「日域」とは、日の出るところという意味で日本のことです。西吟と知空は、『日本書紀』の注釈書である『日本書紀纂疏』(一条兼良著、成立は康正年間[一四五五年-一四五七年])により、「日本」の字義、倭訓、別号を次のように釈しています(なお、適宜、知空の『助講』の注釈を文中に挿入します)。
日域とは和国の別名なり。纂疏(「日本紀の疏、藤原の兼良著す。今の文一巻に出ず」、『助講』三十丁右)に云く。唐書伝に云く。日本国は和国の別種(「種は称と作し合ふ。疏に云ふ。日本これには訓じて耶麻止と曰ふ。耶麻止、今は機内一国の名と為す。其れ天下を有するの号と為するは何ぞや。曰く、神武皇帝初め大和の国磐余の地に都す。因て耶麻止を以て天下を有するの号と為す。」、『助講』三十丁右~左)なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に日本を以て名と為す。或は倭国(「纂疏に云ふ。韵書を按ずるに倭は烏禾の切、女王国の名乃至姫氏国と。但し韵書を考えるに姫は婦人の美称と。而るに天照太神は始祖の陰霊、神功皇后は中興の女主、故に国俗、或は仮借して之を用ふ。字に依て義に依らざるなり。
仏祖統紀の四十四に云く。日本は漢の倭人なり。京師を去ること萬四千里新羅の東南にあたる。海中の嶋に在る。左右の小嶋五十余皆自ら国と名づけて之臣附す。其の俗女多く男少なし。文字有り浮図を尚とぶ。其の王姓は阿毎氏、初主を天御中主彦剣と号す。五十二世皆尊を以て号と為す。
竺紫城に居す彦子神武(神武・池田注)立つ更に天皇を以て号と為す。徒て大和の州を治す。又十六世にして応神に至る、又十四世にして欽明に至る。又二世にして用明に至る。当に隋の開皇の末に当たる。始めて中国と通ず。乃至。改めて日本と号す言ココロは其の国東に在り日の出る所に近ひなり。」、『助講』三十丁左)
と曰ふ。
自ら其の名雅しからざるを悪んで、改めて日本と為す。或が曰く。日本、旧は小国なり、倭国の地を併せて其の人朝(大唐のこと)に入る者多く自ら大に矜ホコつて実を以て対コタへず。故に中国焉コれを疑ふ。一義に日本(本来は「一義に曰く」・池田注)は、猶を始めとするなり。陰陽二神(「伊弉諾の尊、伊弉冉の尊」、『助講』三十丁左)、始めて日神(「日神は天照太神」、『助講』三十丁左)を生む故に日本を以て名と為す。又日は出入を以て始終と為す、此れは日の出るの国なり。一義に曰く、日は、衆陽の宗、人君の表なり。故に天に二日無し、地に二王無し。孟子の曰く、天の物を生ずるなり、これを一本ならしむ。其の人物の生ずること皆二本ならず、乃し自然の謂(「謂は本、理に作る」、『助講』三十一丁右)なり。又、和面国(「和は本、倭に作る」、『助講』三十一丁右)と云ふ。謂く、此の方の男女、皆面を點じ身を文(カザル)(入墨をしている・池田注)故に面の字を加えて之を呼ぶ。(『要解』巻三・三丁左~四丁左)
https://jiganji.exblog.jp/28749084/正信念仏偈講義集成 [31] : 慈願寺
Ⅲ 依釈段 ―七高僧によって教義を説く―
一 三国の相承
【本文】
印度西天之論家 中夏日域之高僧 顯大聖興世正意 ●如来本誓應機
【書き下し文】
印度西天の論家、中夏(中国)・日域(日本)の高僧、大聖(釈尊)興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす。
【現代語訳】
インドの菩薩方や中国と日本の高僧方が、釈尊が世に出られた本意をあらわし、阿弥陀仏の本願はわたしたちのためにたてられたことを明らかにされた。
【先徳の釈】
《六要鈔》
「印度」以下の二行四句は、総じて三朝の高僧弘教利生の本心を明かす。「顕大」等とは、釈尊発遣の聖意を顕かす。「明知」等とは、弥陀済度の仏願を示す。(和訳六要鈔一二八頁、宗祖部二六九頁)
《正信偈大意》
「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。(註釈版一〇二九頁)
【講義】
◎印度西天之論家 中夏日域之高僧
「印度西天之論家」以下「唯可信斯高僧説」までの七十六句は、七高僧の業績にもとづいて讃えられる「依釈段」です。
西吟は「此れより以下七十六句は略して七祖弘法の勝徳を挙げて、人をして今、此の念仏は祖祖相承して臆説に出でざるを知識せしめて、而して転た信心を生ぜんと欲す。故に下に結して大士宗師無辺の衆生を拯済すと云ひ、又己れを隠して化功を彼に推つて、唯可信斯等と云ふなり。凡そ文を分つに三有り。一に印度以下の四句は略して三朝高祖の弘化を標す。二に釈迦以下の六十八句は正しく七祖の徳化を釈す。三に弘経等の四句はこれ結勧なり。」(『要解』巻三・一丁右~左)と釈しています。
