戦国時代へトリップ、長宗我部元親の足跡を訪ねる

戦国武将、長宗我部元親が居城とした岡豊城
高知県を代表する城といえば、誰もが高知城を連想するだろう。しかしその一角に、別の城の片鱗がひっそりと佇んでいるのをご存知だろうか。三の丸で発見されている、石垣の一部がそれだ。
高知城内の壮大な石垣と比べると、いかにも古めかしく、築造時期の違いは一目瞭然。石材は小さく、高さは3メートルにも満たない。これは、山内一豊が高知城を築く前、長宗我部元親が築いた大高坂城の石垣だ。高知市から東へ約10キロほど離れた岡豊城を本拠としていた元親は、1588(天正16)年頃にこの城を築き、居城を移している。
1575(天正3)年に土佐統一を果たし、四国平定の道を突き進んだ元親。1585(天正13)年に四国全土の統一をほぼ果たしたものの、同年には、豊臣秀吉による四国攻めを受けて降伏した。秀吉の支配下に入ると土佐一国のみを安堵され、秀吉のもとで戦いに明け暮れる日々を過ごすこととなった。大高坂城への移転も、朝鮮出兵を睨んだ秀吉による命だったのだろう。

高知城三の丸で確認された、長宗我部元親が築いた大高坂城の石垣。秀吉政権との密接な関わりを示す桐紋瓦も発掘されている
遡れば、戦国時代の土佐は、応仁・文明の乱により支配力を弱めた細川氏に替わり、一条氏、津野氏、大平氏、吉良氏、本山氏、山田氏、香宗我部氏などの国人たちが覇権を争っていた。群雄割拠の世で勝ち上がったのが、長宗我部氏だった。長宗我部氏の岡豊城は、1508(永正5)年頃に本山氏らに攻め込まれて一度は落城している。しかし、元親の父である国親が1516(永正13)年頃に再興。その後、小勢力ながら着実に支配圏を広げていった。そして、その跡を継いで飛躍したのが元親というわけである。
幼い頃の元親が「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されるほど、おとなしい性格だったことはよく語られる。しかし、初陣では勇猛ぶりを見せつけると、「鬼若子」と賞讃された。第21代当主となり土佐一国を統一すると、「土佐の出来人」と呼ばれるほどになった。岡豊城は、そんな元親の飛躍の舞台でもある。

高知県立歴史民俗資料館に建つ長宗我部元親の銅像
さて、岡豊城へと向かおう。城は、香長平野に点在する丘陵のひとつ、標高97メートルの岡豊山に築かれている。中腹に建つ高知県立歴史民俗資料館を目指せばよいから、とても訪れやすい。築城年は定かではないが、おそらくは15世紀後半~16世紀初頭とみられる。この地は土佐国衙(こくが)や土佐国分寺に近く、古代から土佐の中心地だった。
高知県立歴史民俗資料館で長宗我部氏の歴史や岡豊城の構造をなんとなく頭に入れたら、いよいよ登城スタートだ。登城道は、歴史民俗資料館の裏手、長宗我部元親像の背後が入口として整備されている。2~3分も登れば、あっという間に二ノ段だ。

高知県立歴史民俗資料館の裏手にある登城口から、岡豊城へと登っていく
岡豊城は、山頂に主郭部を置き、主郭部には詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段などが階段状に並ぶ構造だ。東西に長い丘陵にあり、西の伝厩跡曲輪、南の伝家老屋敷曲輪までが城域となる。中枢の区画を「詰」と呼ぶのは珍しいのだが、この地域では一般的なのだという。二ノ段ではさっそく絶景が出迎えてくれ、東には土佐国衙や土佐国分寺が見下ろせる。

二ノ段からの眺め。土佐国分寺跡、土佐国衙跡、比江廃寺跡が望める
空堀を越えて2段上がったところが、本丸にあたる詰だ。中央部には礎石建物が建っていたことが判明していて、現在は櫓が建てられ展望台になっている。ここからの眺望もすばらしい。南には香長平野、西には高知市街地が見下ろせ、南斜面下には国分川が流れている。西から南にかけては当時から湿地帯だったようで、自然の要害となっていたことが実感できる。

詰に建てられた櫓。2階からは遠くには介良城、大津天竺城も見える。眼下に国分川が流れているのも確認できる
見忘れてはならない遺構が、詰の北西側にのびる丘陵で見られる「畝状竪堀群」だ。斜面と並行に掘られた竪堀が連続したもので、放射状ではなく、どちらかというと変則的に設けられている。土佐で長宗我部氏が侵攻した城を歩いていると、畝状竪堀群によく出会う。どうやら、長宗我部氏の城の特徴といえるのだろう。こうした城の変化や類似性を考察するのも、戦国時代の城を歩くときの楽しみである。

詰の北西にのびる丘陵には、長宗我部氏が城に用いた畝状竪堀群がよく残る。伝厩跡曲輪も、北西の二重の堀切と畝状竪堀群で守りが固められている
城内のいたるところに、発掘調査の解説版が置かれている。専門的で少し難しいのだが、要約すると、ポイントは3つ。詰下段や三ノ段から礎石建物が発掘されていること、三ノ段の土塁の内側に高さ1メートルほどの石垣が積まれていること、詰からは1585年に和泉の瓦工が動員されたことを示す「瓦工泉州」「天正三年」と書かれた瓦が見つかっていることだ。
これらはつまり、元親が織田信長と結びつき、城づくりの要素を取り入れた可能性を示唆する。いずれも、信長や秀吉の城に見られる特徴だからだ。三ノ段から四ノ段への出入口(虎口)も、信長・秀吉の城に類似する折れをともなうもの。通路や壁面など、シルエットのはしばしに2人の影を感じずにいられない。

折れをともなう枡形虎口

三ノ段南部の切岸と土塁

三ノ段からは高さ1メートルほどの石垣、西部の北半分に礎石建物が見つかった
四国のなかでも、高知は本州に背を向ける位置にある。そのため、政治・経済・文化などの面において地理的に不利だ。そこで元親は、様々な手で上方との結びつきを強化した。そのひとつが、縁戚関係だ。元親の母は美濃斎藤氏の娘といわれ、正室も美濃から迎えている。つまり、明智光秀と深い関わりがあることになる。信長に近しい光秀との結びつきが、元親にとって優位にはたらいていたのだろう。
秀吉とは有効な人脈を築けなかったために外交戦で遅れをとり、四国征伐のきっかけを与えてしまったようだ。その後は九州攻めで嫡男の信親を失うなど、運に見放されることが少なくなかった元親。岡豊城は、四国の英雄である元親の栄華と衰退に思いを馳せられる城でもある。
岡豊城では発掘調査に加え、近年はレーザー測量も行われている。知られざる一面が顔を出し、なかなかに興味深い。戦国時代の典型的な山城と思いきや、信長政権と関わり、新時代の城の顔も見え隠れする、目が離せない城なのだ。
交通・問い合わせ・参考サイト
岡豊城(高知県立歴史民俗資料館)
JR「高知」駅から車で約20分
088-862-2211
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