本居宣長全集第八巻
馭戎慨言
馭慨言上之卷上
32〜33頁
…景初正始は。ともにかの國魏の年號にて。まことにかの姫尊(ヒメミコト)の御世にはあたれり。然れども此時にかの國へ使をつかはしたるよししるせるは。皆まことの皇 朝(スメラミカド)の御使にはあらず。筑紫の南のかたにていきほひある。熊襲(クマソ)などのたぐひなりしものの。女王の御名のもろ々のからくにまで高くかぶやきませるをもて。その御使といつはりて。私につかはしたりし使也。其故はまづ右の文に。かの國の帶方郡より。女王の都にいたるまでの国々をしるせるは。かのかしこの使の。大和の京へまゐるとて。べてきつる道の程をいへる如くに聞ゆめれど。よく見れば。まことは大和の京にはあらず。いかにといふに。まづ對馬一末盧伊都までは。 しるせる如くにて。たがはざるを。其夫に奴國不彌國投馬國などいへるは。 漢吳音はさらにもいはず。今の唐音をもてあてても。大和への道には。さる所の名共あることなし。又不彌國より女王の都まで。南をさして物せしさまにいへるもかなはず。大和はつくしよりはすべて東をさしてくる所にこそあれ。 また自女王國以北といへるもたがへり。以西とこそいふべけれ。 みづから来たらんに。かく北南と西東とをわきまふまじきよしなきをや。又投馬國より女王の都まで。水行十日陸行一月といへる。水行十日はさも有ぬべし。陸行一月はいと心得ず。月の字は日の誤なるべし。
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御宇【應神】天皇のあれましし所を。宇瀰となづけしよしあれば。それなるべし。投馬國は。それより南水行二十日といへるにつきて尋ぬるに。日向國兒湯郡に。都萬神社有て。續日本後紀三代實錄延喜式などにみゆ。此所にてもあらんか。
景初正始は。ともにかの國魏の年號にて。まことにかの
姫の御世にはあたれり。然れども此時にかの國へ使をつかはしたるよししるせるは。皆まことの
皇 朝の御使にはあらず。筑紫の南のかたにていきほひある。熊襲などのたぐひなりしものの。女王の御名のもろく
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馭慨言上之卷上
キマツ
オホヤフ
オホヤマト景初正始は。ともにかの國魏の年號にて。まことにかの
姫の御世にはあたれり。然れども此時にかの國へ使をつかはしたるよししるせるは。皆まことの
皇 朝の御使にはあらず。筑紫の南のかたにていきほひある。熊襲などのたぐひなりしものの。女王の御名のもろく
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馭慨言上之卷上
キマツ
オホヤフ
オホヤマト
のからくにまで高くかぶやきませるをもて。その御使といつはりて。私につかはしたりし使也。其故はまづ右の文
に。かの國の帶方郡より。女王の都にいたるまでの国々をしるせるは。かのかしこの使の。大和の京へまゐるとて。
べてきつる道の程をいへる如くに聞ゆめれど。よく見れば。まことは大和の京にはあらず。いかにといふに。まづ
對馬一末盧伊都までは。 しるせる如くにて。たがはざるを。其夫に奴國不彌國投馬國などいへるは。 漢吳音はさ
らにもいはず。今の唐音をもてあてても。大和への道には。さる所の名共あることなし。又不彌國より女王の都ま
で。南をさして物せしさまにいへるもかなはず。大和はつくしよりはすべて東をさしてくる所にこそあれ。 また
自女王國以北といへるもたがへり。以西とこそいふべけれ。 みづから来たらんに。かく北南と西東とをわきまふ
まじきよしなきをや。又投馬國より女王の都まで。水行十日陸行一月といへる。水行十日はさも有ぬべし。陸行一
月はいと心得ず。月の字は日の誤なるべし。
のからくにまで高くかぶやきませるをもて。その御使といつはりて。私につかはしたりし使也。其故はまづ右の文
に。かの國の帶方郡より。女王の都にいたるまでの国々をしるせるは。かのかしこの使の。大和の京へまゐるとて。
べてきつる道の程をいへる如くに聞ゆめれど。よく見れば。まことは大和の京にはあらず。いかにといふに。まづ
對馬一末盧伊都までは。 しるせる如くにて。たがはざるを。其夫に奴國不彌國投馬國などいへるは。 漢吳音はさ