依釈段の最初の四句は総じて三国の七高僧を讃じます。「印度西天之論家 中夏日域之高僧」は【現代語訳】に「インドの菩薩方や中国と日本の高僧方が」とあります。
西吟は「始め略標の中に印度等の両句は列祖所生の国名を挙げ、次の両句は其の所勧の法の勝ることを示す。」(『要解』巻三・一丁左)と釈しています。
「印度」とは、インドを指します。もとペルシャ人が東方に海のような大河(インダス河)があったことから、その地方をインド(海)とよんだので、それが国名になったといわれます。
「西天」は、インドは中国の西にあり、天竺ともいわれているので西天ともいわれました。西吟は「西天は五天の中の西天には非ず。然る所以は、此の二菩薩は南北の両天に生ずるが故に(割注略)今は彼の地震旦より西方に当たるを以ての故に総じて五天竺を指して西天と云ふなり。」(『要解』巻三・三丁右、『刊定』巻中・三丁左)と釈し、性海は「傳燈録の一に龍樹は西天竺人と云ふは、これ行化の地ならんか。」(『刊定』巻中・三丁左)と述べ、恵然は「西天は東漢に対するなり。」(『句義』二九二頁)と釈し、隨慧は「西天とは五竺中の西を指に非ず。只是支那皇和(神聖な日本国の意・池田注)の西にあり、故に西天と云ふ。」(『説約』七六頁)と釈し、仰誓は「西天は西方天竺の略語。勦(月筌『勦説』二一頁)の「西方の天涯」は穏やかならず。軌(若霖『文軌』四八頁)に云ふ。「五竺中の西を指すに非ず。只是れ支那皇和の西に在るが故に云ふなり」」(『夏爐』一三七頁)と釈し、僧鎔は「天は天竺の略語。西方天竺と言ふごとし」(『評註』一五頁、観道『慶嘆』三八〇頁)と釈しています。『玄義分』には「「仏」といふはすなはちこれ西国(印度)の正音なり」(七祖篇三〇一頁)、「教文類」には「西蕃・月支の聖典」(註釈版一三二頁)とあります。
「論家」とは、西吟は「論家とは龍天各々多く論を作りて化を五夭に張る、故に二大士を指して論家と云ふなり。」(『要解』巻三・三丁左)と釈し、僧鎔は「論を造りて一家を成す」(『評註』一五頁)と釈しています。論(経・論・釈の論を指す)を作った人の意で龍樹と天親を指します。
「中夏」とは、中央にある盛んな国の意で、中国人の自称です。中夏の中は天下の中枢、夏は大の意で、中国人が自国を自ら尊んでいう語です。「中華」の華は美の意で、中華といった場合は、文化の中心地の意です。インドを中心に考えると中国は東に位置しますから「東夏」ともいいます。「中夏」も「東夏」も中国を指します。
西吟は「中夏とは中国、之を諸夏と謂ふ。これ中国を指して中夏と謂ふ。又大厦と云ふなり。」(『要解』巻三・三丁左)と釈し、性海は「中夏とは即ち震旦なり。左傳の註疎十一曰く。此に諸夏と言ふ。襄四年の傳に諸華と云ふ。華夏は皆中国を謂ふなり。中国にてこれを華夏と謂ふは夏は大なり。言う心は礼儀の大なること有り、文章の華有ればなり。文。即ち三祖の生處、行化の地なり。」(『刊定』巻中・三丁左~四丁右)と釈し、慧雲は「中夏とは、軌(『文軌』四八頁・池田注)云ふ。即ち震旦を指す。彼の人、自ら中国と称し華夏と言ふ。故に其の称に順ず。」(『呉江』二〇頁、観道『慶嘆』三八〇頁)と釈しています。
「日域」とは、日の出るところという意味で日本のことです。西吟と知空は、『日本書紀』の注釈書である『日本書紀纂疏』(一条兼良著、成立は康正年間[一四五五年-一四五七年])により、「日本」の字義、倭訓、別号を次のように釈しています(なお、適宜、知空の『助講』の注釈を文中に挿入します)。
日域とは和国の別名なり。纂疏(「日本紀の疏、藤原の兼良著す。今の文一巻に出ず」、『助講』三十丁右)に云く。唐書伝に云く。日本国は和国の別種(「種は称と作し合ふ。疏に云ふ。日本これには訓じて耶麻止と曰ふ。耶麻止、今は機内一国の名と為す。其れ天下を有するの号と為するは何ぞや。曰く、神武皇帝初め大和の国磐余の地に都す。因て耶麻止を以て天下を有するの号と為す。」、『助講』三十丁右~左)なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に日本を以て名と為す。或は倭国(「纂疏に云ふ。韵書を按ずるに倭は烏禾の切、女王国の名乃至姫氏国と。但し韵書を考えるに姫は婦人の美称と。而るに天照太神は始祖の陰霊、神功皇后は中興の女主、故に国俗、或は仮借して之を用ふ。