王(吉備穴戸媛生武皷王)は讃留王と呼ばれ、讃岐綾君(さぬきあやきみ)の祖となった。(栗田寛:新撰姓氏録考証による)
建貝児王も、軍事にすぐれていたようで、壱岐、平戸、三河の神社で祀られている。
景行天皇51年の条に『妃吉備武彦之女吉備穴戸媛生武皷王与十別城王其兄卵王是讃岐綾君の始祖也』とある。日本武尊吉備穴戸の悪神を誅し給ふ時吉備国に幸し吉備穴戸武媛武殻王を生む。王亦悪神を誅するの功により讃岐に留まり香川郡以西は王の領有となり當社を崇敬し給ふ。武殻王四世の裔綾眞玉の子酒部黒麿は世に城山長者と云ふ。四十六代孝謙天皇に奏し酒を献じ奉る。帝大いに賞し玉ひ勅ありて酒部の姓を賜ひ酒部黒麿と號す。
垂水神社(那賀郡三宅の里 垂水村字行時)武殻王
「讃留霊公の政事を行いし時、 この村に広き松原あり。その中に三本の大樹ありて常に枝葉繁れるが、この木の枝枝の葉に 水を含み、滴る露、雨のごとくなり。霊公不思議に思し召され、この下に水神が鎮まりおわし 座さんと宣いて,即ち社を建て三女神(註、田心姫命、瑞津姫命、市杵島姫命)を合祀し、太留水 社(たるみのやしろ)と称し奉り、これにより豊年うち続きたればこの地を垂水と名づけたり」とあります。
富隈神社(高篠村大字公文字山内)吉備武彦命
木烏神社(本島村大字本島字甲松ヶ浦)讃留霊王
宇夫階神社(宇多津町字西町)武殻王
春日神社(川津村字春日)武殻王
讃留霊王(武殻王)を祀る神社は、西讃岐に多い。穂積も同じ。讃岐の三野郡の三野物部が有名。
阿野郡陶村に有る讃留霊王の社、那珂郡興北村の讃留霊王の社、共に神櫛王を祀っている。
志々岐神社「武加比古王」長崎県壱岐郡石田町南触
神功皇后の新羅遠征に、十城別王、稚武王とともに、参戦した可能性がある。
宮道天神社「建貝兒王」愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂
建貝児王が宮道別の祖であり、その子の宮道宿禰速麿は穂国の県主(国造の下位の地方長官)となられ、その子孫は引き続き当地に在住し、ある時、その祖である建貝児王を祀ったのが宮道天神社
白鳥神社 香川県東かがわ市松原 日本武尊 両道入姫命 橘姫命
「成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武皷王に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる(武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)。日本武尊の御子 仲哀天皇の時代神籬を建て封戸を寄らせる。今の神社即ちその御跡である。」

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