らにもいはず。今の唐音をもてあてても。大和への道には。さる所の名共あることなし。又不彌國より女王の都ま
で。南をさして物せしさまにいへるもかなはず。大和はつくしよりはすべて東をさしてくる所にこそあれ。 また
自女王國以北といへるもたがへり。以西とこそいふべけれ。 みづから来たらんに。かく北南と西東とをわきまふ
まじきよしなきをや。又投馬國より女王の都まで。水行十日陸行一月といへる。水行十日はさも有ぬべし。陸行一
月はいと心得ず。月の字は日の誤なるべし。
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戎人 オホクロ
夏
ルコト
るべし。以感などいへるは。からびと大御神の道をしらざるが故に。かるみだりごとはするなり。ま
た魏志に。倭人。在三帶方東南大海之中」云々。從郡至。海岸水行。歴韓國作南乍東。 到其北岸狗邪韓國。
七千餘里始度三一海千餘里 至對馬國」云々。又南波一海千餘里一支國」【支本誤作、大。今北史改]
タルコト
ニシテル
ワーカ
ルフト
云々。又渡三一海千餘里至末盧國」云々。東南陸行五百里到伊都國」云々。世有王。皆統屬女王國」云々。
シテルマザ
ルマデ
ルマデ
ニスルコトヲ
0
東南至奴國╷百里云々。東行 至三不彌國百里云々。南至三 馬國。水行二十日云々。南至三邪馬臺國女王之所都。
水行十日。陸行一月云々。自三女王國以北。其戶數道里。可〟得三略載旁遠絕不可得詳 次有斯
馬國。次有已百支國。次有三不呼國次有姐奴國有對蘇國有三蘇奴國有呼邑國有華奴蘇奴國
有三鬼國有爲吾國有鬼奴國有邪馬國有躬臣國有利國。有三支惟國有三鳥奴國
水有三奴國此女王境界所,盡。其南有二狗奴國男子爲王云々。 三女王」云々。女王國東。渡"海千餘里復有
國皆種 云々。參問倭地絕在三海中洲嶋之上。或絕或連。周旋可五千餘里。景初二年六月。倭女王。遺三
スルラ
センコー
カツム
スル
ヘル
シム
バカリナリ
ルコト
大夫難升米等詣郡三天子」朝太守劉夏將京都其年十二月。詔書報三倭女王」云々。正始
元年。太守弓遼。逃三建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王」云々。倭王因〟使上表。答謝恩詔。其四
年。倭王復"使大夫伊聲者掖邪狗等八人」上獻云々。其八年。太守王傾到〟官。倭女王卑彌呼。與狗奴國男王卑彌
弓呼素不和。遺倭載斯鳥越等゜詣〟郡説 相攻撃 狀。遺塞曹掾三張政等。因齎詔書黃幢拜ī假難升米
爲告喩之卑彌呼以死云々。更立三男王國中不服。更相誅殺。復立卑彌呼宗女壹與。 【壹北史梁書杜佑通典皆
作】 年十三爲王國中邃定。政等以告喩壹與。壹與遣三倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人。三政等。
因詣獻上云々といへり。景初正始は。ともにかの國魏の年號にて。まことにかの
姫の御世にはあたれり。然れども此時にかの國へ使をつかはしたるよししるせるは。皆まことの
皇 朝の御使にはあらず。筑紫の南のかたにていきほひある。熊襲などのたぐひなりしものの。女王の御名のもろく
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馭慨言上之卷上
キマツ
オホヤフ
オホヤマト
のからくにまで高くかぶやきませるをもて。その御使といつはりて。私につかはしたりし使也。其故はまづ右の文
に。かの國の帶方郡より。女王の都にいたるまでの国々をしるせるは。かのかしこの使の。大和の京へまゐるとて。
べてきつる道の程をいへる如くに聞ゆめれど。よく見れば。まことは大和の京にはあらず。いかにといふに。まづ
對馬一末盧伊都までは。 しるせる如くにて。たがはざるを。其夫に奴國不彌國投馬國などいへるは。 漢吳音はさ
らにもいはず。今の唐音をもてあてても。大和への道には。さる所の名共あることなし。又不彌國より女王の都ま
で。南をさして物せしさまにいへるもかなはず。大和はつくしよりはすべて東をさしてくる所にこそあれ。 また
自女王國以北といへるもたがへり。以西とこそいふべけれ。 みづから来たらんに。かく北南と西東とをわきまふ
