遺跡情報
こうちじょうあと
高知城跡
高知城跡は、高知市内中央部に位置し、標高45mの大高坂山に築かれています。市内を東流する鏡川と江の口川に挟まれた孤立丘陵上に立地し、双方の川を外堀とし、山麓には内堀を配しています。城跡の基礎は南北朝期に遡り大高坂氏の頃とされています。その頃の遺構と遺物は城内の西部にある「御台所跡」で確認されています。天正16年(1588)には長宗我部氏が大高坂城(高知城)に進出してきます。その後、慶長三年(1601)に山内氏が土佐に入国し、現在の本丸、二の丸が完成した後に入城します。現在の高知城の姿に近い形に完成するのは慶長16年(1611)二代藩主忠義の時代で「三の丸」が完成します。近年、本丸の南石垣と三の丸の東面、南面の改修工事が行われ、発掘調査が行われました。三の丸石垣の背面には長宗我部氏の段階に築かれた高さ3mほどの石垣が発見され、桐文瓦が出土しました。また、江戸時代の三ノ丸御殿に関連する排水施設である石組み暗渠も確認されました。これらは、現在の三ノ丸で整備後、露出展示されており見学できます。
- 所在地
- 高知県高知市丸ノ内 GoogleMAPで表示
- 主な時代
- 江戸時代
- 主な遺構
- 石垣(長宗我部期)・石組み排水施設(石樋)・ピット・土坑
- 主な遺物
- 土師質土器・備前焼・近世陶磁器・瓦 他
基本情報
備 考
その他の遺跡
むこうやませんそういせき
向山戦争遺跡
向山戦争遺跡は、南国市の伊達野と稲生の間を東西に延びる通称向山と呼ばれている山の尾根や斜面部に広がっています。高知平野には、太平洋戦争末期の「本土決戦」陣地が多数作られましたが、向山もその一郭を占めています。平成20年度に高知南国道路建設に伴い発掘調査を実施しました。その結果、標高65mの尾根部を中心に大小10基の陣地が構築され、これらは北斜面に掘り巡らされた交通壕で結ばれています。また、山腹を貫通する坑道は幅1.8m、高さ2m、延長72mで北斜面から南斜面に貫通するものと、中程で幅2.6mの「コ」字状に掘られた坑道からなっています。床面には90㎝の間隔で枕木が置かれ、壁には坑木痕跡が残っています。
1945年春以降、沖縄での地上戦闘が開始された4月には四国防衛の部隊として第55軍(偕部隊)が編成され、隷下の3個師団(11・155・205師団)を中心に約12万人の兵力が配備されますが、その大半が高知平野に展開していました。海岸部には特攻基地、平野部や近隣の山には陣地が数多く構築されました。当時、大本営が作成した資料によると、1㎢あたりの戦力密度は「高知正面」が最大の数値を示しており、このことからも高知平野が重視されていたのか知ることができます。戦後70年を経過し、戦争の記憶は次第に消え去ろうとしています。そのような中にあって戦争遺跡は、戦争の実相を私たちに語りかけてくれる資料として意義深いものがあると思います。
- 所在地
- 高知県南国市伊達野 GoogleMAPで表示
- 主な時代
- 近代
- 主な遺構
- 交通壕・観測用竪穴・横穴・坑道・砲床
- 主な遺物
- カスガイ・釘・ガイシ・銅線・薬莢
基本情報
備 考
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