字に依て義に依らざるなり。仏祖統紀の四十四に云く。日本は漢の倭人なり。京師を去ること萬四千里新羅の東南にあたる。海中の嶋に在る。左右の小嶋五十余皆自ら国と名づけて之臣附す。其の俗女多く男少なし。文字有り浮図を尚とぶ。其の王姓は阿毎氏、初主を天御中主彦剣と号す。五十二世皆尊を以て号と為す。竺紫城に居す彦子神武(神武・池田注)立つ更に天皇を以て号と為す。徒て大和の州を治す。又十六世にして応神に至る、又十四世にして欽明に至る。又二世にして用明に至る。当に隋の開皇の末に当たる。始めて中国と通ず。乃至。改めて日本と号す言ココロは其の国東に在り日の出る所に近ひなり。」、『助講』三十丁左)と曰ふ。自ら其の名雅しからざるを悪んで、改めて日本と為す。或が曰く。日本、旧は小国なり、倭国の地を併せて其の人朝(大唐のこと)に入る者多く自ら大に矜ホコつて実を以て対コタへず。故に中国焉コれを疑ふ。一義に日本(本来は「一義に曰く」・池田注)は、猶を始めとするなり。陰陽二神(「伊弉諾の尊、伊弉冉の尊」、『助講』三十丁左)、始めて日神(「日神は天照太神」、『助講』三十丁左)を生む故に日本を以て名と為す。又日は出入を以て始終と為す、此れは日の出るの国なり。一義に曰く、日は、衆陽の宗、人君の表なり。故に天に二日無し、地に二王無し。孟子の曰く、天の物を生ずるなり、これを一本ならしむ。其の人物の生ずること皆二本ならず、乃し自然の謂(「謂は本、理に作る」、『助講』三十一丁右)なり。又、和面国(「和は本、倭に作る」、『助講』三十一丁右)と云ふ。謂く、此の方の男女、皆面を點じ身を文(カザル)(入墨をしている・池田注)故に面の字を加えて之を呼ぶ。(『要解』巻三・三丁左~四丁左)
また、性海は西吟の『要解』により「日域とはこの国、日に邊に在るを以ての故に日本と名づく。」(『刊定』巻中・四丁右)と釈し、若霖は「日域、日の出る處、東に在る。(『文選註』九)と。」(『文軌』四八頁、慧雲『呉江』二〇頁、観道『慶嘆』三八〇頁)と釈し、月筌は「域とは、『説文』に「邦也」と」(『勦説』二一頁)と釈しています。
「高僧」とは名も徳も非常に高い僧という意味で、ここでは曇鸞以下の五祖を指します。西吟は「高祖(「高僧に作るべし」、『助講』三十一丁右)とはこれ五祖を尊称するの言なり。」(『要解』巻三・四丁左)と釈し、性海も「高僧はこれ五祖を尊称するの號なり。」(『刊定』巻中・四丁右)と釈し、若霖は「鸞師已下の五祖を指して言ふ」(『文軌』四八頁)と釈し、法霖は「東土の三祖、吾邦の二祖なり」(『捕影』三二頁)と釈し、隨慧は「すなはち鸞師已下の五祖なり」(『説約』三七七頁)と釈し、慧琳は「漢和の五祖を指す」(『帯佩』五〇九頁)と釈し、慧雲は「漢和五祖を指すなり」(『呉江』二〇頁)と釈し、仰誓は「今、支那皇和の五祖を指して高僧と言ふ。」(『夏爐』一三八頁)と釈し、道隠は「漢和の五祖」(『甄解』三一八頁)と釈し、深励は「高僧とは七高僧の中、曇鸞・道綽・善導の唐の三祖と、源信・源空の日本の二祖を指す」(『講義』一三七頁)と釈し、観道は「漢和の五祖を指す」(『慶嘆』三八〇頁)と釈し、僧叡は「玄忠已来の五祖を指す」(『要決』四四二頁)と釈しています。
親鸞は「東夷」という地政的位置関係の言葉を使用していませんが、「粟散片州」(『高僧和讃』「源空讃」註釈版五九八頁、『尊号真像銘文』註釈版六六一頁など参照)という言葉の使用からも知られるように、「中夏」的世界観の中に生きていたといえましょう。
『正信念仏偈』の注釈を施した存覚は、『正信念仏偈』の偈文の直接の釈ではありませんが、『六要鈔』にて「我朝是神国也」と語り「特別に念じなくとも利益を蒙るゆえ弥陀を念ずれば必ず諸仏・菩薩の冥護を得る。その垂迹である天神・地祇も本地の聖慮と違うわけではない。」(宗祖部四一八頁、和訳六要鈔四一一~四一二頁)と釈していましたから、西吟や知空の釈にて、「日神」(天照太神)との観念的な位置関係から「日域」が解釈され、普門に至ると「日本神国は仏法流布する大乗相応の地なり」(『發覆』二四四頁)と釈されるも当然の帰結でありました。
親鸞における「中夏日域」という「中夏」的世界観から、「支那皇和」という「皇和」的世界観への移行が知られます。(二藤京「比較文学の視点から見る「日本」―『日本書紀』と『日本書紀纂疏』を中心に」、『高崎経済大学論集』第四八巻第三号、二〇〇六年、参照)
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