まじきよしなきをや。又投馬國より女王の都まで。水行十日陸行一月といへる。水行十日はさも有ぬべし。陸行一
月はいと心得ず。月の字は日の誤なるべし。さて一日としてはいづこの海邊よりも。大和の京へはいたりがたく。
又一月ならんには。山陽道のなからのほどより。陸路をのぼりしとせんか。 さること有べくもあらず。 古西の國よ
りやまとへのぼるには。すべて難波の津までは。船より物するぞ。 定れることなりける。かくあまたたがへる事共
のあるは。大和の京にあらざりししるしにて。誠にはかの筑紫なりしものの。おのれ姫尊也といつはりて。魏王が
使をも受つるに。あざむかれつるものなれば。其使のへてきたりけん國々も。女王の都と思ひしも。皆筑紫のうち
なりけり。されば不彌國といふより。投馬國などいへるもみな。つくしのしまの東べたを。南をさして物せし。海
つ路にて。その過し方を以北といへるも此故なり。また周旋可三五千餘里」といへるも。筑紫の淵にて。ほとりの鳴
嶋かけたる程によくかなへり。さて女王國東海千餘里。復有、皆倭種といへるも。大和にしてはかなはず。
これもつくしより海をへだてて東なる。四國をいへるなり。 後漢書には是を。自三女王國」東。度"海千餘里。至
狗奴國難に皆種而不屬三女王」といへるも。かの筑紫のいつはれるものにしたがはぬをいへるにて。狗奴國と
カフノノサト
クスガチ
ルコト
バカリ
ナリ
は。伊豫國風早郡に河野郷あれば。それなどをいへるか。魏志に狗奴國の男王といへるも。すなはち此河野のわた
ルコト
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202
1
馭戎慨言
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スメラミカド
ニアメノ
シモツケノ
りをうしはきたりしものをいふなるべし。さて思ふに。かの伊都國の次にいへる奴國は。仲哀紀に儺縣。宣化紀
に那津とあるところにて筑前。不彌國も同じき國にて。
生
スメラミコト
御宇【應神】天皇のあれましし所を。宇瀰となづけしよしあれば。それなるべし。投馬國は。それより
コユノ
ナノアガー
南水行二十日といへるにつきて尋ぬるに。日向國兒湯郡に。都萬神社有て。續日本後紀三代實錄延喜式などにみゆ。
此所にてもあらんか。さて其餘の旁國とは。此道すぢにはあらぬ國々をいひて。其名共の中に。斯馬國鬼國爲吾國
などいふがある。志摩國紀の國伊賀國にて。大和のかたはらの國也と思へる人あれど。よく思へば。斯馬は筑前
國志摩郡か。或は大隅國囎唹郡の志摩郷かなるべし。鬼國は肥前國基肄郡也。爲吾は。筑後國に生葉郡あり。然れ
ばこれらもみなつくしけり。その外姐奴は。伊豫國周敷郡に田野郷あり。對蘇國は土佐をいふか。邪馬國は。
ヤマクニ
メノアガタ
豊前國下毛郡に山國あり。又景行紀に八女縣といふも見ゆ。烏奴國は。周防國吉敷郡に宇努鄕あり。又大野とい
ふ所も。西の國々にこかしこ見えたり。さて後漢書また此魏志に。かの
ラ セシム
姫奪の御事を申せる中に。自爲以来。有見者以三婢千人」自侍 唯有三男子一人。給二飲食傳辭出入といへ
隔
見
るも。あらぬこと也。今思ふに。これもかのつくしにていつはりしものの。おのれまことには男にて。女王にあら
不 肯面見 トバリ
ざるが故に。かの魏の使に。たゞにはえあはで。帳などたれて。物ごしにぞあへりけん。其時にいつはりて。女王
はをさく人に見え給ふことなし。此國人にあひ給ふも。つねにかくのみこそあれ。などいはせしそらごとを。其
使は誠と思ひて。國にかへりても。しか語りし也。又倭王因〟使上表といへるも。いみしきひがこと也。そのかみ
カラ
御國にいまだ漢もじをしることなし。さればこは使に來しものの。いつはり作りて。かの王に見せけるか。又みだ
りにそへていへるにも有なんかし。また卑彌呼以死云々。立三卑彌呼宗女壹與年十三篇といへる。
死
來
皇 朝にはかたもなき事なれば。是もかの筑紫のもののうへにて。かの張政といひし者のきつるをりは。さきの度の使
をうけしをのこは。誠にしにけるか。又さらず共。卑彌呼は
カンアガリ
崩まして。その宗女也といひなして。此度は十三に
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