2026年1月29日木曜日

唐代三夷教 - Wikipedia

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ネストリウス派(景教)

7世紀-8世紀頃の中国でのネストリウス派の祭礼、出自高昌景教寺院壁画中国語版。 
イエス・キリストイェルサレム入城を祝う祭典「聖枝祭」を描いたもの。
莫高窟出土の蔵経洞キリスト像広東語版絹画断片。

ネストリウス派は、コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれたキリスト教の教派の1つである[注釈 1]。この教派は、431年エフェソス公会議において異端として排斥されたため、宣教の中心を東方へ移動し、シリア、ペルシア、アラビア、南インドなどで布教した[4]

中国へは、太宗の時代の635年(貞観9年)にイラン人司祭阿羅本」率いる一団の宣教師によって伝えられた[3][注釈 2]。太宗は、その宣教を許し、3代高宗の時代になると、阿羅本は「鎮国大法主」という高い地位に封ぜられ、地方の州にも景寺(教会)を建てるよう詔勅が下された[3]。中国では「景教(けいきょう)」と表記されたが[4]、景教とは中国語で「光の信仰」という意味であり、景教教会は当初「波斯(ペルシア)寺」のちに「大秦寺」の名で各地に建立された[注釈 3]。景教はまた、「ミシア(Missiah 救世主)教」とも呼ばれ、「彌尸訶」「彌施訶」「彌失訶」などの字があてられた[5]

大秦塔西安市郊外周至県
高昌景教の聖堂付近で出土した絹画断片、上部にロバに乗り手に十字杖を持つキリストと一人の女性信徒が画かれ、聖枝節を描いたものと思われる。出自高昌景教寺院壁画広東語版

当初、唐の朝廷は皇族も含めた支配層鮮卑匈奴などの北族的要素を濃厚に有したこともあり、景教や仏教など非中華地域由来の宗教に対し寛容で、これらの信仰を保護した。698年聖暦元年)、高宗の皇后であった武則天(則天武后)の仏教偏重政策により一時衰退したが、9代玄宗の時代には、寧王であった李憲ら五王が参拝し、庇護されるようになった。742年天宝元年)には、玄宗が大将軍で宦官であった高力士に命じ、高宗・玄宗ら五代皇帝の御真影を寺に安置させ、また百匹を賜って祭るように指令しており、745年(天宝4年)には大秦国(東ローマ帝国)から、高僧として知られる佶和(ゲワルギス)が長安を訪れた[注釈 4]。玄宗はアブラハムやパウロと称される17人の神職に命じ、ゲワルギスとともに興慶宮において景教式の大法会を執行させた。このような玄宗による景教保護には、景教による王権の権威づけといった意図も考えられる[5]

ネストリウス派は、8世紀後半の代宗(11代皇帝)の時代にも庇護された。このような隆盛を受けて、12代徳宗治下の781年建中2年)には、有名な「大秦景教流行中国碑」が建立されている[注釈 5]

祆教とは異なり、景教には多数の中国人信者がいたことが判明している[3]。景教は当初ペルシア人によって伝えられたものであることから多分にペルシア化したキリスト教であったが、漢訳景教経典も遺存していることから、その教義の全貌も解明されてきている[3]。それによれば、景教は仏教や道家老子荘子の思想)のことばも採用し、さらに、皇帝にはを、にはを説くなど儒家の要素もあって、多分に中国化している[3]

しかし、唐代末期の845年会昌5年)には、18代皇帝の武宗による「会昌の廃仏」(仏教の立場からは「三武一宗の法難」のひとつとされる)など、唐王朝を伝統的中華王朝に位置づける意識が強まって、弾圧の対象となった。

ネストリウス派は、布教によって、のちにモンゴル帝国を構成することとなる北方の遊牧民にも広がり、チンギス・カン一族のなかにも、また、カン家の姻族にあたる諸氏にも熱心な信者を獲得し、の時代には再び中国本土でも広く信者を得た。錦江や杭州揚州などでは会堂もひらかれた[3]。しかし、モンゴル帝国中枢の諸集団は、西方ではイスラームトルコ系言語を受容してテュルク化していった一方、東方ではチベット仏教を篤く信仰し、これを保護したため、ネストリウス派の信仰はしだいに衰亡、消滅していった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E4%BB%A3%E4%B8%89%E5%A4%B7%E6%95%99

唐代三夷教

このうちゾロアスター教が南北朝時代にまず中国に伝わり、ついで唐代に入りネストリウス派キリスト教とマニ教が伝わる。いずれも、当時「西域」と呼ばれた地域を経由しての伝播であったが、の2代皇帝太宗は西域支配に乗り出し、640年貞観14年)には高昌国を滅ぼして、そこに安西大都護府を置いた。この3宗教は、盛唐(8世紀初頭)の頃には玄宗による開明的な国家運営の下、首都長安においてそれぞれに隆盛期を迎え、史上「唐代三夷教」と呼称されることになる。当時、人口約100万を誇った長安は異国情緒あふれる国際都市で、市街ではインド人の幻術師やペルシア系の踊り子歌手、楽士、酌婦、給仕などをみかけることも少なくなく、後宮ではポロが人気を博し、貴婦人のあいだでは乗馬が流行した[1]。そうしたなかで、「三夷教」にも広く門戸が開かれていたのである。

しかし、3宗教とも、9世紀後半に武宗が行った会昌の廃仏において仏教とともに弾圧を受け、それ以降は中国史の表舞台からは姿を消した。ただし、その影響は様々なかたちで後世に残り、特にマニ教は代に至るまで、社会のなかで隠然たる影響力を持ったとされる。以下において、中国史の中におけるそれぞれの歩みについて概説する。

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